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四條畷合戦を直前に控え、吉野皇居の後村上天皇に拝謁、如意輪寺の後醍醐天皇御陵に参拝した小楠公は、こちら如意輪寺御本堂にあった御扉に、鏃を以て、辞世「かえらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と刻み、一族郎党一同の髻を納め、四條畷へと出陣していきました。尚、時世の刻まれた御扉は、如意輪寺宝物殿に収蔵されています。
今日はお仕事お休みにて今年まだ登ってない飯盛山へ野崎駅から野崎観音経て南尾根コースで前に通った時トトロに見えた岩(左下)やっぱりペンギンかしら?右下の謎の生き物今日も口を開けて今にも噛むぞーっとばかりに今日もいましたほどなく飯盛山山頂へ青空で視界もよく明石大橋まで臨めました左下は後から向かう予定の深北緑地飯盛山といえば三好長慶さん(右下)大河ドラマ化する動きもありますが昨日の麒麟がくる!に出てましたねまずは大河ドラマデビュー?かな三好長慶だけじゃなく松永久
攻城日:2020年2月11日↑城跡解説板↑三津屋城は、大阪府大阪市淀川区にある城跡デス♪↑三津屋商店街↑城跡は、阪急神戸線神崎川駅の南西側約300mにあったとされており、現在は光専寺になっています。神崎川駅から光専寺に向かうには、三津屋商店街を通ることになるのですが...日中にも関わらず、7割方の店が閉まっており、正にシャッター街となっています(´・ω・`)↑城跡入口↑商店街を抜けると少し広目の道路に出ます。道路を右へ曲がるとすぐ目の前に光専寺の看板が出ていますので、
2月12日は、楠木正行(まさつら)公のご命日だった。四條畷神社でも、例祭があるようで、是非参加を❗と、はやくから意気込んでいたのに、天気予報じゃ、当日は雨らしいこのコロナ騒ぎの中で、風邪でもひいたら、それこそ大変。で、迷った末、一日前倒しで、お参りに行くことにしたそんなわけなので、この日のお供えは、ご命日バージョンで、いつもよりちょっと豪華お供えのお酒は小さい紙コップに注ぐのが好き🎵これ、おまえの行楽弁当じゃないのか💢伏見のお酒と、酒肴には、柿の葉寿司で有名な「たなか」の五条
なにわ七幸巡り七幸目は四條畷神社です。かなりの高台に位置する四條畷神社。JRの四條畷駅の東口を北に少し行くと、東(右手)にこのまっすぐな、参道が見えてきます。モックは原付で行ったんで電車は利用してないんですけど、たぶんそんな感じ。この参道のつきあたりに1枚目の石鳥居があり階段(たぶん100段ちょっと…数えたんですけど自信なし)を上ります。新しくきれいな手水舎ですね。拝殿前の木製の神明鳥居は、創建100年の祝いとして伊勢神宮から贈られたものであるようです。歴史を感じる鳥居です。
今年のご朱印めぐりは、≪なにわ七幸めぐり≫毎年、何人かで巡るのですが、今回足のトラブルがあり、ゆっくり時間をかけて、リハビリも兼ねて、お参りしてきました≪なにわ七幸めぐり1≫≪四條畷神社≫(心願成就)駅から結構歩きました参道もゆる~い坂道で、長~い道のり・・・到着するまでに、挫折しそうでした・・・鳥居の前で、長い階段を見て、こけそうに?なりましたが最初からゆっくりペースって、決めていたので、「リハビリ」って、掛け声をかけながら上りました
国中神社から次の目的地、四條畷神社へ向かいます四條畷神社【しじょうなわてじんじゃ】明治に入り、明治政府から南朝が正統とされたとき、楠木正成は「大楠公」として神格化され、湊川神社が創建されました。それにともなって嫡男の正行も、負けるとわかっていながらも南朝のために命を賭して足利軍と戦った忠功厚く、「小楠公」として崇拝されたのです。そんな時代背景の中で、同じ地区にある住吉平田神社の神職の発案から、政府への働きかけが行われ、ついには「四條畷神社」の社号の宣下が勅許され、明治23年(18
