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館山駅から、安房国北極まで、電車に乗った。内房線保田駅ここから、国境を行く。どうも、この山が、国境線のようだ、、、「鋸山」ロープ―ウェイで、頂上に登ると東京湾が見渡せる。らしい。どうして、ここを「安房国」と「上総国」の国境と見たかと言うと、、、内房線の路線図で、「安房勝山駅」と「上総湊駅」が出てきて、「安房国」と「上総国」の国境が、保田駅ー浜金谷駅間だと見た。で、歩いて見たら、東京湾を見渡せる「鋸山」が観光名所として存在しており、国境として、この山であったと、感じました!
元八幡神社や、国分寺、国府跡の標識以外、何にもねぇ~静かな村。三芳村平成大合併で、館山市・鋸南町・鴨川市を除く、「安房国内」の7町村が、合併し、「南房総市」として、運営されております。私も、この災害用倉庫の名前を見る前まで、南房総市の範囲や存在を意識しておりませんでした。実の所、本来なら、「府中市」や「府中町」、または、「国府町」(地名としては残っている)、として、南房総の一番の中心地になんだろうなぁ~って、思いながら、「安房国府」の「南房総市」を歩いていたので、、、江戸時代以前
白い髪にまみれたかつての「若者」が、、、田園を歌っている中で、、、この国の「国府」もまた、田園地帯に移り変わっていき、、、現在に至る。安房国府南房総市今回、房総半島最南端の国「安房」に行ってみたのだが、「アワ」と言う呼びの国は、関東でなく、関西では、「阿波」の国になるんだろうなぁ~って、思って、調べてみたら、、、、四国阿波国から、京都より、派遣が言い渡されて、江戸時代以前の「東海道」の最東端地である「安房」に移り住まう事になったそうだ。その国府「館山市国府」の領域を歩い
まず、東京駅より、高速バスに乗る。現在、千葉県内は、高速道路が、他の地域に比べて、断然、発展しており、東京駅から、千葉各地へ高速バスが大量に走っています。乗る前は、多分、京葉道経由だと思っていたら、、、、バスは、「西」の「神奈川県」に進んで行ってしまいまして、、、(*'▽')川崎の工場地帯を抜けて、、、「海を潜って行きました~」そして、目立った渋滞も無く、2時間で到着。まぁ、途中のゴルフ場の前の停留場で、多くの方が降りていきましたけどね、、、今週は、「千葉県館山市」の「安房国
ヤシの木が並木を作る最南端の国を行く。国分寺や「府中」と言う地名は残っていたが、、、国府跡の発掘調査などは、行われていなかった、、、駅で「国府跡」って、ありますよね???って、聞いても、、、「国分寺」は、現在も残されているし、観光マップにも乗っていたが、、、「国府」であったこと自体も、館山駅の観光案内所の方々は、え、そんなのあるんですか~って、驚かれるほどでした、、、(*'▽')安房国府中南房総市三芳地区まぁねぇ、島の最南端の現在では、2つの市町村しかない国では、、、
(洲崎神社①から続く)『【一之宮巡り】洲崎神社(安房国)①』【2023年10月28日】中世から江戸時代にかけて、現在の千葉県南部に位置していた安房国。その安房国において最も社格の高い神社「一之宮」とされていたのが…ameblo.jp千葉県館山市にある洲崎神社(安房国一之宮)に参拝。拝殿に参拝した後、左側へと進んでいくと、朱塗りの鳥居が連なる稲荷神社があります。令和元年、房総半島を襲った台風によって洲崎神社は大きな被害を受けました。その際
【2023年10月28日】中世から江戸時代にかけて、現在の千葉県南部に位置していた安房国。その安房国において最も社格の高い神社「一之宮」とされていたのが、安房神社と洲崎神社の二社でした。そのうち、安房神社は今年の1月に訪れたのですが、『【一之宮巡り】安房神社(安房国)①』1月末に、かつて安房国(現在の千葉県南部)の一之宮だった安房神社に行って参りました。日本が全体的に寒気に包まれ、クソ寒い気候の中、ちょっと予定が狂う部分は…ameblo.jpその時に訪れら
