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栄教(?~?)江戸時代~明治時代の竹生島月定院の住職であり、菅浦(現、長浜市西浅井町菅浦)真蔵坊(院)の住職。菅浦真蔵院が所蔵する「絹本著色弁財天像」の外題に弁才天/当寺第八世現住栄教修□真蔵坊什とあり(『西浅井町文化財調査報告書西浅井町の仏教美術』二〇〇三年三月二五日西浅井町教育委員会発行)、栄教が真蔵院第八世であることが分かります。また、安政五年(一八五八)の菅浦金比羅宮の祈祷札に導師は栄教です(『菅浦の湖岸集落景観保存活用計画報告書』平成26年3月、滋賀
◆浅井氏庇護時代から秀吉統治時代を生きた栄秀(二代目)弁才天堂栄秀(二代目・?~一五七九?)戦国時代の竹生島の僧侶。永禄七年(一五六四)三月三日、「島繋ぎの神事」の差定に竹生島衆徒一八人中の第一七座の平僧として名がみえます。永禄八年(一五六五)三月三日、「島繋ぎの神事」の差定に竹生島衆徒一八人中の第一六座の平僧として名がみえます。永禄九年(一五六六)三月三日、「島繋ぎの神事」の差定に竹生島衆徒一八人中の第一六座の平僧として名がみえます。永禄一〇年(一五六七)九月六日の「小
◆竹生島に勧学院があったの!?栄芸(?~?)室町時代の竹生島勧学院の僧侶。永正一三年(一五一六)二月廿一日付けで、竹生島勧学院栄芸は、風呂田として都合三俵分の田地を菅浦(現、長浜市西浅井町菅浦)に寄進しました。僧侶育成機関の勧学院が竹生島に存在していたのかどうかは不明ですが、室町時代にはあったのかもしれませんね。永禄一〇年(一五六七)九月六日付けの「小島権現棟札(富田八幡神社所蔵)」に若輩衆のとして「玉蔵院栄芸」名が見えます。玉蔵院は、屋敷地だけが残る旧院坊です。入寂年は不明。
長浜港から遊覧船に乗って竹生島に行ってきました🙏無事たどりつけるか昨日からドキドキ😥迷子名人なので本当によく迷子になるんです😱島に着いて、長い石段を登って宝厳寺に到着です。20数年前に西国霊場参りをして宝厳寺に来ていたのにすっかり忘れていました😥都久夫須麻神社(竹生島神社)龍神拝所があり願い事を書いた小皿を投げて鳥居をくぐれば願い事が叶うと言われている『かわら投げ』をしたけれど鳥居をくぐらず😶気にいった龍神の絵となかなかめぐりあえずちょっと良い感じの絵だっ
滋賀県と言えば琵琶湖琵琶湖に浮かぶ島沖島・多景島・竹生島昨年の秋に竹生島へ行ってきました西国三十三霊場の一つです小さい頃に行った事がありますが記憶も薄れています彦根から船に乗って40分位だったかな〜とっても素敵な所ですので良かったら見て下さいね〜宝厳寺本殿お皿に願い事を書いて鳥居に向かって投げます投げたお皿が鳥居を通れば願いが叶う勿論鳥居は通りませんでした〜おまけのランチ🍀今日もご訪問ありがとうございました🍀🚶8065歩🕴️0.4
峰覚専(一八五九~?)明治時代の竹生島一乗院の住職。一乗院中興一九世。僧階は教師試補。安政六年(一八五九)七月一日生まれ。養師匠は妙覚院住職峯覚以。妙覚院住職の峰覚以・その法弟子の覚如と川道村(現、長浜市川道町)の峰実全とは親戚。慶応四年(一八六八)六月二六日に竹生島宝厳寺において得度。明治二年(一八六九)二月二一日、一乗院の住職になります。明治六年(一八七三)二月一三日、「峯」苗字取設届を提出。明治八年(一八七五)九月二一日に浅井郡第一三区早崎村に住所を定めました。明治
◆なかなか住職になれなかった苦労人専覚(一七八八~一八三一)江戸時代の竹生島一乗院の住職。一乗院中興第十二世。吉祥院専純和尚の弟子として竹生島に横入(おうにゅう)。元は覚本といいましたが、専純和尚に従ったので専覚と名乗るようになりました。俗姓は、下総国角廉郡(葛飾郡)小平村(現、千葉県野田市の一部か?)の渡辺久右衛門の子息。同郡東金ノ井(現、千葉県野田市東金野井)の清泰寺法印覚意に随従して、寛政一一年(一七九九)一二歳で得度。この年の六月二九日に覚意法印が入寂。一六歳の時に本山(長谷寺)の
