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天海(166)「慶長五年七月十九日、徳川秀忠、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、下野宇都宮ニ陣ス。徳川家康、増田長盛ノ変報ニ接シ、之ヲ先発ノ諸将ニ告ゲシム。是ヨリ先、徳川家康、石田三成挙兵ニ備へ、越前府中ニ帰国セシム。」(「史料綜覧」)伏見城への総攻撃が始まったころ、先発の秀忠は宇都宮に進出し、家康はまだ江戸にいた。そこに続々と大坂異変の報が入ってきたのである。「慶長五年七月廿一日、徳川家康、兵ヲ率イテ江戸城ヲ発シ、武蔵鳩谷ニ泊ス。徳川家康、武蔵岩槻ニ泊ス、是ヨ
三年前に出来た小山市の新市庁舎。市庁舎があるのは、史跡小山評定跡です。徳川家康による東軍の結成会議とでも言うか。小田原評定とは全然違うようで。小山市まちの駅、思季彩館。落ち着いた和風です。馬酔木も趣を添えます。風雅な鹿威しの音も響きます。
4月に入って天気が悪い日が多いけれども土曜の今日は快晴!なのでブラアラキ宇都宮線を間々田(ままだ)駅で下車小山駅の一つ手前やね駅から徒歩30分、日光街道(国道4号)沿い間々田八幡宮所在地:栃木県小山市間々田創建:729~749年創建は奈良時代時代が過ぎて平安期の939年、藤原秀衡が平将門の乱平定に向かう前に戦勝を祈願。平定した後、神田を奉納それ以降、この地一帯を飯田(まんまだ)と呼ぶようになったとかゆえに「まんまだ」→「ままだ」と地
【問題】小山評定で山内一豊が徳川家康に提案した、自らの居城を東軍に提供する案は、元は誰が発案したものだったとされるか?【選択肢】浅野幸長加藤嘉明堀尾忠氏寺沢広高【正解】堀尾忠氏【解説】自らの居城を東軍に提供する案は、元は堀尾忠氏の発案だったとされるが、忠氏の発言を事前に聞いた一豊が、小山評定で最初に提案したという逸話が残る。
どうする家康第42回は天下分け目。下野國小山の徳川家康の陣所に、石田三成挙兵の知らせが届いた。*石田三成は、家康の背後を襲う狙い日本中を徳川方と石田方に分かれた。白は徳川方、黒は石田方。畿内から西は豊臣系が多い。山城國伏見城を守る鳥居元忠は、取り囲まれ絶体絶命のピンチに。大阪城には、毛利輝元が入城。阿茶局は北政所により難を逃れた。北政所は事前に徳川家康と通じていたとも。策士本多正信が、豊臣恩顧の将の一人を調略すると進言。*小山に帯同しているのは豊臣系の大名真田信幸が徳川
昨日(11日)は、「和(なごみ)」に乗車しました。今年の天皇誕生日に続いての乗車です。昨日は、大変寒い日でしたが、和がホームに入線した途端、体感温度が5℃上昇しました。(笑)いつ見ても重厚感があって素晴らしい列車ですね。さすが「お召し列車」です。今回は、「浦和駅開業140周年」のイベントに合わせたツアーです。浦和から宇都宮までの短い旅です。ホームの発車標には、「和」の文字はありませんでした。今回は、とにかくグッズが多いツアーでした。こちらはその1つ、「うなぎのミニ弁当」
会津征伐に向かった家康らにとって、三成と大谷吉継の挙兵は予測していたとしても、毛利輝元や宇喜多秀家ら大老や三成以外の3奉行までもが参戦してくることは想定外だったようですそこで急遽、今の群馬県にある小山(宇都宮の近く)にて、会津討伐に従軍していた、福島正則ら豊臣臣下を含めて諸将を集め、今後の対応を協議していますこれが俗に言う小山評定と呼ばれるものです最近では、このような集まりは無かったという説も出てきていますが、史跡として小山評定跡が今でも残されています家康が江戸に戻ったのが9月1日その
