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流刑でも天皇の子が来たらこんな地名が残った皆に尊敬されていたのだろう本当は、誰が悪者だったのだろうか20241122黒潮町
こんばんは~🌃昨日の続きです。GWに福井県の敦賀へ行ったときの記事です。織田信長が朝倉氏を攻めた時に、浅井氏の裏切りにあい、軍を引き上げざるをえなかった舞台である「金ケ崎城」の跡地に来ています。この城は古くは南北朝時代にも、新田義貞が後醍醐天皇の皇子ふたりを奉じて立て籠った地で。明治になってから、この親王たちを祀った神社が、この城の跡地に創建されました。そちらが昨日の記事「金ケ崎宮」今日はその裏手にあるハイキングコースを歩きながら、当時の山城の面影を探してみたいと思います神社の
こんばんは~🌃だいぶ間が空きましたがGW旅の続きです。氣比神宮へお参りした後は金ケ崎宮へ向かいました。こちらが敦賀へ来たメインです駐車場にこの横断幕が飾ってありました。さっそくお出迎え来るまで知らなかったのですが、金ケ崎って天筒山[てつづやま]の一部だったんですね天筒山城というところもあるので別の山だと思っていました。天筒山は先にお参りした氣比神宮の神様が降臨した地とも伝わっています。(氣比神宮のパネル)でもこちらの方には氣比神宮の神様について説明はなかったな退き口一色
敦賀を旅行した際に、まず初めに足を運んだのが、金ヶ崎城跡でした。写真は、月見御伝からの眺めです。海抜86m。かつてこの地から、戦国武将たちが月見を愉しんだそうです。『金ヶ崎の退き口』は、あまりにも有名なので、ここでは詳しい説明は割愛させて頂きます。2023年の大河ドラマ『どうする家康』で、お市の方の意を受け、家康の元にひた走った、阿月(ドラマオリジナルの登場人物)のことを懐かしく想い出しました。『どうする家康』“阿月”伊東蒼の目と涙が雄弁すぎる『世界の終わ
今日は、なるちゃんの運転で敦賀を訪れました新幹線開通前なので人通りがありません敦賀駅この駅、実は松本零士先生のモニュメントがあるんです宮城県石巻には石ノ森章太郎先生のモニュメントがありますよね♪『東北浄化の旅②~宮城県石巻散策~』今回2度目の石巻訪問になりますその時は、まだ鉄道も全面復興されていなくて、振替バスが運行していました石巻駅ここは、石ノ森章太郎先生の聖地ですここに来ると、石ノ…ameblo.jp一度訪れて観たかったのでテンションバク上がりです!!駅からモニュメ
新年度一番のイベントも無事終わり、ほっと一息…今週来週はまだその後の一連の関連行事が続きますが、なんとかこれから一年間、新しい顧客様たちともうまくやっていけるかな…σ(^_^;)(ナンカ不安シカナインデスケド…)…ということはさておき!?先週の土日の「.福井県敦賀市への旅」の話の続きです!(この記事の続きです↓)『「青春18きっぷの旅」再び②〜敦賀へ!〜』今日はいよいよ顧客さまたちを迎えての新年度の始まり…書類作りに追われるし会議もいっぱいあって、なんか疲れた…(肩凝って頭痛くなるし
🟢祈るとも神やはうけん影をのみ御手洗川の深き思ひを(尊良親王)💟芳聖は、実は私は、後醍醐天皇第一皇子、尊良親王の生れ変わりで、尊良精神で生きています。どんなに生活が苦しくても他家の養子にはなりません!と、降誕にまつわる由来話をしました。すると小田垣博士は、がっかりして悄然(しょうぜん)として帰って行かれましたが、その翌日又やって来て、文献史料を調べた所『貴方の前世の尊良親王妃の名前は西園寺公顕の女「清子」で、うちの養女「清子」と全く同じ名前だ!しかも干支も丁未(ひのとひつじ)で全く一
