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再訪鹿嶋御児神社(石巻)宮城県石巻市日和が丘芭蕉翁一行もここからの景色を見たとのことです。震災後しばらくの冬にご参拝して以来、小山の上から眺める海岸は開発が幾分進んだようです。参道階段を部活動の学生さんが昇り降りしていました、猛暑の朝。境内片隅に芭蕉の供養碑がありました(『おくのほそ道』所収ではありません)雲折々人を休める月見かな高倉勝子美術館宮城県登米市登米町寺池桜小路芭蕉翁一行のあとをたどりながら『おくのほそ道」の俳句の地を訪れる旅行もこ
山形県にある、旧有路家住宅封人の家に行ってきました。国の重要文化財に指定された、最上町の建造物やねん。この住宅は、松尾芭蕉がおくのほそ道に記した、堺田の封人の家。松尾芭蕉が滞在していた時のこととかが、わかりました。松尾芭蕉の時代にタイムスリップ!!芭蕉全句集現代語訳付き(角川ソフィア文庫)[松尾芭蕉]楽天市場おくのほそ道(全)ビギナーズ・クラシックス日本の古典(角川ソフィア文庫)[松尾芭蕉]楽天市場松尾芭蕉おくのほそ道(NHK「100分de名著」ブッ
山形県最上町は宮城県との県境、今回は鳴子温泉方面から帰宅、残念、鳴子温泉には泊まりません!赤倉温泉を出発して、あ、ら、伊達な道の駅(岩出山)、次に道の駅おおさき(古川)に寄る予定、パンフレットを見ていたら最上町に分水嶺と書いてある😳😲聞いたこと、小説なんかにも!見たことないわ~😳「堺田分水嶺」と言うところ中央の小川からの流れが、右と左へ別れて行く😳これこそ動画でしょうね~😅後で気付いた!小牛田と新庄間を走る陸羽東線の堺田駅がすぐ側です。松尾芭蕉とそらが泊まった「封人
(山形県最上郡最上町封人の家)蚤虱馬の尿する枕元芭蕉(のみしらみうまのばりするまくらもと)先日、訪れた「封人の家」。「封人」(ほうじん)とは「関所守り」(せきしょもり)、つまり関所の番人のこと。江戸時代も平和になると、それほど主要ではない関所は、庄屋・名主など、その土地の実力者に委託されていた。芭蕉は仙台藩の関所「尿前(しとまえ)の関」で怪しまれ、ほうほうの態で過ぎた後、奥羽山脈の難所「中山越え」を歩き、山形の「新庄藩」に入る。そこで風雨の為、「新
(宮城県岩出山)今日は(遊びで…)宮城県鳴子温泉へ。数年前、「おくのほそ道踏破」でここを訪れた。すっかり気に入り、また行きたいと思っていたのである。途中、岩出山に立ち寄り、谷あいの隠れ家的蕎麦屋で蕎麦をいただいたが、なかなかのものだった。料理はロケーションこそ最高のごちそう。静かに屋外テラスで鳥の声を聞きなから啜る蕎麦もいいものだ。また再訪したい店が出来た。「地元の蕎麦粉を使用」と書いてあったが、今、このあたりは蕎麦の花の盛りだ。昔、花蕎麦の跨ぐに易き高さかなという句を作った
8月11日、山形県最上町の封人の家(旧有路家住宅)です。新庄市から鳴子温泉に向かう47号線、宮城県との県境にあります。300年以上前に建てられ、重要文化財に指定されてます。松尾芭蕉さんがお弟子さんと、奥の細道の旅の途中、数日間、逗留したという事です。この辺は「小国駒」いう馬産地で、同じ家の中で大切に育てられました。土間釜戸中座敷居間床の間芭蕉さんの句碑「蚤虱(のみしらみ)馬の尿する枕もと」
最上町の「堺田分水嶺」の近くにある、旧有路家住宅「封人の家」。江戸時代初期に建てられた庄屋の住宅で、国の重要文化財に指定されています。松尾芭蕉と曾良が『おくのほそ道』の旅の途中、ここに逗留したといわれています。「封人の家」と記して、「蚤虱馬の尿する枕もと」の句を詠んでいます。『おくのほそ道』の旅で松尾芭蕉が逗留した、現存している唯一の建物なのだそうです。残念ながら、訪れた3月19日は冬期閉鎖中で見学できませんでした。ということで、同じ最上町の瀬見温泉にある「おく山
この日の行程も最後になってきました。「中山越え」から「国道47号線」に出て、「堺田駅」に向かいます。八幡神社がありました。国道をしばらく進む。ここ、もう「山形県」に入ったようです。山形なので趣のあるお蕎麦屋さんが登場。このコースのメインとも言える、封人の家に到着しました。
やっとのことで、尿前の関を通った芭蕉と曽良は、関所から山道に入り中山峠にさしかかった。中山集落まではかなりの難所である。それから更に道はくねり、大深沢、杵沢、陣が森と難所は続く。それを過ぎると出羽国「境田」である。★堺田芭蕉、二宿の地芭蕉と曽良は、尿前の関(しとまえのせき)で出手形を持っていなかったため怪しまれ思わぬ時間がかかってしまい、堺田に着いた時はすでに日はとっぷりと暮れていた。封人の家に一夜の宿を求めた。主人の名は有路和
