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いよいよ、史記の范雎(はんしょ)のお話も、今度こそ本当に最終回です。蔡沢(さいたく)はさらに、次のように語ります。「昔、斉(せい)の桓公(かんこう)は、諸侯を集めて協力体制で天下を正そうとしましたが、葵丘の会盟(ききゅうのかいめい)の時には、驕慢な気持ちがあったので、たくさんの国が斉に背きました。また、呉(ご)王・夫差(ふさ)は、その兵力は天下に揺るがないほどでしたが、諸侯を軽んじて、斉や晋(しん)を敵に回したので、ついに自らの国を亡ぼしました。夏育(かいく)や太
今日もまた、史記の范雎(はんしょ)のリメイクブログです。12年前にこの范雎の話をブログに書いた時は、もっと短くて、かなり内容を端折っていました。こうして十二年もの歳月が過ぎて、リメイクするために改めてこの話を読んでみると、ずいぶん感じ方が違うから不思議なものです。今日は、范雎の敵である、魏の宰相・魏斉(ぎせい)の逃亡のお話……このお話は、范雎のことを書いたブログの2年後に、別のパリブログの中で、書いています。昨日のブログでは、范雎が須賈(すか)に向かって「魏
今日もあいかわらず、史記の范雎(はんしょ)のお話ですが、ここからがこの話の面白いところです。というかこの後、范雎という人の性格の悪さが良く分かります(笑)まあ、あれだけひどい目に遭わされたのだから、無理もないところですが……今や「張禄先生」こと范雎は、昭襄王(しょうじょうおう)に気に入られて、宰相として、強大な秦(しん)の国政を任されるにまでいたりました。范雎はこの頃、応の地に自分の領地をたまわったことから、応侯(おうこう)と呼ばれるようになっていました。そ
それは古代?古代中国の?それは最初?統一王朝の?それは秦を?支えた宰相?「李斯」それは優秀……。優秀な政治家!なんやかんや?あれやこれや?それは届いたよ。「年賀状」ともかく俺的?あれこれ……と?メンタル……が?古代中国の最初の統一王朝?秦を支えた宰相……。優秀な政治家です。#放置少女#年賀状#李斯#1月1日pic.twitter.com/NT1MmQRn8s—菅野宏久(@0nx325091b51p4p)2024年1月4日放置少女~百花繚乱の萌
色々と調べてきて、やっとこさエジプトに絡んでいた人達との切り分けが進み、イムホテプとは誰なのか結論をだせる段階に来たと思います。(マホロさんの爆弾を打ち返す時が来ました!(笑))未整理のままでは判断出来ませんでしたが、整理が進むにつれて段々と候補者は自ずと絞られてくる事になります。また鍵となる情報も理解出来ましたので、これから自説を展開したいと思います。(*^_^*)まず最初にイムホテプが神官をしていた「プタハ神」のシンボル、ジェド柱・アピス牛を考えると、生命
44歳で大蔵大臣、47歳で自民党幹事長と政府・党の要職を歴任し、54歳という(当時としては)史上最年少で総理大臣に。コンピューター付きブルドーザーと言われ、就任直後に電撃的な中国訪問を敢行して日中国交回復の道筋をつけたものの、折からのオイルショックに足を引っ張られ、更に金権政治批判により在任期間2年7ヶ月で辞任。更にロッキード事件によって逮捕されるという、政治家としてはまさに天国と地獄を味わった田中角栄氏。しかし現代の永田町には、残念ながら彼ほどの力量・人間的魅力に溢れた政治家は見当たりま
六大将軍伝説【204不可侵条約(後)】〔本編〕「むろんであります」カヴァーロは表情も変えずに言葉を続ける。「貴国のその軍事行動を我が国が咎める正当な理由もなく、また、咎めるつもりもありません!」「カヴァーロ殿!外交の使者として、そのご発言は危険かと……。その発言は取りようによっては、聖王国が同盟国のジュリス王国を見捨てるように聞こえますがいかが……?自国の利益のために、同盟国を生贄(いけにえ)に差し出すかのようなご発言に聞こえますが……」これは帝國重臣一人の
六大将軍伝説【203不可侵条約(前)】〔本編〕「しかしながら宰相閣下!この場合、聖王国は攻め込まれている側なので、一部反撃される拠点があるやもしれませぬが、全体的にはこちらが聖王国領を侵食していくことになるので、それほど大きな問題ではないかと……」「確かに局地的観点でその理論で考えることも可能ではあるが、それを差し引いても聖王国の広大な領土を侵食していくには、帝國の兵力の問題でなく兵数の問題となり、その数はあまりにも少ない。結局、その戦いは泥沼化に陥り、そうなれ
岸ちゃんて本当にダメだよな。一般庶民の気持ちが全然わかってないよな!藤井八冠を総理大臣顕彰で表彰したんだって・・なんで「国民栄誉賞」にしなかったの?紙1枚と副賞100万円ぐらいで収まり国民も納得し、トップニュースになってアンタの株も上がったのに・・・。今度は物価対策に「減税」だって?給与明細に税金が少し減っても誰も喜ばないよな。結果は同じだったら「現金給付」にしなよ。同じ現金にするならドカーンと1人20万円位にするとアンタは「名宰相」と呼ばれ銅像が立ちアンタの先輩が残した国債
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆彼は答へた、あの人などは、なるほど才は才ですが、その人となりを顧みるに、人の上に在らしむべきではありません。(4343'23)
物価の上昇を上回る賃上げを目指す岸田首相が経済界・労働界の代表らとの協議を11月中にも開く方向で検討に入ったことが分かりました「来年の春闘に向け、経済界に対して、私が先頭に立って賃上げを働きかけていく」ですと。。。ある意味船頭に立って賃上げ働きかけてるわコイツ。pic.twitter.com/wzPz3VyFdQ—ざれもん(@zaregotomonkey)November7,2023岸田内閣の支持率が尋常じゃないほど下がっているらしいけど、ここで「前
