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『宋書』は、珍と済の関係が父子でも兄弟でもなかったため、あえてその関係を記さなかったと考えられます。つまり、ここに「倭の五王」の讃・珍(履中・反正)グループと済・興・武(允恭・安康・雄略)のグループとで王の血筋が異なるという解釈が成り立つわけです。それでは話をもとにもどし、『記・紀』はなぜ、倭王済に比定される允恭天皇の父を仁徳天皇としたのでしょう。『記・紀』の編纂がはじまった7世紀後半は、ようやく日本の王権が父から子へ、直系で相続されはじめた時代。前天皇との関係
『宋書』は「讃と珍」、『記・紀』は「履中と反正と允恭」をそれぞれ兄弟とし、その順に当てはめると「讃=履中天皇」「珍=反正天皇」となりますが、問題は允恭です。『宋書』には倭王珍と倭王済の続柄が記載されていません。続柄がわからないから、珍(反正天皇)と済(允恭天皇)が確実に兄弟だったといえなくなります。こうして、この二人を兄弟とする『記・紀』の内容と矛盾してしまうのです。『宋書』では「讃死、弟珍立」、「済死、世子興遣使」、「興死、弟武立」とあって、珍と済の二人の間の
倭の五王の謎を解くためには、日本書紀等の天皇と比較するのではなく、百済の王族を研究することが必要だと私は考えている。ではその百済の王族について知るにはどうアプローチしていけばいいのか?百済のことについてだから「三国史記」の百済本紀を読めばいいのか、いや違う。「三国史記」は1145年に完成したものでその元となった資料は錯綜している。詳しくは、高寛敏著の「『三国史記』の原典的研究」に譲るが、「旧三国史」「資治通鑑」「冊府元亀」さらに新羅、高句麗の独自史料の存在が伺われる。ならば「宋
はい!歴史大好きの奈央です。空白の4世紀を埋めるものとして、文献的な証左をご紹介してお話してきました。明らかに文献的な証左は少なく、それこそが空白の4世紀と云われている所以ですね。一方で、考古学的な遺物は、多数の潜在的証拠となりうるものの、明確な年月を決定できない点にアキレス腱を持っています。従って、できうる限り客観的な分析解析結果に即した事実の積み上げが重要です。そこで、今回は発掘された古代人の骨格・顔つきから、空白の4世紀に対してできるアプローチをご紹介したいと思います。
はい!歴史大好きの奈央です。昨日のブログで、「空白の4世紀」の状況について、朝鮮側からの観点を主として研究した例をご紹介しました。その中で、倭国は3世紀後半、崇神天皇と思われる時代に、国内がまとまり(中央集権化)、それから4世紀にかけて、統制された軍隊を新羅に送り込むことができるようになったこと、新羅、百済に対しては優勢で、高句麗とは対等、もしくは劣勢の位置にあったことなどが述べられていました。さて、中国の歴史書に戻ると、倭のことが再び現れるのは5世紀になってのことで
概要『宋史』(そうし)は、紀元960年から1279年までの、中国の宋王朝の歴史を記した公式の歴史書で、14世紀、元朝の時代に編纂されました。この中には、日本との関係についても様々な記述があり、宋代における両国の外交、貿易、文化交流の様子がうかがえます。1.宋と日本の外交関係宋と日本の外交関係は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて行われました。『宋史』には、日本からの使節が何度か訪れたことが記されています。これらの使節は、主に貿易と文化交流を目的としていました。具体的
『宋書』『宋書』は、中国南朝の宋王朝(420-479年)の正史で、南朝宋の時代の出来事を記録した重要な歴史書です。「倭国伝」「倭国伝」は、『宋書』巻97の「夷蛮伝」の東夷の条に含まれる記述です。この倭国伝は、5世紀に中国南朝に朝貢した5人の倭王(倭の五王)について詳しく記しています。日本(当時は「倭国」と呼ばれていました)に関する記述は主に「倭国伝」に集中していますが、他の部分にも散見されます。内容地理:倭国の位置、気候、風俗習慣、産物など例えば、倭国は「帯方郡」の東南の大海の中にあ
