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☆第18回トカラ列島島めぐりマラソン大会・悪石島編10月5日に開催された「第18回トカラ列島島めぐりマラソン大会」に参加しました。知る人ぞ知る「離島めぐりマラソン大会」。1日で7つの島を走る大会。つまり1つの島を走ったら次の島へ船で渡り、次の島を走ったらまた次の島へ。それを1日かけて7つの島を走ります。ちなみに船での移動は参加者全員になりますので、速くゴールしても船は一緒です。5つ目の島は、悪石島!4km、35分制限対馬丸の慰霊碑に平和を誓います。島最大の難所です。こ
恒例の旭堂南照独演会。とても聞きやすい講談です。最近は、講談を聴く機会が減ってしまって、久しぶりの講談でした。近所(自転車で30分)に講談の常設小屋、此花千鳥亭があるのですが、近いほど行きにくいという感じで、最近行けてないです。(こちらに行くと、旭堂南陵師匠の一番弟子の旭堂小南陵さんの高座を見ることができます)趣味が多様になってしまって、行くところが増えて、広く薄くになってしまっています。(;∀;)講談は、一人の演者の高座に引き込まれるのが素晴らしいです。話しているだけなのに、まるで、
令和6年沖縄出張対馬丸記念館に行ってきました。ゆいレール県庁前駅から徒歩15分程と近いので、いつか訪問したいと思いつつ、今回やっと訪問できました。奇しくも今年は対馬丸事件が起きた1944年から80年の節目の年。記念館が出来たのは2004年なので、戦争関連の施設では新しい方だと思います。入場料500円でした。対馬丸の模型対馬丸は学童疎開船で、1944年8月22日、鹿児島県・悪石島の北西約10㎞の地点を航行中、米潜水艦の魚雷攻撃により沈没。多くの乗船者が亡くなりました。奇跡的に救助さ
本屋さんも古本屋さんもどちらも行きます📚️今日は仕事帰りに一番近い本屋さんへ行きました小さな本屋さんです今日は文庫本を数冊買いました梯久美子さんの戦争ミュージアム~記憶の回路をつなぐ他大久野島予科練原爆の図対馬丸無言館等々読み、訪ねたいと思います母方の伯父は海軍だったと聞いていましたが、もっと話を聞いておくべきでした大久野島は行きました🐇原爆の図はみたことはありますし、絵本や本を持っていました
※作品評価は◎=おもしろい○=ふつう△=う~む×=よくない珍=珍作8月後半の民放は14本。レギュラー枠がほぼフル稼働し、ダイドードリンコ“日本の祭り”シリーズや特別放送なども加わって、とても賑やかな期間になりました。前作(『彷徨い続ける同胞』『侵略リピート』)がとても印象的だったため、期待値が勝手に上がってしまったテレビ朝日『続・彷徨い続ける同胞』と山口放送『戦前リアル』は、肩の力が入り過ぎたのか何なのか、どちらもひたすらカットと解説を繋いで内容を詰め込んだ凡作に。内容が悪いと
「護国寺」へ護国寺w1.nirai.ne.jp隣には「対馬丸犠牲者の慰霊碑」があるんや🚢しっかり拝ませてもろたわ…せやけど汗だくやで…💦💦💦熱中症になりかけたので、『ブルーシールパレットくもじ店』でクールダウン🍨「マンゴー」を注文つ、冷たい神戸の姉さんと「瀬長島」で食ったのを思い出すで…『瀬長島ウミカジテラス』朝食後、「
先日このような演奏会に少年少女合唱団が出演させていただきました。「海のトランペット」は池辺晋一郎先生が作曲された組曲で、第二次世界大戦中、沖縄の学童疎開船「対馬丸」がアメリカ軍によって撃沈された悲劇を題材にした作品です。35年前の初演の時から、児童合唱の部分を須磨ニュータウン少年少女合唱団が担当させていただき、その後、何度も演奏する機会を与えていただいています。この度は初演当時に小学生だったメンバーがパパになり大人の男声で参加され、彼の娘さんが児童合唱に、と親子揃って舞台に
