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大僧正天海(134)高虎の遺骸は、玉傷、刀傷等で全身穴だらけであった。右手の薬指と小指はちぎれて爪もなく、左手の薬指も半ばから欠損していた。これでは鎗をしっかり握れないので、爪の代わりに瘤のようになった肉刺が幾つもあったという。6尺2寸の巨体も瘦せ細り、高虎はひとり浄土に旅立ったのであった。家光と天海は、高虎を江戸上野山の寛永寺に葬った。天海は、盟友高虎の一生を「厳然として寒風に立ち向かう大きな松の木のようであった。」と偲んだ。そして高虎に「寒松院前伊州羽林
午前零時過ぎて雷が鳴り響きましたまだ少し暑かったので窓を開けて扇風機をかけて寝たら、寒くて目が覚めました熱帯夜から逃れられ20度以下でした前日は熱帯夜だったので驚きでした日中も26.3度と湿度が高くて蒸し暑く感じるも、今までと比べたら過ごしやすかったですこのまま涼しくなるのかと思ったら、日曜は夏日になりそうですただ朝晩は涼しくなるので過ごしやすくなりそうです猛暑日は無さそうですみなさんこんばんは※続きです東京国立博物館の後ろの道から両大師へ行く途中はお寺さんが集まってます
津城跡を訪ねた後、藤堂家ゆかりの所を訪ねます。まずは大天守台の西隣に建つ…㊟余湖くんのHPより借用。赤線枠は加筆。外堀、内堀の多くが埋められ、赤線枠内が現在の城跡。「高山(こうざん)神社」です。鋳物製の手水鉢があります。これは津藩11代藩主藤堂高猷(たかゆき)が、安政3~4年(1856~57)に、先に記事にした偕楽公園に山荘を造り、鎮守として両社八幡社を奉斎した。その時に奉納した手水鉢といわれます。明治9年に藤堂高虎の霊を祀るため両社八幡宮境内に高山神社が創建され
三重県の観光スポットのお話三重県の県庁所在地、津市の町を車🚙で走っていたら、なんだか史跡らしい場所を見つけました何だろうと気になったので立ち寄ってみました。寒松院。お寺ですね。石碑があり、史跡と記載されています❗史跡津藩主久居藩主歴代墓宛。お墓です。寒松院というお寺。津藩主であった藤堂家の菩提寺ですお寺の裏側。昔はもっと大きなお寺だったのですが、昭和20年の戦災で全焼してしまい、戦後に他所から古い堂を持ってきてお堂としています。寒松院は1631年伊勢津藩二代藩主・藤堂高次
たまたま、散策に行った時は上野動物園開園記念日で無料でした。通常は、600円みたいです。一人で、動物以外を見に行くは私くらいでは・・・・藤堂高虎公藤堂家上野動物園内にある藤堂家墓所は、江戸時代の伊勢国津藩主藤堂家歴代の墓所です。初代藩主高虎(1556~1630)は、戦国時代に浅井・織田・豊臣氏に仕え、のち徳川家康の信任を得て伊勢・伊賀国で32万石を領する大名となりました。高虎は、現在の墓所付近の一帯に屋敷を構えましたが、寛永2年(1625)の寛永寺建立に伴い、ここに東照宮とその
今回は、上野を久々に散策します。訪れたのは、寒松院です。藤堂高虎公の墓があるみたいです。地蔵尊本堂寒松院寒松院は、文化の森・芸術の森として知られる上野公園の一角にあります。寺名の由来は、寒松院開基である津藩主・藤堂高虎公のご法名をそのまま寺名にしたものです。高虎公はもともと他宗門の方だったのですが、徳川家康公が75歳の生涯を終えられようとしていたときに、高虎公の手を取って「あなたがいなかったら天下太平の今日を迎えることは難しかった。心より感謝しています。ただ、心残
【#花らっきょうの#開運言葉】47ここからをみちびくあなたの言葉が望む未来への道を開き、あなたを導いて行くのです。(花)===12月生まれの皆様、お誕生日おめでとうございます。#2023年12月は、#数秘術では「1」の月。只今は前半です。望む未来に進みたければ、あなたの言葉を望む未来に向けること。その言葉は未来への意識となり、未来への道を切り開いて行くのです。※今回は、#上野・#寛永寺#寒松院にて撮影致しました。※今回のカードはこちら↓数秘