こんばんは!@Ricoです。今回が坂東三十三観音のラスト㊗️→記事には書かないつもりだった坂東巡礼。やっとこ、結願の那古寺の紹介になります🙏坂東三十三観音巡礼シリーズ✨✨✨の最終回ね^^前回までが、32番札所まで。〈シリーズ①〉杉本寺→岩殿寺→安養院→長谷寺→勝福寺→長谷寺〈シリーズ②〉正法寺→星谷寺→慈光寺〈シリーズ③〉慈光寺→安楽寺〈シリーズ④〉慈恩寺→浅草寺〈シリーズ⑤〉弘明寺→長谷寺(ちょうこくじ)→水澤寺〈シリーズ⑥〉
房総三国神社巡り安房國六社目は岩井神社⛩️古い地元の神社という感じでした。御朱印は、隣りの宮司さんに頂きに行くようです。留守があるので事前に確認との事でした。
神奈川県東部でM3.1(9/5)千葉県北西部でM4.5(9/5)千葉県北西部でM4.0(9/5)1日遅れの記事になりましたが、5日午後、神奈川県東部、千葉県北西部で気になる地震が3回起きています。(参考)千葉県北西部で地震連発!神奈川県でもM3.1地震を観測(9/5情報速報ドットコム)神奈川県東部の震源地は調べておりませんが、千葉県北西部の震源地(N35.8・E140.1)を調べてみました。千葉県印西市の『千葉ニュータウン中央駅』の近くにあります【イオンモ
英雄たちの選択「里見氏」を見ました。房総半島の先っちょの安房の国。石高も少なく、海民として生きている国。だから必然水軍が強い。近くに三浦半島があり、その奥には江戸湾がある。三浦半島の北条氏とここの権益をめぐって激しく対立する。北条氏の船を生け捕りにして、戦利品としてた。ただ北条氏は陸軍が強くて海軍は弱いが、江戸湾海運を手にしたかった。だが、生粋の海民の里見氏の水軍はかなりの強さを誇っていた。里見氏の当主・里見義尭は教養人で尭舜の文字を頂いてる。尭舜とは尭と舜で中国
里見義頼の死後、安房里見氏の家督を継承したのは、里見義頼の長男、里見義康である。1588年(天正十六年)、里見義康は、父の義頼に引き続き、増田長盛の取次の許、天下人の豊臣秀吉によって、安房国・上総国両国お及び、下総国の一部を安堵された。豊臣秀吉の小田原征伐によって、里見氏の代々の宿敵の北条氏は、滅亡する。しかし、里見義康は、小田原征伐の際、小弓公方の足利義明の遺児、頼淳を擁立すると、北条氏に奪われた、旧領回復の好機とし、三浦へ渡海進軍した。そして、鎌倉公方家再興を標榜し、独自の
里見義頼は、里見義弘の弟、または、庶長子の二説があり、生まれが、不明確である。前述の通り、里見義弘は、正室の足利義明の娘との間に子供が、生まれなかったために、弟の義頼を養子に迎えたとの説がある。また、その後、足利晴氏の娘を正室に迎えたため、二人の間に生まれた、梅王丸が、嫡子となり、義頼は、廃嫡されたとの説がある。梅王丸の生年は、1570年(元亀元年)説が、有力のため、父の里見義弘の死去時には、未だ、九歳の幼子であった。里見義弘の真意は、不明であるが、義弘は、家督を梅王丸に継承さ
北条氏康は、更に、別働隊として、三男の北条氏照及び、原胤貞を里見義堯が詰める、久留里城の攻撃へと向かわせた。里見義堯は、守りを堅固にし、義弘は、正木憲時と共に佐貫城を出撃して、三船台に集結した、北条氏政の本軍を攻撃して討ち破った。この時、北条軍の殿を務めた、太田氏資が戦死する。三船山合戦である。また、北条綱成は、水軍の指揮を取り、浦賀水道の確保に当たっていたが、三浦口より、安房国へ侵入しようと試みた。しかし、里見水軍と菊名浦の沖合にて、交戦して、損害を出している。里見軍
翌年の1538年(天文七年)、里見義堯は、第一次国府台合戦では、足利義明を大将とし、北条氏綱と戦った。しかし、足利義明は、里見義堯の戦略を聞かなかったため、義堯は、足利義明を見捨て、交戦せずに戦場を離脱した。北条氏綱の軍勢は、小弓城を陥落させて真里谷城を押さえると、真里谷信応を降伏させて、信隆を真里谷氏当主にした。その結果、北条氏の勢力は、下総国に浸透した。一方、足利義明の戦死と真里谷信隆の復帰によって、上総国南部は、勢力図が一変し、権力の「空白域」と化した。里見義堯は、第
