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酷暑の中、久しぶりの太宰府。蝉の大合唱♪光明禅寺前。太鼓橋へ。右手へ進み、菖蒲池。九州国立博物館。周辺散策路迫力の施設、現イベントは室町時代の将軍特集。楼門。アジアからの観光客多い。本殿裏手。
一見、ただの工事現場ですが、よく見ると不定形の穴を掘り出しています。つまり工事現場に、住居跡が見つかり、発掘しているところ。近くにいた人に聞いてみると、明治時代ぐらいの遺跡では?と。も少し掘ると江戸時代、1-2m掘ると室町時代の地層になるとかで、掘ったら必ず何か出ると。さすが京都の町なかです。でも明治、江戸時代から現在までの間に、1mも地層が積もるのでしょうかね。何がそんなに積もるのか、不思議。鴨川の氾濫、洪水も多かったと聞きますので、そんなもんでしょうか。(^_^)☆
30日は、朝、パワーランチといいますか、打ち合わせをした後タフガイ君と変更書類の交換夜は、ベリーダンスレッスン次の課題曲に向けて、基礎レッスンと筋トレでした。31日は、想夫恋に寄った後室町将軍戦乱と美の足利十五代を観に九州国立博物館へ親子連れで、小学生も来ていて、詳しい子は、恐ろしいほどに詳しい!!!人が多く年表をゆっくり見れませんでした。歴史でもざっと通り過ぎる室町時代ですがWikipediaによると1338年を室町時代の開始年としている。狭義では建武新政から明
日本的美意識感覚のひとつに「余白の美」がある。室町時代に雪舟が大成させた水墨画はあまりにも有名である。西洋絵画は背景まで色を必ずびっしりとつけるのが特徴だがそれとは大きく異なる点に特徴がある。ゴッホもルノアールもピカソ等も決して嫌いではない。しかし、日本独自の文化を背景に育まれた水墨画のほうに「心の余裕」を感じてしまう。モノトーンの世界に浸ると心静かに墨の香りが漂ってきそうである。この日本的精神は今も尚意識的ないし無意識的に人々の心の中に息づいている。時代は進み俳句が江戸期に生まれ
以下の内容はくるみあんずのもう1つのブログタエヌのスピリチュアル日記より転載しました。今できることから~守護霊様からのメッセージ~2019年07月27日✿現在、7月の月末の大祓いのご依頼を承っています。7月31日(水)に、邪気払いや浄化&パワー入れを目的とした月に一度の大祓い(一斉遠隔スピリチュアルヒーリング)を、神話の里‘奥出雲’にて実施いたします。詳しくはこちらのHPをご覧くださいませ。⇒https://taenu1.amebaownd.com/pages/630625/p
西大寺(奈良県奈良市西大寺芝町)は奈良時代後期の天平宝字8年(764年)に創建。奈良の都の東には既に「東大寺」があったが、西には「西大寺」と呼ばれるように整備が進められたとのこと。こちらは南門の前、両隣には民家がある。南門。この先に見えるのが本堂である。南門を通って直ぐ左側にはお地蔵さんが並んでいる。更に進んで行くと、蓮の花に囲まれた東塔跡がある。天平神護元年(765年)に五重塔が建立されたが室町時代に焼失している。本堂西塔跡西塔は平安時代に焼失している。東塔跡の周りの蓮ピン
7月21日の日曜日に入ったころ、「室町幕府全将軍・管領列伝」を読み終えました。室町幕府全将軍・管領列伝(星海社新書)[日本史史料研究会]1,512円楽天最近、室町時代が日本史ファンの間でブームになって九州国立博物館では特別展が開かれるようになりましたけれども、なぜブームになって人気になったのか、を私なりに分析しますと、最近の日本社会でスローガンのように唱えられている「自己責任」という言葉がぴったりの時代で、しかも能や狂言、床の間といった現代にまで続く日本の伝統文化がこのころに
1日【3名限定】椅子が1つだけの美容室hpはこちら最近は「予約が取れない美容室」とも言われています☆今月のご予約はキャンセル待ちとなっておりまして今のところ、10月までのご予約も徐々に頂いております先日、夏休みを頂いてましてまた行って来ました!ぼくのアナザースカイ!笑自分の人生の中で、ターニングポイントとなった場所技術はもちろんのこと、考え方や価値観が変わった場所そして、不思議と情報があま
