ブログ記事270件
花巻駅徒歩15分1973年7月開業のマルカン百貨店が2016年6月7日に閉店2017年2月20日復活オープンナポリタン&とんかつ&サラダがワンプレートのナポリかつ(1,250円)10段巻きのお箸で食べるソフトクリーム(370円)1590年奥州仕置で稗貫氏滅亡→宇都宮城にて秀吉の独断で領土配分茶寮かだん(旧橋本家別邸)宮沢賢治設計の花壇イギリス海岸(イーハトーブの風景地)イーハトーブの風景地宮沢賢治が愛した「イーハトーブの風景地」|JTB旅カード童話『風の又三郎
🎌戦国のフィナーレ!1590年の小田原征伐と奥州仕置🏯小田原城を囲め!―日本最大の包囲戦戦国最強の大名といえば、関東の後北条氏。彼らは鎌倉以来の伝統を背に、広大な関東平野を支配していました。💥なぜ戦いになったの?秀吉は「惣無事令(勝手に戦をしてはならない)」を出して、平和的な統一を目指しました。でも北条氏は真田領の名胡桃城を奪取!しかも当主・氏政は「上洛しない」と突っぱねる。👉これで秀吉は「全国統一の最後の敵」として、北条討伐に乗り出します。⚔️史上最大の動員豊
清巌寺には、宇都宮頼綱の墓所芳賀高照墓基・芳賀高継墓基があります。中央が宇都宮頼綱の墓宇都宮頼綱鎌倉前期の武将。下野国宇都宮の豪族。宇都宮検校。業綱の子。通称弥三郎、実信房蓮生と号す。父の早世後若くして幕府に出仕した。1194年(建久5)祖父朝綱の公田押領事件に連座して豊後国に流罪、数年にして帰国し家督を継ぎ、北条時政の女を娶る。1205年(元久2)時政の妻牧の方の陰謀事件に参画し謀反との嫌疑を受け、弁明もかなわず宇都宮にて剃髪入道した。入道後浄土教に心を傾け、法然の弟子証空に師事し
どうも、ブネです。今回は、豊臣秀吉が関東の後北条氏(小田原北条氏)を攻めた戦いの一環である武蔵鉢形城攻めを書きたく存じます。武蔵鉢形城攻めを書く理由は、武蔵鉢形城が常陸太田城と箕輪城と共に関東三古城のひとつにあげられているからです。「鉢形城の廃城」天正18年(1590年)、時の関白ーー豊臣秀吉は後北条家当主ーー北条氏政を従わせるために関東を攻めた。5月中旬、その一環として、北陸大名の前田利家・上杉景勝らが徳川家康の家臣の1人ーー本多忠勝と共に武蔵(埼玉県)にある荒川と深沢川に挟まれた
関東の覇者として君臨した戦国大名後北条氏の本拠地小田原城、豊臣秀吉の小田原征伐で築城した石垣山一夜城を巡りました。『小田原城①難攻不落の城』戦国時代関東の覇者として君臨した、後北条氏の本拠地小田原城に行きました。前回は平成の大改修が終わった時に登城、実に9年ぶりです。正規登城ルートから天守閣へ行き…ameblo.jp『小田原城②謙信・信玄も落とせなかった堅固な城』復元されたけど天守閣があるのは羨ましいなぁ。9年ぶりに小田原城の中へ入ります。入口で料金を払います。パンフレット後北条氏桓武平
早雲寺を訪問した後、石垣山に行くことにしました。小田原征伐の「一夜城」で知られる石垣山です。早雲寺から南を見ると箱根からの山並みが見え、その小田原寄りに「石垣山一夜城」はあります。小田原から向かうと海側から西へ登っていくことになりますが、早雲寺からでは西から向かい、裏道を走ることになります。早雲寺から直線で2km少しで、車で走ると5kmくらいでしょうか。南曲輪の高石垣峠を越えて下り始めると直ぐに石垣山一夜城に着きます。そして車を降りると目の前に大きな石垣が見えます。南曲輪の石垣
四ヶ月かかって、やっと「北条五代」(上下2巻、火坂雅志著・伊東潤著)を読み終えました。^_^;実はこの本は図書館で借りて読んでおり、上巻を読み終えた後に下巻を借りようとしたところいつも貸し出し中で、やっと最近になって借りることができたからです。(^o^)それはさておき、本の内容とは別に目を惹くのが、二人の作家によって書き継がれた作品ということです。書き始めた火坂雅志さんが途中で急逝され、その未完作品を伊東潤さんが引き継いで完成した“奇跡”ともいえる歴史作品なのです。あとがきによると、伊東潤
