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<2023年3月16日>投宿していた銀座のホテル周辺の朝の散歩は、たまたまタモリさんが歩いた「ブラタモリ」のルートと重なる部分が多く、ここ「大手門」もそのひとつでした。「浜離宮恩賜公園」のマップです。現在地は右下の角。ここから海に向かって公園が拡がっています。「旧浜離宮庭園」の石柱と、その後ろは立派な石垣です。元々は将軍家の鷹狩の場所だったとのこと。まだ朝6時30分頃ですから、もちろん門は閉じています。聳え建つ電通本社ビルを見上げながら帰途に就きました
患者「漉庵(コシアン)せんせ、あちきは梅瘡でありんすか?」医者「う~ん、股の付け根に便毒が出来てるからねぇ。随分無理して来たんじゃないのかい?太夫なのにえらい災難だったね。出来るだけの事はするよ」患者「ほんだすかえ。きさんじなもんだね。あちきは死ぬんでありんすか?なら、それはおよしなんし。太夫にまでなりんした上は、もうようござりんす」医者「そうはいかないよ。水銀軟膏を塗るからね、それで中毒になっても解毒剤があるから。それに、何でも見受けの話があったって言うじゃないか」患者「その話は流
竹生島鯰免状(個人蔵)浅井郡山本村(現、長浜市湖北町山本)の嶋崎左小は、明和五年(一七六八)六月一九日付けの鯰免状によって、鯰を食すことを許されました。この時の寺主は登翁。鯰は竹生島を守護です。◆登翁の略歴登翁(一六九七~一七八八)は、竹生島妙覚院第十世の住職。竹生島花王院・金竹坊・吉祥院の住職。仮名は為山。号は得寿院。近江国浅井郡田中村(現、長浜市湖北町田中)の松居長右衛門の八男。幼名は繁丸。妙覚院第九世庭凰和尚の実弟で法弟。吉祥院第七世庭賢和尚の弟子でもあります。医王山惣持寺(現、
七代将軍徳川家継は、風邪が悪化し、急性肺炎になった。家継は満六歳。母の励ます声がかすかに聞こえた。家継の兄弟はいずれも幼くして亡くなっている。毒殺されたのではないか。家継は息も絶え絶えに、そうつぶやいたが、母も周囲の人間も理解できなかった。家継は亡くなった。八歳だった。【スーパーSALEP2倍】送料無料ポッキリお試し食べ比べ一風堂絹ごしとんこつラーメン細麺細めん白丸赤丸4人前替玉ラー麦乾麺中華そばなま麺生麺博多豚骨
※こちらの記事は、令和2年10月7日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『麒麟(きりん)がくる』第23回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!※記事下部に人物の読み仮名をのせています。【『麒麟がくる』の楽しみ方】・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/織田家
みなさま、こんにちはふーです。いつもありがとうございますさて、先日のNHK『歴史探偵』で金沢から東京まで4日間で人力で氷を運ぶ取り組みを放送していましたこれは江戸時代の史実を再現しようとしたもので最大の外様大名であった我らが加賀藩前田家から江戸の将軍家へ向けて夏になると氷を届けていたんですね加賀百万石の城下町金沢の民としても楽しみに観ていたのですが…いやNHKけしからんな!!まずどんな氷なのかを紹介していない!そもそもなぜ夏に加賀から江戸へ氷を運べたかとい
令和5年7月16日(日)今日は、京都では祇園祭り宵山と言うことで、京都市内は避け、奈良市の帯解寺に朝から電車で行くことにした。07:35自宅を出発する。徒歩でJR稲荷駅に向かう。07:52JR稲荷駅を出発する。普通奈良行に乗車する。奈良駅までそのまま普通で行く。08:50頃JR奈良駅に到着する。↓桜井線に乗り換える。09:08JR奈良駅を出発する。↓09:13帯解駅に到着する。↓徒歩で帯解寺に向かう。09:18帯解寺に到着する。駅から近い。来週地蔵
