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グーグルマップに設定していた目的地、実は橋を渡った向こう側だったのですが、橋の手前の桜並木も素晴らしかったので、こちらで撮ることにしたのです。最近、膝も痛いし笑ここらで桜並木が途切れました。折返し。桜越しの少年野球、というシチュエーションが気に入ったので、復路でももう一枚。奥に見える建物が小山市役所です。右に見えるのは小山政光・寒川尼像。小山政光は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人で、小山氏の祖となった方。寒川尼は源頼朝の
昨日3日(金)は、市役所新庁舎の外構工事(駐車場整備)の状況確認を行ないました。思川を望む堤防に立つ石像。後ろに見える建物が市役所新庁舎。※寒川尼は源頼朝の乳母(めのと)も務めた女性。小山氏が活躍した野木宮合戦では、寒川尼も功績がたたえられ、地頭に任ぜられた。(小山市ホームページより)小山市役所は、令和3年5月に新庁舎が完成し開庁しましたが、その後旧庁舎の解体工事が行なわれ、
小山政光・寒川尼像(小山市)結城朝光は、源頼朝の乳母を務めた寒川尼(寒河尼)が産んだ子。頼朝から「朝」の字を与えられるほどに可愛がられました・・・。そこで生まれるのが御落胤説。一説によると・・・頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されていたときに寒川尼が懐妊(尼の娘とも)。平家から追討されてしまうことを案じた頼朝は小山で出産させ、小山政光の四男として育てさせたのだとか。信憑性はありませんが、結城氏は伝統的に源氏を称し、代々の当主は「朝」を通字(とおりじ)として用いています。参考までに、徳
小谷城(こやじょう)は小山市下生井地区にありました河川改修により思川の流路が変わり沼となってしまった旧思川の右岸に築かれた城です中世の頃には思川、巴波川に挟まれる自然堤防上に構えられ周囲は低湿地帯となります城跡の西南の赤麻草原は古代の朱門牧があったと推定され小谷城は馬牧の管理者の館にはじまると考察されています保元元年(1120)に藤原秀郷の末裔・小谷俊景が城主でありました後に久安4年(1148)に藤岡の太田から小山に進出した同族である小山氏に攻められ小山政光の城となりますその
2021.10.28「開運のまちおやま」小山市のマンホール小山御殿跡、小山市の市役所の裏思川のほとりの立つという小山政光・寒川尼像を訪ねました◆小山政光寒川尼像◆下野国小山荘を本拠とした小山政光と、源頼朝の乳母を務め政光の後妻となった寒川尼(さんがわに)の像小山政光はもとは武州太田荘の領主で太田四郎政光を名乗っていましたが、領地替えで小山に移ってきました。寒川尼は源頼朝の乳母を務め、その後地頭職に任じられたことでも有名。このお二人がデザ
こんにちは。今この時も新型コロナウイルスと戦う医療従事者のみなさん、関係者のみなさんに敬意を表します。さて、話は変わって・・・少し前に、茨城県筑西市のお隣・結城市の西の宮にある住吉神社についてお伝えしたところですが、その日他にも訪れた場所があるので、ご紹します。それはこちら、慈眼院結城家御廟↓結城家はもともと、筑西市に存在した下館城の城主・水谷(みずのや)氏の主君であり、目上の同盟者にあたる家です。写真では解りにくいですが、先にご紹介した結城政勝公御影堂と同じく結城百景に選ばれていて
その名も思川(おもいがわ)。栃木県小山市の思川沿いです。遠くに雪を被った日光連山を望みます。この石像は?小山政光・寒川尼像です。この二人が指さすのは60キロ先にある思川の水源だそうで。二人は800年ほど前ほど前の人物で、夫婦です。寒川尼は源頼朝の乳母だったとか。八重桜の花の並木が美しい川沿いの道です。
千佳残念だったですね。選抜高校野球が中止になって。長戸せっかく甲子園近郊でホテルが取れたって喜んでいたのにな。千佳仕方ないですけどね。長戸逆に俺達は『観戦記』等の休みがぶっ飛んだけどな(笑)荀攸長戸君、傷口に塩を塗る真似ありがとう(怒)それでは始めようか。長戸冗談ですよ冗談。千佳(長戸を無視して)【行政官】梶原景時が【乳母子】結城朝光さんを讒言したと【夢を売却】阿波局さんから【乳母子】朝光さんに情報が入って、【乳母子】朝光さんは【六権八略】三浦義村さんに相談をしたところ
