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10回ある講習Ⅱの3回目。内容は(1)日本語教育史、(2)日本の在留外国人施策、(3)言語政策とある。それならこっちも一言あるぜと言いたくなるようなタイトルである。実際、信長秀吉の時代の宣教師、特にイエズス会のロドリゲスが日本大文典(これは知らなかった)を著して後輩に日本語文法を教えたり、ロシアのピョートル大帝が日本人漂流者を日本語教師にした話などは、最近読んだ本でも知っていた。長沼直兄という人が、戦後アメリカ大使館でアメリカ軍将校に対する日本語教育のために教材を作成
大僧正天海(230)【朝鮮通信使】「(寛永十三年十二月)八日黒木書院にて宗対馬守義成拝謁す。こは韓使を引つれ来りしがゆへなり。召長老、璘西堂もおなじ、仙石越前守政俊、浅野内匠頭長直、遠藤伊勢守慶利、小出対馬守吉親韓使旅中の館伴はててかへり謁し、安藤右京進重長、脇坂淡路守安元は韓使在府の饗給奉りて拝謁す。」(「大猷院殿御實紀」)「12月8日、宗義成が黒木書院にて将軍に拝謁した。これは、彼が朝鮮通信使を連れて江戸へやってきたためである。外交僧の召長老と璘西堂も同様に拝謁し
在当前严峻复杂的国际形势之下,极具参考价值的,是在江户时期对马藩中,作为幕府代理,负责对朝鲜外交实务的雨森芳洲之言:“所谓‘诚信’,就是指真诚之心,彼此不欺不争,以真实之心相互交往,这便称之为诚信。”(享保拾三戊申年十二月廿日雨森东五郎)雨森芳洲《交邻提醒》(胜海舟关系文书75,国立国会图书馆数字典藏,享保13年(公元1728-1729年),PDF第64-65页,https://dl.ndl.go.jp/pid/11222531)国立国会図書館デジタルコレクションdl.ndl.go.
久しぶりに、下蒲刈島を訪れた。瀬戸内海の離島を橋で結ぶ計画の中、1979年10月、蒲刈大橋が開通した。広島県の「蒲刈地区広域営農団地農道整備事業」による農道橋として、上蒲刈島としも蒲刈島が結ばれた。竣工当時は、国内最大の農道橋だった。トラス橋としては、県内最大の橋である。現在では、本州と安芸灘の島を結ぶ八つの橋梁で構成される安芸灘諸島連絡橋(通称:とびしま海道)の一つの橋となっている。江戸時代、瀬戸内海を東西に往来する船は下蒲刈島と上蒲刈島の間の三之瀬を航行した。下蒲刈島の三之瀬
こんばんは🌕✨お立ち寄りくださり有難うございます先月の対馬・壱岐の旅ブログの続きです。𓂃𓈒𓏸❁これは午前中の観光バスの中から撮影した対馬内陸の風景です。わたしはどうも群馬とか、栃木とかにしか思えない💦頭の中の日本地図では端っこの上にひっそり載ってる対馬。もう少し、異国の雰囲気?沖縄ではないけど例えばやんばる地方の雰囲気とか?韓国の感じが少し混ざっているとか?…そんな風に想像していたのでしょうか?この“日本そのもの”の風景が見ても見てもしっくり来ない🤣そう、ここ
こんにちは。前回の続きです。厳原に戻り、最初に萬松院という寺にきました。こちらは山門で、1615年にできたものです。萬松院は対馬藩藩主の宗家の20代義成が1615年、父の冥福を祈り創建した寺です。こちらが内部です。火災により消失したこともあり、現在の建物は1879年に再建されたものです。こちらは日本遺産にも登録されている、三具足です。三具足とは、燭台、香炉、花瓶の3点セットの仏具ことで、朝鮮国王から送られたものだそうです。萬松院内には132段の石段があり、これを登ると歴代宗家の
アイランドホッピング2島目は対馬島。因みに読み方は壱岐島(いきじま)と対馬島(つしまとう)だそうです。それでは、対馬観光スタートです金石城見事な石垣対馬朝鮮通信使歴史館まあ、朝鮮半島(韓国)の方が近いしねえ万松院この長ーーーーい石段を登るとようやくたどり着いた万松院さんのお墓。ここは歴代の対馬藩主の墓地なのですが歴代の中でも万松院さんが1番活躍したからこの墓所を万松院と名づけたようですガイドさんに活躍内容を聞いたけどほんと、頑張ったんだな。って思ったよ観光情報館ふ
