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北条氏政と豊臣秀吉との関係が悪化した為山中城の改修を急いで行いましたが結局は間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える事となりました1590年小田原征伐で豊臣軍22万人の内豊臣秀次軍約7万人が攻撃を開始します一方守っていたのは北条軍4000人の北条氏勝、松田康長、蔭山氏広、間宮康俊間宮康俊は寄親(よりおや)である北条氏勝等を撤退させて手勢200人で三の丸から岱崎出丸辺りで豊臣軍と戦い一方、一柳直末など豊臣軍も多くの戦死者を出しましたしかし戦力差は明らかで半日で山中城は落城し
北条氏は豊臣軍の兵糧不足から長期戦を想定していたようですなんせ総勢22万人の大軍ですからそのように考えてもおかしくはないと思いますしかし小田原征伐の前哨戦となる山中城攻めを秀吉は重要視して戦い慣れた池田輝政や徳川家康・豊臣秀次・山内一豊・中村一氏一柳直末・堀尾吉晴と言う精鋭たちを投入して天下統一を決定づけた戦いとなったのでした
3月23日16時45分〜17時、時代劇専門チャンネルの「歴史を訪ねて日本の城関東・甲信越編3」で、以下の四つの城が紹介されました。①小諸城(長野県小諸市)1554年に佐久地方統治の拠点として、武田信玄の命で、軍師の山本勘助が縄張したとも伝えられる。1582年の武田家滅亡後は、不安定な政情にあった。1590年の豊臣秀吉の小田原征伐後、仙石秀久により小諸城と城下町が整備された。1702年に譜代大名の牧野家が入封し、明治維新を迎えた。1626年に三層天守閣が落雷で焼失後、再建さ
先の「さきたま古墳公園の丸墓山古墳」を訪れた際に豊臣秀吉の小田原征伐の時、北条方の忍城攻略した時に石田三成が水攻め策を選択して、丸墓古墳を本陣を置いて全長28km堤防を築いたその跡の石田堤を見ましたので、難攻不落の忍城を訪れました。最初の写真は1988年に鉄筋コンクリートで復元された、御三階櫓忍城は室町時代中期の1480年頃の武蔵国の国人領主で関東管領上杉氏の支配下の成田正等の築城と云われている。成田氏は戦国時代の後半は小田原北条氏に属していた。忍城は、北
関東で初めて総石垣の城が築かれたのは1590年の小田原征伐で秀吉が築かせた石垣山城でしたが、それよりも前に築かれた石垣造りの城が金山城でしたただ人によっては石垣ではなく石積みと言う人もいます。「アゴ止め石」は石垣最下部の石を石垣の面より15〜20㎝前に出して据え置く技法で石垣が沈み込んで前へ傾くのを防ぐ為のものと考えられています1590年秀吉の小田原征伐に際して前田利家らが金山城を接収し北条氏照・氏政が自害後、秀吉は由良氏に常陸国牛久に知行5435石を与えますこれは前
伊豆の国市にある韮山城跡を、国史跡指定に向けた説明会がありました。2025年度中の指定を目指しています。戦国時代の始まり、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(15
昨年9月から、三島市にある山中城では三島市郷土資料館による無料ガイドが始まり今月でガイドが終了します。無料ガイドは、毎月第3日曜日。午前10時、午後13時30分、定員9名。前日までに、三島市郷土資料館へ申し込みます。ガイドは今月で終了します。*昨年の静岡新聞記事ですガイドツアーに参加しました。↓『山中城ガイドツアー12/17』三島市郷土資料館館長による、山中城ガイドツアーに参加しました。前日の暖かい気温22度から、一気に急降下して8度と寒い日になりました。集合場所の山中城大駐車場
