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江川邸から、ガイドの説明を聞きながら韮山城へ行きました。戦国時代の始まり、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐のさい、山中城を攻める部
中根妙見神社から南へ少々同じ丘もしくは尾根を歩いてゆくと新作安房須神社林に囲まれた奥行きのある境内へ足を石鳥居狛犬手水舎と奥に石祠群松戸市新作にある神社新作安房須神社は、小田原北条の役により小金城主高城氏は滅亡小金城の出城だった中根城に配置されていた武士は帰農新作は農家集落となり、平安と繁栄を求めて少彦名命を勧請し村鎮守として慶長11年(1606年)に創建され明治41年(1908年)神社整理令により道祖神と天神社を合祀したそうですご祀神は
こんばんは😊。最近、神奈川県を旅行してました。どうせ、最近の株価は不安定であり、フテ寝です小田原に観光した際、小田原城へ行きました。1590年の小田原征伐。豊臣秀吉vs北条氏で豊臣秀吉がWIN、北条氏は滅亡した。敗北理由は、豊臣秀吉の圧倒的な人、モノ、金の多さで優っていたから。北条家は、先に豊臣15万の大軍は早々に兵糧が尽きて退却と安易に思い込んでいた訳だが、実際は、人もさることながら、物流でも圧倒しており、北条氏が先に音をあげた訳です。さあ、現世代ですが、上
※こちらの記事は、令和3年5月7日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第43弾として、「小田原征伐(おだわらせいばつ)」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第8回金ヶ崎城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦第13回野田城の合戦第14回叡山焼き討ち第22回江古田原沼袋の戦い第23回天目山の
時は戦国時代後期、日ノ本をほぼ手中に収めた関白・豊臣秀吉は天下取りの総仕上げに取り掛かりました。敵は関東250万石の支配者・北条氏、本拠地は難攻不落の名城・小田原城です。他にも関東の至る所に築いた40以上(100以上とも)もの支城とのネットワークを利用して、攻めてきた秀吉を追い返さんとします。これに対して秀吉は総勢20万人ともいわれる大軍勢で率いて、圧倒的物量で圧し潰そうとしました。本城の小田原城を完全包囲したうえで、支城も片っ端から攻略していったのです。天下軍の勢いは凄まじく、支
5月13日、大宮公園駅へ降り立つ。けやきひろばビール祭り@さいたまスーパーアリーナに行く前に、寿能城跡を攻めるのです。こんな場所にあります。青枠は、城攻めに関係ある場所。(東武野田線の大宮公園駅、大宮警察署の寿能交番、寿能城跡、見沼代用水西線、芝川)赤枠は、著名スポット。(ラーメン二郎大宮公園駅前店、大宮公園、氷川神社、大宮第二公園、大和田公園)城の痕跡は残っておらず、寿能公園に墓があるだけだと言う人が多い。しかし城の範囲は赤い部分で、東西872m、南北436mもあ
ゴールデンウィークも終盤9日目の土曜日の朝、鈍った体を動かすため毎年恒例の山中城へ行きました。今年2月の大雪以来の来城です。駐車場から、三の丸堀横の通路には旗が靡いていました。毎年ゴールデンウィークに行くのに初めて見ました。まだまだ痛々しい(泣)令和元年10月の台風19号で被災。ツツジが綺麗に咲いています。田尻の池箱井戸4月下旬、ブログ友のエルさんの山中城記事。↓山中城については、過去ブログ参照して下さい。2016.10.10山中城2017.05.08山中城躑躅
