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「楽しきと思うが楽しきもとなり」江戸時代の老中松平定信の言葉である。松平定信は、八代将軍徳川吉宗の孫で、英明な方だったので、将軍職を継ぐことも期待されたが、政略により白河藩の養子に出され、将軍就任の道は絶たれた。その後、幕閣に入り、老中を務め、『寛政の改革』をしたが、あまりにも倹約を強いたことで反感を招き、失脚の憂き目にあった。さて、「楽しきと思うが楽しきもとなり」の言葉だが、その意味は、「楽しい」と自らそう思うことが楽しむ大本(おおもと)である。
来年2015年の大河ドラマは「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」(つたじゅうえいがのゆめばなし)というタイトルです。その原作にもなっているようなので、再度読み直しました。ーーーーーーータイトルの最初の二文字「蔦重」は、本名・蔦屋重三郎(1750~1797))の略で、江戸中期に活躍した版元(はんもと、今の出版社)です。蔦重は、戯作・狂歌本・錦絵などを出版しましたが、目利きの力があり、歌麿と写楽を世に送りだしたことでも有名です。その喜多川歌麿(1750頃~1806)は、
山のツツジ紅白ピンク山桜と共に山を賑わす山笑う、が季語の意味が少し分かるさて、逆説の日本史江戸大改革コミック版やはり活字ばかりより漫画想像力が衰えてきたのか眼目は「朱子学」何となく中華の国からの教え幕府に忠義の心を植え付けるためと教えられてきたつまり戦国時代の武士は学んでないので同じ武士でも大きく違う士農工商の身分制度は朱子学から特に商これを賤しめ後には商は詐欺なり、と云った人も経済大国などと誇り義務教育から投資の勉強をする昨今隔世の感が強い今の常識
永井紗耶子さんの「きらん風月」を読みました。永井さん、今年1月の作品。直木賞受賞後の1作目です。江戸時代のお話。田沼意次の後に松平定信が老中になり、飢饉もあった事から寛政の改革がありました。ただ贅沢を禁じた事から、文化人に影響が。そんな時代を学校で習ったなぁ?と思い出しながら、読みました。お話は、、筆という卵が生み出すのは、武者か美女か、それとも鬼か。東海一の文化人と、松平定信の交流が心を揺さぶる。──直木賞受賞第一作!かつては寛政の改革を老中として推し進めた松平定信は、
本家の浜松藩主井上正モト(いのうえまさもと)の力を借りて、分家である下妻(しもつま)藩主井上正広(いのうえまさひろ)は、遠州茶の取引に携わることになりました。同じく分家の高岡藩主井上正紀(いのうえまさのり)は、茶と、同時に運ぶことになった米の輸送のための船の手配に手を貸しました。正紀の近習の植村仁助(うえむらにすけ)は、下妻藩と浜松藩の荷を運ぶ二艘の船の護衛役の一人となりましたが、覆面姿の四人の侍に船上で襲撃されました。二艘の船ごと荷を強奪され、下妻藩と浜松藩の護衛役は、殺されまし
『白樫の木の下で』は、改名した青山文平としての最初の作品です。とにかく、おもしろい作品です。あっという間に読めると思います。まずは江戸時代、松平定信の時代に、剣術に賭けた三人の青年たちの青春小説です。そして、残虐な、大膾(おおなます)の辻斬り事件の犯人を追うミステリーです。更には、まことにぎこちない恋愛小説でもあります。登場人物にはそれぞれの強い個性があり、一人一人にひきつけるものがあります。村上登(むらかみのぼる)は、知る人ぞ知る佐和山道場の高弟ですが、<二代続く無役の小普請組
先日読んだ西條奈加の小説『六つの村を越えて髭をなびかせる者』は、江戸時代に何度も蝦夷地探査の任にあたった最上徳内を取り上げたものでしたけれど、蝦夷地を積極的に開発しようと考えた老中・田沼意次の肝煎りで送り込まれた蝦夷地見分隊が江戸に戻ってみれば一大政権交代が起こっており、前政権の中心人物であった田沼の失脚により、見分隊自体が公儀と関わりないものにされてしまった…というひと幕がありました。田沼意次に代わり、政権トップに立ったのが松平定信であった…とは夙に知られるところながら、本書その他を通