2月の福井漫遊。一の宮の次にお参りしたのは、南北朝時代の城址に鎮座するお宮。南北朝時代。それは、鎌倉時代と室町時代の狭間、足利尊氏率いる北朝政権と後醍醐天皇率いる南朝政権の争乱の時代。50年間に渡り、京都と奈良に朝廷が2つ存在する時代でした。結果はご存知の通り、北朝が勝利し、足利尊氏により室町幕府が開かれます。それでは、吉野神宮を始めとする建武中興十五社の一社へお参り。◆金崎宮◆*読みは"カネガサキグウ"町の北部、敦賀港から突き出た岬へ。
『大谷吉継cafe』(奈良大学教授外岡慎一郎氏の講演)の翌日に訪れたのは、金ヶ崎城跡✨歴史好きな方ならご存じの、あの『金ヶ崎の退き口』の舞台となった場所です❗️そうです、あの織田信長が浅井長政の裏切りにあって、撤退を余儀なくされたという、その場所です。敦賀にあったとは、知りませんでした😲そもそも、地理に疎い私は、地名やお城の名前もうる覚え。信長撤退の話は知っていましたが、金ヶ崎城と聞いても、正直ピンときませんでした。(まだまだ歴史修行が足りませね💦)目立つ方の看板のアップがこち
さてさて……………【平安神宮】より徒歩約10分で、ココロが次に到着したのは………おお〜〜〜〜っ住宅街の中に、現れたのは………【後醍醐天皇皇子尊良親王墓】京都府京都市左京区南禅寺下河原町【尊良親王(たかよししんのう)】鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族・歌人・上将軍。後醍醐天皇の第一皇子。母は二条為世の娘で二条派を代表する歌人の二条為子。嘉暦元年(1326年)、従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝したため、現任天皇の第一皇子として、父帝である後醍醐天皇の推薦によって、次の皇
『傳正院(浄土宗)』愛知県岡崎市明見町田代(旧額田郡)明見という地名の由来の一つである「北辰妙見尊」が祀られている、旧額田町の傳正院さんに南朝の伝承を探りに行きました。境内の回りは、工事用フェンスに囲まれていて、入場禁止のように見えますが、フェンスにある説明をみると、獣除けのため、フェンス入口を開けて参拝ください…と書いてあります。ご住職の連絡先も明記されているので、電話して入場の許可を取りさらに南朝のお墓の場所を伺いました。本堂左手の墓地の一番上段、左の角に南朝の皇子である「尊良
この串呂は、後醍醐天皇の皇位継承者は、日本歴史が通説としている「後村上院」ではなく、東山天皇(尊良)であるという皇祖神からの伝言です。これは、我が国の国体明徴上、何人もゆるがせに出来ない事であります!皇祖神(天照大御神)は、[清子]、[天子ヶ岳]、[尊房]というユニークな国内唯一の地名を3つも設定して、尊良天皇が真の天津日嗣のスメラミコトであることを明らかにしているのです。この続きはこちらから皇祖神からの伝言「天子ヶ岳の神風串呂」日本国再建の道は開鏡維新
延元元年(1336)11月12日、北陸朝廷の尊良天皇は、結城上野入道館に宛て、一族を相催し時刻をめぐらさず馳せ参じ、高氏直義以下の逆徒を誅伐せしめよとの綸旨を発した。この続きはこちらからhttps://note.com/quanro/n/n196df7e5d9b6北陸朝廷の神風串呂日本国再建の道は開鏡維新(天の岩戸開き)にあり!神皇正銃の天皇が天の岩戸篭りした事が地文に秘められていると理解されたとき串呂哲学の要諦が一気に解明されたのであった。
久しぶりの県外山城遠征レポ金ヶ崎城・・・第一回目は尊良親王御陵墓見込地までになります海なし県在住者には惹かれる景色(^^♪敦賀湾を一望する小高い山、そこに『金ヶ崎城跡』があります。延元元年(1336年)恒良、尊良両親王を守護した新田義貞が足利軍と戦った古戦場です。戦いは激しさを極め、尊良親王ら300人は籠城から半年後、城に火を放ち自害しました。中腹の金崎宮には、その両親王が祀られ