単行本「将軍の世紀」すごい本が出たぞと彼徳川家を総括するような、すべての将軍の良いところ悪いところをそしてそれぞれのその老中やかかわった有名な家来たちの行動、思いを事細かに表した。今までの歴史本と一線を超える本と彼市の図書館で借りているが、予約が多くてとても二週間では読み切れない彼今年中に読破するつもりの彼いやー本は良いですねと彼彼の好きな四字熟語竜頭蛇尾~最初は勢いがよいが、終わりはふるわずに、尻すぼみになる。ことわざコーナー◎
※こちらの記事は、令和2年10月19日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は今年の大河ドラマ『麒麟がくる』第23回に関しての楽しみ方を解説したいと思います。大河ドラマを見てみたけれど、歴史もよくわからないし、どう楽しんでいいのかわからない。歴史には興味あるけど、自分では積極的に勉強する気になれない、という方必見です!※記事下部に武家や公家の人物名の読み仮名を載せています。【『麒麟がくる』の楽しみ方】・第1~2回―当時の三傑と明智家/リアルな戦の描写・第3~4回―美濃の情勢/
6代将軍を籤引きで決めた理由として、『建内記(けんないき)』(内大臣万里小路時房の日記)には、3回とも籤は「義円(足利義教の出家名でその後還俗)」とでたことから、籤はイカサマだったとしています。つまり、神意を借りて諸大名らを心服させるためにイカサマを仕組んだというのです。しかし、今では『建内記』の内容の真偽が問われ、イカサマ説は否定されています。それでは、義持の真意はどこにあったのでしょうか。謎を解く手がかりは、彼が家督を継いだ当時に隠されています。その
(土)(日)のForoTVの朝のニュースのnoticiera(ニュースキャスター)はEvigailYang(エビガイル・ジャン)さんなんです。名字から言って先祖が中国系の人みたいなんですけどたぶん僕の勘では『楊さん』だと思うんです。僕が住んでる町に5年前くらいに越して来た中国人の1家が居るんです。この人たちはメキシコ生まれの中国系メキシコ人じゃなくて純粋中国人で移民して来た人なんですけどテピートの中国人地区の料理屋で長年働いてお金を貯めて独立して自分の店を出した人たちらしいんです。チ
宗春の『温知政要』には、見世物興行の景気浮遊効果についても述べられています。経済が停滞している際の景気浮揚に期待し、そうした場所で喧嘩などの騒動があったとしてもその都度取り締まればいいのであって、時とともに混乱はなくなるものだとしています。そして改革そのものについても、君主一人が自分の考えだけで政治を行う危険性を訴え、他人の意見を聞くべきだというのです。『温知政要』には納得できるところも多く、宗春がただの派手好きの暴君ではなく、明確な政治理念のもと、将軍徳川吉宗の緊縮財
こんにちはまーにゃです大名や遠国に領地をもつ旗本が定期的に江戸と国元を行き来する参勤交代。私は、その体制よりも行列の形態のほうに興味が湧きます100万石の加賀前田家クラスで約2500人10万石クラスの大名家で数百人のお供を従えての大行列でした大名たちにとっては民衆に自分の藩の規模を披露する場でもあったそうです。本来は軍事行動の参勤交代がパレードのようになっていたのですから本当に平和な時代だったんですね〜✨✨気になる参勤交代の経費は旅籠賃、川渡賃、予約解消時の補償金
dマガジンで歴史人を読めるんですが本屋さんでこの大奥の女性たちの絵を見てしまい衝動買いしてしまいました。全て大奥の特集かと思っていたのですが前半は江戸城本丸御殿の構造解説でした。大袈裟ですが江戸城内では毎日のようにしきたりに沿っての祭祀もしくは行事が行われている印象でそれらをこなす為に日々を費やしているように思えてしまいます。この将軍家の多岐に渡る年中行事の多さは徳川宗家の成立ちや支配の正当性を守る意味もあったようで将軍家と言えども庶民とは違った苦労があったのだな
