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長戸7月の事なんだが、待ち合わせの為に音楽ホールのある施設の駐車場にいたら、バスから楽器持った学生が沢山降りてきてさ。千佳吹奏楽のコンクールでもあったんじゃないの?長戸だろうな。荀攸今年もコロナ禍の夏だったけど、高校生には悔いのないような夏であったのかなあ。それでは始めよう。荀攸1213年8月19日、日光山別当の“【大方与一】弁覚が申し出た。【武士の鑑】畠山重忠の末の子の【大夫阿闍理】重慶が謀反を考えているという密告だ。長戸畠山の残党の【大夫阿闍理】重慶は北条を恨んでいるだ
『鎌倉殿の13人』~後追いコラムその130第36回武士の鑑今回は、初登場長沼宗政(ながぬまむねまさ:清水伸)について(中央が長沼宗政:清水伸)彼の存在をご存知の方はいただろうか?かく言う私も、そんな人いたようないなかったような・・・という程度。お恥ずかしい。だが、高校日本史の教科書には絶対出てこない!番組HPによると、「下野の有力豪族である小山政光の息子で、結城朝光(高橋侃(なお):宗政の異母弟)の兄。気性が荒く、しばしば暴言を吐く。」と紹介されている。宗政の
注意●ネタバレあり◎大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第12回に登場する人物の予習次々に紹介される御家人についておさえておきます小山朝政〈中村敦〉小山朝政(おやまともまさ)誕生久寿2年(1155)?死没嘉禎4年3月30日(1238.5.15)僕が子供の頃「おやま、あれま、おやまゆうえんちー」てなTVコマーシャルが流行ってましたが(2005年閉園だって、知らなんだ汗)その遊園地のあった小山市現在栃木県で宇都宮市に次ぐ第2の都市「こやま」じゃなくて「おやま」ですなその
先日、インターネットTV“Will-BeStation”から生放送させて頂いた『歴史のお話』“建仁の乱”特集、御覧頂き、ありがとうございました。梶原景時のみならず、景時が世話をした人物が次々と討たれるその裏には…??★“鎌倉殿の13人”では、果たしてこの事件は描かれるのか??見逃したというアナタ!こちらから録画を御覧下さい!↓↓↓https://youtu.be/1kVTKOB43vY歴史のお話~第118回「建仁の乱」~主演文化歴
千佳来る前に散歩してきたから喉渇いちゃった。長戸冷蔵庫にペットボトルの麦茶なら入ってるぞ。俺さっきもらったから。千佳そしたら、私ももらおうかな。荀攸自然を楽しむには絶好のシーズンだね。それでは始めよう。千佳1205年閏7月までの京都での動きを見ていました。荀攸今回は幕府に戻るよ。1205年閏7月29日、伊予はそれまで【藤戸】佐々木盛綱の管轄だったのだが、【土器使用】河野通信が御家人を管理するよう指示が出た。長戸【土器使用】通信は土着の武士だよな。関東御家人から土着御家人
源頼朝が月食を理由に御家人宅へ避難した話いつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!本日26日は、皆既月食が起こります。18:00ごろから始まるらしいです。ホロスコープ上は、射手座満月となり、よくも悪くも絶大なパワーがふりそそぐでしょう。スーパームーンでもありますし、地震など自然災害も要注意です。昔の人の日記や物語には、必ずといってよいほど天体現象が登場しま