前回の自身のブログで、徳川家康の命で「朝鮮通信使との外交を再現させた」のは、対馬藩主の尽力であったことに触れた。対馬は、朝鮮半島に近いから興味がある。対馬の北部からは、韓国釜山の夜景や花火が見れるらしい。対馬に親しみを持つ方法の一つとして、朝鮮王朝最後の王女を描く韓国映画「ラスト・プリンセス」を紹介する。徳恵という王妃は日本統治下の1912年、朝鮮王朝最後の王で、大韓帝国最初の皇帝の娘として生まれた。父の死後、13歳で日本へ留学、19歳で対馬藩主の息子、宗武志(そう・たけゆき
鳥越神社(とりこえじんじゃ)▶御祭神:日本武尊▶東京都台東区鳥越2-4-1651年に日本武尊を祀って白鳥神社が創建されたのが始まりです。その後、前九年の役の際に源頼義・義家父子が白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬と知り現在の隅田川を渡ることができたため、鳥越大明神と改めました。祭礼の千貫神輿は都内最大級と言われています。蔵前神社の南西0.6kmほどの場所にあり、蔵前橋通りという大きな通りに面しています。境内に入ってすぐ、大きな御神木の下に境内社の福寿神社があります。お稲荷さ
新倭館田代和生ゆまに書房鎖国の時代に釜山に日本人町があった。出島とはスケールが違う。お寺や神社、お墓、そしてやきもの窯があった。500人くらいの男が常駐しており、貿易を中心とした日韓関係を司っていた。ここの館長日記がほぼ完全な形で残されており、重要文化財になっている。おかげでいろんなことが分かる。本書はそれを頼りに書かれたものだ。ここはもっぱら対馬藩が管轄していた。対馬は米が取れなかったので100%韓国米に頼っていたそうだ。また小藩なのでかなりの割合で「駐韓経験」があった。他藩で
池内敏著『薩摩藩士朝鮮漂流日記』より、その3任を終えた薩摩藩士3人を乗せた船が薩摩国永良部島(現在の沖永良部島)を出船したのは文政二(1819)年の6月14日。暴風雨にあい、朝鮮半島の西海岸庇仁県馬梁に漂着したのが7月3日の朝。そこで7月25日まで滞在し、26日に釜山に向け出発。古群山に8月1日までいて、2日にそこを出発し、15日に半東
徳川幕府唯一の外国大使館を任された対馬藩対馬の旅①福岡空港~対馬やまねこ空港対馬の旅②鰐浦の韓国展望所の続きです。豊臣秀吉の無謀な朝鮮・明国進出(文禄・慶長の役)は双方に多くの犠牲を払って終了した。関ヶ原の戦い後、日本の統治を引き継いだ徳川家康は国内安定を優先させたいので、李氏朝鮮国とは早く和平を回復したい。一方の朝鮮国も中国東北部から勢力を伸ばして来た女真族(後に明を滅ぼして清を建国)に悩んでいて、早く日本と講和を結んでおいた方が良いと考えていた。双方
白山上から本郷通りを駒込方面へ曹洞宗のお寺、養昌寺の門前左脇に「半井桃水の墓」文京区教育委員会の案内板半井桃水は、対馬藩藩医の家に生まれ東京朝日新聞に入社新聞に連載小説を書いたり、日露戦争従軍記者として活躍したそうです小説家になりたかった樋口一葉は桃水の元を訪ね、教えを乞い「一葉」というペンネームは、この頃から使い始めたそうです桃水は一葉に毎月いくらかのお金を融通していたそうで二人は恋愛もしくは愛人関係であったのではとも言われていますもしかしたら貧しい一葉
江戸時代の日韓外交の仲立ちをした対馬藩の宗家の文書が公開DBになるとか!江戸時代の日韓外交は、対馬藩が適当に文書を偽造して、お互いの面子(メンツ)を潰さないようにして仲良くさせていた。現在の日本は西欧的な正攻法で、韓国は面子を保つ言い訳をしながらの変則的な出任せで外交を進めている。江戸時代の外交方法が正しいとは言えないが、江戸時代の外交研究はしておいた方が良さそうだ。参考対馬宗家文書をネット共有へ全国10万点をDB化長崎大教授ら西日本新聞(2019.1.8、参考)江戸時代、朝鮮と
ビーコムが品薄欠品だそうで、oneはあるが。上等なお品を少数売って儲け出てた会社が、売れ売れになったらウッハウハがカーニバル〜!ええこっちゃで。3年使ったから私も買い替え時ですね(んで、ググったら欠品だった)対馬、鎌倉時代の蒙古襲来の島800年も前に「よっしゃここで迎え撃ったろ」って思った北条さんすごい。地形や島の感じ「海山山山海山山海」って感じ。登って降りて登って・・・伊豆に似てる、海側には小さな農道も多く、道の整備もイマイチ(アスファルトの真ん中らへんが割れ
