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大僧正天海(174)「富岡の番代三宅藤兵衛も本藩の招きに応じて、急ぎ唐津へ帰藩した。キリシタン弾圧について打ち合せのためであったが、彼はそのまま、一年間唐津に滞留した。翌寛永六年、富岡に帰任した藤兵衛の形相はまるで変っていた。血に飢えた悪鬼の如く、キリシタンと見れば、容赦なく捕え、拷問にかけた。」(「島原の乱」助野健太郎)寛永6年(1629年)6月、藤兵衛は富岡城に戻ると、すぐに三郡代を呼び出した。この三郡代とは本戸郡代・九里三左衛門、栖本郡代・石原太郎左衛門、
大僧正天海(173)さて、藤兵衛が富岡城番代(1000石)になった元和7年(1621年)には、ミカエル、カルヴリョ神父が日本に密航し、天草に潜伏している。幕府が禁教令を出し、弾圧を繰り返しても、宣教師たちは執拗に日本に渡航していた。天草地方はその拠点の一つであったのだ。「先に島原撤去のもと有馬藩士松山外記、薩州阿久根の浪宅に、三歳の一子貞重を遺し、病没す。富岡番代三宅藤兵衛、縁有て松山外記の遺子貞重を母子共引取り、母は富岡町役人(後の町年寄)田中半右衛門に再嫁せ
大僧正天海(172)「(寛永十年四月十一日)肥前国唐津城主寺澤志摩守廣高卒しければ、遺領十二万石を長子兵庫守堅高につがしめらる。」(「大猷院殿御實紀」)寺澤広高の父・広正は尾張の出身で、長く織田信長に仕えていた。本能寺の変の後、豊臣秀吉に仕えて側近になり、大和国6万石を領した。広高は父と共に九州征伐、小田原征伐に参加し、従五位下志摩守になった。朝鮮役では輸送船の責任者として総軍艦御船奉行になっている。この時、加藤清正らと軋轢があり、家康に接近することにな
熊本市に住む従姉妹にたまには天草に行かないですか?と誘いを受けていました。天草は私の両親の出身地です。ルーツは天草という事になりますが、多分20年は行っていなかったんです。九州には結構行っているんですが、天草まで足を伸ばす事が出来ていませんでした。熊本空港に着いて外に出ても従姉妹をなかなか見つけられず、あーここにいた。お互いに年を重ねると分からなくなりますね。車で天草の北西に突き出た冨岡城に行きます。3時間コースです。途中で味千ラーメンでお昼飯を食べています。本当は冨岡の名月のチ
その頃肥後天草でも一揆が勃発しますかねてからの打ち合わせ通り一揆は連鎖します天草では改易をさせられた小西行長と天草四郎の父である益田好次が主に指揮を取る形で発起し有馬家の家臣たちが組織されています11月14日には本渡の戦いに挑みますこの戦いは富岡城陥落を狙う戦いでしたこの戦いでは両軍ともにかなりの犠牲者が出たとされています正確な犠牲者の数は不明ですが伝承によれば川が犠牲者で埋まる程とされていますまた本渡の戦いの慰霊碑として「殉教戦千人塚」が建てられていますこの事
熊本県苓北町の富岡城跡を攻めました。真夏に上り坂は熱中症の危険性大ですねかなり綺麗に整備されてる。真夏じゃなかったらベンチで一休みするんだが。😅鈴木重成公だったかな?ちょっとうろ覚え(笑)今日は向かい側でお祭りやってたんですが森が邪魔で全く見えないそして、本丸というかビジターセンターに到着。甲冑とか刀が全く置いてなかったんで城という感じが1つも無かったかな…😅せめて甲冑位置こうよw
『下田温泉センター白鷺館/天草下田温泉』(2025/5/29)『三和フェリー牛深行き/初乗船』『長崎鼻灯台/鹿児島県出水郡長島町/灯台カード』(2025/5/29)『かごしま特産品市場/R225』(…ameblo.jp(2025/5/29)…車中泊旅の続き…天草下田温泉♨️から富岡城跡まで21分ぐらい富岡って出島みたいだねー富岡城跡に登るつもりはなかったが、👇案内板見て、登りたくなった。👇富岡城図城壁だなほぼ頂上、だいぶん登ってきた天草の偉人たち👇富岡城跡👇富岡砂嘴👇
