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足利尊氏は三男・義詮の家系に室町幕府長官(将軍)を世襲させ、関東東北方面の統治に鎌倉府を置き、その長官(公方)を四男・基氏の家系に世襲させました。三男・義詮の家系は室町幕府15代将軍義昭で途絶えました(※)が、四男・基氏の家系は喜連川足利家として続きました。鎌倉公方(鎌倉府の公方成氏は補佐するはずの関東管領上杉家と対立)基氏→満氏→満兼→持氏→成氏古河公方(古河府にり、室町幕府・関東管領と抗争を繰り広げる)成氏→政氏→高基→晴氏→義氏(長女・氏姫)小弓公方義明(高基
ちょいと前、先月末のEテレ『古典芸能への招待』で取り上げられた『仮名手本忠臣蔵』の大序を見ていて、「そうだったなあ、赤穂浪士の話は室町時代、足利の世の話に移し替えられていたのだっけ」なんつうことをうすぼんやりと思い返しておったりしたところで、こんな一冊を手にとったのでありますよ。題して『足利の血脈』と。本書は、戦国を語る上で欠かせない「足利氏」をテーマに、7名の歴史時代作家が書き下ろした短篇小説を収録したアンソロジー。…これまで戦国史を語る上で、メインで書かれることがなかった「足利氏」を軸
7月になって、最初のスペース紹介ライト版、今回は、千葉県千葉市緑区にあるラフィネイオンタウンおゆみ野店の紹介ですσ(゚ー^*)立地する千葉市緑区おゆみ野は、都市再生機構主体で土地区画整理事業が行われ、1977年5月から2006年3月までの期間で街づくりが行われたニュータウンです。まちびらきは1984年3月でした♪ニュータウンの命名は、戦国時代には足利氏の一族である小弓公方(おゆみくぼう)が本拠地としていました。後に「小弓」から「生実」に字が改められ、江戸時代から明治維新まで生実藩(
※こちらの記事は、令和2年9月17日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「ビジネスに活かす戦国合戦術」第29弾として、以前言及した「第一次国府台(こうのだい)の戦い」について、ビジネス的視点で見直していこうと思います。※記事下部に人物の読み仮名をのせています。この戦いの動員人数の考察が読みたい方は、下記リンクをタップしてください(参考記事に飛びます):各合戦の動員人数について(4)第一次国府台の合戦関連記事:『関八州古戦録』【ビジネスに活かす戦国合戦術シリーズの過去記事】
※こちらの記事は、平成30年3月4日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は「各合戦の動員人数について」シリーズの4回目で「第一次国府台(こうのだい)の合戦」についてです。今回は『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の長谷圭剛氏の記事を参考にしています。※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。合戦の経緯について詳しく知りたい方は、下記リンクをタップしてください:第一次国府台の戦いに学ぶ―「~はずがない」は失敗フラグ関連記事:各
関東における戦国時代の戦いの舞台へ行ってきました。以前、バラで紹介した里見公園です。『【千葉県市川市】バラがキレイだった里見公園』今年は尋常なく暑い日々が続きましたが10月からやっと城めぐり・歴史めぐりを再開しました。歴史めぐりで出掛けた千葉県市川市の里見公園。思いがけなく美しいバラに…ameblo.jp古河公方の跡目争い四代目古河公方足利晴氏vs小弓公方足利義明三代目高基の子供と弟が争います。小弓公方足利義昭を支持したのが里見義堯。軍勢は古河城を目指し
去年12月、千葉県市原市の椎津城、千葉市の中野城のあと、遺構がないのはわかっていても、ちょいと行きたかった城に行きました今回の城は千葉県千葉市の小弓(おゆみ)城です小弓城(南生実城)は鎌倉時代初期の創建と言われ、千葉氏が上総国との境界付近を守る要衝として築き、重臣の原氏に守らせた城です1517年(永正14年)に真里谷城主・武田信保が古河公方に対抗するために、足利高基の弟、義明を擁立してこの城を奪取し、義明は「小弓御所」(小弓公方)と名乗り、里見氏の支援を受けて後北条氏方の千葉氏・原氏と争い