①からの続きになります。長ーい百雁木と呼ばれる石段の上に対馬藩主の宗家一族の墓所である御霊屋(おたまや)があります。石段の途中に、藩主の側室や子供が祀られた中御霊屋があります。ほとんどが花崗岩でできた五輪塔です。石段を見下ろすと随分登ってきたのが分かります。上まで来ると推定樹齢1200年の大きなスギの木が三本あります。石垣が何段も連なっていて山城みたいです。大きな寺はいざという時に城郭として使えるような隠れた造りになっていた、ってよく聞きますね
対馬空港から対馬の政治・経済の中心地にあたる厳原(いづはら)までバスで移動し、そこから西に600mほど歩きます。この日はいい天気どころか暑くて真夏日でした。マスクしてこんな日差しの下で歩くと変に日焼けしないか気になりますね。10月なので油断して日焼け止めを忘れてました…。右側に城跡の石垣が続きます。金石城(かねいし)の復元された櫓門。元々天守は無くこの櫓門で代用していました。金石城は対馬を代々治めていた宗氏が築いた平城で、朝鮮通信使をここで迎えていました。城跡は国史跡に指
今日のレンタカーパジェットレンタカー/DAIHATSUアトレー¥3,7218:30発ふれあい処つしま:情報センター&資料館〜初日にここにくるべきでした!宿泊先から徒歩3分日露戦争ロシアバルチック艦隊との日本海海戦の場所一応、ドライブでの半日と全日のモデルコースがでてます!対馬藩お船江跡〜1663年対馬藩御用船の係留場雰囲気はあるが・・、この一角だけ孤立you(´・ω・`)σ"港に続く!以下、続く!
海神神社?????石と厚木で組んだ小屋?????北海道で言うと、鰊番屋みたいなものかな?9/24追加分かった。ポスターに書いてあった!藻小屋というらしい。岸辺に打ち上がった藻を回収して乾燥させ肥料に貯蔵するための小屋だって(⑉・̆⌓・̆⑉)ダッテこの石垣で組んだ塀が所々に見受けられる。やはり、城下町の風情が残っているのかな?こういうの好き♥❤🤗海、綺麗なんです!分かりますか、名前が分からないが、風情のあるので神社
上野東照宮から、上野御徒町駅まで行き、そこから、都営大江戸線で蔵前駅まで行きました。そして、歩いて銀杏岡八幡神社に向かいました。すると、途中で鳥越神社があることを思いだしました。そこで、鳥越神社にお参りに行くことにしました。(駅からは歩いて10分位です。)鳥越神社の御朱印は、七夕限定のものをいただきました。本殿脇にある志志岐社は、江戸時代対馬藩より勧請したそうです。そういえば、先日、るろうに剣心の映画を見ましたが、剣心と対馬藩が戦っているのを思い出しました。こちらの御朱印も、七夕限定の
対馬藩お船江跡鎖国中も朝鮮とは交流があって、切っても切れない隣国。万松院対馬藩主、宗氏菩提寺。宗氏の出は謎が多いらしい。旧島主の阿比留氏が故あって改名したとか、安徳帝後裔だとか。宗姓は見かけなかったが、宗氏に滅ぼされた旧島主の「阿比留」が付く会社名や人物をチラホラ見かける。阿比留氏って、上総で大和王権に滅ぼされて鬼にされた豪族と同名だが、関係は無いらしい。立派な墓。日本三大墓だとか。宗家と言えば、国交回復に係る国書偽造、柳川事件。朝鮮と徳川の間に挟まれた宗氏の労苦は計り知れないが
コロナ緊急事態中人手も無く閑散。営業しているのは・・・「量り売り味噌屋さん」と「佃煮屋さん」ぐらいもう少し前ですが、鳥越神社にいってきました鳥越神社は、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まりとされ、前九年の役のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り隅田川を渡ることができた。それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神と改めたそうです。鳥越神社【鳥越明神】-東京都神社庁(tokyo-jinjacho.or.jp)大玉
