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ご訪問ありがとうございます。今回は屯倉ミヤケ設置の記事が続くので、ささっと読んでいただいて大丈夫です。黒字のところだけでも良いかと…で、屯倉?氏姓制度?という疑問には、次回‼️「入門編」で、教科書レベルで解説いたしますd(>∇<;)目次百済の入貢皇后の屯倉妃たちの屯倉大河内直味張と三島県主飯粒春日部の采女武蔵国造の争い屯倉の整備目次を開く百済の入貢5月、百済は下部脩德カホウシュウトク(百済の官位)嫡德孫チャクトクソン・上部都德ジョウホウトトク己州己婁コツコル等を派遣、
ご訪問ありがとうございます。ひさしぶりに「日本書紀」本文に戻ってまいりましたが、この頃から記事量も内容もしっかりしてきます。「内乱」説のせいで、事績としてはあまり注目されませんが、次の飛鳥時代にはちゃんと国家になっていますから、この間に着々といろんな組織とか経済基盤ができていることになります。そうでないと飛鳥寺やら法隆寺のような国家事業はできませんもんね❗それでは、「安閑天皇紀」❗まいりましょう❗(*´・∀・)つ目次安閑天皇の即位安閑天皇の后妃伊甚屯倉安閑天皇の即位ここでもう
ご訪問ありがとうございます。前回は「二朝並立」説あるいは「内乱」説について、その矛盾点から安閑⇒宣化⇒欽明天皇への皇位継承が、むしろ普通に行われていたのでは?としました。今回はその視点にたって、継体天皇から安閑・宣化天皇、そして欽明天皇への皇位継承のあり方を考えて行こうと思います。目次「安閑天皇紀」の記述生前譲位は行われたのか?崩年の真実「帝紀」「旧辞」の編纂について「安閑天皇紀」の記述それではここで「安閑天皇紀」をもう一度見返してみますと、(継体天皇)25年の春2月7日、
⁰ご訪問ありがとうございます。今回はめちゃくちゃ問題の箇所です継体天皇が亡くなるのですが、「日本書紀」には驚きの記述が⁉️天皇と太子・皇子が一緒に亡くなったというのです❗なんと言うことでしょう…(´;ω;`)目次「日本書紀」の記述「安閑紀」の記述「古事記」の崩年干支「継体・欽明朝の内乱」説「二朝並立説」の矛盾点「二朝並立」論のまとめ目次を開く「日本書紀」の記述25年春2月、継体天皇は病気が重くなり、7日に磐余玉穂イワレノタマホノ宮で崩御しました。御歳82歳であった。
ご訪問ありがとうございます。前に「飛鳥の夢」というテーマで、飛鳥時代を取り上げた時に、「大兄」について考えているのですが、ここでもう一度整理しておこうと思います。目次大兄制とは何か?「嫡子」欽明天皇の即位勾大兄皇子の大兄冊立の意義「嫡子」による継承大兄制とは何か?大兄制(コトバンクより転載)おおえせい皇位継承が兄弟間で継承されることの多かった5世紀の段階から、父子継承が根を下ろし始める7世紀後半に至るまでの過渡的な皇位継承の制度。「おいね」とも読む。6世紀の勾大兄皇子(まが
ご訪問ありがとうございます。再び「継体天皇紀」ですが、勾マガリ大兄皇子にスポットが当たります。勾大兄皇子とは後の安閑天皇ですが、継体天皇の長子で、母は尾張連草香オワリノムラジクサカの娘、目子メノコ媛、おそらく壮年に達していて、継体天皇の大和入りに際しても、いろいろと働きがあったのでは?と想像される人物です。任那四県割譲においても、危機感を持って事の収拾に当たったものの、失敗しています。それも他に担当する仕事があり、議論に加わっていなかったということですので、忙殺されていたような印象を
ご訪問ありがとうございます。久しぶりに「日本書紀」です。ようやく継体天皇の治世という感じになってきました。目次任那四県割譲百済の弱体化物部麁鹿火と妻勾大兄皇子五経博士の来日淳陀太子目次を開く任那四県割譲教科書にも出てくる事件です。6年夏4月6日。穂積臣押山ホヅミノオミオシヤマを派遣して百済への使者とした。そこで筑紫国の馬40頭を賜った。冬12月、百済は使者を派遣して調ミツキを献上した。別に上表文を献上して任那国の上哆唎オコシタリ・下哆唎アロシタリ・娑陀サダ・牟婁ムロの
男系論者がどや顔で出す「継体天皇の話」には実は男系要素がない件|らがなひ男系論者曰く「先人は男系を守る為に努力した!その証拠こそ、継体天皇!男系維持のために遠い傍系から男系男子を連れてきたのだ!」大嘘である。彼らは記紀にこう書いてあると思っているのだ。【大いなる誤解】「大変だ、男系男子がいない!なんとしてでも探し出せ」「発見!ついに見つけました男系男子を!」「ああよかった。まだ生きていたか、男系男子…note.com詳しくはらがなひさんの記事で確認していただくとして、何故「