大輪寺は上田城のほど近くにあります。真田昌幸が上田城を築城した時、寒松院のために建てられた禅寺です。石段の左右は堀に囲まれています。柱のちょうなの跡が古さを感じさせます。寒松院の墓は本堂の裏にあります。立派な宝篋印塔ですが、ポツンと建っているので、寂しそうです。信之転封に伴い、大林寺(松代)に分骨された墓が建てられています。戒名・・・寒松院殿宝月妙鑑大姉昌幸は1611年、寒松院は1613年に亡くなりました。同年か一周忌あたりに墓石は建てられたの
令和3年7月17日参拝今年は聖徳太子1400年忌の節目ということで東京では何年も前から関連の講演会が開かれていました。できれば法隆寺の法要や特別開扉などに合わせて奈良へ行きたかったのになー。そんなこんなでトーハクの法隆寺展はとても楽しみにしていました。感染予防対策として日時指定チケットを予約してたわけですが、平成館の行列はラウンジまで伸びている。せっかく前の人から1.5m離れて並んでるのにすぐ後ろに人がいたりして(離れてよー!)中に入れば密だしね〜(´・ω・`)ラウンジの最後尾に
上田市の「大輪寺」に参拝にやってきました。大輪寺は元々神科にありましたが戦火で焼失、上田城築城後に城主真田昌幸が本堂を再建しました。真田昌幸婦人の寒松院が開基となります。境内までの道路に地蔵様がおります。境内の門になります。参道参道の六地蔵になります。麦わら帽子を被ってらっしゃいます。中門山門山門の左右は回廊になっています。鐘楼門境内に立つお地蔵様になります。本堂鯱
三重県お城廻りの六番目は、「津城」(三重県津市)です。今や「津城」のシンボル模擬「三重隅櫓」(南面)今回はまず最初に「津城」の歴史と城主について簡単に触れておきます。「織田信長」による伊勢平定の為に、「信長」の弟「信包(のぶかね)」を中伊勢に勢力を伸ばしていた「長野家」の養子として送り込みます。「信包」は津城を築城、1580年には五重天守を持つ立派なお城に完成させると、すぐに「長野家」の分家を攻めて中伊勢を得ます。その後「豊臣政権」時代になると「富田家」が入城し、関ケ原の
2020年4月10日の三重県津市散策の続き。「寒松院・藤堂家墓所」の続き。寒松院藤堂家墓地(その1)のレポ『寒松院藤堂家墓地(その1)~津藩主久居藩主歴代墓苑~三重県津市の寺院・墓所・史跡』2020年4月10日の三重県津市散策の続き。「塔世橋」を渡り、「津観音」をお参りした後は、「寒松院」に向かいました。津観音(観音寺大宝院)・塔世橋のレポ…ameblo.jp津藩9代藤堂高嶷(たかさと)公の墓石の隣には、津藩10代藩主藤堂高兌(たかさわ)公の墓石が
2020年4月10日の三重県津市散策の続き。「塔世橋」を渡り、「津観音」をお参りした後は、「寒松院」に向かいました。津観音(観音寺大宝院)・塔世橋のレポ『津観音(観音寺大宝院)と、塔世橋と~三重県津市の寺院・橋』2020年4月10日の三重県津市散策の続き。織田信長公生母土田御前の墓と藤堂高虎夫人の墓がある「四天王寺」をお参りした後は、「津観音」に向かいました。四…ameblo.jp「津観音」の参道を南に進んで行くと、大通りに出るんですが、中央分離帯には
京成上野駅を出てすぐに廃駅が二つ続きます乗っていると暗闇の中にうっすらとホームのあとを見ることが出来ます一つ目は博物館動物園駅跡1933年12月に開業ホームが4両編成分しかなく利用者の減少から1997年に営業休止し2004年に廃止されましたりっぱな石造りで存在感抜群の駅舎です動物園側にあるもう一つの出入口跡(動物園口)こちらの出入口は動物園の旧正面の閉鎖と伴に廃止になりました1960年代です運命を共にした動物園入口風格がある動物園入口跡ですねこちらは切符売場跡またのこ