世の憂さをYonoUsawo空にも知るやSoranimoshiruya神無月KannazukiことわりすぎてKotowarisugite降る時雨かなFuruShigurekana<歌意>このごろの世間の辛辣なことを空も知っているのであろうか。この月は十月で、いつも時雨が振る月であるが、今年は(例年になく)よく時雨が振る十月であることよ。(注)「ことわり」=「理」<EnglishTranslation>Doestheskyknowtheu
福井県敦賀市金ヶ崎城(かねがさきじょう)御城印新たにいただいた御城印南北朝・太平記バージョン。御城印には「尊良親王・恒良親王」(たかながしんのう・つねながしんのう)敦賀にゆかりのある人物です。真ん中には「股肱(ここう)之臣」(主君の手足となる誠実な家来のこと)という言葉が書かれていますこれは、南朝側で彼らと共に戦った南朝側の指揮官・新田義貞のことを指しているそうです下には三つの家紋左から明智光秀ん?真ん中は誰の家紋?右は新田義貞南北朝時代や織田信
昨日(2月14日)のお話です。日曜日だったので友人と南に向かいました。海無し県から南下すると美味しいお刺身が待ってる❣️と勝手に思っているわたしです。それにそれに菜の花畑に出逢えたり、はたまた、季節外れ(この地では季節外れでは無いんだな)の桜に出逢えてしまったり、なハプニングもあるかも知れません。南下しまーす。わたしは今年二度目のお刺身が食べたいのね。(今年最初のお刺身は1月24日の雪の日、退院した時でした。)わたしは沼津の『魚河岸寿司に行きたーい!』と
愛知県岡崎市藤川町の旧家森川家の系譜には尹良親王(守永親王)を稲若王と称し、森川家はその七代の後胤であると伝えています。森川(もりかわ)は守川(もりかわ)すなわち守永(もりなが)親王の流れを汲むことを表現しているのです。1、北陸朝廷の足跡2、守永親王の伝説(1)森川系図(2)三浦皇統家系図(3)守永親王(興国天皇)の神風串呂森川系図(愛知県岡崎市藤川町、森川家所蔵)(藤原石山著『南朝正統皇位継承論』南朝史学会/1966年/巻頭写真)この続きはこちらから
南朝史学会の藤原石山著『日本史の盲点南北朝時代の謎を解く南朝正統皇位継承論』(1966年4月発行/1988年10月再版発行)に学びつつ史学と串呂哲学とで『南朝正統皇位継承論』の考察を深めて参ります。後醍醐天皇の御譲位(1)南北朝時代史(田中義成)(2)長慶天皇の伝説と木地屋民(藤原石山)(3)徹底的に日本歴史の誤謬を糺す(4)尊良親王登極を昭示する神風串呂田中義成この続きはこちらからhttps://note.com/quanro/n/n7a153d13db2d
2018年2月18日。佐賀公園を一通り散策してから再び駅へ戻る。だるま朝日(夕日)ラッピング車両をプチ撮り鉄。さらに坂道を登って太平洋を俯瞰次の下車駅は海の王迎。プチ撮り鉄失敗坂道を降りて行くと…王無の浜に到着。鎌倉時代、後醍醐天皇の第一皇子一の宮尊良親王が漂着した浜である説明が書かれている。詳しい内容はこちらから。静かで綺麗な砂浜。貝殻もまた綺麗なので並べてみる。昔はよく見たような貝殻が最近あまり見られなくなってきたように思えるので、久しぶりに見て懐かしくなった。さて
黒潮町を走っているとなんだか変な駅名の看板が。画像が悪いですけど、海の王迎駅(うみのおうむかえ駅)って書いてます。どういうこと?って調べて見たら、「海の王迎」という駅名は、鎌倉時代に後醍醐天皇の子、尊良親王が流刑された地で、海から王を迎えた地と言うことで名づけられた。とのことです。1332年に後醍醐天皇が北条氏に対して挙兵したけど失敗。隠岐に流された。この際、後醍醐天皇の第1皇子の尊良親王が土佐に流された。2003年に周辺の団地住民の便宜を図る目的で開業された比較的新しい駅だそうで