里見義実の安房国への入国の経緯については、諸説が存在し、その真偽は、不明である。里見家兼は、鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発する、永享の乱で、足利持氏に味方して、将軍の足利義教の討伐を受けた。永享の乱は、事実上、京の将軍の足利義教と鎌倉の足利持氏の戦いとなり、足利持氏が、敗北した。前述の通り、里見家兼は、永享の乱の敗北後、自害している。その後、足利持氏の残党、結城氏朝・持朝の父子が、足利持氏の遺児である、春王丸、安王丸を擁立し、足利義教に叛乱を起こした。
房総三国神社御朱印めぐりこの日の最後安房国6社め南房総市にあります岩井神社に行きました。同じ南房総市ですが、高家神社は外房近くにありこちらの岩井神社は、内房にあります。社伝によりますと後一条天皇治安3年(1023)磐井郷社牛頭天王八雲大社としてこの地に鎮座いたしました。鎌倉将軍源頼朝が石橋山に敗れ伊豆浦より白浜に渡海された折、残兵を集め神社に籠り戦勝祈願をし、建久3年(1192)征夷大将軍になるに及び安房の海を偲び若宮八幡宮を造営なされました明治初年に
房総三国神社御朱印めぐり3回目は安房国へ。安房国には、6社ありますが、前回天津神明宮に行きましたので、残りの5社をめぐりました。最初は館山市にあります安房国総社鶴谷八幡宮(つるがやはちまんくまう)平安時代初期現在の南房総市府中に安房国総社ときして創建されました。鎌倉時代源氏の影響で八幡信仰が高まり八幡宮となり、現在の地に遷座いたしました。言い伝えによりますと源頼朝公が安房国で再起の折、武運長久を祈念したとのことです。創建1000年を記念し、昭和51年に本
千葉県では、今年2月4日から「房総三国神社御朱印めぐり」が始まりました。対応していただける神社の一覧をいただきに、近くの神社へ行ってみました。神社の社務所には、色々な御朱印帳に混ざって、「房総三国神社御朱印めぐり」の御朱印帳がありました。房総三国神社御朱印めぐりの御朱印帳と、参加している神社を紹介している「神社案内帳」をいただきました。御朱印帳は、波に大きな月のデザインがかっこいいですね。最初のページに麻賀多神社の御朱印をいただきました。房総三国神社御朱印めぐりで
ちょこちょこと国内旅行をして、そのことをアップしていますが・・・ブログの性格上、あっちこっちに書き散らして、系統だった書き方をしていません。まぁ、個人的にそれぞれの旅行の思い出に浸りたく・・・旅の記事のリンク先を旅毎に纏めたのが「公紀行」です。まぁ、あくまでも個人の振り返りのための記事なので、適当に無視してください。昨年の10月に千葉県館山市を巡ってきました。かつての安房国の中心したっだところです。実は、奈良時代に建立された国分寺・国分尼寺の跡地を巡った
万石騒動・・・正徳元年(1711年)、安房国の北条藩領内で起きた百姓一揆。騒動名は北条藩が1万石であることに由来する。万石騒動-国立国会図書館デジタルコレクションdl.ndl.go.jp10月末の平日にお休みを取って、かつての安房国の中心地だった館山市に行ってきました。まずは、安房国分寺跡と安房国分尼寺跡伝承地に行った訳ですが・・・『<覇道の男>国分寺/国分尼寺編(23);安房国・・・安房日帰り旅行②』儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、こ