四條畷神社お正月仕様大阪府四條畷市建武中興15社のひとつ祭神は、楠木正行(まさつら)公他、一族の将士24柱明治23年(1890年)創建さてみなさま。今日はここで、ざっくりとした歴史の流れと共に、「建武中興15社」について、自分なりに理解したことをまとめてみようと思います。(((;゚Д゚)))ガクガクブルブルあ。にわか勉強で、間違い多発してると思うので、読まなくていいっすよ←めっちゃ弱気だな(笑)後醍醐天皇は、楠木正成らと共に、鎌倉幕府を倒したあと、自ら政治を執
1月12日、四条畷神社参拝。御祭神は楠木正成公の長男・正行公です。父の正成公が大楠公と称され、子の正行公は小楠公とも呼ばれるそうです。この四条畷の地で足利将軍家の執事高師直率いる大軍に挑み華々しく戦ったそうです。昨年は父・正成公の祀られる湊川神社に参詣しました。時代の歯車は足利家を中心とした武家政権に回転し始めている中、不屈の闘志で戦い抜いた正行公の事跡にあやかりたいと思いお参りしました。境内には父・正成公から薫陶を受ける正行公の像があり、そこには忠孝両全と
長崎歴史文化博物館へお連れいただきました。かつて、長崎奉行所があった地に建てられており、展示内容としては、江戸時代から近代までの海外交流に関する資料が主なものとなっています。玄関にて大きな龍馬像が出迎えをしてくれる設えとなっており、幕末ファンにとっては嬉しい演出。こちらの館内にて、先述の高山右近の小楠公になぞらえた自筆の書を拝見させていただく事ができました。館内の長崎奉行所の復元ブースは特に秀逸。その内装の美しさはもちろんですが、一方で、絶えず海外の使者
八咫烏一族の本拠地・伊那佐の地より、ローマ教皇御来日の報の中、それに関連して。キリシタン大名・高山右近と南朝との意外は関わり、そして、そこから導き出される真の世界の平和の為に必要なものとは。。八咫烏一族の根城のあった伊那佐山とその一帯は、言わずと知れた吉野朝のゆかり深き地であり、それ以前に何よりも、神武天皇の天業恢弘に大きく関わる聖域でもある事から、後醍醐天皇も、この地を非常に大切にされていらっしゃいました。その伊那佐山に築かれた城が澤城であり、この地にて、かのキリスト大名・高山右
☆YouTubeに再掲致しました☆第六回楠公研究会「四條畷合戦楠木軍本陣・往生院~小楠公かく戦えり~」(平成30年1月30日開催)宜しければ、ご覧いただけますれば幸甚に存じます。チャンネル登録も宜しくお願い致します。
第23回楠公研究会「楠公旗掛松と藤井寺合戦〜楠公父子に受け継がれた智略」は、盛況裡に開催させていただきました。今回は、森副住職様の格別なお計らいを賜り、御本堂内にて御法話をいただきました。また、御本堂奥の宝物殿も拝観、また、非公開の後醍醐天皇の綸旨や楠木正成公、楠木正儀卿の真筆等、特別に拝見させて頂きました。特筆すべきは、大楠公直筆の非理法権天旗がここに現存している事。戦後の学説では、非理法権天という言葉は、江戸期に創作された、などという定義が罷り通ってしまっています
桜井の訣別に於ける新たな発見。桜井駅陣屋清水家第68代目升太郎氏の手によって修復された桜井の訣別絵図の掛軸。これは、延元元年5月21日、湊川に赴く途上の楠公父子に対し、桜井の駅での陣屋としての役目を担った清水家第19代当主・清水康光が、桜井訣別の2年後に当たる暦應元年(1338年)、当時の事蹟を後世に伝えんが為に自ら描いたもの。絵図中には3人の人物が描かれており、真ん中が大楠公、向かって右が小楠公。全者共に裸足で描かれている事から、楠公父子の別れの儀が清水家の屋敷