日本を東西に分けての大戦、関ヶ原の戦いを語るのに外せない出来事があります。その出来事とは、小山評定。会津の上杉景勝が軍事力増強・謀反の兆しありと、徳川家康が諸大名を率いて下野國小山で会津征伐に向かう途中、大阪で石田三成が挙兵の知らせが届く。家康は、諸大名に敵味方になっても構わない。大阪に帰り人質となった妻子を助けて良いと言う。家康は、豊臣恩顧の将を事前に取り込むことに成功していた。その男の名は、福島正則。朝鮮出兵で石田三成と対立。大阪に帰るか、このまま会津に向かうか決断を迫られた諸
皆さん、こんばんは♪どうする家康第42話「天下分け目」では関ヶ原の天下分け目の大戦にむけて家康・三成の両陣営が出来上がっていく過程が描かれました。家康は、上杉討伐を中止し引き連れていた武将たちに「小山評定」において一世一代の人生をかけた演説をします。ドラマの家康の演説も諸将の心を掴み三成との決戦の気運を高める考え抜かれた語りだったと思います♪関ヶ原の直接対決の前に決戦の勝敗の分かれ目があったように思います。
11月8日(水)☀️👍😁久しぶりに朝から良い天気☀️Instagramのpopeyehiro0329さんがアップしてた田舎の郵便局を見たくてハンターカブでトコトコツーリングしてきました🏍️😁鹿沼から古峯ヶ原方面に走っていくと深岩石と言う大谷石と同じようで大谷石より固くて丈夫な石を切り出している所がありますそこを横目で見ながら(停まって写真だけは撮りました)😂目指す郵便局「東大芦簡易郵便局」を探します簡単に見つかるだろう😉と思いナビをセットし
オハヨゴザイマス✨🙋♂️夜中の雷⚡️にゲリラ豪雨⛈️雷長いこと鳴ってた😱『どうする家康』いよいよ関ヶ原が目の前いつもありがとうございます✨(*^^*)好きな鍋料理は?すき焼き▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようオー🎵円陣👑#潤く~ん💜#😆
こんばんは!あさイチの潤くんの予告欄よ!!!特にここ‼️↓↓↓▽盟友大森南朋が語る松潤の意外な素顔▽神出鬼没の殿カメラ?!山田裕貴が語るオチャメな一面▽テレビ初公開!感動のクランクアップテレビ初公開!感動のクランクアップって(((o(*゚▽゚*)o)))♡最高画質で予約ですぞ‼️おおぉぉぉ‼️‼️そんな中、振り返りの続きです!私は全くもって、歴史に疎いので…💦この、小山評定も知らなくて💦おやまひょうじょう、と読むんですね、うん、調べましたよ!!私が見たサイト↓↓
小山評定、めちゃくちゃカッコ良かった!殿うちわ持ちたかったセリフの間や抑揚に合わせた殿の動き!妻子が捕らわれ申し訳ないと謝る殿。無理強いせぬ出ていっても良いと申し訳なさそうにして。たが考えてみよ…皆の留守に屋敷に入り妻子に刃をつけつける男に天下を任せされようか!と、家臣の気持ちに歩み寄りつつ焚きつける殿殿のアジテーション本證寺のご住職空誓みたいだったわ「孤立無援になろうと」って同情させて「全ては戦なき世を作るため!」って良心に訴える。やっぱり殿しか勝たんわ…笑みんな強火の殿
大河ドラマどうする家康、今夜は伏見城の様子が描かれるようですが、家康は上杉討伐のために、会津に出向いている最中。その間に挙兵した石田三成の軍勢と、後に関ヶ原の戦いに挑むわけですが、家康側に付くと言われた山内一豊の、小山評定は出てくるのでしょうか。戦国に詳しい方なら、どのように、どのタイミングで描かれるか、予想がついているかと思います。私は楽しみに待っていることとします。大ピンチにもなりかねなかった、家康は、どう切り抜け、どう天下分け目の戦いに挑んでいくのでしょう。こちらは、小山評定