先日、朝のニュースを観ていたら学童疎開船・対馬丸のことを取り上げていた。対馬丸沈没から80年、というニュースだ。対馬丸は日本郵船の貨物戦だが、第2次世界大戦中の1944年8月22日、沖縄から本土へ疎開する子供たちを乗せて長崎へ向かう途中米軍の潜水艦に攻撃されて沈没した。ウィキペディアの記事によると、撃沈による死者は1,484名。その多くは子供達だ。対馬丸が撃沈された時、対馬丸を含めた3隻の民間船で船団が組まれていた。ニュースでは同じ船団の船から対馬丸の沈没を目撃した女性の証言を
こんばんは明日から奈良バサラ祭り(毎年8月の最終土日)が始まるというのに、今日(8/23)も京都は真夏の猛暑でした。快適な秋はいつやってくるのでしょうかバサラ祭りwww.basaramatsuri.com今日の写真は、京都市北区・中京区・左京区で今日撮影した日常写真です今日の読売新聞朝刊の31面(社会面13S)に、「撃沈80年『悲しみ薄れず』学童疎開船『対馬丸』慰霊祭遺族ら祈り。来年度、28年ぶりに対馬丸の水中調査。」という見出しの記事〈横山潤記者〉が掲載されてい
8月23日午後7時の空🌇こんなに真っ赤な夕焼け久しぶりに見ました台風接近してるのかな…🌀暑さが厳しくて台風の生まれる場所が明らかに変わってるのが分かります海水温度が上昇して大型台風に発達して本州へいく可能性大のようです。皆さん、気をつけて早めの対策をして下さいね昨日は対馬丸が魚雷攻撃を受け沈没から80年祖母の弟(大人)が命を落としたそうです1788人を乗せた疎開船犠牲になり名前が判明した学童は784人私は未だに対馬丸記念館へ行ったことがない…その悲
8月15日は玉音放送が流れ、終戦となった日ですが、戦争は終わりませんでした。https://twitter.com/odensamurai0421/status/18263369932757734161944年8月22日「思い出すと胸がじーんとなる」暗闇の中、海へ落ち3日間漂流した9歳一緒に乗船した兄亡くす疎開船「対馬丸」撃沈から80年(沖縄タイムス)-Yahoo!ニュース[のみこまれた未来対馬丸撃沈80年](1)福岡市内の自宅マンシ
このブログを読んでるよい子のみんな、“悪石島(あくせきじま)”って知ってるかい?鹿児島県の種子島(たねがしま)&屋久島(やくしま)と、奄美大島(あまみおおしま)とのほぼ中ほどにある緑豊かな島なんだ。正確には、鹿児島県鹿児島郡十島村に属するんだ。実は去年(2023年)、“悪石島(あくせきじま)”の名前を何度もニュースで聞いたんだ。9月に群発地震が起こったのさ。実は地震が多いエリアとされるトカラ列島にその悪石島はあるんだ。2021年には、震度5強も記
80年前の悲劇学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【前編】攻撃されても「味方はスルー」の本意|乗りものニュース(trafficnews.jp)80年前の悲劇学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【後編】日米で明らかに異なる扱いの差なんと米潜水艦は“英雄”待遇|乗りものニュース(trafficnews.jp)
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー2024年8月22日19時10分沖縄県沖縄「対馬丸」米軍による撃沈から80年那覇市で慰霊祭太平洋戦争中、沖縄から九州へ疎開する子どもたちなどを乗せた疎開船「対馬丸」がアメリカ軍に撃沈されてから、22日で80年です。那覇市では慰霊祭が行われ、生存者や遺族たちが黙とうをささげました。80年前の1944年8月22日、沖縄から疎開する子どもたちなどを乗せて九州に向かっていた疎開船「対馬丸」。鹿児島県の悪石島の沖合でアメリカ軍