京橋から学研都市線に乗り四条畷へ降車後しばらく楠公橋を渡り坂道を上ると四条畷神社さん鳥居をくぐり階段を上がったところで(結構しんどい)やっとこさの本殿楠木正行公さん(小楠公)を参拝後、満願のハガキに認定印を頂きました。11月と言う事もあり七五三の記念撮影のためぺこちゃんが振袖姿でお出迎え無事、今回の「なにわ七幸めぐり」も満願時計を見ると、まだ16時前とりあえず四条畷駅まで戻り学研都市線で京橋方面へBさん「京橋で
第五回楠公研究会「吉野に伝わる小楠公と弁内侍、忠義と愛の物語~吉水神社・如意輪寺~」のドキュメント動画を投稿しました。宜しければ、チャンネル登録いただき、ご覧下さい。@YouTubeより
大型台風19号案の定、あちこちに甚大な被害をもたらして行きましたね!犠牲となられた方々、災害に遭われた方々簡単にお見舞い申し上げることもはばかられます一晩中、ニュースにくぎ付けになり関東に住む身内や知人の安否を確認して個人的にはホッと致しました災害大国と化した日本、もう不安だらけですねそれでも人は人と繋がり復興しなければ2019/10/09(水)ようやく月曜日(10/07)に左手小指の付け根に残っていたピンが外れて自由に動かせる・・・・あれれ
土曜日はいつも用事があるので鶴見緑地で済ませることが多いけど今日は少し欲張って近場トレイル、飯盛山へ今日は野崎駅からスタート野崎観音を経て久しぶりに野崎城跡を経由低いけどここからの展望もステキです竹林コースも久しぶりに飯盛山山頂へ休憩所の気温は21℃汗だくにはなることなく気持ちいい山行いつもの水場に降りる前にこれも久しぶりの八大龍王本堂のそばの祠にタヌキが鎮座してます。狛犬ならぬ狛タヌキなぜタヌキ?タヌキだよね???前回来たとこから謎のままです滝谷楠
2019.8.31は「神の子どもたちはみな踊る」のついでに、湊川神社に行ってきました(*´꒳`*)御祭神、主神は大楠公とも呼ばれた楠木正成、配神は小楠公とも呼ばれた息子楠木正行や弟楠木正季ら一族16柱と菊池武吉。後醍醐天皇の命で挙兵し、鎌倉幕府を滅亡に導くも、謀反を起こした足利高氏の大軍を湊川で迎撃、激戦の末に正季と殉節。その後、豊臣秀吉が免租地とし、尼崎城主青山幸利が松と梅を植え、水戸光圀が墓碑を建立して、忠臣として喧伝されることに。明治天皇が神社創祀の沙汰書を下して創建された
【楠公寺】を後にし、ココロは【飯盛城跡】を目指した【飯盛城跡】は、大阪・奈良の府県境となる生駒山地から西に派生する支脈の飯盛山山頂(標高314m)に存在する。山頂に向かう途中には【飯盛城石垣跡】が点在する。飯盛城の特徴は、この石垣が用いられている点である。北城の本郭を中心とした曲輪群と、御体塚を中心とした曲輪群はほぼ全域を石垣によって構えられている。自然石をほぼ垂直に積み上げた構造の石垣で、何段にもわたって築かれた姿は圧巻だそんな石垣を見ながら、約20分~30分で山頂は近づいてくる『
【四條畷&若者座談会】四條畷の街を走りながら、小楠公さん(楠木正行)にお参り!先日は父方の遠い親戚とツイッターで出会いましたが、この日は母方のご先祖様ゆかりの地。楠木正成公の国を想う精神は、現代において多くの方々が気高く自由に生きるために必要なものであると思います。また若者座談会では、10代、20代のエネルギーに触れ、私も元気を頂くことの出来る最高の時間でした!鋭い質問も多数あり、若い人たちの勉強熱心さと熱い心意気に心踊りました!!日本も大阪もまだまだ元気になれる!!!!