松平定信「徳不孤必有隣」「徳不孤必有隣」(徳は孤ならず必ず隣あり)人間は、一人では何も出来ない。徳のある人は、必ず周囲に人がいるという意味でしょうか。この書を書いた人は、「寛政の改革」で有名な、松平定信です。定信は、文武両道の人で、和歌、書も多く遺されています。定信は、八代将軍吉宗の孫にあたります。田安徳川家田安宗武の次男。天明3年奥州白河藩に養子、三代藩主となります。間もなく、天明の浅間山の大噴火に遭い、天明の飢饉にも遭遇します。そのため困窮した財政の立て直し
ひとつ前の当ブログで書いたように、ユーキャン主催の「新語・流行語大賞」は最初から「政権に不都合な言葉」を意図的に外して候補を発表しているようです。ノミネートにすら選ばないというのは、「モリカケ」とか「こんな人たち」といった言葉を国民の記憶から消したいからです。ノミネートに入れてしまうと、この時期に過去の「新語・流行語大賞」を振り返るときに「記憶」が蘇ってしまいますからね。「ああ、あのときはアベ晋ゾーがモリカケ問題で追及されていたな」、「総理のご意向と書いてあったんだよな」「桜を見る会ってあっ
翌朝は、歴史探訪の続きで、清澄白河駅の南東周辺を歩いた。まずは清洲橋通に面した共同住宅の清洲寮を見に行った。全66室で、デザイン事務所が8割を占める。戦前の1933年(昭和8)に建築された個人経営のアパートで、今では常に入居待ち状態が続いているほどの超人気物件だそうだ。2ヶ所に出入口がある南側には木々に囲まれているこのすぐ南にある浄土宗成等
こんばんはぴよぴよ侍です今回は私が尊敬している人物の1人である松平定信公について書いていこうと思います※本記事の写真はネットからお借りしています松平定信公の簡単なプロフィール陸奥国白河藩第三代当主定綱系久松松平家九代当主祖父は徳川家第八代将軍・徳川吉宗公1759年1月25日生まれ、1829年6月14日没諡号:守国公神号:守国大明神主な功績:寛政の改革(1787〜1793)南湖公園造庭(1801)などなど…松平定信公は十代将軍の世継ぎにと望まれていたものの、当時政治の実権を握
今日は、「オットセイ将軍」とも言われている第11代将軍家斉(いえなり)について書きます。家斉は、将軍職そして将軍職を退いた後も大御所として約50年間も幕府の中心として君臨します。また、後年は、政治に対しても関心を失い幕府運営を疎かにし、その上に贅沢の限りを尽くしたために、幕府の財政が破綻、そしてこれが徳川幕府の権威をも失墜させ、これにより、徳川幕府崩壊への道そして、幕末の動乱へと進んでいきます。それでは、そんな家斉の人生を見てみましょう。家斉の将軍就任までの時代家斉は、
財政再建、増税、出版規制、いつの時代だっていうくらい今とかぶりますね。
こんにちはぁ〜💕たみちゃんでぇす💕お目醒めはいかがですかぁ?😊東京は天気になってきて、いよいよ晴わたっれきました🌞そして、気温も急上昇中でぇす🌞アセンション症状だけでなくって、熱中症にもご注意くださいねぇ〜💕朝、仕事をしてから、ウォーキングをしつつ、実家に行って、父の世話をしてきました😊父が少しずつ元気になってきているみたいで嬉しいわぁ〜💕このまま改善の方向にいきますようにぃ〜💕午前中に仕事を終えて、実家に行く前にセッションルームの窓から
ヨーグルトに合うフルーツは?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようヨーグルトの日ヨーグルトを研究したロシアのイリヤ・メチニコフの誕生日にちなみmeijiが制定ヨーグルトは飲んだり飲まなかったり…腸内フローラを作るには連続して飲んだ方がモアベターらしいのですがモアベターよ…は、小森のおばちゃまの口癖英語で書くと、morebetter〜○○の方が、より良いって意味〜した方がいいわよ…的な?片岡鶴太郎が昔モノマネしてたかと