本日は旧暦では5月1日ですが、宣化天皇元年五月一日に「食は天下の本」との詔がありました。※暦は何度も改暦されていますので単純に旧暦にあてはめています。食は天下の本、黄金が万貫あれど飢えは癒せず、真珠が千箱あっても凍えは防げない。筑紫の国は遠近の国々が朝貢してくるところ、往来の関門とするところである。外つ国は潮の流れや天候を観測して船を出し貢を奉る。応神天皇(第十五代)の御世から今に至るまで、籾種を蓄え凶年に備えてきた。賓客をもてなし、国を安んずるにこれに選るものはない。我も阿
25.05/04sun.13:06-18:33近鉄古市駅から東に向原山西琳寺本堂本尊薬師に参る欽明天皇勅願寺、竹内街道に面し広大な寺域の創建時から時を経て…五基の五輪塔、中央は鎌倉時代西大寺を中興の叡尊が、河内布教の拠点に西琳寺も復興…応仁の乱後、高屋城の土塁に埋め込まれ1957年(昭和32年)宅地開発に発見手前に、巨石東に塔、西に金堂が建つ法起寺式の伽藍塔の心礎石、径75cm・深さ40cmの柱穴に4ヵ所の添え柱の穴、仏舎利容器の穴加工…手前に、不動明王
太田茶臼山古墳11(茨木市)2024年7月24日継体天皇の死後も謎は続きます。「日本書紀」には、重病となった継体天皇は勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ、安閑天皇)に譲位しその日のうちに崩御した、とあります。ところが継体天皇の死後、皇位継承をめぐって蘇我氏が支持する欽明天皇(正妃・手白香皇女(たしらかのひめみことの間にできた嫡子)と大伴氏、物部氏が推す安閑天皇、宣化天皇(即位前に妻とした尾張連草香の娘・目子媛めのこひめとの間の子)が対立した、と考える学者がいます。両派並び立
「3歴代ノ天皇(その27)」今日は、徳川家康みなさん、おはようございます今日から5月4日まで春土用です嫌なことがあったら「このことはダイヤモンドに変わる」とつぶやきましょうウキウキ卯月四月!前進あるのみですよ笑顔で楽しく國史を学び家族の教育力向上ご自身の向上にお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!4月17日は徳川家康が亡くなりました「人の人生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し急ぐべからす」一つ一つ夢を叶えた偉人です
祭日とは天皇がお隠れになられた日、命日です。宮中祭祀では初代神武天皇祭と先帝祭として先帝以前三代の天皇の例祭が当日に行われていますが御歴代の天皇・皇后・皇親については沢山いらっしゃるため、春季皇霊祭、秋季皇霊祭(春分の日・秋分の日)にまとめて霊をお祭りされています。ただし100年毎には大祭として当日お祭りをされます。第二十八代宣化天皇は大和時代の天皇です。この時代は、古事記、日本書紀の時代です。御名は、桧隈高田皇子(ひのくまたかたのみこ)、建小広国押楯命/武小広国押盾尊(たけおひろくにお
蔵王権現♪↑究極不滅の真理を体現しあらゆるものを司る王という意味♪↑役行者が体現して吉野の金峯山寺が総本山♪権現とは…「権(かり)の姿で現れた神仏」の意で仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇等々のすべての力を包括している♪↑大阪市東淀川区の大宮♪↑大宮神社とも呼ばれますが…正式名称は『大宮』で大宮神社ではない(笑)創建は不詳ですが…明治時代の旧境内地の大きな森には樹齢1000年以上の樹々がたくさんあったと明治時代に現在地
★第二十七代安閑天皇は奈良時代の天皇です。御名は勾大兄尊(まがりのおおえのみこと)、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。御父は継体天皇、御母は尾張連草香の娘、目子媛(めのこひめ)。継体天皇には皇后との皇子、天国排開広庭尊(あめくにおしはるきひろにわのみこと)、後の欽明天皇がいましたがまだ幼く、長子である兄の勾大兄尊が皇太子となり即位されました。勾大兄尊は幼いときより器量が優れ、寛大で人君にふさわしい人柄であったといいます。皇太子の時も天皇をよく補佐されました。
安閑二年正月五日、第二十七代安閑天皇は、豐稔により大酺を賜ふの詔を発しました。『御歴代天皇の詔勅謹解』による現代語訳国内外は清く通じ、国家は栄え富んでゐる。私の喜びは大変大きい。大いに饗宴をはること五日にして、天下の歓びをつくすやうに。これは五穀が豊かに稔り民の喜びの声が国中に満ち溢れたことを大いにお喜びになられた詔です。天皇統治の理想的な成果が表れ民と共にこの喜びを分かち合うため酒食を御下賜されて振る舞われたのです。ここには君民和楽の我が国体のあるべき姿が映し出されていま