大瀬崎の帰りに、長浜城跡に寄りました。7年ぶりに来ました。登城入口には、長浜城の歴史がパネルで展示されています。15世紀後半に北条氏により築城。韮山城を守るため、水軍の主力を集結。武田水軍と海戦した記録があります後北条氏五代御城印今回は、登城しませんでした。駐車場には車が多く止まっていたので、水軍の城を見学に来ている人がいたと思います。長浜城跡の近くで、柑橘類を買いました。寿太郎みかんはるかはるみ長浜城の詳細は下記を参照して下さい↓2017.5.28長浜城北条水軍
後北条氏五代当主北条氏直の墓参りです。どうする家康では、西山潤さんが演じておりました。北条氏直とは関東の戦国大名、後北条氏第5代。氏政の子。母は武田信玄の娘。1580年(天正8)家督を継ぐ。本能寺の変後、上野に進出して織田信長の代官滝川一益を追い、信濃からさらに甲斐に進んだ。武田氏の旧領をめぐり、徳川家康と甲斐国若神子に対陣したが、和睦し、83年家康の娘督姫と結婚した。徳川氏と同盟を結びつつ、上野、下野、上総などに勢力を拡大。89年豊臣秀吉の宣戦布告を受け、翌年3か月に及ぶ籠城のすえ、降
今回を含め二回で終わります。後北条四代目当主北条氏政の墓参りです。どうする家康では、駿河太郎さんが演じておりました。北条氏政とは関東の戦国大名、後北条氏第4代。氏康の子。母は今川氏親の娘。1559年(永禄2)家督を継ぐ。父とともに、上杉輝虎のたび重なる出兵を退けて領国を拡大した。68年末からは駿河に進出した武田信玄と戦い、これを討つため上杉氏との同盟締結に努力、69年に締結した。71年(元亀2)上杉氏との同盟を絶ち、ふたたび武田氏と和睦、ついで織田信長と結んで、関東の制圧を目ざした。8
天海(59)「彼はもはや、人とは申せなくなり、獣よりも劣ったものとなり果てました。けだし彼には、いかなる環境の人に対しても片鱗の愛情すらなく、金銀を取り立てるためには万人を酷使虐待し、人々をば追放に処して、その俸禄所領を没収する有様で、他人の俸禄を横領するのに道理もなにもないのです。」(イタリア人宣教師のオルガンティーノの書状)想定外の事態に、秀吉は毎晩考える。自分が亡くなった後に、秀次は拾丸を殺すのではないか。いや、殺すであろう。秀吉は権力の持つ恐ろしさを誰よりも
※上田城跡公園案内図…かつて上田城の南側は「広大な沼地」が広がっていました今は、駐車場、芝生公園になり「市民の憩いの場」となっています上田城に行きました!1️⃣100名城No.27上田城には、今回初めて行きました。上田城は、パット見平山城に見えましたが平城に属します。上田城は、「赤の真田六文銭」を戦国の世に知らしめ、「表裏比興の者」として、一介の武田家家臣から「大名」にのし上がり、真田信之、信繁(幸村)を育てた「戦国の謀将」「家康が山県昌景とと
三島市郷土資料館館長による、山中城ガイドツアーに参加しました。前日の暖かい気温22度から、一気に急降下して8度と寒い日になりました。集合場所の山中城大駐車場から、館長によるガイドツアーが始まりました。旧東海道箱根路石畳三島宿方面箱根宿方面山中城売店前旧東海道芝切り地蔵南櫓が立っていました。渡辺勘兵衛が駆け上がった傾斜ある土塁本丸本丸天守台からの眺めこの場所で大将二人が討死。大将とは松田康長、間宮康俊のこと。渡辺勘兵衛が中村一氏の旗印を立てたと記されています。これを
豊臣秀吉の最古参家臣仙石秀久の墓参りです。仙石秀久とは安土桃山時代の武将。美濃国生まれ。久盛の子、通称権兵衛。千石とも書き、名も秀康、盛長ともいった。初め織田信長に仕え、1574年(天正2)近江野洲郡に1000石を得、80年淡路洲本に5万石を領した。のち豊臣秀吉に仕え、85年四国征伐の功によって讃岐を得て高松城主となる。翌年、九州島津攻略の先発となったが敗れて一時所領を没収され、高野山に謹慎した。90年家康を頼って小田原攻めに加わり、功あって信濃小諸城主となり、5万石を領した。1600