ツーリング4日目は天草諸島を巡っていますが、下島の「カトリック﨑津教会」を後にします。R389を海岸沿いに北上続ければ、続いては「天草ロザリオ館」へとたどり着きました。事前に購入済の周遊券を使って、この施設も見学することが出来るとのことです。「天草ロザリオ館」は、天草キリシタンに関わる貴重な品々を集めた資料館です。天草キリシタンたちの生活や文化などに関わる遺品などを数多く展示しています。また、映像ホールでは、天草キリシタンの歴史や姿を映像で紹介しています。館内
いつも「カッキーは全国を旅するブログ」をご覧くださいましてありがとうございます。2025年春の大型連休を2泊5日で回った「九州旅」は、ここから後半戦に入ります。じつはこの先からめぐるお城は全て、九州本土から離れた「島のお城」なのでした。初回は九州西部、熊本県と鹿児島県にまたがる「天草諸島」です。天草市牛深でランチ天草諸島は上島・下島と大小120余の島々からなります。九州本土とは天草五橋と呼ばれる5つの橋で結ばれています。こちらは知る人ぞ知る「パール
道の駅「長島」を4時半出発。ちと早すぎた。フェリー乗り場まで3km。近くに神社が。フェリーは「蔵乃元港」と「牛深港」を結びます。長島は長年肥後の領土でしたが、島津に占領され島津領になったそうです。クレアと相方で4540円。くまモンの海賊船へ。車は5台。デッキには10人くらい。めちゃ空いてました。蔵乃元の景色。ややさみしいですね。こちらは牛深港へ。船の中もくまモンが。天草は熊本県。長島は鹿児島県。最初にうしぶか公園
天草の旅が続きます。富岡海域にある頼山陽公園で下車しました。幕末の儒学者・頼山陽の詩碑がありました。先ほど訪れた富岡城址を振り返りました。天草灘・富岡海水浴場です。そしてお目当ての、ハマジンチョウがまだ咲いていました。海岸に群生する南方系の珍しい樹木です。この後、道の駅天草イルカセンターに向かいました。イルカウォッチングの様子をご紹介します。
島原・天草一揆の猛攻に耐えた難攻不落の城址を歩きました。天草四郎率いる一揆軍の攻撃に、必死の守りで耐え抜いたそうです。パンフレットの空撮写真です。富岡城公園案内図です。出丸から二の丸、本丸に向かいました。富岡城案内もありました。富岡城の城絵図です。出丸の石垣です。二の丸です。勝海舟と頼山陽、鈴木重成と鈴木正三像です。二の丸から見た巴湾(ともえわん)です。本丸まで歩きました。そして本丸の展望台へ。「富岡の股のぞき台」も
下田温泉でゆっくりして、朝ものんびりと出発しました。昨日に引き続き、天草下島の西海岸、サンセットラインを、海を見ながら北上。ただし、今日は雨降りです。ちょっと寄り道。天草下島から、ちょこんと突き出て砂州でつながってできたような半島、富岡へ。山の上に富岡城が見えています。登っていくと、富岡城址。石垣の上に、櫓などが復元されていました。これは二の丸の東隅櫓。有明海の入口を監視できる、天然の見晴らし台。天草・島原の乱のときには、富岡城は反乱軍に包囲されたが、落城しな
皆様方。此度は儂の“直往邁進記”を御覧頂き、誠に感謝致しまする。『第8回富岡城お城まつり』が無事勝ち戦にて幕を閉じた。演舞も盛り上がり、大盛況であった!変面ショーの姜潤(きょうじゅん)殿、誠に素晴らしき舞台に感銘を受け…面を購入致したり、なんと姜潤殿ご本人から贈り物を頂いたりと嬉しき交流を果たした。また、岡田明梨姫の素晴らしき演奏と歌を聞き、会場も盛り上がり、心が温まったのぉ。此度の祭りは誠に楽しく、そして皆笑顔であったこと。こちらも力を貰い申した!関係者の皆々様、お越し頂いた御
本日、天草郡苓北町富岡城へとやって参った!初出陣のお祭りでござる。会場の目の前は漁港になっており誠に良き景色が広がっておる。週末の天気が不安であったが晴れ男の儂にかかれば晴天!南条殿おすすめの緋扇貝鮮やかな貝殻の色見て良し食べて良し誠に美味でござった。苓北の民も暖かく良き戦場でござった。残念な事は、釣り人を見ながらの演舞なぜ儂は釣り道具を持ってこなかったのじゃ…海も綺麗で魚もたくさん泳いでおると言うのに来年も行けたなら必ず!!!以上大村丹後守喜前がお送り致し
