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晴寒暖計78度(注・=摂氏25.8度)平岡一行は午前九時頃より元箱根に赴き妻同行せり。喜楽の老女将来室、今度平沼八太郎の見舞に来りたる由。[箱根幻庵の茶会]午前十時半人力車にて湯本に下り、予て野崎廣太氏が今日の茶会に寄付と定めたる今村繁三氏の別荘に入り暫時休憩の後、野崎氏の幻庵に赴けば益田鈍翁兄弟、益田たき子、余と四客にて手軽けれど趣味ある茶会なり、委細は東都茶会記に記すべし。茶会済みて後広間に移り雑談多時夕食を喫し、折柄来会したる室田義文氏等と夜に入り今村氏の別荘に一泊
午前小雨あり午後霽れ(注・晴れ)気候温暖にて寒暖計五十五度(注・=摂氏12.8度)[大石正巳氏の禅学談]午前北隣の大石正巳氏を訪ふ、政界の近状より談は漸く禅学に及びけるが、氏の話に、近来禅学が面白くなり今日も中野の別宅に十余名の禅僧及び居士を招待したれば是れより同所に赴く筈なり、目下問答にて黄檗の柏樹和尚が最も練熟して居りて全国中之に及ぶ者なし、中野の会合にては或は一人達磨大師を気取りて正面に座する、其前に入代り立代りて問答する事あり、又或は順次に提唱を為す事あり、或は様々の禅味
雨後曇寒暖計65度(=摂氏18.3度)この日、・正午、中根岸の大久保北隠の茶会に行く。詳細は東都茶会記に。・同伴の益田孝氏と、帰途下根岸の室田義文氏宅を訪問する。氏は盲腸炎再発の気があり病床にあった。この家は、瓜生【外吉】大将がながく住んでいた家で、庭前に二本の大松の木があった。・帰途、上野山下に益田氏の自動車が迎えに来たので、同乗し築地明石町の同氏宅に立ち寄る。0031431107
快晴寒暖計62度(=摂氏16.7度)この日、・天皇陛下の天長節なので、市内各所にさまざまな飾りがある。とくに二重橋外には大緑門を立て、電気灯をともして、夜にはいってから群衆雑踏で盛況をみせていた。同時に、上野で大正博覧会の上棟式があり、花電車なども出て、こちらもおおいに賑わった。・午後2時、築地明石町の益田宅に行き、安川敬一郎、室田義文らと夜食をともにする。室田氏は、宮中の賜餐に参列したそうだが、陛下の勅語は荘厳で、隅々まで玉音ほがらかに響き渡り、列席の群臣は300
晴冷気加はる寒暖計68度(=摂氏20度)この日、・室田義文氏を鐘ヶ淵紡績会社の重役に推薦する件について、朝吹英二氏に手紙で申し入れ、室田氏にもその報告をする。・昨日と今日、伊香保の真宗説教所において、有志による所蔵品展覧会があった。そこで散歩のついでに見てみたところ、木暮氏の谷文晁の山水大幅と某氏の対山山水の一幅のほかは5,60点中見るべきものなし。ただし、西園寺公所蔵の、伊藤公爵が扇面にインクで書いた一幅【注・詳細はここでは省略】は小品だが上出来だった。
曇寒暖計東京81度(=摂氏27.2度)伊香保75度(23.8度)この日、・四谷新宅建設現場へ・午前11時ごろ自動車で高輪の田中屋別宅を行く。清元お若、直次、つぎが来ていたので、お若に青海波を習い、雁が音を語る。直次の四季三葉を聴く。岩下清周、飯田義一、室田義文、山田松三郎が来会し、暑さがはげしいので夜になってから帰る。別室で、室田義文から以下の内談があった。安川敬一郎氏が鐘ヶ淵紡績株を1万株余り所有しているので、それを代表する意味で[室田氏が]鐘ヶ淵の重役
曇寒暖計72度(=摂氏22.2度)この日、・室田義文氏の紹介で、茨城県人の蓮見某ともうひとりが来宅する。ふたりとも大学法科生で、将来新聞記者あるいは文筆業に就きたいとのことで面会に来る。これまで茨城県、とくに水戸藩出身の書生は、文学に秀で算数にうとい傾向があり、工科理科を修める者が少なく、法科学生が多い。しかしその長所を伸ばすことはよいことであるので、このふたりが文筆家【原文「操觚者」】として世に立つ覚悟があるのであれば、それなりの助力をしようではないかと述べておいた。
晴寒暖計45度(=摂氏7.2度)この日、・藤山雷太氏が近日、糖業視察のために台湾に出張するため、送別会をかねて午餐をともにしようということになり、岩下清周氏とともに田中屋へ行く。室田義文氏が、本日新富座で開会した憲政擁護大会からの帰りにやってきたが、あまりの混雑で入場することができなかったとのこと。・新富座での尾崎行雄氏の当日の演説内容。【注・ここでは内容省略。薩長門閥政治を批判】・夕刻、永田町平岡(熙)方で、雑煮会がある。20畳の新座敷で、清元、東明節などの試