栃木県小山市家康が会津征伐に向かうと西軍の石田三成が挙兵、伏見城は西軍に落とされ、家康軍は西野光成、東の上杉に挟み撃ちになります。秀吉恩顧の諸将を引き連れた家康、現在の栃木県小山市にあった小山城で軍議を開き、福島正則、黒田長政、細川忠興ら、豊臣家と縁の深い大名に去就を問います。世にいう、小山評定です。現在では小山市役所となっている小山城跡。2009年の記事のリブログです。大河ドラマ「天地人」のときですね。
”どうする家康”では家康と光成の対立が深まって、豊臣恩顧の大名たちが光成を襲撃するという事件がおきました。いくさに出ずに偉そうに指図する光成は嫌われ者だったのでしょう。さて来週以降、会津討伐から関ケ原の戦いのシーンが描かれるものと思われますが、家康が豊臣恩顧の大名たちを取り込んだ「小山評定」はどう扱われるのでしょうか?この「小山評定」についてよく知られている内容は、司馬遼太郎が小説”関ケ原”の中で表現したもので、大名たちを集めて会津ではなく西に取って返すための評定を行って福島正則他豊
令和5年9月9日③午後3時前に、診察を終えた。会計の時、自己負担上限額管理票のこと、尋ねた。「次回の通院日に今日の分もまとめて記入しますので、持ってきてください。」って言う。来週も来なくていいわけだ。帰りは、今日は千本松牧場に行きたい気分だった。ここから車で10分くらいの距離だけど、行くと無駄使いしそうだから、やめた。道の駅那須与一の郷でキャベツを買った。愛犬のおやつ用。1玉280円もした。高い。大田原産かどうかも怪しい。しおりが欲しくて「情報館」へ2
🪷摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館を後にし、小山市飯塚の飯塚三十五号墳へ🪷飯塚古墳群の一つ中規模の前方後円墳6世紀後半の築造周囲から埴輪や土師器の破片が確認され少し削られているが残る墳丘は径約31m・高さ約4.5m・横穴式石室を持つと考えられています道路沿いにありましたねすぐに分かりました*飯塚三十五号墳🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷🪷小田原評定ならぬ"小山評定"があったのだとか*摩利支天塚・琵琶塚古墳資料館にあったチラシ徳川家300年の安泰の道
小山市立博物館の企画展『小山評定とその時代の軍装』へGW前に・・・小山市立博物館で企画展を開催する事を知りましたが・・・最終日にようやく見学に行けました♪駐車場は博物館の目前に無料駐車場があり到着して博物館へ向かったら無料開催だって♪名のある武将の甲冑を見学♪当然のごとく撮影はできません(^^ゞでも。。。入り口にレプリカが♪こちらは撮影可能です。黒:徳川家康赤:井伊直政※陣太刀が畳に転がしてあります(^^ゞ掛台に置いてほしいところ。
1・3位のオススメ展は今年後半バージョンも近く公開10位の空也上人はなぜランクイン?美術展...美術展ナビ#どうする家康で最新の情報をチェックしてください。「国際博物館の日」5月18日(木)は西美、かはく、トーハクなどの常設が無料特別展...空也?こりゃあ坊さん-歴史チップス平安の都に貧乏の母子がいた。坊やがくにくに甘えた。「かかぁ〜」「なんだい?」「ごはんたべたいよ〜」「うちはビンボーだから、ないよ」「ヤダヤダー!ごはんごはん〜!おなかすいたよー!」「我がまま言ってると
2022年のデジタルスタンプラリーで取得
青春18きっぷ4回目行き先は栃木県にある小山駅歴史が変わった歴史が決まったあの場所を目指します。駅前の通りを歩き10分ほどで小山御殿跡・小山市役所が見えます。市役所建物を通って奥の駐車場にありました。小山評定跡の碑。1600年7月上杉征伐のために本陣を小山においた徳川家康。西国で石田三成が挙兵したことを知ります。このまま上杉を討つか三成を討つべく西へ戻るか評定が開かれます。徳川軍に加わっているのは上杉征伐のために集まった豊臣恩顧の大名。