光珍(一七一九~一七五〇)江戸時代の竹生島一乗院の住職。一乗院中興第九世。月定院円阿の弟子。当時、一乗院が無住であったため月定院の円阿が取り立てて住職となった僧侶です。寛保二年(一七四九)正月七日、常行院の横暴に対して他の院坊の僧侶が連判して対抗した際には、山内僧侶すなわち上位者から吉祥院真城・妙覚院登翁・月定院円阿・梅本坊学雄・一乗院光珍・花王院実祐が申合一札をかわしました。これにより常行院は第一座から下ろされ、第二座の真城が第一座に昇格し、光珍も第六座から第五座に昇格しました。しかし翌寛
◆一乗院の院室を再建する栄寿(=栄仙)(?~一六九七)江戸時代の竹生島一乗院の住職。栄仙ともいう。一乗院中興第六世法印栄仙和尚。先師栄喜の弟子。一乗院の院室を再建しました。寛文四年(一六六四)正月八日の「下山者也、仍而証文如件(奥のみ残存)」に名前が挙がります。その時の下山者は、上位者から、静繁(花王院)・広照(吉祥院)・頼真(金竹坊)・尊海(梅本坊)・円喜(月定院)・行喜(院坊不明)・快秀(院坊不明)・快誉(妙覚院)・行意(院坊不明)・栄寿(一乗院)・吉誉(院坊不明)・静快(院坊不明
栄重(二代目・?~一五四九?)室町時代の竹生島一乗院の住職。和尚を務めました。康正期頃の住職と同名ですが別人です。享禄三年(一五三〇)六月八日、岩金山大神宮寺(竹生島)は、冨田村(現、長浜市富田町)の安部宗次を大工権守(ごんのかみ)に補任しました。その時の補任状には、おそらく執行であった栄翁・実勝と、四人衆の栄重・栄雄・行空・実勝が連署しています。「冨田邑」が奉納した石灯籠。冨田村は古来より竹生島と深い関係を持っていました。とりわけ、同村在住の竹生島の宮大工安部(阿部)権守は、中世以来
石段を上がって二つ目の鳥居のすぐ左側にあるのが一乗院栄重(初代・?~?)室町時代の一乗院の住職。応永二四年(一四一七)四月一三日の竹生島衆徒起請文に名があります。上位僧から順に、栄重・玄清・行賢・因善・良快・行慶・行因・静重・玄算・玄重・快全・頼恵・行遍・行存・宗清・清円・静算・因俊・行重・栄清・快乗・栄遍・行真・行舜・善重・行光・玄照・因快・頼乗・栄快・三位・上野・武蔵・侍従・和泉・式部。この時の竹生島衆徒三六人中の第一座、すなわち和尚です。この和尚の時、島は天台宗であったといいます
◆借主の金蔵坊、竹生島から逃げ出す中世には存在した竹生島東南坊の跡地は代々常行院の持分でしたが、慶長一〇年(一六〇五)、金蔵坊行慶は、梅本坊栄俊を介して、常行院静雄から東南坊屋敷を借用しました。金蔵坊の寺地が悪いという理由での移転です。この時、金蔵坊行慶は、慶長一〇年(一六〇五)一一月二四日付けで、一札を書いています。その一札の中で行慶は、東南坊屋敷に家(院坊)を建てること、その院坊が退転することが無いように努力すること、住持が替わっても常行院の指示に従うこと、を約束しています。その後、借
専融(又は専祐・一六九二~一七七八)は、江戸時代の竹生島常行院の住職。常行院中興第九世。前名は観興(又は歓興)。号は玄照院(又は玄上院)。先師宥誉法印の弟子。常行院実泉の師匠。近江国坂田郡大原荘井口村(現、米原市井之口)の池田庄司太郎の五男。神照寺善行院(現、長浜市新庄寺町・日出山神照寺)において剃髪。戒師は神照寺の無量寿院天雄和尚。宝永四年(一七〇七)、一六歳の時に常行院宥誉の弟子として竹生島に横入しました。翌年、一七歳の時に竹生島常行院の住職となり、以後三十五年間住職を務めることになり
事件の当事者笠原源七郎行永は、戦国時代の近江国浅井郡新井(現、長浜市新居町とその付近)の土豪。その昔、足利尊氏が竹生島に日御供米として寄進した、新井郷内の一町六反大の田地の切米七石五斗と、古来よりその振舞料として納められている一俵の米について、笠原行永が押領したと、永禄九年(一五六六)に問題になりました。永禄九年(一五六六)一〇月一五日付けで、竹生島が浅井長政の家臣である遠藤喜右衛門に宛てた案文によると、①笠原方が切米七石五斗について寺納されないので、毎年納める様申し入れてきたが、う