我が家もご多聞に漏れず、帰省するはずの息子たちが帰らず、少し気の抜けたようなお盆が終わった。家内の勤め先では、県外に行ったときには報告書提出や、まして関東方面に行った時や、そちらから家に来た時には、一週間勤めを休まなければならないなど厳しいお達しがあるとのこと。当分遠出の旅行は出来ないこともあり、家内のお盆休みの一日を利用してテレビでも紹介していた、山形県と宮城県の県境の町、最上町のJR陸羽東線、堺田駅のすぐ側にある「堺田分水嶺」に行って来た。
(山形県最上郡最上町封人の家)「尿前の関」を過ぎ「中山越え」にかかると「山形県」に入る。東京、埼玉、茨城(「おくのほそ道」には書かれていないが茨城県古河市を通る)、栃木、福島、宮城、岩手、そして宮城に戻り、山形へ。ずいぶん歩いて来たものだ。「おくのほそ道」で山形県の最初に出るのが「封人(ほうじん)の家」である。「封人」とは関所守(せきしょもり)(※関所の番人)のことである。尿前(しとまえ)の関(せき)にかかりて、出羽(いでは)の国(くに)に越(こ)えんとす。この道(み
(山形県最上郡最上町堺田)五月に「卯の花」を探して歩いたことがある。今まで見たことは当然あったのだろうが、あまり関心がなかったのである。したがって、どれが「卯の花」なのか、いまだによくわからない。これが「卯の花」…かな?『これが「卯の花」…かな?』今日は三浦の里山を1時間ちょっと散策した。ついに見つけた!(…と思う。)これが「卯の花」ではないだろうか。なんだか「卯の花、卯の花…」と探しているうちにな…ameblo.jp「卯の花」に興味を持つようになったのは「おくのほそ
県境を越え、山形県へ。まずあるのが、封人の家です。正式には、有路家住宅といいます。江戸時代初期に建てられた当時の庄屋の住宅です。国の重要文化財にも指定されています。ここは、「奥の細道」で松尾芭蕉と曾良が雨の為に二泊三日しましたが、馬と隣り合わせに寝かせられたという逸話があります。また、江戸時代の建物ですので、囲炉裏も今も現役です。
北海道帰った翌日は絶食で、翌々日はバリウム検査でした。内視鏡検査3回後のバリウム・・・何を疑っているのか想像がつきます。北海道はソロでしたので、事前に夫婦旅行も計画済なのでした。目的は"お題"なのですが、温泉直行も寂しいので仙台の「瑞鳳殿」に寄りました。4年前にも訪れていますが、今回はアジサイが見れました。門の彫刻です。空襲で焼けちゃったので再建なのですけど綺麗なのです。韓国人の団体です。私は32回渡航しましたが韓国へは行きませんでしたね。殉死した方のお墓です。ちょうど満開でした♪宿
むすびの地で芭蕉さんの句碑めぐり6封人の家は「5平泉」から西へ100m程川の北側にあります元禄2年(1689)5月15日俳聖松尾芭蕉は門人の曾良をともなって仙台領尿前の関を越え、出羽の国へと旅路を急ぎましたしかし、もう日暮れ頃になってしまいました大山を登って日すでに暮れければ封人の家を見かけて宿を求む三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す封人の家」とは国境を守る役人の家のことで、仙台領と境を接する新庄領境田村の庄屋の家有路家住宅であったといわれています
【原文】南部道遥かに見やりて、岩手(いわで)の里に泊まる。小黒崎(おぐろざき)、みづの小島を過ぎて、鳴子(なるご)の湯より尿前(しとまえ)の関にかかりて、出羽の国に越えんとす。この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。大山(たいざん)を登って日すでに暮れければ、封人(ほうじん)の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(ばり)する枕もとあるじのいはく、これより出羽の国に大山(おおやま)を隔てて
「東北林道行(1)」より「尿前の関(しとまえのせき)」。番所跡で、その昔に義経一行が都落ちの際、正妻の「郷御前(さとごぜん)」が腹痛で尿を漏らしたとの謂れがあるところです。過酷な旅で将来も定かではありません。ストレスで胃潰瘍になっても不思議ではないですよね。結局、平泉で義経と22歳の生涯を終えることになりましたし。R47には看板があるだけですが、番所跡は200m程下にあります。江戸時代には、建屋が10棟もあったそうです。現在残っているのは石碑のみです。この石碑は芭蕉の行脚80年後に建てら
奥羽山脈に降った雨が一筋の流れになり、西に日本海、東に太平洋へと流れていく分岐点。JR陸羽東線堺田駅の駅前広場にある用水路で、北から流れてきた水が東西に分かれる様が見える全国的にも珍しい分水嶺。本日のテーマはここを見て、山形そばを食べること。鳴子橋に向かう渋滞を避け仙台から川渡温泉まで裏口を通るが雲行きが怪しい。宮城と山形の県境を越え、分水嶺に到着する頃には、雨脚が随分激しくなった。ここから流れる水が遠い道のりを東西に分かれるとは面白いものだ。そして近くには、旧有路家住宅(封