こんにちは。新型コロナウイルス、遂にここ茨城県でも発症者が出てしまいました。またまだ収束は遠いようです。さて先日、所要で茨城県筑西市のお隣、結城市役所近くまで行く機会があったので、ついでに記事にさせていただきます↓結城市は平成26年、隣接地する栃木県小山市と友好都市になりました↓更に結城市は、小山市、下野市、野木町との3市1町で構成する、小山地区定住自立圏の一員にもなっています。同自立圏は、平成27年に中心都市宣言をした小山市を中心に、それぞれの自治体が相互に協定を結び、一体的に地域活
Hi(*^^*)実は私の家系は昔、栃木県小山市にあった日本の城🏯🇯🇵小山城です小山城出身の姫👸蓮見友香です〜母の旧姓が小山で、母方の家系が国の史跡に指定されている小山城の出なの築城主の小山政光は、私の祖先になるんだ立派な祖先様だよ私は幼い頃から、お城🏯の話しを聞いて「友香は昔だったらお姫さまだったんだよ👸」と言われて育ったの母も昔で言うと、姫の身分なのでちょっとわがままなところがあるんだよね私も、弟がいるけど一人娘で甘やかされて育ったと、たまに思われるほどわ
千佳「私見鎌倉幕府58」まできました。もうすぐ追いつきます。長戸今回が鍵だな。301【父が恩人】任憲(父親が頼朝の恩人だったので命名)302【落胤】大友能直(頼朝の落胤と言う話があるので命名)長戸しつこいようだが、落胤なぞいたら北条政子が黙っていないので違うだろう。303【巨勢】難波頼経(かつて私の知り合いに難波姓で岡山県高梁市巨勢地区出身のものがいたので命名)千佳先生(荀攸)、なんか遠く見てますよ。長戸若い頃思い出したんだろ。304【義兄弟?】八
小山市観光・小山城址公園小山駅西口から徒歩10分程のところにあります。1619年に本多正純が宇都宮に移封されてから廃城になったため城郭はありませんが、土塁や空堀はしっかり残っていて、状態が良かったです。公園から見える思川や町並からもし城が現存していたらこんな景色が見えるかもしれないということがなんとなく想像できて、それも面白かったですね。駅からまっすぐに城山公園まで行って、川沿いに小山政光・寒川尼像をみてから市役所の駐車場を通って評定跡、須賀神社を参拝し、参道を通ってまた駅から戻ってくる
この解釈の違いについて、私は後者が正しいと思っている。前者の場合だと、【天下の恥】城長茂は【落馬】源頼朝がせっかく許可したものを断った事になる。ただ不敬を働いた話になる。これが後者だと、【天下の恥】長茂は囚人という立場を考え、自らの旗印の使用を控えようという事で【落馬】頼朝の旗印の借用を求めた事になる。勿論【落馬】頼朝の旗印に恥じない活躍を期しての事であろう。そこで【落馬】頼朝は【天下の恥】長茂に自らの旗印の使用を認めたという事になる。こうなれば【天下の恥】長茂は御家人として認められた事になる
将門神社まわりも土塁跡あり攻城団平均評価:3.53(60位);見学時間:1時間31分(56位);攻城人数:58人(217位).撮影日:非公開;撮影者:UMA1001.分類:土塁・石垣...新城で「ジオから見る戦国の舞台」展東愛知新聞社長篠城(新城市)から吉田城(豊橋市)の豊川(とよがわ)中流から下流部までは、階段状の段丘地形に築かれたものが多いと地図とともに示し、牛久保城(豊川市)...静かな夜闇夜に溶ける烏城全国一斉にライトダウン山陽新聞(会員登録
国指定史跡・小山氏城跡小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。本丸東側土塁。小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱では、小山方
開運の街小山ずっと歩いてきた4号線を離れ小山市街へ日本橋からの4号線の距離は75km安房神社平安時代の記録に残る古い神社東海道歩きの瀬田大橋で見かけた大ムカデを退治した藤原秀郷が平将門(首塚の祟りでお馴染み)と戦ったときに祈願したそうです伝承に祟りとレジェンドな神社です…長い長い参道を歩いていると空からポツリポツリときた(;・∀・)…え?天気予報では言ってなかった雨に慌てるカッパも傘も用意していない三重県関宿の雨天で足を痛めたカミサンのご機嫌がどんどん低気圧
こんにちは、みなさんお元気ですか?さて、前回記事の女方本田前遺跡に続いて、茨城県筑西市の歴史・文化財を紹介します。これがそちら、市内村田にある鎌倉時代建立の石造五輪塔(茨城県指定文化財・工芸品)です↓この五輪塔は、三所神社東の墓地の中にあり、現在の場所に移る以前は、三所神社境内の西北にあった神宮寺に建立されていて、明治初年に移されたそうです。なお、このような形の石碑を一般に「五輪塔」と呼びます。五輪塔とは、万物が空・風・火・水・地の五つの要素から成り立っているという密教の世界観を形にし