昨日2020年4月10日は、どうしても立ち会わなくてはならない仕事があって、三重県津市に出撃。仕事を終えた後、帰りの列車まで、少し時間があったので、津市内を散策してみました。まずは、「津偕楽公園」に…。公園内に、蒸気機関車D51が静態保存されていて…お次は、「四天王寺」。織田信長公の生母「土田御前」のお墓と、藤堂高虎公正室「久芳院」のお墓があります。続いて、「津観音」。五重塔が印象的で…それから、藤堂家の菩提
2019年-令和元年12月27日スタート最寄駅は近鉄・津駅、津に到着までの車窓から、綺麗な虹、四天王寺、津観音の五重塔、寒松院の五輪塔、阿漕塚、結城神社、薬師如来庵跡地、市杵島姫神社、真教寺、津城跡、藤堂高虎公、ゴールの近鉄・津新町駅、約10kmで160分でした。
今日も、実家でお線香あげてゴロゴロしてた私。今日も暑い!実家のすぐそばに母方の祖父母のお墓があります。歩いて5分くらいですが、車で行くと20分はかかります。だから、いつもお散歩ついで。そして、ついでと言ってはなんですが…寒松院様のお墓参り。はい、真田昌幸の正室ですね。ちゃんとお墓を守っておられるのですね。たぶん、大輪寺の方でしょうか?真田丸以来、多少は、観光客も増えたかも…お墓の写真でなんですが…ここ、小学生の時、学校帰りによく遊んだところなんで、お墓の中の方達とも知り合
こちらでは、まだまだ真田丸効果は消えないようです。特に上田市では、上田城を建てた昌幸人気が高いようです。真田のお殿様といえば、昌幸なんですね。その正室山手の方、寒松院のお墓があります。上田市の北側、太郎山の麓の大輪寺という寺です。私の実家からすぐ近く。といっても、車で行くとぐるっと回って結構遠いんですが、歩いていくとすぐです。ここには、母方の祖父母のお墓もあります。散歩がてら、携帯と鍵だけ持って、ふらふらと出かけます。子供の頃は、
真田家を支えた夫人恭雲院初代幸綱夫人長谷寺:真田家臣.河原隆正の妹で、二代.信綱・昌輝・三代.昌幸・信尹・高勝の生母である。文禄元年若しくは、2年没する。法名は「喜山理慶大姉」於北殿二代.信綱夫人信綱寺:信濃国衆.高梨政頼の妹若しくは、娘天正8年没する。法名は「花翁妙永大姉」山之手殿三代.昌幸夫人大輪寺:縁起:法名は「寒松院殿宝月妙鑑大姉」小松殿四代.信之夫人芳泉寺:縁起:雑感:信濃上田城下には、真田家の夫人たちの歴史もまた脈々と受け継が
彰義隊墓戦死之墓山岡鉄舟揮毫ちなみに、上野公園内には、彰義碑の篆額の他にも、家達公揮毫の碑を見ることが出来るひとつは今ある寛永寺根本中堂境内に今ひとつは、、、幕末明治期ゆかりの仏閣巡り⑪彰義隊編その弐東叡山寒松院江戸城無血開城目前の慶応四年四月三日、彰義隊は、当初の浅草東本願寺から上野東照宮別当寺であった藤堂高虎菩提所である寛永寺寒松院へ拠点を移した御朱印幕末明治期のシリーズとしてはまだいただけていない、、ご住職のいらっしゃる時間とお参りする時間とがなかなか合わ
上野、続きです彰義隊戦士之墓このお墓については以前にレポしています。案内板全文も載せているので、ご興味ございます方は、こちら☆今回レジュメによる補足。明治2年春、埋葬地に草が茂り寂れてきた事を憂いた護国院住職の清水谷慶順と寒松院の住職多田考泉が建立。発起人は「松国」(寒松院の「松」と護国院の「国」を取っての架空の人物)とした。その後、当時東京府知事・大久保一翁へ歎願書を送り、明治9年彰義隊や西軍に属した旧大名家から寄付金を得て銅製の墓を建立したが、費用等の負債が重
5月に予定されている歴史部のオフ会2日目の偵察を兼ね、本日は上野界隈を歩いて探索。まずは丁度大河も始まった、安定の最後うどん!🤣その後ろにひっそり建っている彰義隊のお墓。これは梅でしょうか?で、ブロ友さんに教えていただいたこんこんさん😀小さい神社でしたが、参拝客ははひっきりなしに。赤い⛩️も22基もあった~(〃▽〃)上野公園の中に古墳あるなんて、始値知りました😅😅古墳の横には、正岡子規の名前が付いた野球場🎵上野大仏様、お久しぶりです~(=^ω^)寛永寺五重塔を横目に見な