¶1759年1月25日、老中、白河藩藩主で、寛政の改革を行った松平定信が生まれました。画像は、隠居後に綴った随筆「花月双紙」。「学問の事」「夫婦の道」「老衰の事」など、さまざまな事柄について所感が記されています。pic.twitter.com/OtLduylTBG—国立公文書館(@JPNatArchives)January15,2016〔午後0:00·2016年1月15日〕徳川家重:正徳元年12月21日(1712年1月28日)生まれ。大岡忠相:宝暦元年12月19日(
「現在の我が国は内憂外患に晒されている」と仰る方も多いが、これはいつでも国家であるかぎり、当たり前の状態ではないだろうか。江戸期、三つの大きな改革があった。享保元年(1716年)に将軍徳川吉宗によって開始された「享保の改革」、天明七年(1787年)に老中松平定信が始めた「寛政の改革」、そして天保十二年(1841年)に老中水野忠邦によって始められた「天明の改革」である。試験にもよくでるから覚えている方も多いだろう。それらの特徴は先の2つの改革が藩政改革であり、天明だけが財政改革である。享保の改革は
仲本工事さんがお亡くなりになったというニュースがありました。交通事故という突然のことで悲しいです。ドリフターズ、まさに私の小学生の頃大人気で、私も毎週見ていました。ドリフの笑いは時代を超えて何度も再放送され、私の子どもも大好きで小学生の頃はDVDをレンタルしてきて見ていました。8時だョ、全員集合!なんて、子どもたちの笑い声や、ドリフメンバーに危険を知らせる声など生き生きとした子どもたちの姿もそこにあるんですが、今、こんな番組もないし、子どもたちがこんなふうに子どもらしく生き生きと笑っているこ
「高名美人六家撰・旭屋後家」の再現和歌で有名な六歌仙になぞらえて、当時の江戸で評判の美人をシリーズで取り上げた浮世絵です。湯上り姿の妖艶さを歌麿がうまく描写したものといわれています。眉を落とした顔や乱れたおくれ毛の描写に若い未亡人の色っぽさが見事に表現されています。ここで後家という用語は現在では禁止用語に当たると思いますが、当時の表現どおりにしています。大判錦絵の浮世絵美人画を、金箔、銀箔、色箔および箔紛を交えた箔飾画にて再現を試みたものです。当時、寛政の改革で特定の人物の名前を表記
贅沢禁止、農村の自給自足経済重視の三大改革と、田沼意次の商業重視、貨幣経済、株仲間、勝つのはどっち。残酷な江戸三大改革のテーゼ贅沢禁止、農村の自給自足経済重視の三大改革と、田沼意次の商業重視、貨幣経済、株仲間、勝つのはどっち。youtu.be
645年日本初の元号「大化」を制定。650年に白雉に改元。(新暦7月17日)1587年豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出す。(新暦7月24日)1787年松平定信が老中首座となり幕府財政の建て直しなどの「寛政の改革」に着手。(新暦8月2日)1858年下田奉行・井上清直らとハリス総領事が軍艦ポーハタン号で「日米修好通商条約」に調印。(新暦7月29日)2016年改正「公職選挙法」施行。選挙権を持つ年齢が18歳に引き下げ。
こんにちは。今日は6月5日日曜日です。皆様はどうお過ごしでしょうか。2022年2月24日にウクライナにロシア軍が侵攻を開始して遂に100日を越えました。戦争は一時首都キーウにロシア軍が迫るまでいきましたが、ウクライナ軍の頑張りによってロシア軍を押し返し西部はウクライナ軍の勢力下になっており、戦力の再編を図ったロシア軍は、現在東部と南部クリミア半島を手中に収め、西側へ侵攻を進める方向で推移していますが、ウクライナ軍も護りを固め反撃を伺っているようです。果たして今後の戦局はどうなるのか?
