ブログ記事10件
1980年代のF1世界選手権で使用されたマシンのボディにはアンダーフロアの部分に金属のプレートが取りつけられていて、路面と接触するたびに火花が出ていた。金属と路面という硬いもの同士が接触し合うことで火花が出ていた。火花を「強い対立」という意味での「火花を散らす」という火花と捉えるとこれからの時代はそういった「硬いもの同士」による実弾を伴わないという意味での争い、例えば論争などが日本で当たり前になりそうだ。そうなるとそれらの間をつなげたり取り持ったりする論理は「日和見主義的である」としてボディ
一切の責任を放棄し、己の悟りのために修行することを小乗と言います。皆さんもよく知っているお釈迦様、イエス・キリストも小乗の行から修行を完成させたと言われています。小乗の行を続けるためには世俗世間との関わりを断ち、修行の邪魔になるもの全てを遠ざける必要があります。日本でも有名な僧侶の方々が人里離れた場所にお寺を建立し、修行に明け暮れたのもそのためです。今でも小乗の行で悟りを目指す方がいるそうですが、現代は気になることが多すぎます。加えてスマートフォンなどで簡単に情報が得られるため、世俗世
島崎藤村の「破戒」とは…⁉島崎藤村が書いた「破戒」という小説があります。題名だけは聞いたことがあるという人も、全く知らないという人もいるでしょう。簡単にあらすじを振り返ってみます。"明治の終わり、長野県での話です。生き物をとさつしたり皮をはいだりする職業は、昔から汚らわしい職業だと考えられ一般の人々とは交流がありませんでした。士・農・工・商の身分制度があった時代の一般社会に属さない人々とされており、穢多(えた)呼ばれていました。そんな家庭に生まれたのが瀬川丑松という主人公です。丑松は父か
『3分朗読』、声のブログの3分という特徴を活かして、「青空文庫」の名作から抜粋部分を読ませていただきました。道は暗い杉の密林の中をどこまでもつづいた。千枝子と定雄は中に清を挟で、固そうな雪の上を選びながら渡っていった。ひやりと肌寒い空気の頬にあたって来る中で、鶯がしきりに羽音を立てて鳴いていた。定雄は歩きながらも、伝教大師が都に近いこの地に本拠を定めて高野山の弘法と対立したのは、伝教の負けだとふと思った。これでは京にあまり近すぎるので、善かれ悪かれ、京都の影響が響きすぎて
こんにちは。解伝師の慈親ですマスコミとそれを真に受けている人々。コメンテーターもインタビューされてコメントしている日本人も、ここまで小乗になってしまったのかと嘆かわしくあり心配でもあります。小乗というのは目先の愛や優しさのことです。大きい部分から物事を見ないために小乗になってしまいます。小乗は優しく見えたり愛に見えますが「小乗は大悪に似たり」と言います。一見、優しく見えて本当は悪に繋がっていくのが小乗なわけです。長い目で見て、広い視野で物事を見たときにいま、何が大切
オリーブを使った料理、作ったことある?日本人に限らず、みなさんは、小乗になってしまったのかも?知れません^_^ね。▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう
やっと久々にノートに向かいあうことが出来た。拝読も出来た。ゆっくり眠ることもできた。本当に有難い。当たり前に出来ていることがどれほど有難いかということを身に染みるような場面に出くわす事もなく常に感謝しながら生きていく姿勢でありたい。やはり自分の外側に起きる問題がどうのこうのというよりも自分の内側の安心感が無くなり不安に踊らされ過去と未来に気持ちを置き「今」を喜びに満たして生きることが無くなる。このことが本当に恐ろしいのだと実感した。心を亡くす
ヒーラーの下元です。昨日はずっと病んでる現場をクリーンにしてました。結界張りまくって(もう何個作ったことか・・・その現場だけで100は行ってますね)スーパーバリアゾーンからターゲットをヒーリングしまくるわけです。結界張り終えるまで正直しんどいです。どんどん自分が病み堕ちのベクトルへ引っ張られるのが分かります。病んでる現場って凄いんですよ。こういうのをエソリテックな感覚、密教的感覚って言いますが、本当は皆さんも感じてらっしゃるはずです、普段から。ただ、それを意識に上げる習慣がない、い
その人を目覚めさせるために、仏は、小乗の教えを求めるの者は程度が低い、といって叱ったが、それは...........◎大を楽(ねが)う心声聞たちが精進努力して求めた悟りは人生の苦しみ、人間の欲望を除き去ることが目的であった。それは、小乗(自分の為だけの悟り)の悟りであった。仏はまず、小乗の教えで良いと考えられて、方便の教えである小乗の教えで良いと言われたのであった。四人の声聞たちは仏がその智慧をお説きになられても、自分たちはこれで良いと考えて大乗の教えを求める志をたてなかっ
慈悲は、仏教で重要視される観念です。「慈」とは、他者に利益や安楽を与えようとすること、「悲」とは、他者が不利益を被ったり、思い通りに生きられずに苦しんでいれば、それを除こうとすることです。この慈悲は、しばしば母親の子供に対する愛情に喩えられます。子供のためであれば、親はいろいろなものを与え、子供が苦しんでいれば救いの手を差し伸べ、自らが犠牲になることも厭わないように。しかしながら、仏教の慈悲と母親の愛情とでは大きく異なる点があります。母親の愛情は、自らの子供に対し
いやあ、なんだかいいですね普段素人目線ではありますが、堅苦しい政治の話ばかり書いてます。。時にはこういう心の話題にも触れなくちゃイカン(イカン)ですよね。あ、申し送れました私、喪黒福造と申します。人呼んで”笑うセールスマン”。また、ある人は”南海の黒豹”(レイ・セフォー)と呼びます。さて、心の話題ですが、いま僕達の社会には心に問題を抱えてる人が非常に多いと思うのです。というか、多分現代だけに限ったことじゃなく、