YouTubeに吉方位の取り方や、良い方位についてまとめてみました。良かったら参照してみてくださいね↓↓↓【八白土星】今年の八白土星さんは停滞運になります。ものごとを進めていくのには障害が起こりやすいですが、勉学や研究などのインプットをしていくには最適な時期でもあります。南西の方角はこつこつと地道に進んでいく方位。まず仕事運や家庭運を安定させましょう。北東の方位もおススメです。金運を安定させることも今の運気を上げていく鍵になりそうです。吉方位:◎南西、○北東オススメ開運神社:西
文化一四年(一八一七)三月に竹生島一乗院第十一世専覚が記した「彦城大守参詣記」によると、同年三月一二日、井伊掃部頭〔第一四代彦根藩主井伊直亮(いいなおあき)・直弼の養父〕が竹生島に参詣しました。◆殿様がやってくる、大変だ!準備、準備。参詣に先立っては、前月に早崎村(現、長浜市早崎町)の彦根藩領(早崎村は、竹生島と彦根藩の相給の村)の庄屋から殿様が竹生島に参詣しても問題ないか?との問い合わせが竹生島一乗院にありました。一乗院は竹生島一山へその可否を尋ね同意を得、差支え無い旨を庄屋に返答。
江戸時代、竹生島の祭礼行事「蓮華会(れんげえ)」の頭役を受けると名字を許されることがあります。厳密に言うと頭役を受けた者が居住する村名を、名字として名乗ることを竹生島が免状を発行し認めるのです。村名を名字とすることは、恐れ多い事であったのでしょうか。不思議とその者が居住する村名を名字としている家は今日でも意外と少ないのです。他地域に居住する者が、自家の出身地に思いを馳せ、往古に住んでいた村名を名字とすることは時々見かけます。名字の由来は、地形由来、地名由来、方角由来、職業由来、故事由来、領主か
昭和初期頃の都久須朝神社本殿◆竹生島の御殿は五郎左衛門が棟梁を務めた甲良大工五郎左衛門?あまり聞かない大工ですね。増上寺や日光東照宮の棟梁を務めた甲良豊後守宗廣なら聞いたことがあるけど...。中近世、近江国犬上郡甲良村(現、滋賀県犬上郡甲良町)には、力量の高い大工たちが集住しいました。中でも甲良豊後守宗廣は江戸幕府に重用され、その名を天下に轟かせた江戸時代初期の名大工です。五郎左衛門は、それより少し前、戦国時代に活動した甲良大工です。現在、国指定の重要文化財に指定されています油日神社
旅のつづききょねん令和5年に西国三十三霊場巡礼を結願(けちがん)したんですがその時のこと第30番札所滋賀県の奥琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)さんに🛳️フェリーに乗って訪れた時のことお隣にある都久夫須麻(つくぶすま)神社へ寄ったのですが御朱印が売り切れ???遠路はるばる3人でやって来たのにそんな事ってある???係りの方にどうか頂けるようにお願いをしたのですがむげにあしらわれて悔しくて悔しくって竹生島が嫌いになりそうでずっとリベン
今年夏に結願することになるのですが、昨年末時点から取り掛かっていました。新たな巡拝としてこのような目標を見つけました。百観音自体はWIKIで見つけました。こちらはネット上のショップで見つけました。昨年の11月のことです。その月に始めようと思っていましたがコロナに罹り、先送り。年末に帰省をしていた中で体調がまずまずであったため始めてしまいました。12月9番南円堂春日詣りと同時に。十
ご訪問いただきありがとうございます今朝の富士山昨日の富士山先日、竹生島へ急に思い立って向かったので、新幹線の中で、どの経路がよいのかスマホとにらめっこ…竹生島の次に向かう場所も決めてない赤備えの直政号。島に近づくにつれ、ドキドキしてきました!40分船に揺られ、ようやく到着。そして上陸階段を結構登るみたいです。鳥居の先に階段。階段を登って宝巌寺本堂、弁財天堂初めてなので、お堂の中をキョロキョロ、挙動不審手前にはお不動様階段を降りていくと観音堂国宝の唐門ですね