2013/10/1019:18TeaCupより>「【時代劇の時代設定】だましゑ歌麿」💻虚実歴史研究家2012年9月11日【時代劇の時代設定】だましゑ歌麿:長谷川平蔵が火盗改長官で松平定信が寛政の改革をしていた1790年前後数年。喜多川歌麿(1753~1806)は40歳くらいで、葛飾北斎(1760~1849)は30歳くらい。同時代を扱った作品「大江戸捜査網」「鬼平」「おろしや国酔夢譚」「ベルばら」等。twitter2013年10月04日-Twilog【時代劇
2013/10/1019:18TeaCupより>「【時代劇の時代設定】鬼平犯科帳」💻2013年10月04日-Twilog虚実歴史研究家【時代劇の時代設定】鬼平犯科帳:長谷川平蔵が火付盗賊改方の長官になったのは1787年。松平定信の寛政の改革は1787年から1793年まで続いた。平蔵は1795年没。「大江戸捜査網」では定信が隠密同心を組織していた。@kyojitsurekishipostedat10:41:12【時代劇の時代設定】鬼平犯科帳、大江戸捜査網:寛政の改
はや、2022年のゴールデンウィークも後半皆さん、今年のゴールデンウィークいかがお過ごしですか本日「みどりの日」今回は、前編でお伝えしたように「昭和の日」の「昭和(しょうわ)」に代表されるの元号についてつらつらと書き綴っていきたいと思いますm(__)mそもそも元号とは?元号は、古代で君主が時(暦)をも支配するという思想のもと、紀元前140年、前漢の武帝の時代に誕生した制度。現在でも使用されているのはだけ本家では約2千年後の清朝を最後に消滅、西暦が使われるようになっ
南湖神社楽翁公像鳥居碑が建ちます。徳川家達題額「仰徳報恩」碑文には澀澤榮一の名があります。狛犬拝殿世界平和をお願いしました。南湖南湖公園は国指定史跡・名勝の地です。松平定信(楽翁)は寛政の改革で有名です。
1787年の寛政の改革は、老中・松平定信によって主導された改革ですね。松平定信は8代将軍徳川吉宗の孫で、陸奥国白河藩主(むつのくにしらかわはんしゅ)でした。寛政の改革の目的は、幕藩体制の立て直しでした。具体的な内容を見ていきましょう。●囲い米飢饉に備えて、あらかじめ米や粟などを備蓄しておく●「寛政異学の禁」寛政の改革では、武士だけでなく民衆に対しても出版統制などで思想を統制しようとします。朱子学以外の学問を禁じたんですよね。風俗に悪影響を与えるも
御三家尾張家当主徳川宗睦の甥であり、小大名の次男坊が、一俵欠けても大名の座を追われる下総高岡藩一万石の婿養子となった。主人公井上正紀は、身分は若殿でも金策に奔走する日々である。藩主井上正国の体調が思わしくない。多くの人が、もう長くないと見ている。この先、世子井上正紀は、その後を順当に継げるかどうか。多くの人の目が注がれている。正紀は、これまで多くのことに取り組み、それなりの評価を得てきた。妻の京をはじめとした家族、江戸家老佐名木源三郎、勘定頭井尻又十郎を中心とした家臣たちが正紀を
寛政の改革は、江戸時代の三大改革の一つです。老中松平定信(白河藩主)が中心でした。庶民に倹約を強いて、風紀の取締に厳しかったので、評判が良くありません。狂歌が流布しました。白川の清きに魚の棲みかねて元の濁りの田沼恋しき賄賂政治で悪評の田沼意次に代わって、松平定信が登場したのですが、楽しみに欠けた政治であったため、田沼政治の方がまだ良かったとする狂歌です。岸田早稲あまりの無策に棲みかねて叩き上げ法ガース恋しき早稲田卒の岸田文雄おぼっちゃまが、あまりに無策なので、法