白髭橋西詰、明治通りを横切り荒川区へ石浜城址公園この付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ「隅田の渡し」があったとされ石浜城の築城年代は不明、中世には江戸氏一族の石浜氏が本拠を構え南北朝時代の文和元年(1352年)には、新田義興の追撃を足利尊氏がこの地で退けている(武蔵野合戦だ)そうです室町時代中期の享徳の乱に伴って発生した千葉氏の内紛で、千葉氏宗家の生き残りである千葉実胤が下総国を追われて扇谷上杉氏の庇護下に入り、この石浜城を拠点とした弟の自胤も赤塚城に逃れているしか
心配していた雪も回避できたっぷりゆっくり朝ご飯をいただいた後はお部屋の露天風呂に入ってすこし寛ぎチェックアウトしたら行ってみたかった、あちらへ。一夜城ヨロイヅカファーム。ケーキとパンと、帰りのお供のコーヒーを購入。ここまで来るときにオットに私「ここの一夜城って北条征伐だっけ?」夫「え?知らない。(自分は世界史専攻だから。)」と話しててふと思う。北条征伐(正しくは、小田原征伐)って勝てば官軍のすごい失礼なネーミングじゃないですか?ちょっと考えさせられた冬の1日でした
本日2城目は名胡桃城。先に訪問した沼田城の支城であり、秀吉の小田原征伐の引き金になった城ですね。北条家の家臣である猪俣邦憲が、当時真田方の城とみなされていた名胡桃城を城代の鈴木重則を騙し、乗っ取ってしまいました。これに対して豊臣秀吉がこれは惣無事令(私戦などを禁止した法令)に反することだと激怒し、北条家の処罰に出たのが小田原征伐だということですちなみに鈴木重則は城を奪われた自分のふがいなさを恥じ、立腹といい、立ったまま切腹して果てたそうです暑かったですが、景色は
こんにちは!今回は神奈川観光のブログになります!今回は小田原城内に突入します!小田原城天守閣。昭和35年(1960年)小田原市市制20周年を記念して総工費約8千万円をかけて制作されました。江戸時代の模型や設計図を元に江戸時代の姿として外観復元され、中は資料館になっております。別名、小峯城(こみねじょう)。関東地方を牛耳っていた後北条氏時代の姿でも見てみたかったです。三重四階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣。分かりやすく言うと、天守閣の横に櫓があ
こんにちは!今回も横浜観光での記事になります!前回、引き続き小田原城の散策です!今回はこの住吉橋(すみよしばし)からスタートします!今回も地図の画像は小田原城公式サイトからお借りしています。園内マップ・施設一覧|小田原城【公式】odawaracastle.comそしてこの橋が住吉橋と住吉堀になります。水はなんだか汚い色をしていますw住吉橋を正面から。そして住吉橋を越えると見えてくるのが銅門(あかがねもん)です。解体さ
こんにちは!今回から小田原城へ突入したいと思います!そのお前に小田原城のめっっちゃ簡易的な説明をせせていただきます!今川氏親(いまがわうじちか・今川義元の親)の一家臣だった宝条早雲が下剋上でのし上り小田原城を奪取↓ほぼ日本全国を手中に収めた豊臣秀吉が天下統一の最終仕上げとして北条家の関東へ攻める↓北条家は敗北。↓その後大久保氏が小田原城に入り平和な江戸時代へと続く。と、こんな感じです。現在ある小田原城天守閣は大久保氏時代のものを模した天守閣になっています。全国
静岡県三島市の山中城へ。静岡県と神奈川県のほぼ県境の箱根山系の1部に築かれたThe山城である。【余湖くんのホームページより】今川家武田家と河東地区(富士川以東)を争っていた1558年に小田原城の支城として3代氏康によって築城。沼田裁量を破り、天下人太閤殿下の逆鱗に触れた氏政/氏直親子が小田原征伐に備え、最終防衛線として改修、防衛施設として、東海道を三の丸と両側から挟む様に岱崎出丸を1589年に普請。城マニアでは有名な北条流築城術の畝堀を発展させた障子堀が多数見られる。山中城は年間3回は行