古川城を落とした稙宗は、そのままその地に滞在した。この年の夏は酷暑であったため、兵に休息を与えたのである。その間に周辺諸国に対し、古川城落城の様子を伝え、主に叛く者に対する伊達家の厳しい姿勢を示した。7月(現在の8月)に入り、朝夕が涼しくなると稙宗は叛徒の大物である氏家家の居城・岩手沢城へ向け進軍した。その途上にある村々は伊達軍によって全て放火されたため、そこに住む人々を皆、岩手沢城内へと逃げていった。そのため岩手沢城内は3千人にも膨れ上がったが、稙宗は余裕であった。と
山号霊応山。天台宗。若狭一の宮の神願寺として成立、縁起によれば元正天皇の勅命により和銅7年(714)に泰澄大師の弟子沙門滑元の創建したといわれています。鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名、七堂伽藍二十五坊を誇りましたが、豊臣時代に寺領を没収され、さらに明治初期の廃仏毀釈によって衰微しました。本堂は、室町時代末期、天文22年(1553)越前守護朝倉義景が再建しました。大きさは間口14.34m、奥行き16.60mです。建築様式は、和様を主体にしたなかに、木鼻に天竺様繰形、唐用束梁などの大
マコでちよ。東武東上線「ときわ台」駅の天祖神社にお参りして、いつもなら「中板橋」駅で下車して行く「縁切り榎」さんに行くでちよ。(本当のマコちゃんは、皆んなと一緒にお留守番です)ときわ台駅から中板橋駅は一駅でち。線路を渡って斜めに行けば「縁切り榎」さんに近づくとおかぁしゃんは見当を付けてるでちけど、おかぁしゃんは強烈な方向音痴。大丈夫でちかね?目印にしてた石神井川を見つけたでち。もう安心でちね。去年の4月に中板橋駅から
新元号『令和』ゆかりの地として話題の大宰府。その太宰府天満宮に隣接する長いトンネルを抜けると・・・そこには異様に大きな建物がありました。こちらは、九州国立博物館。東京、京都、奈良に次いで、実に108年ぶりに新設された国内4番目の国立博物館です。ちなみに、日本にある国立博物館の中では最大級とのこと。建物の内部は、博物館というよりも、まるで空港のロビーのようでした。さて、そんな九州国立博物館にて、令和一発目に開催されているのは、“室町将軍戦乱と美の足利十五代”という特別展。
当山の前身は極楽寺といい、文永2年(1265年)の若狭惣田数帳に存在が記されている古刹である。室町時代は応安年間(1368年-1374年)に、安芸国円明寺の覚応法印が、極楽寺を天台宗から真言宗に改宗し、寺号も正照院と改めた。戦国時代には若狭国を領した武田氏が当山を祈願所と定め、さらに天文13年(1544年)に領主武田信豊により若狭国唯一の駆込寺として公許されるなど隆盛したが、元亀年間に兵火を受けて衰退した。その後、安土桃山時代は慶長7年(1602年)に寺号は萬徳寺と改められ、江戸時代は延宝5年
(✿✪‿✪。)ノコンチャ♡写真を整理しながら「楽しかったなぁ~」と思い返す毎日です東京2日目、お天気は曇りお部屋からスカイツリーが`ギリ`見えます一人ご飯もおつなものなんて朝ご飯を食べてロビーで待っているとくろまめちゃんママが私をPic-upにきてくださり一緒に向かったのは、赤坂・虎屋さんそう、あの羊羹で有名な虎屋さんめちゃ、綺麗な店内ですこちらでランチを頂きました~このランチ、ヘルシーで
寺院で生活をしている方々がいたんだろうなぁ間違いなくねぇ室町時代の建築文化を見た気がするよねぇ
戦後の報告書も雑。( ̄▽ ̄)残りは、鈴木財閥が残した大量の書籍だな。記録課が調べた結果、鈴木財閥はこの山や雷光の戦さの関連等の管理は、室町時代から管理していたと分かった。そして、戦後遂に子孫が耐え、この膨大な書籍を会長3兄弟が引き継ぎ、現在に至る。