日本史に興味をもったのはいつだろうか?中学受験の塾通いの頃だろうか?日本の歴史は古代は中国の歴史書によるところがおおい。しかし、中国の状態というかなんというか、日本の状況がわからない空白の期間がある。邪馬台国と倭の五王の時代である。宋書に書かれているので倭を収めているというかある程度の領域、領土を持っていた王、大王がいたのは事実である。一番の興味は日本人が書いた古事記、日本書紀との内容的な違いであるな。天皇制が完成した時代に書かれたものとのずれが面白い
【筑紫都督府についての考察】「都督」、日本書紀には三度登場する。景行紀五十五年、「春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。」豊城命の孫の彦狹嶋王が東山道十五国の都督を拝命したという記事である。岩波版の注(補注七-45)には、都督は中国の官名で、ここは彦狹嶋王が東国の支配を委任されたことの漢文的修辞か、と記されている。東山道十五国についても未詳であるという。天智紀六年には、「十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、
「倭国・俀国・竹斯国」について―――『竹斯国』とは,『俀国』とは―――一,「竹斯国」と「俀国」とは,「隋書」俀国伝にのみ出てくる国名である。それが意味するところは何なのか。それを探る上で,まず,「俀国伝」から見てみよう。二,「隋書」俀国伝の記事大業四年(六〇八)煬帝は文林郎裴世清を使者として俀国に派遣した。裴世清はまず百済に渡り,竹島に至った。南方にタン羅国を遠望しながら,遥かな大海の中にある都斯麻国に至り,そこからまた東に航海して一支国に着き,さらに竹
こんにちはバルコアです。中国における五行大義の用例は、以上に止まるようである。中国の五行説の流行については、改めて論じたいが、五行志は、漢書に始まり、後漢書、晋書、宋書、南斉書、隋書、新・旧唐書、旧五代史、宋史、金史、元史、明史などにあり、芸文志にも、五行家は、漢書に三十一家、六百五十二巻、隋書に二百七十部、一千二十二巻、旧唐書に一百一十三部、四百八十五巻、新唐書に六十家、一百六十部、六百四十巻、宋史に八百五十三部、二千四百巻、明史に一百四部、八百六十一巻の多数の書が記され、これに兵家、
?・『日本書紀』の不思議(三)一,中国の史書に見る「倭国」に関する記述とそれらについての「日本書紀」の不記載中国の古い歴史書には,中国側から見た,日本列島内の倭人と倭国についての記述がある。(中国では,古くから日本列島に住む人々を「倭人」と呼び,その「倭人」が構成する幾つもの国々を総称して「倭国」と呼んでいた)。史書は各王朝ごとに作成されていたが,幾つかの史書の中に「倭人」や「倭国」についての記事が書かれている。これを「日本書紀」に照らし合わせた時,「隋書」と呼ばれ
閑話休題(三二)一,閑話休題(二七)及び(三十)において,通説的見解は「倭武」を「武烈天皇」に比定していると書いた。これに対しては,当然のことながら通説は「武烈天皇」ではなく,「雄略天皇」に比定しているとの批判があった。当然の批判である。実は,わざわざ「武烈天皇」としたのには別の理由があった。それは,「粱書」における次の記述である。「(粱の)天監元(五〇二)年,鎮東大将軍・倭王武,進めて征東将軍と号せしむ。」「日本書紀」によれば,雄略天皇は四七九
謝霊運についての人物像は、後世に編纂された「宋書」によっています。「宋書」は、中国、南朝宋一代の紀伝体の歴史書で、正史の一つとされていて、帝紀10巻・志30巻・列伝60巻の全100巻からなっています。当時著名な文人であった沈約(しんやく)(441―513)が、487年南斉(なんせい)武帝の勅命を奉じて編纂されました。本紀10巻と列伝60巻は先行の稿本を基にわずか1年で完成しましたが、志30巻の稿了には十数年を費やされたと解説されています。何承天・山謙之・蘇宝生・徐爰らが相ついで撰述し
さあ、本日は、【中学社会⑧】「中国・朝鮮との交流と渡来人」のうたということで、紹介しますので、よかったら聴いて一緒に歌ってみてね!