静岡県三島市:山中城。築城主:後北条氏。日本100名城No.40。小田原城の支城として機能。独特の防御構造・障子堀が有名。太閤殿下・豊臣秀吉の小田原征伐時に陥落。御城印がリリースされて約二年。今までの山中城参城のお天気が、どうであったかを振り返ってみます。[探訪]の独自判断基準として、晴天=勝ち。曇り、雨=負け。微妙=引き分け。希少性を鑑み、雪景色は天候に関係なく勝ちとします。山中城特別ルールとして、富士山がクリアに見えるか、も判定基準にします。一切の雲
「勝負に負けて喧嘩に勝った」例えば、最終戦で試合としては負けたが王者、ホセ・メンドーサをたった一試合でその髪を白髪にするほどの恐怖を与えた矢吹丈の例を見ればわかりやすいだろう。そして、そう言うパターンは歴史上にも度々存在する。今回は二つの例を挙げてみたい。まずは秀吉の関東攻めにおける忍城の攻防戦である。これは「のぼうの城」でも舞台になったから知っている人は多いだろう。天下統一の総仕上げに、これまで屈服させた諸大名らの総軍をあげて豊臣秀吉は北条家へと攻めかかった。忍城は北条家の支城の一つで
で。今回のドライブ。・夕方(つまり娘の夏期講習が終わる時間)までに帰るというのが絶対条件。・日光か・小田原か東照宮は日帰りでは時間足らずでもったいない。で小田原へ。でもここですんなり小田原=小田原城では味気なし。そもそも北条にそんなに興味ねえし笑ラーメン食べた後に。通のオレ(=自称城好き)が向うのはこちら。石垣山一夜城うむ。ただの山に石垣が転がってるだけだ笑ちょっとした広場もあるにはある。が、あの安土城址もそうだったよう
いつからお箸使えるようになった?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう皆様ごきげんよう!さあ今日は何の日でしょう?「箸の日」※「箸を正しく使おう」という民俗学研究者の提唱で、わりばし組合が1975年(昭和50年)に制定※だけど…「ビアホールの日」ですよねオヤジ!解説:1899年のこの日、日本初となるビアホールヱビスビヤホールが東京・銀座にオープンしました。ヱビスビヤホールは、日本麦酒株式会社が同社商品恵比寿ビールの宣伝活動の一環としてオープンしたもので1杯(
おはようございます、江戸散歩です。小田原城巡りの続きです常盤木門から城内に入ります。戦国時代の合戦に活躍した矢盾が待ち構えています。この矢盾の裏に足軽が隠れて敵の矢から防ぎます。矢盾には北条家の家紋は、「三つ鱗」です。石刻石垣の普請をした人が、遊びで彫り込む場合もありますし、誰々が普請をしましたよという証になります。常盤木門の裏側桝形櫓門形式の門は、大型になります。北条五代の提灯
石垣山城は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉が小田原征伐にあたり水陸15万の大軍で包囲し、その本陣として、小田原城下を見下ろす笠懸山に作った総石垣の城。築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを作り、白紙を張って白壁の様に見せ、一夜のうちに城が出来たように見せかけたため、石垣山一夜城または太閤一夜城とも呼ばれる。関東で最初に造られた総石垣の城で、実際にはのべ4万人が動員され、約2ケ月かかったと言われる。続日本100名城の一つで、この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されている。南曲
ゴールデンウィーク三日目、鈍った体を動かそうと早朝散歩へ。朝6時30分、日本百名城の一つ山中城へ入城。昨年7月以来です。三ノ堀田尻の池2019年10月の台風19号で、池の半分が土砂で埋まりました。土を排出して復活していました。箱井戸夏、睡蓮が咲きます。台風被害の姿が痛々しい。躑躅西ノ丸の被害が一番大きい後北条氏築城流の障子堀この場所が、一番お気に入り。霊峰富士が見えます。西ノ丸の畝堀朝6時50分頃物見台からの、障子堀と西櫓二ノ丸橋本丸県指定天然記念物大カ
