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京都から高槻の道場まで毎日通い続けて弓術の修行を重ねた石崎八郎は、天保十年(1839)二十一歳の時に日置流の免許皆伝を得ました。そして二十四歳の時、つまり天保十三年(1842)四月、石崎は三十三間堂の通し矢に挑戦します。本来は丸一日かけて矢を射続ける「大矢数」に挑戦したかったものの、そのための費用を用意出来なかったため断念し、代わりに卯の上刻(午前5時頃)から酉の下刻(午後8時頃)まで射続ける「日矢数」を行なうことになりました。その舞台となった三十三間堂は現在でも京都を代表す
佐久間象山を殺害した直後の河上彦斎の様子について、ちょっと面白い話が残っています。木屋町二条下ルあたりで佐久間象山を斬殺した彦斎は、その足で鳥取藩邸(堀川通上長者上ル)に逃げ込んだそうです。そして藩邸内の井戸で足を洗っていました。足に血がベットリついていたからです。そこに鳥取藩士で尊王攘夷派の吉岡正臣が通りかかり、足に血がついている理由をたずねました。彦斎は「なに、今、途中で犬を斬ってきたのだ」とトボケましたが、吉岡が「犬にしては、ずいぶんひどい血糊だ」と不審がると、彦斎は「本当
昨日蟻通勘吾のイラストをアップしたこともあって、ちょっと蟻通勘吾のことが気になってネット検索してみたら、中島登の「戦友姿絵」が函館博物館デジタルアーカイブで公開されていることに気づきました。まあ、知っている方からすれば「何を今さら」な話でしょうが、拡大して見ることも出来るのでまだ見てない方はぜひ。こちらから→函館博物館デジタルアーカイブ「戦友姿絵」※.自分でクリックしてみたら、なぜか函館博物館デジタルアーカイブのトップページに飛んでしまいました。お手数ですが、検索欄に「戦友
東山大谷の知恩院に行ってきました。何しろ連日の猛暑なので、朝のうちに訪れましたが、三門(国宝)にちょうど陽の光がかかった写真が撮れました。・・・それでも陽射しが強くて、絵的にがイマイチかな。知恩院は、浄土宗の宗祖・法然上人(1133~1212)の草庵を起源とし、その入滅後、弟子たちが廟堂を建て、弟子の一人源智が法然上人の開山として寺を起したのが始まりです。その後、天下人となった徳川家康が浄土宗門徒であったことから、知恩院は徳川幕府の保護のもと大規模な造営を繰り返し、三門
さて、安藤早太郎がどこで虚無僧になったかを考えてみたいと思います。一部に「京都には虚無僧寺はなかった」とする見解がありますが、そんなことはありません。京都には明暗寺(みょうあんじ)という虚無僧寺があります。維新後の廃仏毀釈によって一旦廃寺になりましたが、現在は東福寺塔頭善慧院(ぜんねいん)に間借りする形で再興されています。時代劇に登場する虚無僧が、よく「明暗」と書いた箱(偈箱=げばこ)を首から提げていますが、あれは「私は明暗寺に所属する虚無僧である」という意味なのです。その明暗寺ですが、江戸
天保十三年(1842)四月、奈良東大寺大仏殿の一日がかりの通し矢で一躍勇名を馳せ、藩主内藤政優から家老並といわれる格別な待遇を受けることになった安藤早太郎。早太郎は文政四年(1821)生まれと考えられるので、この時まだ21歳ということになります。翌天保十四年九月、京都三十三間堂の通し矢に参加した早太郎は、奉納矢二本を放ちました。これは現在の野球などで行われる始球式のようなものだったと思われます。そしてその後、早太郎の弟子である永田清吉という13歳の少年が半堂(三十三間堂の半分の距離の意味か
佐久間象山殺害に先立ち、新選組の安藤早太郎と新田革左衛門が河上彦斎らに斬られたというのは、佐久間象山を襲撃した際に彦斎ともう一人の刺客が揃いの浅黄羽織を着ていたとする『佐野正敬手記』の記述からの僕の推測であって、決して何か証拠がある、あるいは見つかったというわけではありません。少しの間、僕の妄想に付き合っていただければ幸いです。さて少し話は反れますが、これから数回、その河上彦斎に斬られた(かも知れない)新選組隊士の一人安藤早太郎について、少し紹介しておきたいと思います。安藤早
https://www.yomiuri.co.jp/…/a…/news/20181212-OYTNT50112.html『維新階梯雑誌』が見つかるの紹介でした。安藤早太郎が「新撰組名前」において組長と記録されています。その地元で紹介されました。地元の役所のHPを読むと私や、菊地さんの名前が確認できます。別紙1.挙母藩士安藤早太郎の記録*生年は不明だが、文化13年(1816)前後と思われる。*天保10年(1839)猿投神社に挙母藩の代表として流鏑馬を奉納。*