思いきや思いきやかかる日のありと思いきや一遍上人誕生地の宝厳寺にてお酒をいただくなんて思いきやああまことに法縁無量にてよきお酒をいただき寒き日の冷えたる体ぬくもりにけりありがたかりけり一遍から学びとるもの一遍から学びとるものそれはリンリンとしたほとけのいのちでありいぶきであり捨てて捨てて捨てきったナムアミダブツである彼が称名すれば風となり雲となり山河草木こぞってナムアミダブツをとなえるああこの生々潑々のひびきよわ
おはようございます。龍神でございます。さぁ、師走になりましたね!冬はイベントが増えてオシャレ、食べ物など色々と楽しみな季節になってきましたね☝️西国三十三ヶ所観音霊場30番札所竹生島宝厳寺琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺と竹生島神社。龍神様が住まわれると言われる竹生島。階段こそ急ではありますが、高速船に乗ってお参りする価値は大きいです✨こちらは彦根港発着の高速船『直政』号電話だと『声は最初はあまり聞かれたくないな』『緊張するからちょっとね』と思われてい
長浜港から竹生島にわたりました。船から宝厳寺が見えてきました。遠方からでも階段があることが確認できました。ガイドさんによると勾配のある階段が有るとのことですが、ついでに、「右から回ると勾配が緩やか」なことも教えてくれて、杖の父は練習だ!と言って頑張って上っていきました。が、この後、永遠と続く階段地獄に誰も気がついていませんでした。さて、こちらでは2枚で一対のお皿を鳥居に向かって投げる事ができます。お皿は上陸した入口で購入できますのでお忘れなく。この日も暖かく、階段を登ると汗が出るほ
本堂参拝からの続きです。不動明王像本堂から三重塔へ向かう階段が紅葉に覆われて、とても綺麗です。三重塔宝物殿(有料)館内は撮影禁止です。唐門(国宝)元は大阪城本丸の極楽橋の唐門だったとされ、その後は京都東山の秀吉を祀る豊国廟の門でしたが、秀頼により寄進された現存唯一の大阪城遺構。舟廊下(重要文化財)龍神拝所琵琶湖に向かう鳥居めがけて、かわらけを投げ鳥居の間を通ると願いが叶うといわれています。湖面から眺める龍神拝所と鳥居。いただいた御朱印と散華です↓西国三十三霊場第三十番
読んで頂きありがとうございます占いヒーラー月森未子ですリュウ博士のご案内で琵琶湖に浮かぶ竹生島へとフェリーに乗船して向かいます快晴です前回からの続き『京都の鬼門守護神社と竹生島リュウ博士と巡る旅(1)』読んで頂きありがとうございます占いヒーラー月森未子です秋の京都の寺社仏閣巡りをしてきましたクラブワールドさんのご案内でリュウ博士の非常に丁寧な解説付きめ…ameblo.jp岸を離れて湖の中へフェリーの起こす波がしら龍の背中のようにも見えます
いろいろ記事が渋滞していますが、、竹生島の記事を始めちゃったのでとりあえず進めましょう~(竹生島の記事もだらだら続く予定)『100円で竹生島へ行ってきました♪』今日は竹生島へ行ってきました~♪西国三十三所巡礼でも行ったし、その後家族とも行ったことあるんですが、国宝の唐門が工事完了してから見られてなくてずっと行…ameblo.jp『いざ、竹生島へ~祈りの階段165段!』5つの記事掲載中です。①10月5
愛媛県八幡浜市にある臨済宗妙心寺派宝厳寺さんから郵送で届きました。インスタグラムのフォロワー4000人記念で申し込みしていた八福神のミニ色紙で、毘沙門天を頂きました。一緒に八福神の御朱印をお願いして書き入れして頂きました。
5つの記事掲載中です。①10月5~6日の山口母娘旅②10月21日の淡路島家族旅③11月3日の山科・大津日帰り夫婦旅④11月8~9日の宿坊にお泊まりひとり旅⑤11月27日の竹生島日帰り旅11月27日お出かけです。『100円で竹生島へ行ってきました♪』今日は竹生島へ行ってきました~♪西
「色里や十歩はなれて秋の風」<子規>「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋」<黙禅>先日のこと。▼久しぶりに道後温泉街に足を向けた。いつの間にか初冬のシーズン。市街地でもモミジ葉が真っ赤に彩り、銀杏が黄金色の装いに身を変える。このころになると決ま