徳川光貞。徳川御三家の一つ紀州藩二代藩主である。あの徳川光圀とは従兄弟にあたる。この光貞の嫡男綱教は綱吉の長女鶴姫の婿となり、婿養子として次期将軍と目されたが、鶴姫の死により次期将軍は家宣となった。綱教は幻の将軍かもしれない。その綱教は鶴姫の死からまもなく、この世を去った。さらに、綱教の死から二か月後に、光貞がこの世を去る。我が子を将軍にとの夢は現実とはならなかった。しかし、ドラマには続きがあった。光貞の四男である頼久、後の吉宗であるが、吉宗が八代将軍となった。
源頼朝から徳川慶喜までの将軍をわかりやすく読み解く試み。鎌倉幕府の源氏の後の将軍のように存在感がなかったり、足利義稙のように2度もつくことになったような軽い存在のものまで様々に歴史の流れに翻弄されたものや、江戸幕府の徳川将軍のように磐石な政治体制安定したものまで、武士の世の実態の象徴だった存在からその実態が見えてきて、読み応えのある一冊だ
徳川御三家といえば、ご存知、尾張、紀伊、水戸の三家である。御三家が成立した背景は、将軍家に世継ぎがいないときに、将軍職を継がせるためであったが、この御三家は家康の末子の九男義直、十男頼宣、十一男頼房が始祖であり、このことは不思議に思う。ここで、家康の男子を見てみたい。長男・松平信康(母:築山殿)二男・結城秀康(母:小督局)三男・徳川秀忠(母:西郷局)四男・松平忠吉(母:西郷局)五男・武田信吉(母:下山殿)六男・松平忠輝(母:茶阿局)七男・松平松千代(母:
12/5(土)№①久し振りに京都市内を目的もなくぶらぶらドライブ将軍塚無料駐車場(京都市山科区)展望台へは徒歩1分誰も居ません京都駅前にあるロウソク型の京都タワー愛宕山(あたごやま標高924m)蹴上(けあげ)のインクライン(傾斜鉄道)横を通過(京都市左京区)インクラインの台車平安神宮の鳥居平安神宮京都市電平安神宮の参道の左側にありますロームシアター京都河原町
この投稿をInstagramで見る#20200909#上毛新聞#みんなのひろば#前橋にある家康公供養塔#一部訂正がございます#将軍家の5人とするところを5代となっております#家康、秀忠、家光、家治、家治の長男家基の供養塔です#訂正しお詫び致しますTakeharuNiwano(@niwano_history)がシェアした投稿-2020年Sep月8日pm6時14分PDT
大河ドラマ『麒麟がくる』第22話再放送桶狭間の戦いから年月が経ち、細川藤孝が十兵衛のもとを訪れました。十兵衛と煕子の間には、次女も生まれましたが、暮らしは相変わらず苦しい状態です。京も、相変わらず将軍の足利義輝ではなく、三好長慶が牛耳っていました。名ばかりの将軍と成り果てた足利義輝は、一層心を閉ざしている様に見えます。そんな義輝を心配した藤孝は、十兵衛に京へ来て、義輝の真意の程を探って欲しいと頼みます。それに、ちょうど義輝から、「十兵衛と一緒に能を見たい。」と言われ、十兵衛
大河ドラマ『麒麟がくる』第22話桶狭間の戦いから年月が経ち、細川藤孝が十兵衛のもとを訪れました。十兵衛と煕子の間には、次女も生まれましたが、暮らしは相変わらず苦しい状態です。京も、相変わらず将軍の足利義輝ではなく、三好長慶が牛耳っていました。名ばかりの将軍と成り果てた足利義輝は、一層心を閉ざしている様に見えます。そんな義輝を心配した藤孝は、十兵衛に京へ来て、義輝の真意の程を探って欲しいと頼みます。それに、ちょうど義輝から、「十兵衛と一緒に能を見たい。」と言われ、十兵衛を呼ぶよ
江戸時代の大名は、親藩、譜代、外様の区別があります、って話を最近しばしば書いてますが。改めて確認しますが、将軍家の親戚の藩を親藩という、というふんわりした言い方は、間違いです。親藩は「家康の男系子孫」のみです。徳川家の親戚といっても、将軍の娘が嫁にいった先は親藩にはなりません。その家が外様なら、生まれた子供が将軍の孫でも、外様です。また、将軍の息子が養子に行ったら、行った先が譜代なら譜代、外様なら外様になります。また、外様大名(たとえば薩摩)が将軍家に嫁を出して、その嫁が生んだ子が将軍
