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2026/4/18東部写真俱楽部にてみやぎ明治村での撮影会がありました広角レンズの勉強会で基本広角での撮影にトライしました先ずは武家屋敷です白壁の塀中庭への門と敷石リンドウと屋敷ここまでが18mmでの撮影ですAPS-Cです枝垂桜200mm花と門46mm葉桜と屋敷65mm尋常小学校ここはすべて広角18mmです正門と校舎松と校舎校舎ディテール
復元の建物は中に入ることができそれぞれに楽しめる展示があった旧府中町役場庁舎1921年(大正10)に竣工した町役場。洋風建築だが、裏には和風建築が付属。東京都指定有形文化財。写真は無いが2階には広いホール?のような広い部屋旧府中郵便取扱所(旧矢島家住宅)明治初年、府中で最初に郵便取扱所となった旧矢島家住宅。旧河内家住宅浅間山近くの人見街道沿いにあった茅葺き農家。創建は江戸後期だが、養蚕が盛んに行われた
https://www.instagram.com/reel/DUtTaZIDZ5l/?igsh=MW5hM2pwZWxzbjdoMA==Tom&LaurenonInstagram:"🚨BIOWEAPONSMADETOKILL?!Aluminium,grapheneoxide,mercury,formaldehyde,foreignDNA,andMSGarejustsomeoftheincrediblytoxiccompoundsadded
2月2日の京繍体験の場所は、学校歴史博物館でした。ワークショップの前に、博物館の展示を見て回りました。両親の小学生時代はかくやと思い、タイムスリップした感じになりました。昭和初期の尋常小学校修身書は、こう読めます。私タチハ日本ノ子供デス小サイケレドモミンナ日本ノ国民デス小さい国民だった父も、16歳で志願兵になるのです。その後、昭和40年代後半の教室をイメージした展示室を見て、懐かしさがこみあげました。昭和45-46年の給食の展示もありました。この後少し
https://youtu.be/cIMWsvCrF7I?si=Xp2Vq78pI_HuEhcP-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.beAIモードすべて画像動画ニュースショッピングショート動画書籍ウェブ地図フライト金融検索ツールフィードバックこれらの検索結果は、ユーザーの興味や関心に合わせて表示されるものではありません。詳細画像
前回のお話『神座ってさー和食やからダイエット食やんな?』前回のお話『神戸農業公園のさつまいもマラソンで手に入れたさつまいも』前回のお話『三男キャロウェイエリートデビューやからレディースティーで打つ』…ameblo.jpこのお話の続きです『明石城跡を散歩したら明石公園の方から講義してもらえたー!』前回のお話『目に入った記事で次男の担任を思い出して怒りがフツフツと‥‥』前回のお話『明石焼きって言うん、最近やわ小さい頃は玉子焼きってゆうてた…ameblo.jp阪神尼崎
国立映画アーカイブが、1932年に制作された『學校敎科フイルム京城だより』を公開している。解説にあるように、この映画は、『尋常小学国語読本巻十』の「京城の友から」と『尋常小学読本巻十二』の「京城の伯母より」の内容に準拠した教材として制作されたものである。上掲の広島大学図書館の「教科書コレクション」へのリンクでは、それぞれ39〜42ページが「第十三京城の友から」、27〜30ページが「第十一課京城の伯母より」である。正面が商業銀行(現:Kファイナンスタワー
こんばんは🤗ある日のリハビリウォーキング中、上関街道沿いに変わった門柱をみつけましたよ(´-`).。oOこの広い門柱の間隔は民家ではありませんね((o(´∀`)o))ワクワク✨門柱には…………………………草が纏わりついてみつける事は厳しいかも(;´д`)トホホ……………………………💦お!おお!これは!と草かき分けると山口県熊毛郡平生町立尾国小学校の表示が道路と反対側にありましたよ(人´∀`).☆.。.:*・゚✨✨✨この石垣も当時のままなのでしようか🤔石垣の端に石碑が((o
