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肥前佐賀藩出身で、明治新政府の高官の一人「江藤新平」について、この本を読みました。江藤新平(戎光祥選書ソレイユ003)Amazon(アマゾン)この本。内容は、かなり雑然とした印象で、分かりづらい。恐らく、「江藤新平」について、何も知らない人が、まず、最初に、この本を読むと、理解をするのは、なかなか、難しいのではないかと思われます。さて、江藤新平と言えば、明治新政府の中にあって、日本という国家の「西洋化」を推し進めた人物として知られている。このイメージは、司馬遼太郎
皆さま、こんにちは金曜日を迎えましたね🌸今日は大好きな友人と過ごす日なので嬉しいです🥰月末ということも重なり、身体や心の疲労を感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか?💦ハードスケジュールになり、なかなか休息の時間も十分に確保できない方もいらっしゃると思いますが、少しだけでも肩の力を抜いて、ゆっくり深呼吸するようなリフレッシュ時間もどうか作ってくださいね☺今日もあなた様が笑顔😀になれることの多い1日となりますように•••••cut•••••・1828年(文政11年)3月29
寺田屋事件(てらだやじけん)は、江戸時代末期の文久2年4月23日(1862年5月21日)に、伏見の旅館・寺田屋に滞在していた尊皇攘夷の過激派志士が弾圧された事件です。薩摩藩の事実上の指導者で藩主茂久の父島津久光はこのとき公武合体を推進する立場で、自らの入京を機に勝手に挙兵討幕を企てる薩摩藩士有馬新七らを快く思わず、志士らの暴発を防止しようと、藩士に命じて従わぬものを上意討ちさせた。同郷の藩士同士が斬り合う凄惨な乱闘となり、7名が死亡して2名が致命傷を負い、後に切腹したものを含めて9人の殉難者
一日一字を記さば、一年にして三百六十字を得、一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う吉田松陰(1830年-1859年)吉田松陰[注1](よしだしょういん、旧字体:吉田松󠄁陰、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉-安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者・理論者。「松下村塾」で明治維新で活躍した志士に大きな影響を与えた。名前幼時の名字は杉。幼名
どんな人間でも、一つや二つは素晴らしい能力を持っているのである。その素晴らしいところを大切に育てていけば、一人前の人間になる。これこそが人を大切にするうえで、最も大事なことだ吉田松陰(1830年-1859年)吉田松陰[注1](よしだしょういん、旧字体:吉田松󠄁陰、文政13年8月4日〈1830年9月20日〉-安政6年10月27日〈1859年11月21日〉)は、江戸時代後期の日本の武士(長州藩士)、思想家、教育者。山鹿流兵学師範。明治維新の精神的指導者
好きないちごスイーツは?🍓▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう•••••cut•••••・1862年(文久2年)1月15日、坂下門外の変が起こる→公武合体を進めていた老中・安藤信正を、江戸城坂下門のそばで、尊皇攘夷派の志士が襲撃。逃げた安藤は武士らしくないという理由で老中を追われます•••••cut•••••
歴史探偵「水戸黄門」を見ました。中納言という官位を中国では黄門と呼ばれたため。本名は徳川光圀。徳川御三家・水戸藩の藩主。水戸藩28万石は平野が少なく、水田にあまり適さないため、新たな特産物を作ることを奨励した人。代表作は西ノ内紙という和紙。水に濡れても破れにくく、墨もにじまない優れた特徴を持つ和紙。江戸の商人に多く売れた。で、徳川光圀と言えば、「大日本史」編纂。これは歴代天皇まわりについて書かれた歴史書。この歴史書きっかけで「尊皇」の心が芽生える。以後、水戸藩には幕
只今都心部7.4℃で練馬5.1℃表記、ちなみに茨城の水戸は5.1℃❗😏✋今夜ラストのテレビネタは歴史探偵、今回は我が地元の黄門様、徳川光圀❗ドラマのように諸国漫遊はしてない、あの時代にそりゃそうだろなww西山荘があるからか、茨城の上半分は色々廻ったみたいだね。🚶とはいえ助さん、実際の介三郎の佐々…ナンタラさんは諸国を周り歴史の史料調査、格さん安積たんの泊覚兵衛さんと大日本史231冊を作成とか❗戦乱→太平時代の武士の生き残りで大日本史、こうぞの和紙、尊皇攘夷…徳川幕府より天皇尊重…以降
[龍馬伝]5巻まで観た。ここではっきりわかったこと。これ、笑われるかも知れませんが、坂本龍馬は尊皇攘夷ではなかったということなんです。彼は明らかに尊皇開国派ですよ。そして彼を殺したのは尊皇攘夷派ですよ。つまり武市半平太じゃないんですか?これ、定説なんですか?幕府は坂本龍馬を殺さないですよ。何も邪魔ではない。坂本龍馬は倒幕派ではなかったのですから。幼馴染みの先輩、武市半平太だったと思いますよ。あれ、もちろん演技であり、演出なんでしょうが、大森南朋演じる武市半平太は鬱陶しい顔ですね。男の気難しそう
世界を変えるにはまず一人一人の考え方・生き方を見つめる必要が有ります。自分が偉いと考え一人で他者に頼らずに生きていけるという考え方を持つのと自分は塵のごとき不完全な出来損ないで他者に頼らずに生きてはいけないと思うのでは行動や対処の仕方が違ってきますよね。日本の江戸幕末尊皇攘夷という考え方をとるか文明開化・富国強兵という考え方をとるかで日本の進路が変わったというのと同じです。今までの世界は欧米流の「人間は偉い」思考でやってきました。