9月下旬、山中城に行くと武将隊が西ノ丸にいました。話しを聞くと、山中城戦国武将隊禄寿應穏と言う名で毎月1回、山中城に来ておもてなしをしていますと。三島市後援で、武将隊は神奈川県から来てますと。自分の一番好きな山中城で、こういう活動していたなんて初めて知りました。11月下旬に、武者行列を行いますと言うので見に行きました。*画像は9月下旬の山中城広報みしまを見ると、山中城に武将隊が来ると載っています。三島市のホームページにも載っていました。山中城に行くと、武将隊が演劇をしていました
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今年9月から、三島市にある山中城では三島市郷土資料館による無料ガイドが始まりました。無料ガイドは、毎月第3日曜日。午前10時、午後13時30分、定員9名。前日までに、三島市郷土資料館へ申し込みます。下田城、韮山城でもガイドによる説明会。山中城の詳細は、下記ブログを参照して下さい。↓『山中城早朝散歩8/27』今月インフルエンザに感染して、完治後も体調不良が続き体力が落ちました。今は、体調良くなりました。体力を付けるため、8月最後の日曜に山中城に行きました。山中城は…ameblo.j
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の秀吉の朝鮮出兵などについてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想秀吉の驕りと名誉欲。その名誉欲に武士と商人が乗っかって行われた朝鮮出兵という評価(『まんが日本史』より、タイトル画面)秀吉の天下統一とその政策1590(天正18)年、小田原合戦で北条家を滅ぼし、東北の伊達氏も臣従させて天下統一を成し遂げた秀吉ですが、1591(天正19)年1月に弟の秀長の死と8月に鶴松が3歳で夭折する不幸が重なります。
どうする家康小田原征伐北条軍が真田が守る名胡桃城を奪い取ったため、豊臣秀吉が激怒し北条氏に宣戦布告した。北条氏四代目当主北条氏政北条氏五代目当主北条氏直天正18年(1590年)春、徳川軍出陣。豊臣軍出陣。豊臣軍は、東海道・東山道から小田原に向け進軍。小田原の西、箱根西麓にある山中城が落城した。本隊は箱根を越え小田原へ。別働隊は韮山城を包囲。水軍は伊豆半島の港を次々と制圧。北陸軍は小田原の北、箕輪城、厩橋城、鉢形城、八王子城を攻略。豊臣軍20万が陸路・海路を封鎖。鉄
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の秀吉の天下統一についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感想天下を治めるためにさまざまな政策を進める中欲望を膨らませる秀吉(『まんが日本史』より、タイトル画面)秀吉の天下統一とその政策今回は主演が豊臣秀吉、助演が徳川家康という感じで展開する話でした。(『まんが日本史』より、豊臣秀吉と徳川家康)小牧・長久手の戦いの後で、豊臣秀吉が妹の旭姫を徳川家康の正室として婚姻を挙げさせます(実質は人質)が、
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放送されていた昨年。初めて、大河ドラマで「ネタバレしないで」という声があることを知りました。大河ドラマなのに?と思ったのが正直なところです。平安時代末期〜鎌倉時代初期のお話は大河でもあまり扱っていない。日本史の授業でも触れない内容も多い。――と考えると、まぁ、そうかと理解できるかも。(自分が鎌倉時代好きである点も考慮すべきか。)ただ、今年の『どうする家康』のほうが"ネタバレ"が合っているような気がするんだけど。どうでしょう。さて、ここ2回分の感想を以下に。