こんばんは🤗寝る前にもうひとネタ(≧∇≦)ノ💞💞第二次世界大戦時の疎開先に紛れてこんだ非国民がもし正常だったら(//∇//)💞💞💞この少年のように周りを洗脳してしまえば、あんな悲劇は起こらなかったのに(´・ω・`)ショボーン
戦後80年、戦死者、戦争犠牲者に対して、私が出来ることを考えたら、今、目の前にいる方々を、心をもって大切にすることだと想っています。勤務先の施設に入所、利用されている方々は、昭和10年代の生まれが1番多いです。昭和10年代は、戦時中なら、尋常小学校に通っていた世代が多くなります。戦死された方が、戦争犠牲者の方が、最期まで心に残っていた想いの1つは、我が子のことだと思います。残してきた子どもたちが、昭和、平成、令和と駆け抜けて、高齢者と言われる立場になっても、やはり亡く
私の父親は、尋常小学校しか出ていなくて、生涯に一冊の書籍も読んだことのない、新聞は競馬新聞しか読まない、無知、無学、無教養の極みのような人でしたが、本人は情報通を自認していて、会社の裏を全部知っているから俺はいつでも会社ゴロになれる、政治家の弱みを全部知っているから俺はいつでも後ろからネジを巻いて政治家を操れると豪語している人でした。党員は、党から結構な給料をもらっていながら働かないからダメだ、党員が給料分だけ働いていれば社会党や共産党は政権が取れていると言っていました。デモや座り込み
だうも、おちゅかれマンモス!某・伊豆というか伊東市ですか?そこの市長、学歴の件で、盛り上がっているというか、炎上しているというか、この後どうするんでしょう?っていうカンジ。識者、一般の人等、いろんな人がコメントしているけど、卒業か除籍を勘違いっていうのはあるんですかねえ。中退か除籍かが分からないっていうのなら理解できますけどね。ただ、これまた政治家に多いけど、卒業してないのに、どこそこの大学を卒業っていうことにしている人が、意外と居ますよね。その結果、バレて辞職ってことにな
郷土の森博物館に来ています。博物館という名前なので、一つの建物の中に展示物が並んでいるようなイメージを抱くかと思いますが、ここは森の中に屋外展示されている建物も含めた博物館です。犬山市(愛知県)にある明治村と同じような感じですね(行ったことないので行きたい)。広さは東京ドーム3個分の14ha(14万㎡)あります。まず最初は、復元された旧府中尋常高等小学校を見学します。尋常高等小学校とは、今で言うと小中一貫校ってことですね。昭和16年(1941)の国民学校令公布までは、今の小学校課
女学校もう少し・・少し後戻りしますが、母の卒業したという女学校のこと、もう少し調べてみました。---女学校誕生1886年(明治19年)2月18日-東京師範学校女子部より附属高等女学校が分離し、「高等女学校」として独立(同年6月19日に東京高等女学校と改称)。4月10日-中学校令(明治19年勅令第15号)が公布されるが、女子の中等教育に関する規定はなかった。1891年(明治24年)12月14日-中学校令の一部改正(明治24年勅令第243号)第14条に女子中等教育の規定が
#今日の朝ドラ>祭りの後。仲良し3姉妹と切磋琢磨もある兄弟が描かれていて、青春だなぁと感じました。屋村に出会ってしまったことで、せっかくの「10円」のうちのいくらかは、朝田姉妹や屋村への「おごり」になってしまいましたね。もちろん、屋村に言われなくても、嵩は「みんなが幸せになることに使おう」としたでしょうが、屋村が嵩へ「かぶりついていた」ので「なんだかなぁ」と思ってしまいました。(嵩はちゃんと、お世話になった人たちにお金を遣いますよ)[あんぱん感想]㈭