遠山利景⑱「関原始末記上」『七月廿四日小山の陣所へ聞へければ宇都宮へ御使を以て此由秀忠公へ御遣わさる其上奥州へ向御先手の上方大名衆竝榊原式部大輔等招かへされければ皆小山の御陣所へ参向す。此時上方大名衆に御振舞を被下山岡道阿彌岡江雪を御遣いとして景勝を先御退治なさるべきか上方をしつめらるべきかと各如何被存之由御尋ありけるは先上方を御退治なさるべきよし福島左衛門太夫黒田甲斐守各一同に申されければ堀尾信濃守山内對馬守内談し御前にて山内對馬守申されければ海道筋面々居城をあけ
3月29日、今日は野木宿から間々田宿、そして小山宿までおおよそ15キロ歩くことになる。早朝に自宅を出て電車を乗り継ぎ10時前にはJR野木駅に着いた。野木宿本陣跡から少し速足で歩き出す。間々田宿に入り、乙女交差点から思川の乙女川岸に向かった。ここは江戸との物資の集散地としての重要な場所で日光東照宮造営の際には江戸からの資材はここで陸揚げされた。そしてもう一つあるが後で!!逢いの榎の碑の前に立った。ここが日本橋と日光の中間点だ。やっとと言うかついにと言うか・・琴平神社の老桜の
小山評定跡有名な地です。小山評定時の武将像やパネルはありませんが、その様子を想像してみました。今とは異なり、遠く、見えない西の様子は不安だったと感じます。また、会津の上杉家の動向や下野の隣国でありながら動きのなかっとという常陸の佐竹氏にも不安があったでしょう。
12月29日、JR両毛線の足利駅へ。歴史を感じさせる凝った駅名パネルです。駅から北西に数分の場所突き当りに鑁阿寺(ばんなじ)が見えてきました。でも、お寺に着く前、左側に注目。足利尊氏の像ご存知、室町幕府の初代将軍刀をさしています。鑁阿寺(ばんなじ)の山門に着。平安時代後期、源義家の四男・源義国と、孫・源義康(後の足利義康)が堀と土塁がある館を築く。源義康(足利義康)が足利氏の初代。(義国の兄・義忠のひ孫が源頼朝)鎌倉時代、義康の子・
徳川家康公小山評定の地。須賀神社をお参りしました!!一の鳥居と参道。須賀神社は栃木県小山市に鎮座。御祭神は、素戔嗚尊、大己貴命、誉田別命。旧社格は郷社。徳川家康公小山評定の地である。随神門。拝殿にて参拝。お正月の準備。茅の輪?須賀神社須賀神社総合TOP千年の時を紡ぐ須賀神社/日本伝統の神前結婚式須賀神社会館ご婚礼、ご集会、ご宴会、各種記念日(七五三など)など多様にご利用いただけます。www.sugajinja.or.jp☆五月人形徳川家康コンパクト着用兜ケース
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は関ケ原の戦いの前に開かれた軍議小山評定の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は、10月31日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
不破関の近くに、関ヶ原の戦いで東軍に参加した福島正則の陣跡があります。福島正則安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。正則の母親は、秀吉の母の妹。三木城攻めで初陣。山崎の戦いで軍功あげる。賤ヶ岳の戦いで、一番槍をあげる。賤ヶ岳の七本槍。秀吉から、名槍日本号を拝領。小牧・長久手の戦い、四国征伐、小田原征伐に参加。秀吉の朝鮮出兵にも参加。石田三成と関係悪化。徳川家康の会津征伐に従軍。小山評定で、いち早く徳川に味方を表明。悩む豊臣恩顧の大名も、正則