千佳花粉症にはつらい季節なのよね。長戸せっかく暖かくなってきても、それはつらいよなあ。千佳いらない杉全部切って広葉樹を植えればいいのよ。長戸それは正論のようで暴論、暴論のようで正論だなあ。荀攸物事は取り方次第という事だね。それでは始めよう。千佳1204年、三日平氏の乱が終結しました。荀攸【上げ坂】員弁行綱が赦免された5月8日から話を始めよう。この日、朝廷を通じて届いた諸国の国司からの訴えに対応するべく地頭達に命令を出した。千佳と言いますと?荀攸単純にいえば、税の
長戸疲れた・・・今日は。千佳どうしたのこのスタート。長戸いや、今日してきた仕事がな・・・荀攸そういう日もある、と理解してそれでは始めよう。1203年11月10日、【六権八略】三浦義村が修禅寺から帰ってきた。千佳【子供好き】源頼家さんのところに行ってたんですよね。荀攸【六権八略】義村の話を聞いて【夫婦別姓】北条政子は悲嘆にくれたという。長戸悲嘆にくれた?【子供好き】頼家がこのような事態になったのは【夫婦別姓】政子のせいでもあるじゃないか。千佳『愚管抄』じゃ【夫婦別姓】
野木神社は、1183年(寿永2年)、志田義広が源頼朝に対して反乱を起こした際、小山朝政が陣を張った所(野木宮合戦)。野木神社☆☆☆☆☆2022年の大河は北条義時
千佳アシスタントの香月千佳です。長戸ツッコミ担当の筈がただの便利屋、長戸顕治です。とまあ、今回は久しぶりに自己紹介で始めた訳だが。千佳たまにはいいよね。気持ちもリフレッシュされて。長戸そうだな。荀攸進行役の荀攸です。気持ちはリフレッシュされたけど内容は前回の続きから。千佳【32文ロケット砲】城長茂さんが京都で【新島守】後鳥羽上皇の院宣を求めるも、【新島守】後鳥羽上皇は発行しませんでした。荀攸【32文ロケット砲】長茂は逃亡した。長戸このあたり、【朝日将軍】木曽義仲とは
荀攸今日は膝の調子が悪くて・・・千佳大丈夫ですか?長戸太りすぎだろ。荀攸否定はできない。千佳もっと節制しないとダメですよ。荀攸節制しろと言われても、じゃあ俺のストレスどうなんの?という訳で気にせずやっていこう。1200年12月27日、【無二の忠節】渋谷高重と【本領相続】土肥惟平が帰還した。千佳【伊吹の凶賊】柏原弥三郎さん討伐はどうなりました?荀攸それが、【無二の忠節】高重が京都に着く前に、【廣徳寺】水尾谷廣徳が攻めたんだが、【伊吹の凶賊】(弥三郎)為永は逃亡したんだ
千佳アシスタントの香月千佳です。長戸ツッコミ兼(千佳に)どつかれ役の長戸顕治です。千佳え、何て言ったの?よく聞こえなかったけど。長戸(無視して)さて、『私見頼朝政権』もついに100回目。話が途中だろうがなんだろうが、次回からタイトルが変わります!荀攸進行役の荀攸です。長戸君、「話は途中だろうがなんだろうが」は余計だ。長戸すいません。荀攸まあ、実際『私見武士の世に』から『私見鎌倉幕府』に変わった時はおもいっきり話の途中だったが。千佳肯定してどうするんです(笑)荀攸
千佳どうしたの?スマホの画面見て溜め息なんてついちゃって?長戸ゲームの世界はバトルとかあっても平和だな、と思ってな。千佳確かに、世界中を機能不全に追い落とす様な疫病はないわね。長戸そういう事。荀攸だからこそ、ここは元気にいこう。という事でスタートだ。1200年2月6日の話を続けよう。千佳【武士の鑑】畠山重忠さんが賞賛されたんでしたよね。荀攸その後、雑談となり【無二の忠節】渋谷高重が、「【行政官】梶原景時は館の近くの橋を落として立て籠って多少でも持ちこたえればいいのに、何
千佳今日は道が凄く混んでいたけど?長戸そりゃそうだろ。新しく社会人になった人達の通勤だよ。慣れてないから慎重じゃないか。千佳そうなんだ。長戸まだ学生の千佳には、4月1日が節目って意識あまりないだろうけどな。荀攸社会は節目だが、このブログは節目前の大詰め。という訳で始めようか。前回の続きからだよ。千佳【行政官】梶原景時さんが弾劾され失職、相模の寒川に籠ったんですよね。荀攸【行政官】景時が失ったものとして播磨の守護がある。長戸確か一ノ谷の戦いの後、【落馬】源頼朝から播磨