令和7年6月20日、文化審議会の答申で静岡県伊豆の国市韮山にある韮山城跡が国指定史跡になる報道が飛び込んで来ました。正式名称は、「韮山城跡附付城跡」豊臣秀吉の付城の一つが指定。韮山城築城年は不明ながら、1500年には駿河國興国寺城主の伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼし、韮山を本拠地として後北条氏が相模小田原に移るまで伊豆支配の中心地となる。二代目氏康からは相模小田原へ移るも、伊勢宗瑞は没するまで生涯の城と決める。豊臣秀吉の小田原征伐では4万の軍勢に囲まれた
昨年8月末、小田原を襲った台風と大雨。その影響でずっと立入禁止だった三の丸外郭新堀土塁北条の城・総構え山の神堀切↣早川口遺構を歩いているときも立入不可でがっかりしていましたが・・・『【神奈川県小田原市】北条の城・惣構えを歩く山ノ神堀切→早川口遺構part2』北条の城・惣構えの一部を歩いています。稲荷森をあとに歩いて行くと小峯御鐘ノ台にある三本の大堀切へこちらはすでに紹介済みですが『【小田原市城山】難攻不落…ameblo.jp先日、近くを通ったので覗いてみると・・
神奈川県小田原市にある石垣山一夜城に行きました。石垣山一夜城1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原征伐の時に築城。関東最初の総石垣の城。*関東方面の城は土塁バス停時刻表駐車場からの一夜城入口案内図小田原征伐真田氏と後北条氏との間に沼田を巡る領土問題があり、豊臣秀吉が仲裁。(沼田城割譲)真田領の名胡桃城を、後北条氏が攻め奪い取る事件が発生。(名胡桃城事件)豊臣秀吉の裁定を破った、後北条氏に対し惣無事令をしたと看做されと同時に北条氏政が上洛要請を拒否。秀吉ば後北条氏に宣戦
東京遠征3泊4日の記録、最後は遠征初日の城攻め。豊臣軍が西から東に攻め上がったのと同様、名古屋から東へ115頭の馬で(カングーは115馬力)進軍。富士川を越えれば、北条氏の支配地域は目と鼻の先。まずは伊豆半島の根元、三島市の東海道(国道1号)を跨ぐように築かれた山中城を落とせ!ここは4年前にも来たが、『関東圏、城攻め初陣』先日、幕張に遠征した際、往復900k走って中古車を見るだけではもったいないので、ついでに城攻めもしてきた。例によって下道移動なので、その途中に寄り道。まず、国…am
前回、紹介した小田原城総構え。深い堀と高い土塁、そして堀底は障子堀で防御を高めていましたが1590年の北条滅亡後、小田原城は徹底的に破却。今や小田原で障子堀をリアルに見学することは叶いません。なので今も障子堀を見学出来るかつての北条の城・山中城へ行ってきました~現存しているリアルな障子堀を見て下さいね三の丸堀から西の丸へ向かっていきます。深い堀にめぐらされた障子堀敵は左方向から攻めてきます。堀を上がり土塁に登ったぞと思えば次はまたえらい深さの堀と立ちは
静岡県三島市山中新田にある、日本100名城の山中城へ久し振りに行きました。3月29日に行ったのには理由があります。435年前の天正18年(1590年)3月29日、豊臣秀吉の小田原征伐で豊臣軍七万の軍勢と後北条氏の四千の軍勢が激突。序盤は有利に戦うも、圧倒的な兵力差で半日で落城します。今回は、岱崎出丸から巡りました。箱根山方面。出丸御馬場堀。桜が咲いていました。岱崎出丸にある一ノ堀。岱崎出丸から見た、三島・長泉・沼津方面。すり鉢曲輪すり鉢曲輪物見台武者溜まり跡落下している
下田公園は、戦国時代には関東の覇者として君臨した後北条氏が水軍の本拠地として築城。下田城豊臣軍の来襲に備え、伊豆半島南部や小田原への海上防衛の要として改修。豊臣軍の長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明の率いる一万の水軍が来襲。下田城将清水康英ら600人の軍勢で、50日間籠城するも後に開城。現在の下田公園入り江の一部は、下田海中水族館になっています。戦国時代末期の下田城崎の各所には、物見台が配置され海上を航行する船を監視。馬場ヶ崎展望台下田湾戦国時代末期には、豊臣秀吉の