梁の武皇帝(ITW01:中国の歴史ドラマから)華夏の文献における「倭」「倭人」「倭國」の条建てを時系列で整理すると、おおむね5世紀の後半から6世紀の初頭にかけて、華夏文献でいうと『宋書』が編まれたころ、倭國の王権は倭人の世界と一線を画したことが分かります。『宋書』を編んだ沈約(441~513)も梁の第4代皇帝蕭繹(元帝)もそれを知っていた、というのが本稿の見立てです。そこで、沈約はなぜ題記を「倭國」とし、「倭人」という文言を一度も使わなかったのか、蕭繹は何をもって「倭国は倭人の世
バジャウ族(BUSINESSINSIDER)『梁書』諸夷伝東夷条倭は、前述したように「倭者自云太伯之後」(倭は自ら太伯の後と云う)で始まります。つまり条建て(章・節の主題)は「倭」ということになります。文中に「倭人」の文言はなく、段落を変えて「倭國」が1回だけ出てきます。「倭國」は条建てにはなっていません。そこから華夏の古文献をさかのぼると、梁の前代の斉王朝を描いた『南斉書』、前々代の宋王朝の『宋書』はともに「倭國」です。『晉書』東夷伝の条建ては「倭人」、帝紀では「倭」「倭人」
稲荷山古墳出土鉄剣の「獲加多支鹵」誤解があるといけないので触れておくと、本稿は「ワカタケル大王はいなかった」と言っているのでも、「幼武と諡された大王がいなかった」と言っているのでもありません。元は「建」だった(かもしれない)のを、『宋書』に合わせて「武」に置き換えたのではないか、という見立てをしています。また「ワカ=幼」は形容詞「若々しい」ではなく、菟道稚郎子を参照して「末っ子」の意味だろうと想定しました。大王は武断的で専制的だったかもしれませんが、愛嬌があったのではないかと思っ
梁の武帝(HP「壹讀」から)『宋書』が記載する「武の上表」文について、元嘉二年(425)に司馬曹達が文帝に奉じた倭讃の上表文の一部が、武王の上表文に混入ないし合体しているのではないか、とする指摘があります。沈約が編纂した『宋書』は9世紀までにかなりの部分が散逸したため、10世紀中ごろに再度整理・補修された節があります。北宋の大中祥符六年(1013)に成立した『冊府元亀』という古文書集成に、「倭讃の上表文」が載っています。封國偏遠作藩于外自昔祖父躬擐甲冑跋渉山川不
中央構造線糸魚川―静岡線(伊那付近)「倭の五王」の倭讃が高句麗・好太王と戦戈を交えているとき、ざっくり言うと紀元4世紀末から5世紀初頭にかけての50年間、関門海峡からフォッサマグナ(糸魚川―静岡構造線)にかけてのエリアは、群雄割拠・合従連衡の緊張感に満ちていました。50年は、当時の成人平均寿命でいうと3世代分に相当します。明確な物的証拠がないので推測から出ることはありませんが、その50年の間に、中国・瀬戸内、畿内、東海、関東といった地域に王権が集約されていったのでしょう。出雲、
『失われた九州王朝』(古田武彦著:1973年)『書紀』記載の王名から、「讃」「珍」「済」「興」「武」あるいは「禰」「隋」に類似する音や意味を読み取って、「倭の五王」は誰か比定するのはあまり意味がありません。『書紀』の王名は7世紀後半に作成されたからです。もちろん伝承の呼称を参照したでしょうが、ストーリーの辻褄を合わせるために1人の2人にしたり複数の人物の伝承を統合したでしょう。政治的な思惑を込めたとも考えられます。それに王命表は当人の死後に付けられた諡号であって、生前の呼称や実名では
葛城高原(じゃらん)この連載の第120回目に、『晉書』宣帝紀に見えている「東倭」を取り上げました。正始元年(240)の春正月、「東倭重譯納貢」(東倭、訳を重ね貢を納む)というのです。「重譯」は「複数の言語の通訳を重ねた」の意味ではなく、「いろいろと説明した」の意味だろう、ということはすでに書きました。宣帝というのは三国の魏(曹氏)で相國を務め、晋の基礎を作った司馬懿のことです。彼は帝位に就く前に死去していて、その息子で晋の初代皇帝となった司馬炎(武帝)が皇帝の諡号を贈りました。
5世紀後半の馬(東大阪市日下遺跡)西暦400年の庚子高倭戦争ないし404年の帯方界会戦で体力を消耗した倭國は、対馬海峡の向こう側に軸足を移し始めました。431年の時点で宋が「倭はまだ高句麗都督の内にいる」と判断したのは、例えば全羅南道光州のあたりに倭王の王城があったからかもしれません。また451年の時点では「高句麗都督の外に出た」と理解したのは、宋王朝の使者が倭國王の王城に出向いて確認したからでしょう。『書紀』の所伝を二倍暦で補正した試算に従えば、その使者は445年、ヲアサヅマワ