人として生まれたからには、太平洋のように、でっかい夢を持つべきだ坂本龍馬(1836年-1867年)坂本龍馬(さかもとりょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉-慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬[注1]。他に才谷梅太郎(さいたにうめたろう、さいだにうめたろう)などの変名がある(「手紙と変名」の項参照)。ウキペディア
いわゆる「幕末」の歴史に興味がある人。恐らくは、ほとんどが、坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作、吉田松陰などのファンということになるのではないでしょうかね。そして、彼らの視点から見た「幕末」の政治の流れは、「無能」な幕府が、欧米列強の言いなりになり、不平等条約を結ばされ、社会は混乱。この「乱れた世の中」を正すために、幕府を倒す、正義の人が、坂本龍馬であり、西郷隆盛であり、木戸孝允であり、高杉晋作であり、吉田松陰、と、言う認識を持っているのではないでしょうかね。しかし、この認識は、
夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る坂本龍馬(1836年-1867年)坂本龍馬(さかもとりょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉-慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬[注1]。他に才谷梅太郎(さいたにうめたろう、さいだにうめたろう)などの変名がある(「手紙と変名」の項参照)。ウキペディア今
瓦そば2021年7月21日山口県萩市にてご当地グルメ瓦そばをいただきました何故か心は尊皇攘夷(爆)
皆様、ご機嫌YOです!長州におけるビンラディンこと吉田松陰が無事に処断された後も長州テロリストの暴走は収まりませんでした。否、その天をも恐れぬ凶行は松陰を処断された逆恨みでより加速したと言ってもいいでしょう。今回は、そんな松陰死後の長州尊攘テロリスト共の暴走について動画で見て頂きたいと思います。さて、いかがだったでしょうか。かくして長州藩は暴走の挙句、天皇の拉致を目論みます。もはや「尊皇」と呼ぶのもおこがましい蛮行の末、長州藩は一旦徹底的に叩き潰されるのですが…。そのまま長州が
もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である渋沢栄一(1840年-1931年)渋沢栄一(しぶさわえいいち、旧字体:澁澤榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉-1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家[2]。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり[3]、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の
インターネットTV“Will-BeStation”から放送させて頂いた「歴史のお話」“孝明天皇毒殺説”、御覧頂き、ありがとうございました。幕末の、孝明天皇崩御直前の不思議な記録、アナタは、どう感じましたか?見逃したというアナタ!こちらから録画をチェックして下さい!↓↓↓↓↓https://www.youtube.com/live/N9aQfmLlPV4?feature=share歴史のお話~第137回「孝明天皇毒殺説」~主演文化歴史学者KickMizukoshi文
尊皇攘夷:水戸学の四百年(新潮選書)Amazon(アマゾン)795〜6,380円片山さんの本はいつも読んでいる。本書は水戸学というテーマがテーマなので、なかなか手がのびず、一年ほど前に三分の二ほど読んだがそのままになっていた。が、ここにきてゆっくりともう一度最初から読み始めて読了。もともと雑誌に連載されたもので、一回ごとの完結を意識しており、そうとう重複が多い。が、この種の馴染みのないテーマの場合は、基礎的な事柄については、この程度の繰り返しがあったほうが、読書の際の記憶
皆様、ご機嫌YOです!幕末に多くの尊攘テロリスト共を輩出した水戸。水戸学にかぶれたこいつらのトップが「烈公」とか呼ばれてた短慮の人である徳川斉昭です。そして…こいつが藤田東湖に宛てた書簡からこの大馬鹿野郎が碌でもない事を企んでいた事が明らかになってきました。「酒をたっぷり飲ませて頭をはね」水戸藩主・徳川斉昭がペリー抹殺計画か…書簡16点発見(読売新聞オンライン)-Yahoo!ニュース岡山県倉敷市の旧家で、幕末に攘夷を主導した水戸藩主・徳川斉昭の未発見の書簡16点が見つかっ
人よりも一尺高くから物事を見れば道は常に幾通りもある坂本龍馬(1836年-1867年)坂本龍馬(さかもとりょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉-慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬[注1]。他に才谷梅太郎(さいたにうめたろう、さいだにうめたろう)などの変名がある(「手紙と変名」の項参照)。坂本龍馬-Wikipedia