昔々、小学校は尋常小学校という名称だった。なぜ尋常かというと、4年生までが義務教育でその上には高等小学校があったから。1886年から1941年3月まで存在した。興味がある方はウィキピーディアをどうぞ。私の父方の祖母は鹿児島の武士の娘、明治生まれだから、父親が武士から平民になってどんな生業で生計を立てていたのか知らないが(父から聞いたかもしれないが記憶にない)、恵まれたうちであった。おんば日傘(乳母日傘)と言って、可愛がられ専用の乳母が付いていた。我儘に育ったのか、変わりものの
わずかな坂も辛い中こちら素敵な建物が西郷従道館西郷隆盛の弟さんち。弟さんも大臣やってたそうです。そんな海外からのお客様が多いためかご自宅が洋館。上目黒から移築されたのが昭和39年。明治13年築。個人宅とは思えない広い大きな御邸宅ですね。ベランダ、バルコニーが素晴らしいです。こちらは見学ツアーなくても室内見学できました。やはり家具とかあると雰囲気伝わりますよね。内部の装飾品はほぼ外国製だそうでこれだけでも価値のあるアンティークですよね。可愛らしい黄色いダイニングチェア。こんな素敵な
この一丁目は正門の近く。最初はここからだと思っていたのですが駐車場の方からきたら反対で一番奥になりましたここには見どころが沢山あるのですが本当足が限界でなかなか見れませんでした。必死に見た建物はそれだけの価値ありです。最初はこちら三重県庁舎。明治9年に建てられた洋風県庁舎は昭和33年まで実際に県庁舎として使われていた木造建築です。ファザードに気品があります。大きくてよく見ると繊細な細工があります。この屋根の下の格子が綺麗です。柱と窓の形がレトロです。足が痛くてわたしは階段もギブ
『卒業の歌』一、うれしうれしやうれしやな人の子供のおしなべてふむを御國(みくに)のおきてなる学びの道の六年(むとせ)をば卒(お)えし今日こそうれしけれ柳桜(やなぎさくら)の春にほふ錦をそへて野も山も二、うれしうれしやうれしやないろはのいをもわきまえぬ身のいつしかに積(つみ)得たる西も東も知らざりし身のいつしかに分き得たる世の人並の文字の数世の人並みの道の筋三、うれしうれしやうれしやな六年(むとせ)の月日手を取りて教へ
前回の記事で「白井市域では学校の統廃合問題(どの場所に統合後の学校を設置すべきか)は行政上の難問だったようです。」と書きましたので、今回はこの件について紹介します。白井市郷土資料館発行の『白井のあゆみ』には「白井の学校」という項目が設けられ、学制の公布に基いて各村単位で学校が設立された明治時代初期から、大正、昭和、そしてこの冊子が刊行された平成17(2005)年までにおける白井市域にある小・中学校の統廃合等の変遷が詳細に書かれています。各村単位に設置された小学校が、自治体の分合と共に
令和7(2025)年1月現在、白井市域には小学校が9校あります。この9校のうち、7校は千葉ニュータウンの街開き等、昭和50年代以降に新たに開校した学校です。それ以前、昭和10(1935)年から昭和50年頃までの約40年間は白井第一小学校と白井第二小学校の2校時代が続いていました。なお、その2校には各々分校が1つずつあり、白井第一小学校には東分校が、白井第二小学校には平塚分校がありました。明治5(1872)年、政府による学制という教育制度に係る法令が制定されると、江戸時代の寺子屋に代わっ
十三オ正月「オトウサンモウイクツネタラオ正月デスカ」「モウ五ツネレバオ正月デスオ正月ノオカザリニハドンナコトヲシマスカ」「カドマツヲタテマス」「ソレカラ」「シメヲハリマス」「ソレカラ」「オソナへノモチモカザリマス」「オ正月カ゚クルトオマへハイクツ二ナリマスカ」「九ツ二ナリマス」「オ年ダマニハナニヲアゲマセウ」これが大正六年の小学二年の国語の教科書です。お年玉に何をあげま
単純な話ですが人口と経済は密接な関係にあります。商店の起源は外で働く人たち(主に農業)のためにできたそうです。ですからはじめは行商のような形だったでしょう。それが売れる量が増えるにつれ、店を構えるようになりました。そして昔は労働力としても子どもをたくさん産んでいました。長男は跡取りになるために、あえて上の学校には行かせてもらえませんでした。その代わりに親の財産を引き継ぎ、本家と両親を守っていたのです。そして他の兄弟は外で働くため、上の学校にも行くようになりました。上の学校というのも変な表現で