月に一度の睡眠時無呼吸症候群の定期面談も無事終了。てことで、この日は…ていうか今日はそのあとでスーパー銭湯・北のたまゆらにでも行こうかと思っていたのですが、それすらも面倒で…。疲労回復の手段をとることすら面倒になるほど疲れてます。てか、ここに来るのも思えば久しぶりですね。SAMAさんの濃いスープは疲れた身体に染み入るので、こういうときこそ訪れたいですよ。おっと…オーダーがモバイルオーダーになってますね。時代ですね。なお、ここではナスを抜いてもらうとたまに違う野菜に変えてくれるサー
12月27日、小田原市にある「小田原城」へ行きました。北条氏の本拠地で、1590(天正18)年の豊臣秀吉の小田原征伐の舞台となりました。現在、本丸跡に復興天守があり、小田原城址公園として整備されています。小田原駅から近いルートもありますが、今回は「お堀端通り」を進みました。途中、西側に幸田門という三の丸の入口があったという、三の丸の土塁跡があります。「お堀端通り」からまず見えるのは「二の丸東堀」です。奥にある「二の丸隅櫓」は、関東大震災で崩落し、1
前回からの続き『山中城はなぜ半日で落城したか』小4女子のNちゃんが、その要因を自主勉ノートにまとめてくれました。娘の学校は自主学習ノートは週1で提出です。娘は、毎回体験活動やお出かけしたときに見聞したり不思議に思ったことをまとめています。歴女でもなんでもないフツーの小学生なんで、おかしいところあっても暖かい目で見てください。娘、北条関連の城跡だと、韮山城・興国寺城・下田城・長浜城・戸倉城・守山城あたりは登ったことがあります。あれ?羅列すると結構行っていますね。お城ファンかよ
箱根の山中城跡に行きました。(小4)10年前妊婦のときにも散歩しに行きましたが、そのとき私は知識がなくて山中城は誰の城?と聞かれてわからなくて、「うーん今川か武田?」と答えていたんですよね。(無知)しかし今は漫画日本史で学習しましたからね、わからりますよ、バッチリです。まかせてください。この漫画で学びましたからね。この巻おもしろんでお勧めですよ石田三成がめっちゃいいんですよ。講談社学習まんが日本の歴史(11)天下一統[山本航暉]楽天市場${EVENT
南光坊天海(66)「慶長十七年五月二十日、京都相国寺ノ圓光寺元佶(閑室)駿府ニ寂ス。」(「史料綜覧」)圓光寺元佶と言われても、ほとんども人は誰か分からないであろう。実は私も調べるまで、よく知らなかったのである。一般的には三要元佶とか、閑室元佶等ともいわれ、駿府における家康側近の一人である。天文17年(1548年)、肥前国の生まれで、父親は鍋島直茂の家臣であった。幼少のころに都に上り圓通寺で得度したという。その後、下野国の足利学校で校長(庠主)に上った。こ
『『お姉さん』~なんとなく書いてみる⑨』⑨お姉さんお腹が少しふくれて落ち着いたあたしたちは、残る最後のひとり、レイをどう探そうか、相談することにした。町は相変わらず人でにぎわってるし…ameblo.jp⑩約束「おねーさんの言ってた公園はこっちだよぉ♪」看板をくるっと回して手招きするアンの後をあたしたちは物珍しい異世界の町をきょろきょろ見まわしながらぞろぞろ付いていく。人を載せた鉄の塊がぶーぶーうなりながらすごい速さで行き来する真
徳川幕府は,島原の乱を平定するのに12万の軍勢と3か月もの時を要した。島原の乱後,暴動や反乱に鉄砲を使われることを恐れた幕府や諸藩は,鉄砲改めと呼ばれる銃規制を行うようになった。貞享四年(1687年)に行われた『諸国鉄砲改め』では,武士以外の者が所持する鉄砲が,仙台藩領で3984挺、尾張藩領で3080挺、長州藩領で4158挺もあったことが記録されている。このうち仙台藩領にあった3984挺の民間の鉄砲は、小田原征伐に参陣しなかったため取りつぶしになった葛西氏と大崎氏の残党が所持していた