対馬丸(日本郵船、6,754t)が、トカラ列島の平島と諏訪之瀬島付近において、1944年(昭和19年)8月22日にアメリカ海軍の潜水艦ボーフィン(USSBowfin、SS/AGSS-287(バラオ級))に撃沈されてから80年になります。≫撃沈された対馬丸(日本郵船、6,754t)は、主に兵員や軍需物資の輸送の任に当たっていた様ですが、撃沈された時は学童疎開の任に当たっており1,661名の学童及び介添者が搭乗していた様です。(敗戦国の我が国への非人道的行為は許容される様ですが、不思議と逆の行
対馬丸撃沈80年3日漂流した女性-Yahoo!ニュース[のみこまれた未来対馬丸撃沈80年](1)福岡市内の自宅マンションの仏壇には、あどけない表情の男の子の写真がある。比屋根安忠(やすただ)さん、享年12歳。news.yahoo.co.jp
2014(平成26)年6月、現上皇・上皇后両陛下が沖縄県那覇市にある慰霊碑に献花され、また記念館で生存者や遺族と懇談されたという報道で、この事件があったことを初めて知った方も多かったと思います。今からちょうど80年前の今日、民間人・学童を乗せた対馬丸が、アメリカの潜水艦による魚雷攻撃によって沈められたことを・・・。日本郵船所有の同船は、英・グラスゴーで建造され1914(大正3)年に進水した全長135.64m・全幅17.68m・6,754トンの貨物船。第一次大戦中は
2024年7月29日付け山陰中央新報に「さまよう民主主義~国に通じない沖縄の声」の記事が掲載され、そこに対馬丸記念館館長の平良次子氏の言葉が掲載されていました。「語り部がいなくなっても、沖縄戦の記憶が風化したなんて、絶対に言わせたくありません。戦争を体験していない私たちだからこそ、沖縄戦を俯瞰的に見ることもできるし、体験した人の気持ちになって想像し、考えることだってできます。」平良次子氏の母・平良啓子さんは、学童疎開船「対馬丸」の生存者の一人でした。お母様は小学校教員となり平和学習に
◾️対馬丸撃沈80年相変わらず、猛暑は朝から・・・。国内食品メーカーなど人手不足も含めきめ細かく商品を提供してきたがいよいよ商品を淘汰する時期に入ったようで商売からすると当然だろう。人件費の最低賃金やエムポックスの話題もあるが気になったニュースは対馬丸である。小学2年生のころ55年前に担任のベテランおばあちゃん先生がテレビニュースでコメントする姿にローカル番組ながらも不思議だったが乗船していた学童だったことを思い出す。米軍から撃沈されて生き延びた方だから
政府、対馬丸の水中再調査へ戦後80年を視野に「記憶の継承」https://news.yahoo.co.jp/articles/3158ac826dd8db2dc93e97fb00fcf6bf7d0f8637学童疎開船「対馬丸」で鬼ごっこしていたが魚雷で撃沈、いかだで2日間漂流…抱え続けた父は海に沈むhttps://news.yahoo.co.jp/articles/d47012f492726c44c41382ef260b477c3a7a85b9
政府、対馬丸の水中再調査へ戦後80年を視野に「記憶の継承」(毎日新聞)-Yahoo!ニュース政府は、太平洋戦争中だった1944年に米軍の潜水艦攻撃で沈没した学童疎開船「対馬丸」について、東シナ海に沈む船体の再調査に乗り出す。内閣府は、関連予算として1億円程度を来年度予算で要求する方針だ。news.yahoo.co.jp
太平洋戦争中の1944年8月、沖縄を出航して米軍に撃沈され、多くの学童と共に沈んだ疎開船「対馬丸」。1997年、対馬丸事件の遺族会会長が、船体捜索を橋本内閣で初入閣した鈴木宗男沖縄開発庁長官に依頼。歴代大臣は誰も動いてくれなかったが、鈴木氏ならばと涙ながらに頭を下げる。鈴木長官は承諾。
海の底に沈む難破船決して浮かび上がることはない恋の終焉人生の終焉はどうだろう延命はしないそれを本人が家族が納得して決めたとき人生船の行き先はどこでしょう【終戦の日】を前に自分で決定することのできなかった御本人のご家族の無念を思う1944年8月22日学童疎開船【対馬丸】撃沈される疎開学童784人死亡救助された人々は【対馬丸】が撃沈された事実を話すことを禁止された