せっかく三重県まで来たのでもう1泊を「松阪」で泊まることにしてましただって、松阪牛、食べたいじゃ~ないですかぁ(^Q^)松阪には、私たち夫婦のお気に入りのお店「一升瓶」があります松坂牛の肉やホルモンの焼肉が美味しいんです!特に「一升瓶宮町店」はスーパーホテル松阪の敷地内にあるんですたらふく食べて飲んでも徒歩2~3分でホテルの部屋に帰りつけるって素敵でしょで、2泊目はスーパーホテル松阪を予約してました亀山から松阪に向かう途中「津」を通るので寄り道
2017年1月28日㈯17時~[attention!]担当は田中博文、通称{くま}です。この番組では毎週《くまさんぽ》と称し、僕がいろんな場所に訪れるコーナーがあります。2016年は真田yearという事で、2017年も引き続き真田家に関係する場所にattention!本日の散歩はこちら→《大輪寺》3週にわたって松代をさんぽしてましたが、本日はまた上田市に戻ってきました。本日は寒松院のお墓と御位牌がある、大輪寺です。寒松院←誰でしょう?大河ドラマ真田丸では高畑淳子さんが演じてま
タイトルが漢字だらけですね。ということで、寛永寺に行ってきました。http://www.kaneiji.jp/worship/根本中堂で担当のお坊さんから説明をうかがった後、現在、「葵の間」と呼ばれている慶喜謹慎の間、つまり、彰義隊戦争の前に徳川慶喜がいた部屋へ。ここって、10数年ぶりの二度目の拝見かな?やっぱり、あまり覚えていませんでした。現在は2間しかありませんから、狭いですよね。その後、徳川家の霊廟参拝へ。こっちは、5、6回目でしょうか。実は、ご案
神奈川・・・山小屋-1℃10℃10%Goodmorningきょうは、仕事なのだぁ眠いのだぁ😴💤昨日は、休みだったので何時ものコメダ珈琲店〜やはり寒いと朝は、温まりたいので何故か僕1人ちょっとの間貸切でしたよ。10分くらいなんとなく分かります。寒いと外出たくないですね〜〜後きょうは職場の忘年会&歓送迎会ちょっと勤務移動したので、まだまだ覚える事がいっぱいで迷惑かけてます。でも仕事頑張ります。なので会場は、洋食屋さんピザが美味しかったです。そして🚘で来たので山には、帰れず
続きまして、大林寺です。何故かナビ子が電話番号で大林寺を探せなく、アイポンのグーグルマップを見ながら移動したので、曲がるところが分からず行ったり来たりしました。結局、車で2分ぐらいで着く所を、20分ぐらいかかって着きました。ここは曹洞宗寒松山大林寺といい、真田昌幸の正室寒松院(山之手殿)発願の大輪寺が、真田信之の移封で松代に移り分霊し大林寺となりました。寺号標?参道です。進みます。このお寺にも鯱鉾。六文銭は見当たりませんが‥アルミサッシがしっかり締まってました。扁額です。「寒松
寒松山大林寺(曹洞宗)寺伝によると天正年間(1573~1592)に真田昌幸が、その妻寒松院の発願によって上田城外の房山に大輪寺という寺を建立した。寒松院は没後この寺に葬られている。やがて、長男信之が松代に移封されたので、信之は上田の大輪寺は残したまま、母寒松院の遺骸を松代に移し、一寺を建立したのが現在の大林寺である。だから、上田の大輪寺にも寒松院の墓が残り、松代の大林寺にも本堂の裏に墓が建立されている。藩祖信之の母の寺ということで真田家から厚遇され、幕府から70石の朱印地を受けている。ま
2541桑田立斎墓(台東区橋場1-4-7・保元寺)酔いどれJohnny2541桑田立斎墓(台東区橋場1-4-7・保元寺)-桑田立斎(くわた-りゅうさい)(1811-1868)幕末維新期の蘭方(らんぽう)種痘医。越後(えちご)国蒲原(かん..(しょうふりおうじのはか)・琉球第一尚氏の六代王位に就けなかった王子。ブログのトップへなんと、祠の脇に石柱があって、「尚布里王子並うなざら之墓」と刻まれているではないか。こんなにも簡単に見つかるとは思わなかったので、石