【食育クイズ:Vol.1120】「京都府」の「長州藩邸跡地」おさらいクイズ!禁門の変で焼失した長州藩邸跡地に立っている長州藩士の銅像とは誰?∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽∽【食育クイズ:Vol.1119】(「京都府」の「竜馬暗殺」おさらいクイズ!竜馬暗殺の舞台となった京都の場所とは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】この「龍馬暗殺」事件だけでは無く、「幕末」から「明治維新」に到る
10月は最後の1日まで仕事が忙しい昨日(10/22)は帰宅時間は23時過ぎてました・・・5〜6年前まではこのくらいの時間に帰宅しても殆ど平気だったのに、60歳を前にするとやはりこたえます😖で、昨夜は1時頃に寝たのですが親父からの電話で3時40分に起こされて急遽実家へ🚗💨💨💨自宅から実家までは移動時間は約7分程度なんだけど、流石にこの呼出し電話は身体にキツいっス😫母が身体と心の病でして、父が老老介護に近い状態なんですよネ(母は来月下旬手術入院の予定)とりあえず、実家で母を落ち着かせて親父
20代に作ったシャツ。民族自決はいらないな。
ちゃんしげブログにお越し頂きありがとうございます試される大地北海道。。それでも最近、不思議なくらい自然災害が比較的軽く済んでいるような気がします。何か、禊が終わったというか、大きな険しい山を乗り越えたというかそんな感覚です東北も震災続きで大変でしたが、実は北海道も生きていくには大変な土地でした。道産子の総理大臣はゼロ。頻繁に起こる災害、地震。所得は全国平均以下。年収300万円以下なんてザラ。得体の知れないチンピラ口調な人達に、デマや言い掛かりを浴びせられ続ける北海道の鈴木
皆様、ご機嫌YOです!尊皇攘夷を旗印にしたテロリスト共が跋扈する時代であった幕末。桜田門外の変では覚悟と信念をもって国難にあたった大老、井伊直弼がテロの凶刃に倒れました。直弼の後を引き継いで国難にあたったのが老中、安藤信正。しかし、水戸の尊皇テロリスト共は彼をも凶刃の餌食にかけようと画策していたのです。て言うか、また水戸か!!コイツラと言い斉昭と言い腐れケーキと言い、水戸の連中はホントろくなことしかしませんね!とは言え、今回は奴らの企みは上手くは運びませんでした。計画が事前
松下村塾から高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など明治維新を推進した人物を多数輩出させた吉田松陰は凄い教育者であったろうことは認識していましたが、迂闊にも、これまで伝記を読むなどして詳しく調べたことはありませんでした。最近になってその言行を知り、感銘を受け刺激もいただきました。吉田松陰は浦賀でペリーの黒船を見て西洋を自らの目で見たいと、翌年の再来時に密航を試みて投獄されますが、その西洋諸国をどう見ていたか、そして幕府の対応をどう評価していたか?松陰の
江戸での剣術修行を終えた渡邊昇は、文久三年(1863)三月に大村に帰藩します。練兵館で尊王攘夷思想に強い影響を受けた昇は、帰国後、兄の清左衛門(藩校五教館頭取)らと共に尊王攘夷のグループを結成します。この党は最終的に三十七名の同志を集めたことから大村三十七士同盟と呼ばれました。三十七士同盟は俗に大村勤皇党とも呼ばれているようです。盟主には城代家老の針尾九左衛門を擁立し、ブレーンとして、若くして五教館の教授となっていた松林廉之助(飯山)を迎えました。大村藩では藩士が徒党を組むことを厳しく禁止
一度負けないと相手の国力を理解できなかった長州関係者、また満州は日本の生命線ではなかった2021.12.4-12.10修正〔はじめに〕(1)中国が「中華民族の復興」を目指して攻勢を強めている。戦狼外交は、「話し合い・交渉」という外交の基本を超えて、罵りも珍しくない。(2)2021年10月、衆議院選挙で、国民から見て野党は政権選択肢にならず、自民党の中で総裁・首相がA、S(コロナ対策、オリンピックで支持率を下げたが)からKに替わって、なお絶対安定多数を確保した。~グローバリズムで非正規雇
水戸藩光圀と国学からつながる昭和の戦争、周辺国との軋轢、保守勢力大河ドラマ「青天を衝け」も終盤ですが、このドラマをきっかけに考えたこととして以前も少し記事に書いたことを、さらに掘り下げ改めてまとめてみました。その結果、当ブログが継続的なテーマのようにしてきた日本の同調圧力や全体主義について、歴史学的なアプローチ(と言えるほどのものではありませんが)の総決算のようになりました。長文です。戦後は、戦争を推進した思想として「水戸学」は一般的には顧みられなくなり、一般の人々が特に意識すること
文久三年(1863)八月十三日、長州藩及び長州系尊王攘夷派浪士と、彼らを支援する尊王攘夷派公家たちの策謀により、孝明天皇が攘夷祈願のため大和に行幸することが決まりました。翌十四日、土佐脱藩吉村寅太郎ら尊王攘夷派浪士は、中山忠光を総大将に担ぎ上げて「大和行幸御先鋒」と称して京都東山の方広寺に結集しました。京を発った一行は淀川を下って大坂に入り、堺から河内を経て大和に入りました。彼らは自ら天忠組と名乗りましたが、世間には「忠」の字を「誅」に変えた天誅組の名が広まることになります。三枝蓊こ