「30第二十七代安閑天皇」今日は、源頼朝はやっと征夷大将軍に任命みなさん、おはようございます7月12日は源頼朝は征夷大将軍に任命後白河法皇が崩御しやっと鶴岡八幡宮で任命されました大雨が続きますお出かけには注意してくださいアリガトウ『開運ノ國史』「第二十七代安閑天皇」です第二十七代安閑天皇御名、広國押武金尊ひろくにおしたけるかなひのみこと皇子、豊彦王とよひこおうその母、尾張連女おわりむらじのむすめ大家族です大連、大伴金村おおとも
高屋神社(羽曳野市古市)河内国古市郡大阪府羽曳野市古市6-12(P無し、社前道路は狭小の一方通行で停め置き不可、近隣コインPもなし)■延喜式神名帳高屋神社の論社■旧社格村社■祭神饒速日命広国押武金日命(第27代安閑天皇)羽曳野市古市の狭小住宅密集地内に鎮座する社。窮屈に狭小境内に、かつての式内社とは程遠い姿で収まっています。◎社伝によると第28代宣化天皇(536~539年)の勅命により創建されたとしています。創建由緒は不明。◎当社はこの辺り一帯に居住した高屋連が祖神を
「石神」が、「牛王尊」として祀られる。この形態こそが、「伊奈利」の原型なのだ。即ち、エジプトの三子音「inr」(便宜的にイネルと読む)の意味は、「石」であって、これが、ヒッタイトのイルヤンカ物語の「Inar」[LAMMA]=【牛】(Lyra)に重なる。要するに、エジプトの「inr」(石)が、「伊奈利」=【牛】(織女)を表す、ということだ。#これは重要な話である。と言うのは、いわゆる「葛城氏」(史学関係での呼称)は、#「大雀」(仁徳天皇)の正妃に「石之日売」が収まって、外戚となること
安閑二年正月五日、第二十七代安閑天皇は、豐稔により大酺を賜ふの詔を発しました。「御歴代天皇の詔勅謹解」による現代語訳国内外は清く通じ、国家は栄え富んでゐる。私の喜びは大変大きい。大いに饗宴をはること五日にして、天下の歓びをつくすやうに。これは五穀が豊かに稔り民の喜びの声が国中に満ち溢れたことを大いにお喜びになられた詔です。天皇統治の理想的な成果が表れ民と共にこの喜びを分かち合うため酒食を御下賜されて振る舞われたのです。ここには君民和楽の我が国体のあるべき姿が映し出されていま
2023年12月3日㈰☀静岡県の三岳山、兎荷山(とっかやま)、立須(たちす)、天白遺跡磐座、秋葉神社下社・上社へ行ってきました🚗(山友あきさんに連れてってもらいました)法螺貝講習会で仲良くなったYUちゃんのオススメのお山、立須🏔調べると役行者さんのお名前も。修験の山🏔という事は大好きな空海さんも登られてるはず行かなくっちゃ道中、野生の鹿🦌🦌🦌を何頭か見て、三岳神社の駐車場に車を停めて、先ずは三岳山へ🏔三岳城跡があるんですねきっとパワーのある土地空を見上げると月🌓イチョウが
「継体紀論」(序)ことはり本稿は,「多元の会」主催の「オンライン研究会」において,「継体紀論」(一)(二)の発表の前提として,本年七月七日(土)に独立して発表したものです。一,「日本書紀」の記述(一)(継体)二十二年の冬十一月の甲寅の朔甲子(十一日)に,大将軍物部大連麁鹿火,親(みづか)ら賊(あた)の帥(ひとごのかみ)磐井と,筑紫の御井郡に交戦ふ。・・・遂に磐井を斬りて,果たして彊場(さかひ)を定む。十二月に,筑紫の君葛子,父のつみに坐りて誅せらむこ
武蔵御嶽神社細山分社川崎市麻生区初参拝この日も酷暑でした元気に歩き回ります電車で出発駅まで行き電車に乗る終点駅までその間にある神社を点と線で繋いで20km程度を早歩きで歩くエクササイズ&神社巡りです麻生観光協会HPより細山の御嶽神社は正式には武蔵御嶽神社細山分社という生田村細山に御嶽神社の分社が創建されたのは江戸末期の1848~1853年とされている。細山では名主が中心となって村の守護神として大麻止乃豆
◆「大美和」第145号(~その2)(~その1)の記事からの続きです。『◆「大美和」第145号(~その1)』表紙は三年ぶりに社頭にお出ましになられた「なでうさぎ」◆「大美和」第145号(~その1)大神神社が講社崇敬会会員等向けに年2回発行される「大美和」。早く…ameblo.jp軽く受け流せそうにないテーマばかりなので、2回に分けました。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~■継体・安閑天皇と倭王権「謎の大王」という形容詞で語られる継体天皇。古代史・考古学の分野か