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後水尾天皇が江戸幕府と戦った天皇として取り上げられていました。原因として天皇として耐え忍ぶ出来事が4つあったとのこと①禁中並び公家諸法度皇室は基本的には法律で縛られないのが初めて規制がかけられる。天皇の仕事は学問であると書かれ政治にはタッチしないことが書かれている。そして人事にまで幕府が介入する。圧力がかけられる。②紫衣事件天皇が一番位の高い紫の衣を、僧に与えるというものがあったが、幕府が勝手に与えてはいけないと規制をかけられる。屈辱的なことだった。③秀忠の娘で
青漆爪紅台子は、元伯宗旦が東福門院のために好んだ、華やかさと風格を感じさせる棚ですが、東福門院とはどのような人物だったのでしょうか。東福門院像光雲寺蔵東福門院(諱は和子まさこ)は、1607年に徳川家康の内孫として、江戸城大奥で徳川秀忠と江との間に誕生しました。1612年に後水尾天皇が即位すると、家康は和子の入内を申し入れ、1620年に女御として宮中に入りました。家康は徳川家が天皇の外戚になることを期待して和子の入内を申し入れましたが
緊急事態宣言前夜の昨今、いにしえの燦爛文化に思いを馳せるのも一興。往来自粛前に訪ねた、修学院離宮は現在も参観見合せが続いているようです。修学院山荘(離宮)がほぼ完成した寛文年間(1661〜73)には、現在と同じように、町人を含めた団体の見学が行われていたそうです。(面白い事に当時も現在の許可書と同じように「見物之割符」なるものが発行されています)公家・町人社会が未だ隔絶していなかった寛永文化の名残りのようです。このように公家・町人そして武家が融通無碍に交流して、京都に花開いた寛永文化は
★本編・動画配信開始!<復刻版>竹内流!誇りのもてる日本史11平成28年6月19日竹内睦泰講演会江戸時代後期の歴史と文化徳川将軍家桃山文化、寛永文化、元禄文化、化政文化について質疑応答。本編ご視聴のお申込みは宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→<復刻版>竹内流!誇りのもてる日本史11
★平成28年6月19日竹内睦泰講演会江戸時代後期の歴史と文化。徳川将軍家。桃山文化、寛永文化、元禄文化、化政文化について。質疑応答。2019年7月より順次本編配信の予定。お知らせをお待ちください。
サントリー美術館で開催されている『寛永の雅----江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽----』展へ行ってきました。会期:2018/2/14(水)〜4/8(日)https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_1/17世紀。将軍徳川家と後水尾天皇家にまつわる、豪華な寛永文化の品々を見ることができます。(中盤、館内には家系図があったので、政治的な背景を窺えたのも面白かったです。)特に、後水尾院