「二十四の瞳」映画村。映画の舞台に行きました。うわー、いいいいじゃんー玄関出たら海って!マジでサイコーこの分校はコピーらしく、本当の分校は歩いて5分のところにありました。てくてく歩くと、着きました。ノスタルジーノスタルジーーー目の前のお店に入ったら、尋常小学校の書写の教科書。これ、小学生の書写?!すげー。レベルたけー。修養の教科書もありました。「よい日本人」について説いてます。すげー。レベルたけーー。
岡山県真庭市にある旧遷喬尋常小学校に行きました。国指定重要文化財旧遷喬尋常小学校旧遷喬尋常小学校は明治40年建築のシンメトリー木造校舎。国指定重要文化財。kuse-espace.jpこの日は備中松山城に行くのがメインで、その途中で何か観光するところはないかと、googlemapを見ていてたまたま見つけたところ。でも、あまりに暑いので、この日の朝、急遽、備中松山城に行くのをやめました。山城なのでかなり歩くのではないかと思って。そうなると真庭市にわざわざ行く必要がないので、旧遷
全18作、初期の短編集。略全てが『白樺』に発表されたもの。●『清兵衛と瓢箪』12歳の男の子「清兵衛」は瓢箪に夢中。子供ながらに優れた鑑識眼を持ち、家でも授業中でも常に瓢箪を磨いているオタクであり、職人肌であり、集中力が半端ない子供である。これを大人が邪魔をする。父親は殴りつけ、教師は瓢箪を取り上げる。1913(大正2)年、読売新聞に掲載された由。家父長制、そして教師は、現在からは考えられない程、理不尽。清兵衛の父親は大工であるから、尋常小学校を終えれば、恐らく父親の元で修業
親父は、明治34年宮城県北部の菓子店の次男に産まれる。尋常小学校を卒業して、仙台の商店に就職。途中で退職して上京、専修大学附属商業学校入学した。大正12年9月1日の関東大震災に会い、道半ばで断念。仙台の実家に帰った。仙台貯金局に職を得た。大正13年、母親から勧められて結婚した。僕の産まれた町に菓子店を開業した。親父の実家が菓子店。店の手伝いで菓子作りが出来たらしい。やがて、店を駅前に転進して、大正13年には、長男。昭和17年までに7人の子供が生まれた。
昭和14年。町の「岩沼尋常高等小学校」の尋常科第一学年に入学した。大きな学校で、二階建。別棟の一階建が第一学年用で、凄く古い校舎だった。家から歩いて10分、近所の子達と連れ立って。受け持ちの先生の名前、田中かつ.忘れない。通知箋に学校長名「山崎定右衛門」古い。田中先生との思い出。古い音楽教室、通知箋の成績10点満点。学芸会では、楽屋裏で歌う役を。「工手」(工作?)で団扇の絵柄模様が上手く描けて、褒められた。2年間の田中先生の受け持ちが終わった。3年生
本当に久し振りに,祖父母に昔話を聴くことが叶いそうな展覧会ですね。是非お邪魔したい(ღˇ◡ˇ*)♡僕が子供の頃,社会科の授業で「お家の方やご近所の方に昔のことを聞いて纏めてみよう」という課題がありました。当時は明治生まれの方たちがまだまだ存命で,大正生まれの方に至っては元気に働いている姿も珍しくなかった時代です。少々余談ながら申し上げると,やはり社会科見学で給食のパンを作って下さっていた会社を見学に行った際,何気なく事務室の壁を見ると「○○陸軍少尉」という札の張られた写真が貼られていて,僕
................................................................................"彼女たちの春休み"................................................................................DAYOFF,昨日の定休日、娘の習い事までの、限られたスキマ時間で少しお出かけ。近場でもまだまだ行ったことのない場所はありますね