晴寒暖計41度(=摂氏5度)この日、・午前、福澤先生経歴談聴取のために池田謙斎氏に紹介状を頼むため、石黒忠悳男爵を訪問。氏によれば、池田は、あの有名な医学博士入澤達吉の親の弟で、幕府の役人だった池田の養子になった際に緒方洪庵の子分になっただけなので、福澤が緒方塾【注・適塾】にいたときに同格で交際した人ではない、それよりも足立寛氏を紹介したい、とのこと。目下湯河原で湯治中なので、帰京次第手続きをとろうとのこと。・帰途、岡田陽一の病気見舞い。大学病院から帰宅してから快方に向
晴寒暖計40度(=摂氏4.4度)この日、・風邪で鵠沼の別荘に滞在中の益田孝氏から、転地かたがた遊びに来ないかと誘われ、午前8時30分の汽車で向かう。横浜で、同じく鵠沼に向かっていた益田英作氏とばったり出会い、車中で氏の諧謔談をきき11時ごろ益田別荘着。英作氏の話では、このほど帝国劇場の重役会で、西洋では気軽にアマチュア劇が行われており、現に今月末にも帝国劇場で一組のアマチュア劇が上演されるのだから、日本の紳士ももうすこし気軽にアマチュア劇を演じる習慣を持ったらどうだろうと
晴近頃は近年稀なる寒気なりと云ふ寒暖計39度(=摂氏3.9度)この日、・午前九時、神田美土代町の青年会館で行われた永井久一郎氏のキリスト教私記の葬儀に参会する。例のごとく、賛美歌や祈祷などがあった。氏の経歴が読み上げられたなかで、氏はいつも家人に向かって、自分は官界において志を得ず実業界にはいっても多くの人後に落ちる、ただ一巻の詩がわが志をとどめることができればよい、などと言われたそうだ。弔辞の中で隋鷗吟社【注・明治37年に大久保湘南によって設立された漢詩の結社】の主幹
晴気温の記載なしこの日、・午前、曽根歯科へ・中上川次郎吉氏から、福澤先生の筆蹟を見せてもらう。これは、明治30年に、先生の実姉で中上川氏の実母である蜿子【注・福翁自伝の中では諭吉の母の名は於順[おじゅん]となっている】刀自が死去されたとき、先生がその葬式一日前に中上川の家に来て、ふと中上川の子女に示すために書きつけられたものである。先考【注・亡父】ノ遺稿天保四年十一月七日某氏二与ル書中二、本月朔次女阿蜿発熱、初四日痘瘡見点云々ト記シ、下二児病痘即事ト題シテ七絶三詩ア
晴寒暖計47度(=摂氏8.3度)この日、・午後、築地明石町の益田【孝】邸に招かれる。朝吹英二、室田義文、野崎廣太らが来会し夕食をともにする。・室田の話では、「今回の西園寺内閣の辞職にはいろいろな事情があるにせよ、二個師団増設問題を西園寺首相があまりにも軽く考えすぎたことが主因である。首相は、最初に上原陸相を推薦するときに、二個師団の問題をあらかじめ交渉しておく必要があったのだ。上原陸相は二個師団増設の主張者の一人なのだから、陸相就任の際にこの問題を決定しておけば、今回のような
曇後雨寒暖計66度【=摂氏18.9度】この日、・午後1時、河東節秀翁【注・山彦秀翁】が来て、邯鄲を稽古する・午後4時、医学博士北里柴三郎氏を訪問し、氏が経営する養生園および伝染病研究所と、福澤先生との関係について、その経歴談をきく。・夕刻、九州の安川敬一郎氏が上京するので田中屋へ行き、飯田義一、室田義文、福澤桃介と晩食をともにする。管理番号:012019062121009
雨天寒暖計68度【=摂氏20度】この日、・今朝の時事新報から7回の予定で「井伊大老の茶道観」の掲載が開始された。・商業新報(注・中外商業新報)では、野崎(注・野崎廣太)氏に渡したわたしの和歌と、秋興の七言律詩が掲載された。・夕刻、明石町の益田【孝】邸に行く。野崎、室田、益田英作氏が集まる。一品ずつ持ち寄った食べ物で晩餐をともにする。・夜9時ごろから急にむしむしして、夜半過ぎには暴風雨となる。管理番号:01130702172092
晴寒暖計80度【=摂氏26.7度】この日、・夕刻、明石町の益田孝邸を訪問。室田義文、野崎広太、益田英作が来会。益田氏は小田原の別荘からいろいろな草花を持ち帰り、葭簾(よしすだれ)の二枚折りに、不昧公【松平不昧】の竹花入、備前掛花入および籠花入を掛け、ここにその草花をはさんで飾っている。これは、西洋館に投げ入れの花を飾るという趣向であり、もしも西洋人にこの趣向をおしえれば、きっと外国でも流行することだろう。ただし、西洋花の枝ぶりには雅趣がないため、彼らの好みには合わないかも
晴寒暖計85度【=摂氏29.4度】この日、・平岡次郎【注・岳父平岡熙の次男】が来て、忠雄【注・高橋箒庵の長男】の写真を撮る。・文学博士、三上参次氏から手紙がきて、歴史調査のできる人物に心当たりがあるとのこと。返事を出し、茶人、茶器、庭園、建築などの古記録を調査することができる人物がいれば雇いたいと伝える。・岡山高蔭から、明治16年に先帝の思し召しで、徳大寺宮内卿から当時の高名歌人14人に、四季、恋、雑【注・ぞう、和歌の分類の「その他」にあたる】から、おのおの30首を詠