便秘と鬱の私達が歩き始めた理由はこちら今までの"まとめ"はこちら【本日のコース】鎌取駅→緑区役所→四季の道(春)→生実池→猪鼻城(千葉城)→大薬膳火鍋九里香→千葉駅10km2時間30分(呑と見学は除く)お散歩の地図はここ地図上の緑色を歩くとgood【竜さんのプラン】R千葉市の区境巡りもあと一つなんだけどYなにをモゴ付いてるのよR実は区境の標識が見当たらないんだYそんなハズはないでしょ
北条氏康-大願成就篇(単行本)Amazon(アマゾン)314〜5,104円富樫倫太郎先生の北条サーガ北条氏康編の第二弾です。氏康の父・氏綱は、順調に領土拡張を進めていきます。まず、ここまで良好な関係を維持していた今川家が義元の妻を武田家からもらった件で手切れをし、駿河国の東側をせめて自領にします。更に房総半島で勢力を築いていた小弓公方を国府台合戦で滅亡に追いやり、扇ガ谷上杉家の河越城を奪い取り、武蔵の国をほとんど手中に収めて、扇ガ谷上杉家を滅亡寸前の所まで追いやります。
昨日、雑に実写再現シリーズを紹介しましたが、歴史動画にも動きがありました。さて、今回は「第一次国府台合戦」です。いよいよ北条氏綱最後の合戦です。この後は隠居して、家督は3代目の氏康に受け継がれます。今回の北条氏の相手は扇谷上杉と小弓公方、真里谷武田です。今回の動画は約90分と長丁場ですので、見ごたえがあります。これ、本当に大河ドラマにしてくれないかしら(’’
以前にご紹介したYOUTUBEでの歴史動画。後北条氏の最新作がUPされていたので、私のブログにも載せておこうかと思います。今回の動画では、関東享禄の内乱という「古河公方家」と「山内上杉家」で、ほぼ同時期に発生&終結した内訌の話。その後、甲斐の武田家での内乱の話、古河公方が小弓公方を滅ぼす為に北条と手を組む場面。最後に、里見家の内紛である「稲村の変」までが取り上げられています。「たーわーけー」の名言があった2代目古河公方がとうとうお亡くなりになる回でした。しかし、こうして見
【問題】小弓公方を自称したことでも知られる足利義明が戦死したのは、第一次国府台合戦でのことである。○か×か?【選択肢】○×【正解】○【解説】小弓公方を自称した足利義明は、真里谷氏や里見氏と結んで北条氏と対立した。しかし、天文7年(1538)、北条氏綱と国府台で戦った(第一次国府台合戦)際に戦死した。
先の記事に続き、重俊院を後にして次は小弓城(南小弓城)へ。細い車通りの多い道を南下。途中で道を逸れて住宅地の中の、埋蔵文化財調査センターへ。千葉市内の遺跡の出土品が展示されている。先程の生実城の事も。すぐ近くの住宅地の中には大覚寺山古墳。前方後円墳。入れないけど。そこから更に南へ。通りから高台に登り。辺りは畑地帯。その畑地帯の中にある寺院の墓地の中に小弓城の石碑と案内が立つ。先程の生実城以上に面影が無い、、、近くの八剣神社に行ってみたが、特に遺構らしきものは無し。
さて、次の参拝生実神社です。生実は「おゆみ」と読みます。なんか、パッと見の神社の風格にそぐわないなと思ったらお賽銭箱と一緒に、社殿の中にカッコいいのがありました。裏の方に駐車場もありますし、諸々の掲示やら、センサー式照明やら、ココも現役感があってモエが高い。それにしても、崇道天皇とか藤原広嗣とか、結構な高位怨霊(御霊)な御祭神です。いや、それはいいんですが「なんでここに?」この前に行った蘇我比咩神社もだけど、この辺は「都にいたら諸事情がめんどくさいけど、ここまで来れば大丈夫」みた
=================================先日の台風15号で被災にあわれた方々には、心よりお見舞い申し上げます。皆さまの安全と被災地の復興を心からお祈りいたします。=================================国府台。市川市の江戸川の畔にある場所。前回、里見公園を…載せましたが、その場所にあるんです!あの…国府台城跡が!あの国府台合戦で有名な!!!あの小弓公方も載ってます!国府台合戦とは~戦国時代、ざっくりですが、我が県の
昨日から私は家を離れております。昨日は市川に、今日は鶴ヶ島に、います!昨日の市川は天気も良く、暑い位でしたが…今日の鶴ヶ島はあいにくの雨…しかも、涼しい…でも、雨が止めば、暑くなりそうな予感…ま、また後日、市川、鶴ヶ島の探訪報告しますので、お楽しみに~?