今回は京都の疫病除けだけでなく、玉の輿神社としても名高い北区紫野の今宮神社(いまみやじんじゃ)です今宮神社が鎮座するこの地には、京都に天皇が住む皇居ができて遷都した平安遷都以前の西暦794年以前には疫病除けの神として信仰されている素盞嗚尊が祀られた神社があったと言われており、現在は摂社の疫神社となっています京都は平安京が制定後も疫病や災厄などが起こり(これ自体は京都に限ったことではない)、その疫病を鎮めるために御霊会(祟りを防ぐ鎮魂の儀式)が行われますこの後民衆主導での
島津の初代貴久は頼朝の隠し子と言われています。妻の北条政子に配慮して、側室と身ごもった子供ごと、家臣に下げ渡したと言われています。忠久は信濃に所領をもらい、繁栄したので島津姓は今も多いです。幕末に島津一族から、将軍家に輿入れがありました。大奥を取り仕切った篤姫です。【関連記事】『松平姓を断った。島津。その①』(2018年12月2日記事)↓https://ameblo.jp/12001921/entry-12423226860.html
これぞ接待将棋の頂点っ!裕福な町人や武士に指導対局を行う事は、収入を得ると同時に政治的関係を築くという意味で重要な活動だった様です。いわゆる接待としての将棋という訳ですが、その頂点と言えるのが、将軍家治との対局でしょう。なんせ相手は現役の江戸幕府の将軍様ですから、将棋家としては勝敗よりもその棋譜を通じて、将軍と将棋家の両方の名声をあげる事が求められる訳で、接待将棋の技の粋を求められたといって良いでしょう。本日はその中から、九代大橋宗桂との対局から。この漫画の宗金(3コ
昨夜はすごい雨でした。雨音が酷いのでテレビの音を大きくしないといけないほど?でした最近漫画や雑誌が無料で読めるサイト(ソフトバンクユーザーで、ヤフープレミアム会員です)で思いっきり雑誌や漫画をPCやスマホで見続けていて(笑)老眼が進んでしまっていますねたぶん。私は子供の時から図書館に置いてあるような本も漫画も読むのが好きでほっておくと丸一日どこにも行かずに本を読むことがありました。思い起こせば大人になっても長期入院でどこにも出かけられなかっ
新書で『王』が出ました。購入予定ですので楽しみです。江戸幕府11代将軍の家斉には、55人の子供がいます。将軍在職期間は50年。家斉は政治的に何かをしたと言うよりは、子孫を残すことに全力を傾けた感じがあります。子供達を大名家の養子に押し付けます。その代わりに財政的な見返りもありました。家斉は、『御三卿』のひとつ、『一橋家』に生まれます。ちなみに、『御三卿』は、8代将軍吉宗の二男宗武を祖と『田安』、宗武を祖とする『一橋』、9代将軍家重の2男重好を祖とする『清水』からなります。御三卿は大名では
応仁の乱についての最大の誤解は、乱の原因が将軍の跡継ぎ問題だ、と思い込んでいることです。むかしは歴史の教科書にもそう書いてあったので仕方ないんですが。これは大きな誤解です。乱のそもそもの原因は、幕府の有力メンバー・畠山氏の相続争いです。それぞれが、幕府の有力者である細川勝元と山名宗全を頼ったため、この両者が派閥を作って対立するようになります。両派閥とも、自分の正統性を主張するための「旗」が必要になります。そこで、もともとなかった将軍家の後継者争いをわざわざ起こさせて、御神輿に仕立てた、という
『南龍公と呼ばれた男。徳川頼宣』は、アクセス2件ありました。この記事は時々読まれていました💠。先日、『丸橋忠弥は長曽我部の子孫?』にアクセスありましたので、関連してアクセスがあったのかもしれません。頼宣は覇気のある息子で戦国時代に生まれていれば、名を上げていたでしょう🍀期待されていたことから、「大阪城がほしい。」と言ってしまい、紀州に左遷されます。兄の義直が、3代将軍家光と確執があり、一触即発の事態のときに、「兄上が将軍家と事を構えるなら、自分は大阪で軍を募る。」と言います🍀