ようこそ我が武録へ南条伯耆守元宅此処に参上本日「第8回富岡城お城まつり」へ細川忠興公、大村喜前公と共に馳せ参じた!無事晴れて良かった。富岡城お城まつりは実に"六年ぶり"の出陣じゃ!時が過ぎるのはあっという間に候。さて此度の舞台では地域の保育園児や小中学高生の「ダンス」、「吹奏楽」、「和太鼓」や「獅子舞」など披露されておった。元気溢るる舞台、あっぱれであった!その他にもくまモン、岡田明梨姫、慶徳二郎、変面ショーのステージも大いに盛り上がりを見せておった!我々のおも
こんにちは最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。◇◇◇◇◇怨霊土に潜む富岡女学校前の佃塚(後)大正11年6月24日/徳島日日新報その後この塚の田を整理すべく土を取
こんにちは最近は少なくなりましたが、戦前の新聞には怪異に関する記事がたくさんありました。民俗学者の湯本豪一氏が編集した『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)が決定版とでもいうべき大著なので、そこから拾ったものをご紹介します。なお、読みやすくするため、意訳したものになります。◇◇◇◇◇怨霊土に潜む富岡女学校前の佃塚(前)大正11年7月25日/徳島日日新報富岡町県立富岡女学校前に五輪石のあ
5月9日〜10日ゴールデンウィークが終わったので、これからはのんびりと爺婆の活動日。熊本市内から天草市牛深町までは結構距離がある。未だ天草市本渡町までしか行けてなかったので、牛深町までドライブ。宮地岳かかし村で休息最短距離125kmで牛深町のハイヤ大橋着です。勿論ハイヤ大橋を通行しました。欄干が短いのと強風の為少し怖かった。牛深町の紅蘭にてちゃんぽんを食する。次なるは世界文化遺産の崎津教会へ﨑津諏訪神社から更に大江教会へオルガンの音色に癒されました。ホテルで一泊直ぐ近
2019/7/22(月)その2熊本:おっぱい岩(1回目)→富岡城跡→大江天主堂→﨑津集落→牛深↓前回のお話はこちら『2019九州遠征3日目その1』2019九州遠征3日目(2019/7/22(月))その1※遠征記録は1日1回のペースで投稿していますが、どうやら今年の九州遠征スタートまでに2019年の…ameblo.jp前回はおっぱい岩(1回目)まで話しました。1回目と書いたのは、このあと2回目があるからです。お楽しみに。苓北町にある富岡城跡に向かいます。富岡城跡はこん
その②から本渡から北に向かって鬼塚港にやって来ました。この港は島原半島南端の口之津港と天草を約30分で結びます。多くの車を積載できるフェリーが一日に10便以上出てますので地元の貴重な運送の足です。島原半島に渡れば原城や島原城など多くの史跡を回ることができます。島原の乱の頃にも多くの天草の領民が天草四郎を中心に島原・原城を目指して有明海を渡っていったのでしょうね。ただ一揆軍は天草四郎と共に皆殺しにされた悲しい運命をたどります。港にも天草四郎が建っていました。これから向かう島原の方角を希望に
富岡城の休憩所から見えるハートの池其の名も袋池落ち葉が一枚も落ちておらぬと云う伝説ではある米屋の看板娘と両親がおった此の米屋は秤に使う升を細工し不正に米を売り金を稼いだそうじゃ事を知った娘は親の行いを悲しみ袋池に身を投げ池に棲む大蛇となったそうな娘が水面の葉を掃いておる故1枚も落ち葉がないと云う事じゃ悲しき伝説肥後國宇土城主小西攝津守行長
島津義弘である。皆の衆、息災であろうか。4年ぶりの開催となった『第7回富岡城お城まつり』は大盛況であった!ご開催誠におめでとう御座る‼︎天草の雄大な海を見渡せる富岡城、見事な景色じゃな‼︎近くには海水浴場もあり、夕陽も美しい場所であるため、家族や大切な相手と訪れるのもよいじゃろうな‼︎そして天草といえば、野生のイルカたちに九割以上の確率で出会えるとされる「イルカウォッチング」も観光の目玉であるが、これも富岡城のほど近い所にある。名物「ヒオウギ貝」も誠に美味なり!天草苓郡北町、富岡城。