住所千葉県夷隅郡御宿町岩和田1271-1☎電話予約080-5674-5353ネット予約https://stayjapan.com/area/chiba/isumi/pr/11926交通鉄道:JR御宿駅から徒歩で15分車:九十九里道路一宮ICから国道128号線より約35分:圏央道市原鶴舞ICから国道297号線より約35分部屋数3つ(和室2洋室1)風呂有キッチン有バーベキューできます駐車場有8台くらい================
【Kindleセール】『三国志』や『資本論』など名作・名著を漫画でサクッと!『まんがで読破!』シリーズが各...ねとらぼ民族主義の反ユダヤ主義を掲げ、ナチス・ドイツの独裁者として第二次世界大戦を引き起こした政治家・アドルフ・ヒトラー。画家を目指していた彼がなぜ独裁者へ..「あの日のオルガン」戸田恵梨香と大原櫻子、子役の大女優ぶりに「反省します!」Yahoo!ニュース第2次世界大戦末期、東京・戸越の保母たちが幼い園児たちと集団疎開し、東京大空襲の戦火を逃れた日本初の“疎開保育園
どーも※2018/7/20のお話です。古河公方vs幕府&関東管領・上杉氏で関東を二分した享徳の乱は幕府が古河公方を正式に認める形で決着。これにより上杉氏との和解も成立し、平穏を取り戻したかに見えた関東の情勢。しかし、今度は古河公方内での対立というものが発生します。立地上、古河公方は北総地域との結び付きが強かった事もあり、北総諸勢力(宇都宮氏、結城氏、小田氏など)が南総諸勢力(真里谷武田氏、里見氏など)よりも優位な立場にありました。その状況を打破
4月27日付の東武朝日新聞に、歴史タレント小栗さくらの記事が掲載されています!前回の続きの連載「歴史タレント小栗さくらさんと巡る埼玉ゆかりの三姫探訪vol.2」です^^甲斐姫に続く姫は、「足利嶋子(あしかが・しまこ)」!嶋子は、豊臣秀吉の側室となった人物で、絶世の美女だったといわれているんですよ♪(埼玉県久喜市の寶聚寺〈ほうじゅじ〉。古河公方の御座所、高柳御所としても知られています)少しだけ説明すると…。室町初代将軍・足利尊氏が、息子を関東に赴任させたことで
本日は房総往還の続きとして、前回ゴールの八幡宿から長浦までの区間を歩きました。歩行ルートは☟(ルートラボの大きな地図はこちら)。武蔵野線⇒中央・総武各駅停車⇒内房線と乗り継いで7:40頃に八幡宿に到着し、さっそく街道歩きをスタートします。今朝は割と冷えていましたが、日中はずいぶんと暖かくなる予報だったため、着脱自由のライナー付きコートで寒暖の調節ができるようにして歩き始めました。街道に復帰すると、まだ起きていない商店街を通りかかります。途中なかなか見どころのある
伊東潤『城をひとつ』の第2話、「当代無双」を読みました。第2話で北条の敵となるのは、先日来興味を持ち始めた小弓公方・足利義明。一代で房総半島の大半を支配下に収め、関東に覇を唱えた英傑です。武勇に優れ、将たる器を持つこの英雄を、大藤信基は、どう陥れて行くのか。第1話と違うのは、大藤信基が、傑物である足利義明に男惚れしながらも、使命を果たすべく心を鬼にして騙し、陥れていくところ。最後の最後まで信基を疑わず、策に陥りながらも将の器によって策を覆しそうになる足利義明は、とても魅力的です。対して
関東戦国史を、もう一度全体像を眺めながら勉強しなおそう。と思い、黒田基樹の『戦国関東の覇権戦争』を読み直しています。やはりいい本、名著です。ちなみに、私が読んでいるのは、2011年刊行のこちら↓。戦国関東の覇権戦争(歴史新書y)Amazon今は『戦国関東史』と改題して、角川ソフィア文庫から出ているようです。関東戦国史北条VS上杉55年戦争の真実(角川ソフィア文庫)Amazonさて、『戦国関東の覇権戦争』を読み、自分が“小弓公方”のことをほとんど知らないことに気付きました。
今日で大阪ともサヨナラのうさみーですおはようございます。でもマッカーサーではありませんが“Ishallreturn.”だと思いますやっぱ大阪、好きやねん(?)城をひとつAmazon今回の大阪遠征に持ち込んだ一冊です。伊東潤さんの作品は戦国時代の後北条や武田を舞台にしたものが多く、歴史の切り口や登場人物が新鮮です。戦国時代の九州なんかも話にしたら面白そうなんですけどね。短編六話仕立てで、「入れ込み」という敵方の奥深くに入り込んで調略を仕掛ける役割を歴代担って後北条氏に仕えてき
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1538年、ついに北条氏綱(ほうじょううじつな)率いる軍と小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき)と里見義堯(さとみよしたか)率いる軍の戦闘になりました。この戦いって北条方に古河公方(こがくぼう)の足利晴氏(あしかがはるうじ)さんも付いたんだ。古河公方と小弓公方って対立してたからね。我が北条は江戸川を渡る行動にでました。綱成(つなしげ)は先陣を切ろうとしましたが、氏綱に止められたの
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1538年、我が北条軍は武蔵国の葛西城(かさいじょう)を攻め落とすと、小弓公方(おゆみくぼう)の足利義明(あしかがよしあき)と安房国の里見氏(さとみし)は下総国の国府台城(こうのだいじょう)に入りました。国府台城跡(現在の千葉県市川市国府台付近)ここで小弓公方についてコアラくんから説明してもらいます。ーーーーー氏康さんから指名されちゃった。小弓公方は元をたどると足利将軍家の一族で初代将軍・
前回まではこちら⬇️目次世は群雄割拠の戦国時代。わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。1537年、わしや綱成(つなしげ)が扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の河越城(かわごえじょう)を攻める少し前に我が父・氏綱(うじつな)は兵を出し駿河国に侵攻したのです。駿河国は今川氏(いまがわし)の領地なんだ。今川氏の当主・今川義元(いまがわよしもと)さんが甲斐国の武田信虎(たけだのぶとら)さんと同盟を結んだよね。氏綱さん、その同盟に怒って今川氏を攻めることにしたってわけ。この戦いを「河東一