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北九州市八幡西区東川頭2-46参考街道ではなく官道平城京から太宰府へ向かう道嘘か真かはわかりませんが、言い伝え通り、八幡市が史跡としています。すぐ横には、製鐵所水道道が通っています。花尾中学の裏です。
2月24日土曜日横大路から続く竹内街道を走ってみました起点は當麻町の長尾神社山麓線を越えると竹内集落に入ります芭蕉も立ち寄った記念碑「綿弓塚」「綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥」門人の苗村千里の郷里「深川や芭蕉を富士に預け行く」と植えられた芭蕉を案じた句を詠んでいます街道沿いにはたくさんのお店が並んでいたようです竹内峠は鶯の関とも呼ばれていました街道沿いにある道の駅「近つ飛鳥の里太子」の梅が満開孝徳天皇陵孝徳天皇陵の真ん前が竹内街道大阪の飛鳥川に架かる月読橋飛鳥
下呂市金山町の飛騨街道散策等で飛騨金山駅までいきました。ここから飛騨川沿いを散策して大船渡の渡し入口にいきました。この渡しは昭和3年(1928)に金山橋が出来るまで、美濃から飛騨への道で飛騨川を渡る重要な渡船場だった。この大船渡の地名については古代官道だった、ここの渡しを国司などが都から国府に行き来していました。その最初に渡ることから(大船渡)の地名になったといわれています。ここは飛騨金山駅の南に位置し、細い路地を下っていくと正面に飛騨川になります。下りて飛騨川を見ると当時の風景を感じるよう
2月12日に訪れた茨城県小美玉市にある泥障(でいしょう)塚古墳群、続きです。昨日アップした泥障塚古墳群第3号墳は住宅地の中にありましたが、今日アップする第2号墳は森の中です↑「泥障塚古墳群入口」との案内もありました。↑入口手前、こちらの道は古代の官道跡です。↑森に入ってすぐ、泥障塚古墳群第2号墳が見えてきます。左が「後円」部、右側が「前方」部の帆立貝形前方後円墳。↑第2号墳前にある「泥障塚古墳群と古代官道跡」の解説板泥障塚古墳群という名前
はい!奈央です。太宰府政庁に匹敵する規模だった福原長者原官衙は、なぜ、縮小移転したのか?今回はこれについてレポートしてみたいと思います。史跡福原長者原官衙遺跡保存活用計画序章~第2章よりお借りしました。大宰府政庁東西約119.2mx南北約215.45m回廊規模東西111.1mx南北113.8m福原長者原官衙遺跡(初期の豊前国府政庁?)I期区画溝東西約128mx南北約135mII期区画溝東西約
カワセミって珍しいですか?本日久しぶりに近くの公園に行きましたらね。水深20センチくらいの池の柵にカメラを構えた人が群がっていました。これは珍しい光景ではありません。池にはコサギやアオサギなどがよくいるので、それを撮っておられるのです。今日もそうかな~と思って近づくとシニア女性のかたが、「あなた、さ、さ、ここに!」って前列のご自分の場所を譲ってくださいました。「なにがいるんですか?」「カワセミなのよ」「え、どこに?」「ほら、あそこ、枝の上に。影のほうがよく見え
☆下ツ道(八条北遺跡)大和国添下郡・山邊郡奈良県大和郡山市八条町・天理市南六条町(「下ツ道歴史広場」P有り)大和を南北に縦断する古代官道、「下ツ道」(中街道)の遺跡の一つ。丸山古墳(旧見瀬丸山古墳)前を起点として北上、平城京の羅城門、メイン道路である「朱雀大路」に連結するおよそ25km。「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」の三官道の中でも、もっとも使われた道路だったと思われます。道路幅は現在のように側溝までを含めると、26m以上と想像を絶するものでした。川を越える橋などは18mほ
牛頭神社(大和郡山市伊豆七条町)大和国添下郡奈良県大和郡山市伊豆七条町(詳細住所不明)(北100m余り、集落の北側入口に当たる道の「高瀬川」縁の空きスペースに停め置きました)■祭神(不明)藤原京と平城京を南北に結ぶ古代官道の一つ「下ツ道」沿い、大和郡山市伊豆七条町の集落内に鎮座する社。◎かつて「伊豆七条環濠」が形成され、当社はその古い集落内に鎮座、村の氏神であったと思われます。集落内にはもう一社、子守神社が鎮座。そちらは村社、当社は無格社。「七条」は平城京条坊制によるもの。「
2つめの講座は「壬申の乱と倭の古代道路」古代最大の戦乱に勝利した大海人(おおあま・おおしあま)軍がどのように戦ったのかを考察主戦場は近江と倭の2方面近江は大海人皇子を中心として不破(岐阜県)を出発近江朝廷軍と戦いながら瀬田川の戦いへ進軍する一方倭は大伴連吹負(ふけい)を中心とし近江朝廷軍を迎えます北からは乃楽山(ならやま・現平城山)で西(難波宮)からは竜田道の亀瀬越大坂道の関屋峠・穴虫峠石手道の竹内峠この戦いで吹負は墨坂(榛