GWはこの本を読んでいます。まだ最後まで読めていませんがこの本を読んでいると北条家由来の場所へ行きたくなって小田原をちょい散歩してきました。まず行ったのが北条氏政・氏照の墓所小田原駅東口から徒歩3分ですが狭い道。さんざん迷って到着です。1590年豊臣秀吉の北条征伐で小田原城は落城。城主であった北条氏直は高野山に追放され氏直の父である氏政と氏政の弟で八王子城主氏照は自刃。自刃した氏直・氏照の墓がここにあるのです。ここで手を合わせた後は小田原駅西口へ
總願寺(不動ヶ岡不動尊)真言宗智山派埼玉県加須市忍城(行田市)は関東七名城の一つでもあり豊臣秀吉の小田原征伐の際水攻めに耐え抜いた浮き城です。映画「のぼうの城」でも有名になりました。その忍城の現存建造物である黒門を拝見するためこちらの總願寺に訪れました。總願寺忍城北谷門↓忍城は明治6年に取り壊されてしまい残っているのはこの黒門と高麗門(行田市)のみです。門の内側から撮影総欅造りで門扉は一
本立寺付城『別名』なし『所在地』静岡県伊豆の国市韮山金谷268-1(本立寺)『城主』蜂須賀家政『遺構』曲輪、土塁、堀跡『城郭形態』山城『駐車場』あり(本立寺)『歴史』天正18(1590)に起きた豊臣秀吉による『小田原征伐』で韮山城を攻める為に豊臣秀吉の家臣・蜂須賀家政によって築城されたと言われています。本立寺土塁本曲輪堀跡本曲輪と七面堂土塁堀跡
上山田付城『別名』上山田城『所在地』静岡県伊豆の国市南條1380付近『城主』前野長康『遺構』曲輪、土塁、堀跡『城郭形態』山城『駐車場』なし『歴史』天正18(1590)に起きた豊臣秀吉による『小田原征伐』で韮山城を攻める為に豊臣秀吉の家臣・前野長康によって築城されたと言われています。切岸虎口堀跡切岸土塁と曲輪石積み
愛知県犬山市は3月29日、国宝犬山城の天守の建造時期について、1585(天正13)年から1588年にかけてとする専門家の判定結果を発表しました正確な建造時期はこれまで不明でした。「現存する最古の様式の天守」と曖昧に呼ばれてきましたが、今回あらためて「最古」である事が裏付けられました天守の部材の年輪年代法による調査や、近世以前の木材加工の痕跡から判断したそうです時期的には小牧・長久手の戦い(1584年)の翌年から、豊臣秀吉が天下統一を果たす1590年の小田原征伐の直前に当たる。調査し
山中城。最後に、三ノ丸エリアの隅に有る『宗閑寺』へ。浄土宗寺院。静岡県の華陽院の末寺だという。本堂向かって左には、古い五輪塔が。ここには、豊臣秀吉の小田原征伐の時、山中城守備を任されていた松田康長や、副将の間宮康俊、その他守備兵の墓が。こちらは、豊臣方の一柳直末の墓。↓下図、中央からやや右下、工事中臨時ルートの黄色い矢印の頂点辺りが宗閑寺。以上、秀吉の小田原征伐の際、半日で全滅したという箱根山
山中城、袋崎出丸。虎口前の武者溜りから南側沿いを…やがて、『御馬場曲輪』へ。土塁に囲まれた長方形の曲輪。その名のと~り、馬を囲っていた場所か?御馬場曲輪のすぐ下の畝堀。↓下図の左下、やや中央寄りが袋崎出丸の御馬場曲輪。↓小田原征伐の攻防【電子書籍】[川村一彦]楽天市場200円史跡公園基本構想戦乱の森史跡山中城跡/史跡山中城跡調査専門委員会【
山中城、袋崎出丸の虎口の外側には…武者溜り!↓虎口の外側に長方形の曲輪。虎口前を防御する為に、兵を配置していた所か。下図左端の“すり鉢曲輪”のすぐ下が“武者溜り”。↓史跡公園基本構想戦乱の森史跡山中城跡/史跡山中城跡調査専門委員会【中古】楽天市場2,500円箱根ガイドブック[岩崎宗純]楽天市場1,601円1年保証防災ラジオスマホ充電乾電池&内蔵バッテリー多機能手回し1台5役ラジオ
山中城、袋崎出丸の先端の“すり鉢曲輪”の奥(南側)↓↑鈎型の入口『虎口』が。袋崎出丸『虎口』の内側から。↓こちら、外側から。↓豊臣秀吉の小田原征伐の時、東海道を攻め上って来た豊臣軍は、おそらく最初にここから攻めかかったものかと。(多勢に無勢、袋崎出丸の守備兵は全滅。)下図、左端