おはようございます、たけちです。2024年・令和6年9月7日土曜日、みなさん、いかがお過ごしになりますか?9月になって少し涼しくなるかな〜って思っていましたが、全く衰えない猛暑今週末も暑いということで、みなさん、熱中症には気をつけましょうね。しかし、ひと昔は「温暖化防止のために冷房は使わない」とか言ってましたが、今では「命の危険があるので積極的に冷房を使いましょう」ともう、温暖化、いや沸騰化の波は止めることはできないのでしょうかと、たけちは冷房の効いた部屋でゴロゴロす
鎌倉エフエム(FM82.8)で放送中の、「KickMizukoshi歴史の雑談」関係者と共に、小田原へ。小田原城正面入口・馬出し門を通過した後、その先の銅門(銅門)へ。↓↓↑↑銅門の手前通路には、更に内側から狙われる狭間がビッシリと。先程の馬出し門を突破した敵を狙える狭間(さま)。↓↓狭間(さま)から馬出し門方面を覗いてみる。↓↓銅門を潜ると…↓↓銅門内特別公開中!↓↓という事なので、登ってみる。↓↓格子窓から外を見る。銅門に向かって来る敵を狙えるような
鎌倉エフエム(FM82.8)で放送中の、「KickMizukoshi歴史の雑談」関係者と共に、石垣山一夜城へ。本丸&天守台から二の丸へ降り…↓↓東曲輪(ひがしくるわ)を経て…↓↓大手口(東口)へと戻る。大手口から、今は道路になっている「大堀切」の中を歩いてみる。↓↓野面積みの石垣を横目に。↓↓大堀切を歩きつつ、左手に見える(写真左上&左下)部分は、実は出曲輪(でぐるわ)。今は駐車場。↓↓大堀切は、やがて土の露出した、本来の姿へ。↓↓↑↑しかしながら、この先
鎌倉エフエム(FM82.8)で放送中の、「KickMizukoshi歴史の雑談」関係者と共に、豊臣秀吉が小田原征伐の為だけに建てた石垣山一夜城跡へ。井戸曲輪から二の丸に戻り、本丸への登り口。↓↓少し登るとすぐに…↑↑ここは、本丸の「門」の基台跡。↓↓そして本丸へ。左奥の高まりが天守跡。↓↓本丸から二の丸を見下ろす。有料のお茶会の準備が整えられていた。↓↓小田原の街を見下ろす。写真ほぼ中央部に、現在の小田原城天守閣が。↓↓↑↑因みに、今、見えている小田原
鎌倉エフエム(FM82.8)で放送中の、「KickMizukoshi歴史の雑談」関係者と共に、石垣山一夜城跡へ。本丸&天守の裏手を通って二の丸へ。この日は有料の“お茶会”が行われる様だった。↓↓二の丸の北西の隅には、櫓台跡。↓↓そして、櫓台跡の近くからは、井戸曲輪(いどくるわ)へと降りる階段が。↓↓徐々に…↓↓降りて行く。↓↓先に降りて行くのは、「KickMizukoshi歴史の雑談」で共演中の、行弘瞳美さん。↓↓井戸曲輪は、やはり野面積みの石垣に囲ま
鎌倉エフエム(FM82.8)で放送中の「KickMizukoshi歴史の雑談」関係者と共に行った、石垣山一夜城跡。豊臣秀吉が小田原征伐の為だけに建てた巨大山城。西曲輪から先は、本丸の裏側に沿って進んで行く。(写真右上が本丸。)↓↓西曲輪の外側の段は、帯曲輪(おびくるわ)と解釈して良いのか?↓↓帯曲輪を見下ろしながら進む。↓↓本丸裏側、かなり大きな石で野面積み(のづらづみ)の石垣になっている。↓↓小さな石の野面積みも。↓↓この辺りは、天守の真裏か??↓↓やが
鎌倉エフエム(FM82.8)「KickMizukoshi歴史の雑談」の面々と共に行った石垣山一夜城跡。南曲輪から奥へと上がって行く。前を歩くのは、「KickMizukoshi歴史の雑談」で共演中の、行弘瞳美さん。↓↓西曲輪(にしくるわ)に出る。↓↓西曲輪からは、先程の南曲輪を見下ろす事が出来る。南曲輪に侵入した敵を高い所から狙撃出来る構造。↓↓↑↑西曲輪は、更に高い所(本丸)から見下されている構造になっている。↓↓下図左側が、西曲輪。↓↓北条氏政(シ
キック・ザ・ツアーin小田原。今回は、鎌倉エフエム(FM82.8)で放送している『KickMizukoshi歴史の雑談』の面々と共に。先ずは、小田原の街を見下ろす位置に在る「石垣山一夜城跡」へ!ここは、豊臣秀吉が戦国の集大成“小田原征伐”の為だけに建てた巨大城郭。綺麗に四角く削った石ではなく、ほぼ自然石のままテトリスの如く上手く積み上げられた野面積み(のづらづみ)の石垣を左手に見ながら、現代に整備された道ではなく旧東口(大手道)を登る。↓↓旧大手道を登るのは、歴