どうもブルポンです。明日は所要があるため名古屋に戻らず単身赴任先でまったりしております。今日はいつも歴史の話で盛り上がる営業先の方から小田原名物の外郎頂きました大河ドラマどうする家康で小田原征伐が近いから旅行に行かれたんだと思います外郎読めます?げろうではありませんういろうです。名古屋人の私にはういろうは親しみのあるもので大須ういろが有名ですが、小田原の方が本家ですよね?ただ一度も食べたことがなかったのでとても嬉しいですやはり本家は違いますね。説明書きまである長持ちはしな
「どうする家康」も残りの送が、12月17日までの後12回と発表されています。前回の「鎌倉殿の12人」と同様の48回放送となります。残り12話ですので、小田原征伐は、多分次回の1話で完結するものと思います。副題も「さらば三河家臣団」となっており、小田原征伐から関東移封までいくものと予想されます。その後は、朝鮮出兵、秀次事件など家康に直接関係しない事項は省略され、早い段階で秀吉が逝去し、五大老五奉行制度そして石田三成暗殺計画などを3~4話程度で描かれ、残りは、関ヶ原の合戦、そして、最
1590年(天正18年)2月10日、小田原征伐のため出陣した徳川家康は、4月4日、小田原城東方の今井村の土豪・柳川和泉守泰久の屋敷に入ります。今井に陣を構えた家康は、7月5日に北条氏直が降伏するまでここに留まりました。
今月インフルエンザに感染して、完治後も体調不良が続き体力が落ちました。今は、体調良くなりました。体力を付けるため、8月最後の日曜に山中城に行きました。山中城は、東海道三島宿と箱根宿の中間にあります。永禄年間(1558〜1570)北条氏康により築城。小田原の西の防衛を担う最重要拠点。1590年、豊臣秀吉による小田原征伐による激戦となりました。豊臣秀次率いる7万の軍勢に対し、北条方の松田康長率いる3千の守備兵との間に、豊臣軍の一柳直末は北条方の銃弾を浴び戦死。秀吉の宿老として活躍した
徳川家康の次男は、お万の方が産んだ於義丸。はじめは家康にも認知されず、源範頼の子孫・中村源左衛門正吉の屋敷で育ちました。小牧・長久手の戦い後、人質として豊臣秀吉の養子となり、元服後に秀康と名乗ります。小田原征伐後、家康が関東移封となり江戸城に入ると、下総国の結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚し、婿養子となって結城氏を継ぎます。結城氏は、源頼朝に仕えた結城朝光が祖。関ヶ原の戦い後、北ノ庄を与えられた秀康は福井城を築城。秀康が松平に服した後、結城家の家督は秀康の五男・直基が継いでいます。☆
※こちらの記事は、令和3年5月7日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第43弾として、「小田原征伐(おだわらせいばつ)」について、ビジネス的視点で学んでいこうと思います。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事(抜粋)】第8回金ヶ崎城の合戦第11回一言坂の合戦第12回三方ヶ原の合戦第13回野田城の合戦第14回叡山焼き討ち第22回江古田原沼袋の戦い第23回天目山の
お休みと言いつつ、毎日毎日しこしこと四点まとめ、こさえて難儀やな。半蔵もええ加減飽きた言うよって、しよーない、わてが出張ってやったで。じつは、これ、夏休みとちゃうの?
日本旅館あるあるで、遮光カーテンもないため朝早くから明るくなってくるので早起きに(最近ただでさえ睡眠がよくとれていませんが)。朝食前に温泉へ。そして朝食。特筆すべきものはなかったけれど、やっぱりお米がおいしい♪チェックアウト。玄関前でスタッフさんに家族での写真を撮っていただく。10時過ぎのその時間で気温23度(教えてくれた)、800mぐらいあるので下よりはいくらかマシだけど、やはり日中は暑いとおっしゃっていました。帰りに名胡桃城跡によりました。名胡桃城は沼田氏が沼田城