2023年7月30日(日)撮影花火終了後は天草市の十万山公園で車中泊。5時半頃目が覚めて外を見るとちょっと焼けてる!もうちょい早く起きたらもっと焼けてたかな?今回は宮崎のお二人と一緒だったので天草西海岸を案内することに。まずは天草空港。イルカの飛行機が点検中でした。飛ぶところ見たかったけど、午前中は点検のため欠航とのこと。富岡城跡。去年も天草花火の日に来た場所。今回は曇っててちょっと残念。去年は改装中?では入れなかった資料館も
こないだのGW中、10年ぶりに楢葉町の天神岬スポーツ公園を訪れた私は、念願の天神岬温泉に入湯し、夜の天神山城跡を散歩してみた訳です。で、ふと時計をみたら時刻は21時を過ぎていました。天神山城ふたたび天神岬スポーツ公園にて|落人の夜話(ameblo.jp)そういえば夕飯をまだ食べていなかった!と今更気づいたものの、もうこの時間だしコンビニ飯かな…と思いつつ、念のためGoogleに夜営業の飲食店を聞いてみたら、なんと。北隣の富岡町に23時まで営業している店があるというじゃない
雨である。早くも入梅である。で、晴れた日の有岡城跡。JR伊丹駅を降りるとすぐそばにこんもりとした緑。武将荒木村重が伊丹城を改修してつくられた有岡城。後に織田信長に攻められ落城。名城として名高いらしい。いつもこのヨコを通りながら今度こそちゃんと調べようと思いつつ・・・。馬跳びの背がばらばらに春日射す三宅やよい春愁やかってこの地にフジテレビきゅうこトルコからさっき来たふりヒヤシンス坪内稔典うららかにどーにも呆けはとまらない沈脱あのタコ
女子旅熊本観光2日目は天草を1日まるっと堪能します。1日目の阿蘇→高千穂峡の記事はこちらを御覧ください⇊阿蘇・高千穂峡車で熊本観光モデルコース2泊3日熊本で押さえておきたいもの熊本城、天草、阿蘇、高千穂峡馬刺し、あか牛、熊本とんこつラーメン、おまけいきなり団子、からし蓮根●1日目熊本空港(9時20分着)→阿蘇→高千穂峡(宮崎県)→熊本市内泊昼食いまきん食堂あか牛丼夕食龍の家とんこつラーメン●2日目熊本市内(ホテル)→天草(天草四郎ミュージアム、
袋池から眺める”富岡城”@熊本県天草郡苓北町【福岡・熊本3泊4日旅行備忘録】天草観光【3日目】天草下田温泉望洋閣>>富岡城跡袋池>>富岡稲荷神社>>富岡城二の丸駐車場>>おっぱい岩>>ユメールイルカ展望台>>通詞島北海岸>>道の駅天草市イルカセンター>>若宮公園海水浴場>>ガラス工房カリヒロ>>天草市立天草キリシタン館>>十万山公園展望台>>ホテルアレグリアガーデンズ天草天草下田温泉望洋閣>>富岡城跡
○富岡は、もともと天草と長崎を結ぶ航路の港町として栄えた。前回のブログ『鈴木重成公像』の中で案内した富岡城項目にも、富岡城は天草下島の北西、砂州で繋がった陸繋島の富岡半島の南東部の丘陵上にある梯郭式の平山城である。城の南には堀の役割を果たした袋池があり、東部には砂嘴に囲まれた巴湾が天然の土塁となって海からの外敵を防衛する役割を果たしていた。また、陸からの攻撃は砂州のみしかない。極めて攻撃し難い天然の要害を形成していた。とある通りである。同じように、富岡藩項目にも
○天草縦断の旅で、下天草島の富岡を訪れた。江戸時代まで、富岡は天草の行政上の中心であった。そのことは、ウイキペディアフリー百科事典が案内する富岡藩項目を見ると、よく判る。富岡藩富岡藩(とみおかはん)は、肥後国天草郡(熊本県天草郡)を領有した藩。藩庁は富岡城(苓北町富岡)に置かれた。天草藩ともいう。慶長6年(1601年)より、天草郡は唐津藩領(4万2千石)となっていた。慶長10年(1605年)、唐津藩主寺沢広高により富岡城と城下町が完成した。2代堅高は寛永14年(1637年)に勃