北魏皇帝の墓(中国新聞網、2014年3月)わたしたち日本人は、「謎の4世紀」を埋める好太王碑文の「倭以辛卯年來渡海」に目を奪われてしまいます。教科書日本史通りだと、奈良県から慶尚北道の慶州まで、さらには北朝鮮の平壌まで攻め込んだのですから、皇国日本派ならずとも、オリンピックのように「ガンバレニッポン!」と日の丸を振りたくなってしまいます。しかし、出発したのは全羅南道の海岸で、そこから船で金城に接近し、内通していた安羅人の守備兵が内側から城門を開いた、というのが実際のところだと思います
4世紀末の北東アジア(Wikipedia)倭讃が『書紀』のオホササギ大王(仁徳)とすると、崩年と没齢がほぼ確定できる第29代ヒロニワ大王(欽明)からさかのぼった在位期間は西暦382年から425年です。『書紀』が伝える没齢110歳が春耕秋収の2倍暦に従っているとすれば、55歳で亡くなったことになります。オホササギが倭讃だとすると、彼は数え歳12歳で王位に就き、30歳のとき好太王に戦いを挑み、50歳のとき宋に使者を派遣した計算になります。たまたまですが、即位した年齢がちょっと若いとは思う
鴨緑江(Wipedia)高倭戦争をオサライしておきます。庚子年(400)の第1次高倭戦争の発端は、百済が倭と通好したことでした。「誓約を破ったではないか」と好太王が怒って百済討伐の軍を興したとき、金城を倭の軍兵が占拠したという新羅の急使が到着します。そこで好太王は急遽、「歩騎五萬」の軍を金城奪回に向かわせました。高句麗軍は倭軍を追撃して任那加羅に到達しました。加羅の安羅國は好太王に帰順し、扈城に満ちていた倭の軍兵は潰えたけれど、そうこうしている間に金城の守備に置いてきた安羅の兵
『宋書』列伝五十七『宋書』に戻ります。『宋書』は「倭讃」について最後まで「倭國王」と認めていません。「可賜除叙」とあるので、晋帝国が与えた叙位を除かれたことは分かります。しかし宋帝国としてどのような叙爵を行ったのか、『宋書』は伝えていません。元嘉2年(425)、倭讃は司馬曹達という使者を立てて「表」を奉じました。「表」というのは「臣下が君主に奉る書」の一種で、「陳請」(請を陳べる)ものとされています。思うところを正直に述べ、請願する文書が「表」なので、表を奉る行為が「上表」と呼
泊瀬朝倉宮跡伝承地親子・兄弟関係、王名と生存時期が一致しないばかりでなく、『書紀』にはヤマト王統の大王が漢字1文字の名で朝貢したことも、宋帝国から下賜された叙爵の記事も出ていません。そこで「倭の五王」はヤマト王統の王ではないのではないか、という指摘が一定の説得力を持ってきます。関連して想起されるのは第2次大戦の直後に発表された騎馬民族征服王朝説です。気候変動に伴って北東アジアの遊牧民が南下した事実を踏まえて、第10代ミマキイリヒコ大王の名を「任那の城(ミマキ)に入る男王」と解釈
倭の五王:日本書紀と宋書『宋書』に登場する5人の倭王(讃・珍・済・興・武)、いわゆる「倭の五王」が『書紀』の歴代大王の誰に当たるか――が長年のテーマでした。教科書日本史は「5人目の武王は第21代雄略天皇であることはほぼ間違いない」としています。その和風諡号「大泊瀬幼武(オホハツセワカタケル)」の「タケル」を「武」に置き換えたのだろう、というのです。『書紀』はこの大王の治世二年条に「百濟新撰云己巳年蓋鹵王立」の注を入れています。引用されている『百濟新撰』という書籍は現存していません。
真多呂人形「東宮立雛セット」『宋書』の「高祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」は、421年に劉裕が帝位に就いたことを慶賀する使節団を送ってきた、というものです。この記事について、あまり論じられていないのは「倭讃」と「賜除授」(除授を賜う)です。遣使の主は「倭讃」とあって、「國」でも「王」でもありません。「倭」姓の「讃」という者、という扱いです。「讃」は「王」として扱われないまま亡くなり、弟の「珍」に代替わりして初めて「國王」になりました。邪馬壹国の卑彌呼の場合、『三國志』は