福井県の敦賀市、お客様が桜の名所に案内してくれたのは、金崎宮本当に桜が満開で綺麗でしたでも、誰も花見(弁当食べたり)はしていませんでしたね~詳しくはネットから、調べましたよ延元元年(1336年)5月、九州で再挙した足利尊氏が京都に攻め寄せると、後醍醐天皇はこれを比叡山に避けられたが、同年10月に至って一旦尊氏の請を容れられ、京都に還幸されることになり、その際天皇は別に新田義貞(にったよしさだ)に命じ、尊良親王・恒良親王を奉じて北陸道の鎮撫、官軍再興のために下向せしめられた。新田義
興国天皇(守永)の符号「森茂」と「上野宮」岐阜県飛騨市神岡町に「森茂」(もりも)というユニークな地名があります。国内に二ヶ所しかない地名です。戦後、神霊界からの霊示で、ここに興国天皇(守永)と中宮の藤原茂子が一時潜伏していた隠棲地だと知らされた三浦芳聖が調査に行ったところ、森茂には「後醍醐天皇の次の天皇が隠れていた」という伝承が残されていました。茨城県久慈郡大子町の「上野宮」は、守永親王が、上野太守に就任していたことから、興国天皇(守永)の串呂哲学上の符号とされています。今回は、この
2000年前に開始された神風串呂の構築歴史上、神風串呂の構築が開始された事がはっきりと分かるのは、神鏡(天照大御神)が、崇神天皇の御代に皇居を出て、各地を巡行され始めた時ですから、今からおよそ2000年前のことになります。もうその頃に、皇統が乱れ始めたとも言えますが、戦争の勝者によって書かれた歴史は、勝者の都合の良いように書かれていますから、その辺りのことを学問的に証明することは不可能です。神風串呂は、この戦争の勝者によって捏造されたであろう皇統史を糺すために、健常者なら、国土地理院の
興国天皇(守永)の串呂哲学上の符号三浦芳聖が解明した、興国天皇(守永)の串呂哲学上の符号には、長森(ながもり)、守義(もりよし)、上野(うえの)、上野宮(かみのみや)などがある。上野は、守永親王時代に、上野太守に就任していたことによる。興味深いのは、森茂(もりも、岐阜県飛騨市神岡町)という地名で、守永天皇と中宮の藤原茂子が一時隠れていた隠棲地だが、守永のもり、と茂子の茂を一字ずつ取った地名が残っているばかりでなく、実際に「後醍醐天皇の次の天皇が隠れていた」という伝承が残されていたというの
次回から、尊良天皇の皇位継承者「興国天皇(守永・もりなが)」の神風串呂をご紹介します。三浦家に伝承された系図には後醍醐天皇の次に皇位を継承したように記録されていたが、神界からの霊示に基づき三浦芳聖が神風串呂で調査研究した結果、延元元年(1336年)10月、比叡山で後醍醐天皇から皇位を継承したのは尊良親王で、守永親王は、1337年(延元2年)2月5日、越前金ヶ崎城において東山天皇(尊良)から皇位を継承したことが判明した。この続きはこちらからhttps://note.com/qua
「獅子」の位を付与された尊良天皇島根県飯石郡飯南町に「獅子」(しし)というユニークな地名があります。百獣の王ライオンを意味する地名ですが、串呂では、この「獅子」は「百獣の王=天皇」と解釈いたします。今回は、どんな位が与えられているかを鑑定する「与位」(兵庫県宍粟市山崎町)と「尊良天皇御陵」(京都市左京区南禅寺下河原町)とを結ぶ神風串呂をご紹介します。この続きはこちらからhttps://note.com/quanro/n/na4088b605b29神皇正統三浦皇統家系図(