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆このごろ度々丁謂の才幹を御話申上げるのに、大臣は一向お用ひになりませぬが、彼の才を用ふるに足らぬと御考へなのですか。(4343'23)
唐の高句麗出兵唐の高句麗出兵-Wikipediaja.m.wikipedia.org淵蓋蘇文淵蓋蘇文-Wikipediaja.m.wikipedia.org淵蓋蘇文(ヨン·‥ゲソムン)は高句麗の英雄か逆賊か?淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)は高句麗の英雄か逆賊か?淵蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)は、高句麗末期の英雄と言われますが。反逆者という評価もある人物。性格的にはかなり難のある人物だったようですが、人をまとめるのは得意だったようです。クーデターを起こして対立する王を殺し
花娘は、高峻にとっても、除雪にとっても、姉のような立場になります。二人にとっては最大の味方になるのです。夜明宮に高峻以外の客が来ました。それは後宮で筆頭妃である花娘(かじょう)でした。出身は雲家であり、宰相雲永徳の孫娘であり、高峻の幼馴染でもあります。花娘:「お頼みしたき義がございます。私は鴛鴦宮(えんおうきゅう)の妃雲花娘です。」除雪:「要件は?」花娘:「陛下がたびたびこちらにいらっしゃるようですが、それは何用で?」除雪:「あやつの要件など知らぬ。少しばかり来たかと思
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆そして屢々丁謂の才幹を推稱して、李沆に登用を勸めたが、一向實現しない。或日寇準は李沆に問詰した。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆たゞ無心だからと子容は答へた。寇準も大臣たるにふさはしい傑物であるが、李沆に比して段が下る。準は始め丁謂と仲が善かつた。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆宰相歿して二十年、能く人主としてこゝまで其の言を追信せしめるのは何の道を以てするかと歐陽修が蘇子容に問うたことがある。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆帝は卽座に拒否して、李沆が昔彼は君子でないと云つたぞと。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆帝は深く首肯されて、在位中終に此等の輩は擧用されなかつた。彼死して後二十年、或人が眞宗に梅詢の登用を進言した。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆帝は、たとへば如何いふ人物がそれに當るかとつきこんで尋ねられた。彼ははつきりと答へた、梅詢、曾致堯の如き者がさうであります。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆眞宗位に卽かれて、或日彼に治道の急務を問はれた。彼答へて曰く、浮薄新進、事を喜(この)むの人を用ゐざること、是れ最も先にすべきでありますと。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆後人知らずして遂に輕々しく改めんと欲す。此れ其の害粉々たる所以なりと評してゐる。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆故に藥を用ふること孟浪(いゝかげん、無責任)人を殺すに至らず。且つ其の法度小害無きにあらず。ただ其の利多きのみ。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆正に老醫の如し。病を看ること極めて多し。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆且つ租宗の時、變を經ること多し。故に立つる所の法度極めて是れ穩便なり。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆劉元城も、此れ大いに言を失するに似たり。然れども深意あり。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆勝手な思ひつきの意見などを輕々に採用して施行したりなどすれば、却つてどんな害をなすかわからんと語つてゐる。(4343'23)
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆國家にはちやんと制度が備はつてゐる。(4343'23)
白居易(772年〜846年)と白宇経(749年〜821年)は、いとこ同士です。白居易の父白季庚と白宇経の父白季般が兄弟です。共通の祖父は白鍠です。白宇経の字(あざな)は擎天、号は松溪です。現在の韓国の水原白氏の始祖にあたります。白宇経は、華州下邽(現在の陝西省渭南市)の人で、祖藉は韓城(現在の陝西省渭南市)とされます。白居易の世代から4世代(曾祖父まで)の墓が陝西省渭南市臨渭区(白居易家族墓地)にあることは以前のブログ「白居易と私」で書きました(白居易と白宇経は衣冠塚)。白宇経は、唐の徳
宋名臣言行錄より二宰相の典型李沆事實彼は下らぬ時局便乘の利口者と多く口をきかなかつたばかりでなく、自分は重位に居りながら、國家の爲に一向何のお役にも立たないが、たゞ方々から盛に持ちこんで來る革新案なるものは一切取上げなかつた。(4343'23)