イオン琉球をパトロールして見つけたキャンペーンハガキこの、オキメイ(沖縄明治乳業)のキャンペーンさっき対象商品食べた⬆長男セレクト:ちんすこうアイス夫氏セレクト:きなこもちちんすこうアイスは私もいただきましたが、砕けたちんすこうがゴロッと入っていて美味しー『レシートとってあるよね』と、応募しようとしたとき・・・賞品の発送は沖縄県内に限るとのことおぉ、、悲しみそりゃ、輸送コストかかりますからね仕方ありません。。アイスは美味しくいただいたので、オッケーです今日は、午前中に
うるま市のアメリカ軍基地私たちの月桃の畑はうるま市の浜比嘉島にあります。うるま市は市町村合併で大きく広くなりました。・・・・ということで、ところ変われば・・・・海軍基地があります。一般道から見ることのできる範囲では桟橋があるだけです。見えないところに多種多様の施設、設備があることでしょう。・・・と、思われます。軍事用の貨物船が停泊していました。グレーに塗られた大型貨物船?と思いました。少し引いてみて見ると・・・。イージス艦かな?と思しき船がや
(2024年度-No.43)行った日:2024.4.21(日)~24(水)ブログ作成日:2024.5.30(木)************************一昨日恒例の発表会にいってきました姪のピアノ伴奏で義姉が「愛の賛歌」を原語で歌うのですがボイストレーニングの成果で80を越えてもマイクなしでホールに響き渡る声で唱っていました参加者の最高齢93歳の男性もマイクなしで北原白秋作詞中山晋平作曲の「砂山」ほかオペラ曲を朗々と唱っておられる姿にいた
沖縄首里第二国民学校元生徒有志で組織する楢木野会発行の『五丈の松と大いちょう』を読みました。太平洋戦争末期の昭和19(1944)年8月22日の夜10時過ぎ、アメリカの潜水艦から発射された4発の魚雷を受け、わずか10分余りで沈没した那覇の国民学校の児童を乗せた対馬丸。乗船していた834名の学童のうち生存者はわずか59名。対馬丸の犠牲者の半数は、学童疎開の子ども達でした。首里の国民学校の学童達が乗船した船は「暁天丸」。わずか6~700m先であっという間に沈んでいった対馬丸を、首里の子ど
沖縄那覇市首里にあった首里第二国民学校の学童疎開体験者有志で組織する楢木野会発行の『五丈の松と大いちょう』を読みました。編集委員長の玉城盛松さん、奥様のよし子さんから届けていただいた記念誌です。胸が熱くなるほど感動する内容でした。特に感動したのは次の5点です。・「対馬丸」と一緒に魚雷の海を渡った子ども達であった。・ひもじさ・寒さ・寂しさに耐え、家族の残る沖縄戦の「全滅したらしい」の結果を知らされた子ども達であった。・昭和62年に「楢木野会」結成後、30年間で400回近い定例会活
太平洋戦争末期の学童疎開に関する情報を集めるため、インターネット検索する中で、2023年6月22日付け琉球新報の次の記事が目に留まりました。その記事の一部を紹介します。~学童疎開の手記、36年越しに発刊首里第二国民学校の体験者「沖縄楢木野会」~首里第二国民学校(現在の那覇市立城西小学校)の学童疎開体験者らでつくる「沖縄楢木野(ならぎの)会」はこのほど、学童疎開記録集「五丈の松と大いちょう」を発刊した。米潜水艦に撃沈された対馬丸と同じ船団などで集団疎開した。熊本・阿蘇での疎開体
少年の頃、僕の中で、沖縄を形作った大きなもの。戦火の中の学童船沖縄疎開船「対馬丸」事件石野径一郎著昭和52(1977)年6月1日第1刷発行確か、小学5年か6年生の時に読みました。那覇の対馬丸記念館を初めて訪れた際、40年以上前に胸に刻まれた文章が、ありありと蘇ったのは自分でも驚いた。本を読んだ時、同じ年頃の子供たちの悲劇を知って、戦争の残酷さを身近に感じたと思う。ひめゆり学徒隊の悲劇の方が有名なので、観光の際、ひめゆり平和祈念資料館を訪れ