ブログをご覧いただきありがとうございます。身体を鍛える前に整える!運動指導者の山下純司です。⭐️11月18日(金)久留米市ピラティス体験会の予約はこちらから⭐️プロフィールはこちら⭐️ホームページはこちら⭐️YouTubeチャンネルはこちら登録お願いします。先週は水城跡地のコスモス鑑賞に行き、水城跡の歴史に少しだけふれました。水城跡コスモス鑑賞『コスモス鑑賞しました。』ブログをご覧いただきありがとうございます。日常生活が快適に送れるようになる為のパーソナルケア&ト
下呂市萩原町の位山街道(匠の道)の登り口からだんご淵を見て、石畳の道を谷川沿いを位山峠を目指して上がっていきました。この石畳の道を下呂市萩原町が1990年から5年をかけて位山官道整備事業を実施した。けもの道のような状態で一部残っていた旧道を敷石を詰めて整備しなおした。石畳の道も登り口から植林された杉林の仲の緩やかな道を上がっていきます。次第に勾配きつくなりると、杉林が少なくなり落葉樹が多くなります。谷川のせせらぎの音を聞きながら坂道を上がっていくと前方がやや明るくなってきました。ここで上の県道に
愛宕神社(桜井市大福)大和国十市郡奈良県桜井市大福(「大福208」の民家の一角)■祭神愛宕大権現最古の官道とされる「横大路」沿いに鎮座する社。民家の一角に石碑のみが建てられています。江戸時代には伊勢街道となり、古くから民家等が密集した地。火伏せの神として祀られたものと思います。「横大路」沿い。20~30mほど西側には横内神社(撞賢木嚴御魂天疎向津姫命神社)への案内板があります。■大和国十市郡の神社■当ブログ内神社検索(奈良県ア行)
因幡国国庁跡や国分寺を訪ねている時旧官道と思われる県道251号線の西に『長慶天皇陵伝承地』の文字長慶天皇とは後醍醐天皇の孫にあたる第98代天皇ですが当時、南朝は吉野にあったはずですが---行ってみると桜谷という住宅地の一角に櫻谷神社と書かれた鳥居がありその後ろに伝承長慶天皇陵(約200m)の碑が立っていました歩いて行きましたが林の奥のようだったので奥までいかず手を合わせました後醍醐天皇の後の後村上天皇の時代には観応の擾乱(北朝側の内部抗争)などがあり「敵の敵
栃木県上三川町にある古墳、続きです↑神主2号墳、南側より昨日アップした浅間神社古墳の西側にあります。直径約20メートル、高さ約2メートルの円墳。見た目は高さ1メートルほど。位置確認にどうぞ:36.463328,139.883294↑神主40号墳昨日アップした神主4号墳の道路を挟んだ西側にあります。直径約6.5メートル、高さ約1メートルの円墳。位置確認にどうぞ:36.462492,139.883499↑こちらの写真、真ん中が凹んでいるの
菅原神社とも呼ばれ、高峰神社とも呼ばれ、複数名称が併用されており多少混沌としています。竹内街道周辺はとても長い歴史とともにあります。旧石器時代、二上山産サヌカイトが各地に流通。弥生時代、稲作文化が奈良盆地に伝播。3世紀、二上山産石材が箸墓古墳に使用。4~5世紀には二上山西麓に多くの陵墓、古墳が建造。427年頃には當麻徑[たぎまみち]が、難波より竹内峠を経て大和に至るとの日本書紀の記載。613年(推古天皇21年)大道敷設。竹内街道及び横大路を官道と
愛宕社(横大路・上ツ道)大和国十市郡奈良県桜井市大字谷(アクセスは本文参照)■祭神愛宕大神大和国を東西に横断する古代の官道「横大路」と「初瀬街道」の分岐点、南北に走る古代の官道の一つ「上ツ道」が交差する場所に鎮座する社。「小西橋東詰」橋上に佇んでいます。仏教施設といった様式の覆屋の中に、神を祀る小祠。覆屋の中には「愛宕大神守護修」と記されたお札が掲げられ、神鏡と榊が立てられた小祠が鎮座。創建由緒等は不明ですが、火伏せの神として祀られたものと思います。なお社名は不明であるため仮の
7-3平城京の造営平城京(へいじょうきょう)とは、唐の都長安をモデルにして、710年、元明天皇(げんめいてんのう)のときに奈良盆地北端(ならぼんちほくたん)につくられた宮都(きゅうと)をいう。以後、恭仁京(くにきょう)・難波宮(なにわりみや)・紫香楽宮(しがらきのみや)などに短期間遷都(せんと)したことはあるが、784年の長岡京(ながおかきょう)遷都まで、天皇8代の律令国家の首都として機能した(奈良時代)。➊平城京の構造平城京は、東西4.3km・南北4.8kmの長方形で、北側
開祖・弘法大師空海の中国での足跡をたどる『空海ロード』の旅今回は、『二十八都鎮』唐代における交通の要所。空海大師も、ここを通って中国の都・長安を目指しました。入り口にかかっている橋のひとつ古風な雰囲気が、ナイス。古来、交通の要所であるという事は、軍事上でも、重要な拠点!駐留する軍隊の指令所がコチラ。誇らしく掲げられた指令所の証・『師』の旗。三国志なんかでは、何故か大事な戦闘