【如意輪寺(にょいりんじ)】奈良県吉野郡吉野町吉野山1024続いて我々が向かったのは、こちらちょうど本堂の背後に見えてくる階段がある。元弘3年(1333年)鎌倉幕府を倒して「建武の新政」を成し遂げた後醍醐天皇は、足利尊氏との争いにより、京都より吉野山に行幸され【如意輪寺】を勅願寺と定めた。この階段を上がっていく到着ーーーーっ【後醍醐天皇陵塔尾陵】後醍醐天皇第96代天皇。この時代は天皇が理想とする治世を実現するためには、鎌倉幕府の権力を無視することは出来なかった。後醍醐
【奈良】奈良県吉野郡吉野町吉野山にある南朝勅願寺如意輪寺のステキな【御朱印】令和元年5月1日より新たに猫不動尊の御朱印がいただけるようになりました【如意輪寺御朱印】月ごとに印の色が変わるそうです(カラー書き置き御朱印もありました)【猫不動明王】令和元年5月1日開眼法要※撮影許可をいただいております【如意輪寺御朱印】
学研都市線四条畷駅大阪府大東市駅は、大東市にあります。小楠公ゆかりの地の駅
令和最初の日は、本当にいろんな時代の史跡を訪れました。南北朝時代の史跡では特に南朝を意識して四條畷も初訪問。まずは楠木正成の息子正行の墓所の一つでもある小楠公墓地。四條畷の戦いで高師直軍と戦った正行ですが、その勢力は高軍(北朝)6万、楠木軍(南朝)3千とも伝わるくらいの差がありました。その様な戦いの中で、正行は討死します。その供養碑が建てられた後に地域の人が楠を植えると立派に育った場所が小楠公墓所です。明治維新は水戸藩の『大日本史』の影響から南朝が重視されていたために、明治になり南朝
【継体天皇陵】を出発して、我々が次に向かったのは………2017年11月以来二回目の参拝になる……ちょっと古代のテーマから外れるがここからの眺め好きだなあこの階段を降りて、参道を西へ約1㎞進んだ突き当たりには【小楠公御墓所】がある。前回は行けたが、この日はこの後のスケジュールのため、無念だが諦めた【四条畷神社】大阪府四条畷市南野2丁目18-1出雲式(ココロが勝手に命名してる)の【狛犬】が相変わらず勇ましいあっ……出雲式=お尻をきゅっと上げている形祭神楠木正行(まさつら)公はじ
皇紀前創祀の古社・枚岡神社に参拝。中東宮司様より、枚岡神社創建のご由緒や日本民族にとって大切な心を御教授いただきました。神々の笑いによって、天の岩戸から天照大神に出で賜り再び国土に光が戻った神話に因んだ所謂、お笑い神事でも知られ、この神事では数千人の方々がご参拝されています。私も、宮司様に笑いの御指導を受け、元氣快復のご神威をいただき、私の随伴の者も皆、清々しい心持ちとなりました。また枚岡神社境内には、小楠公が四條畷合戦直前に枚岡神社を参拝された際、お手水として使われたという
あなたの実践している健康法、教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう今日は朝からサリーひな撮影会まりちゃんと合流コパンさんの近く戎公園で撮影会写真は犬の写真屋さんで撮影ちなみに自分撮影プロはまだデータのままです。ご了承ください。撮影風景1時間半撮影した後ドッグカフェコパン☕️へ撮影会終了みんなご苦労さんハンバーグランチサリーひなはワンバーグご褒美ウマウマ楽しい撮影会とコパンさんでした。まりちゃんありがとうございます😊途中四條畷の史跡楠木正季の
2019年3月31日(日)ところにより通り雨が降るかもしれない天気だったが、昨日に引き続き生駒方面に今日はバイクで行くことにした。08:30自宅を出発竹田より国道1号線バイパスを四條畷まで南下し、国道170号線旧道に入り四條畷神社へ向かう。09:25四條畷神社に到着JR学研都市線四條畷駅が最寄り駅になる。神社は山の中腹にある。石段を上る。地元の氏神様といった神社であるようだ。御祭神は楠木正行(楠木正成の嫡男)とのこと。石段を上がったところの社殿が倒壊していた。台