千佳あ、ビリヤード台!荀攸多分兄貴が使っていた奴だと思う。片付けしてたら出てきた。千佳終わったらやってもいいですか?荀攸いいよ。長戸そしたら俺と対戦しようぜ。荀攸楽しみは後にとっておいて、早速始めよう。1195年7月14日に【落馬】源頼朝は勝長寿院を、15日には永福寺を参拝している。千佳お盆だからですか?荀攸たぶんね。そして話は変わって16日だ。武蔵の国務について【一門の首座】平賀義信の評判がものすごくよかった。という事で【落馬】頼朝は【一門の首座】義信を誉める
千佳こんにちはー、って反応がない。今回はお昼過ぎに集合って話だったのに・・・(奥に入る)・・・反応ない訳だ。長戸ういーす。あれっ、先生は?千佳寝てる・・・長戸本当かよ・・・しょうがない、待つか・・・(そのうち2人とも寝る)荀攸ああ、よく寝た。お、こんな時間か。・・・何、寝てるのか、全くしょうがないなあ。長戸あんたが先寝てたんだろ。荀攸1190年11月22日は雪となった。六波羅に【廉直な貞臣】吉田経房が院宣を持ってきた。【落馬】源頼朝を大将に任じるというものだった。【
「【父太郎】藤原国衡は私の矢に当たって首を取られる事になったのだから【武士の鑑】畠山重忠殿の手柄ではない」と【単純愚直】和田義盛が言うと【武士の鑑】重忠は笑って「大法螺を。殺したという証拠は?首はこの通り【武士の鑑】重忠が持ってきている以上、疑いようはないだろう」と返した。【単純愚直】義盛は「首についてはその通りだ。ただ、【父太郎】国衡の鎧を剥ぎ取ったはずだ。それをここに持ってきて真偽を確かめよう」と言い、さらに【父太郎】国衡の鎧の特徴や、どの部位に当たったのかを説明した。そこで【父
この解釈の違いについて、私は後者が正しいと思っている。前者の場合だと、【天下の恥】城長茂は【落馬】源頼朝がせっかく許可したものを断った事になる。ただ不敬を働いた話になる。これが後者だと、【天下の恥】長茂は囚人という立場を考え、自らの旗印の使用を控えようという事で【落馬】頼朝の旗印の借用を求めた事になる。勿論【落馬】頼朝の旗印に恥じない活躍を期しての事であろう。そこで【落馬】頼朝は【天下の恥】長茂に自らの旗印の使用を認めたという事になる。こうなれば【天下の恥】長茂は御家人として認められた事になる
とまあ、もっともらしい分析を書いてはみたが、それが正しいかどうかなんて【落馬】源頼朝には関係がない。とにかく奥州征伐の大義名分が成り立てばよいのである。また、関東の御家人の中には【八幡太郎】源義家に従い後三年の役を戦った先祖を持つ者もいただろう。実際に【平泉開祖】藤原清衡が【八幡太郎】義家の助力があって奥州の覇者となれた訳だから、関東の御家人達も考えなしに納得しそうである。それ以上に御家人の心中に恩賞の事がありそうな気がしてならない。幕府の中枢をなす御家人達は平家との合戦においては【蒲冠者】
前回まではこちら⬇️目次諸行無常の世の中…我は北条泰時(ほうじょうやすとき)が妹、竹子(たけこ)です。泰時が伊豆から帰ってきた頃、一大事が起きました。それを発したのは我が父、義時(よしとき)でした。義時「宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)は此度の北条時政(ほうじょうときまさ)の謀反に加担した疑いがある!」宇都宮頼綱頼綱さんは下野宇都宮氏の5代目で妻が時政さんの娘だったんだよね。義時は大江広元(おおえのひろもと)、安達景盛(あだちかげもり)らと協議しました。その席に同じ下野の小山