そうしゅうさいです。7月に入り、京都では祇園祭宵山が盛り上がっております。先週、七夕ということで京都貴船神社へ一年振りに参拝して参りました。七夕に連なる縁結びとしても有名な神社です。一方で縁切りとして呪詛(汗)の発祥地としても知られ、古来より丑の刻参りが盛んな場所でした。こうした光と影を併せ持つ大変珍しい神社でもあります。また、川床料理を楽しむことができ、多くの有名人もお忍びで来られるのだとか…今回は中々のお値段でしたので遠慮致しました(笑)そんな中、七夕の短冊にいろ
越後湯沢に行く前にずーっと前に一度行ったことがある雲洞庵を訪れました雲洞庵は戦国時代の直江兼続と上杉景勝が幼少の頃に学び修行をしたお寺で室町時代に上杉憲実によって建立されたお寺です苔むした庭や池、本堂の釈迦像や観音像坐禅堂や内陣、開山堂などが素晴らしかった。大自然に囲まれ鳥のさえずりが聞こえて虫の鳴き声がする静かなお寺に癒されました。
もうすぐ九州国立博物館で室町将軍展が開かれますね。九州国立博物館@kyuhaku_koho九州国立博物館の次回特別展は、、、、、「室町将軍戦乱と美の足利十五代」を開催!!足利将軍像十三体が勢ぞろいする圧巻の展示をぜひ会場で!!7/13(土)~9/1(日)3階特別展室https://t.co/CmWMiPnKXZhttps://t.co/XT9iKjwfJO2019年05月30日16:45なので、今回は室町幕府に関する記事を。なお、参考にしたのは以前にも取り上げたこの
何気にほおずき市って毎年耳にします正式名は四万六千日なんですね室町時代以前からお参りしていたらしいです毎月18日が神仏にご縁がある日だったそうです江戸時代に四万六千日126年一生分のご利益あることに!これだけ続いでいることはそれだけの意味があるのですごい事ですねちょっとご利益にあずかるのも良いかも🤗
岡山県電話占い師の道広紀博です!今日は、津山市井口の長法寺に参拝しました!長法寺は、あじさい寺の名前でも有名です!長法寺参道には、お地蔵様が!そして、つづいて不動明王と、延命地蔵様が!これが長法寺です!長法寺は、室町時代から存在します。そして明治時代に、再建され、津山城の取り壊しで、あじさいが植えられたそうです!
室町時代も後期になると、禅宗の世界で、五山が威力を失って、代わりに台頭してきたのが、大徳寺でした。この大徳寺を再興したのが、一休さんこと、一休宗純です。彼は、破綻の書でも知られています。一休の周囲には、文清や墨溪といった画僧もいました。この寺を支えたのが、堺の商人だったように、富裕な町衆が美術のパトロンとして浮上してくる時代でした。そんな時代、美術の制作を専門とする家が出てきます。それが、金工の後藤家、そして、蒔絵の幸阿弥家です。幸阿弥家は、室町後期から江戸時代を
2019年・令和元年5月1日水曜日いつものカルチャースクール"建築史"のクラスこの日は立川教室の「多摩の名建築探訪塩船観音寺のつつじまつりと井中居の懐石ランチ」会員価格12852円に参加!なぜ参加を決めたかというとたまたま少し前に地元の某画家の追悼作品展を見に行った所"塩船観音寺"という油絵が描かれていて
稙宗が岩城家への侵攻した天文3年(1534)、北の大崎領内では、不穏な空気が漂い始めていた。事の発端は、伊達小僧丸の大崎家への養子入りである。この時、小僧丸に多くの伊達家臣が付き従った。彼らは大崎家の居城・名生(みょうう)城に入ると、巡検と称して大崎領内の各地に出没するようになった。その事が、反小僧丸派の大崎家臣達を刺激した。願って養子を迎え入れた側の大崎家からすれば、直接伊達家に抗議をする訳にもいかなかった。そこで大崎家寄りの国人である黒川家より「大崎領内での伊達
日立市HealingroomTiare~ティアレ~女性限定対面鑑定ヒーリングスピリチュアルカウンセラーamiですおはようございます。~今日のみくじ~「沈丁花」沈丁花は室町時代に日本に入ってきたそうです。沈香のような香りと、丁子のような花をつけることから「沈丁花」と名付けられたそうです。今日はあなたの立ち振るまいが、印象を大きく左右します。しぐさや身のこなしに意識を向けて、あなたの魅力を引き出しましょう。伝統文化に触れてみたり、大人のお稽古事を始めるのに適した