筑前六宿と呼ばれた、黒崎~原田を過ぎると、当時の国境を越え、肥前国に入ります。最初の宿場がこの田代宿になります。田代宿の東口にあたるこの昌町の追分石(道路標識)には「右ひこ山道(日田英彦山方面)左こくらはかた道(長崎街道)」と彫られており、二つの街道の交差点であったことを示しています。江戸時代後期の記録では、「人家500件計、茶屋、宿屋多し」ということで大変栄えた宿場だったようです。街道筋の雰囲気を色濃く残す今町付近。田代の町は、対馬藩領であ
前回からの続きです(令和元年9月28日のことです)前回の場所から姉小路通りへ向かうと、橋(姉小路橋)を渡ったとこの右手すぐに石碑と解説板があります桂小五郎寓居跡・徳川時代対馬宗氏屋敷跡住所・中京区姉小路通木屋町西入るこちらも石碑に2つの事柄が書かれているパターンです解説板解説には結構細やかに時代の流れが書いてありますとりあえずかいつまんで挙げておきます寛永19(1642)年ごろは、のちに京都代官となる角倉了以の孫・平次(厳昭・かねあき)の屋敷地であったその後、対馬国の大名・宗
東京大学史料編纂所のデータベースに『勤王殉国事蹟』という史料があります。幕末維新期に志半ばで倒れた人々の事蹟をまとめた全六十二巻に及ぶ史料なのですが、その最後の六十二巻めに100名あまりの対馬藩の人々の履歴が収められています。残念ながら阿比留鋭三郎に関する記載はありません。が誰かつながりのありそうな人物はいないかと探してみたところ、2名いや厳密に言えば3名の「関わりありそうな人」がいました。言うまでもなく全員「阿比留」さんです。3人の阿比留さんを紹介する前に幕末期の対馬藩について少し
『ty・coon[<Jap.「大君」]『幕末の日本の将軍』と辞書にある。英語になったのが幕末なのであろうが、「大君」の言葉自体は、家光か家綱将軍あたりから使われている。しかし、普通は、日本人でもあまり知らないであろう言葉を、なぜ「英語」なってしまったのでしょう。「スシ」「サキ(ケ)」「マンガ」とだれでも知ってる日本語でなく「タイクン」などが「英語」に?結論からいえば、「徳川幕府の巧妙な外交戦略」です。徳川幕府開闢当時を思い起こしてください。秀吉の朝鮮出兵で、隣国朝鮮とは敵対関係で
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【幕府の姿勢を批判した勝】文久三年(1863年)のお話の続きです。小笠原長行らへの処分があったことを知った日、勝は日記で江戸の重臣らに対し批判の目を向けています。「江戸にては、…(中略)…必ず奸者あって、これ等を企てしか。東士これ等を察せず、烏合未熟の軽卒を率いて上坂し果たして共謀に乗って、進退窮迫、議論一致
こんばんは、mmm(まーママ)です。中冨記念くすり博物館見学の続き。見どころ満載で、3日間にわたりレポートしてます。博物館の一画に、「とす・維新博記念コーナー」があったので、佐賀県鳥栖市についてしばしお勉強。「鳥栖」といえば、鳥栖ジャンクション。九州自動車道と長崎自動車道、大分自動車道を接続するジャンクション。九州の主要都市を結ぶ接点の位置にあり、九州で最も交通量の多いジャンクションだそうです。鳥栖市が東西・南北を結ぶ地点にあるからこそ、「田代売薬」配置売薬
金石城の奥に伸びる参道。その先に構える山門。対馬藩宗氏の菩提寺です。◆万松院◆溢れる緑の中で存在感を放つ山門。山門境内で創建当初から唯一残るもので、対馬最古の建造物と言われています。重厚で荒々しい石垣と塀が対馬らしい。塀の先には藩主墓所があります。対馬藩主宗家墓所(国指定史跡)反対側に周り境内へ。*拝観料¥300庫裏雨上がりの朝。漂う厳かな空気。御本堂<由緒>天台宗鐘碧山万松院創建:元和元年(16
1泊2日対馬一人旅、2日目「うどん茶屋」でランチの後は、万松院と金石城跡へ向かいました。今回の旅で初めて対馬の中心地区の厳原(いづはら)に入ります。こちらは、対馬の大動脈国道382号と万松院に向かう道との交差点です。右手に東横インがそびえ立ち、左手に大きなショッピングセンターがあります。いづはらショッピングセンター・ティアラ対馬市役所対馬は6つの町に分れていましたが、2006年に合併して対馬全域が対馬市となりました。手前にある金石城跡から見学する