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」、国分寺や国分尼寺を回ってみる・・・国分寺/国分尼寺編も実施中です!(国分寺/国分尼寺・・・741年に聖武天皇が国家鎮護のために日本各国に建立を命じたお寺です)10月末の平日にお休みを取って、かつての安房国の中心地だった館山市に行ってきました。前回、安房国分寺跡を巡ったことを書きました。『<覇道の男>国分寺/国分尼寺編(23);安房国・・・安房
儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。そんな「制覇の道」、国分寺や国分尼寺を回ってみる・・・国分寺/国分尼寺編も実施中です!(国分寺/国分尼寺・・・741年に聖武天皇が国家鎮護のために日本各国に建立を命じたお寺です)10月末になりますが・・・平日にお休みを取って、館山市に行ってきました。館山は、かつての安房国の中心地だった場所です。そうです・・・実は今回の旅の目的は安房国分寺だったりします。駅か
昭恵夫人、安倍氏後継の出馬否定…安倍派総会で「やりたかったこと引き継いでほしい」auWebポータル「安倍氏の遺志引き継ぐ」安倍派総会で“現体制・名称”維持を決定安倍派と岸田総理が駆け引きも.TBSNEWSDIG·安倍昭恵夫人の甲斐甲斐しさに再注目…玉幡児童館親子でうちわを制作(まちできweb2022年7月5日)-甲斐市甲斐市楽しみながら作ったうちわは、この夏の必需品となりそうです。※この記事は、広報「甲斐」Facebook(フェイスブック@kaicityko
【3/20】桜…三月下旬だとまだ桜の季節だねぇ。今となっては、6月上旬で梅雨真っ盛りだけど。いいなあ、桜。で、ここはどこかというと…安房の国一之宮の安房神社です。都合3度目かな?一度目は、車で来て…二度目は、バイクで来て…三度目は、またまた車でね。家族4人で来たのは初。前回は長女がいなかったな。安房神社の絵馬。菊の御紋なんだね。で、こちらが拝殿。いやあ立派だな~でも、昭和52年築のコンクリート製なんだそうだ。確かに、まじまじと写
こんばんは✨四柱推命🍀と眷属(けんぞく)さんの力と看護師の視点👼から運気を後押しするポンちゃんです※ぽん太を捨てた訳ではありません。ポンちゃんと呼ばれたいのです♡笑2月27日の夜に明石駅に着いて28日〜徳島にて神仏応援団の皆さんと社寺を巡っておりました♡徳島(阿波国)には、4つの【一の宮】が存在します。1つは、【天石門別八倉比売神社】あまのいわとわけやくらじんじゃ先月行きました✨2つ目は【一宮神社】こちらも先月参拝してますこの裏手から山を登っていくと
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜見た見たってことで第6話の感想ぉ〜!石橋山の戦いで大敗した源頼朝。今回は情けない頼朝でしたね。なんとか安房国に渡れたねこんな頼朝を一喝したのが義時。ただ義時も、安房国に来るまで大変でした。甲斐源氏の武田信義に味方になるように行ったのに、義時の父、時政の調子の良さには後の事件に繋がっていますね。時政はホント調子のいいやつだなぁ義時が頼朝の良さを1番理解しているように描かれてますね。しかし、武田信義は源氏の頭領は自分…みたいな
考察🔯古語拾遺‼️平安時代に書かれた古語拾遺には、安房神社の祭神のフトタマ様は、タカミムスビの子供と書いてあります。🌟実際には、タカミムスビは、東北地方の豪族であり、タカミムスビは、一人ではなく8代目まで続きますから、この場合は、7代目タカミムスビのタカギ様の子供のことですね‼️兄弟には、第9代アマカミのオシホミミ様(オシヒト様)の妃タクハタチチヒメ様がいます。また、初代ヒタカミノカミのヨロマロ様)や大国主様(クシヒコ様)の妃ミホツヒメ様もいます。🔯古語拾遺‼️そして、フトタマ様
Ⓒ2010-2021SQUAREENIXCO.,LTD.AllRightsReserved.(戦国IXAWikiより拝借)里見義弘(さとみよしひろ)/1530年~1578年★安房国(千葉県南部)を治めていた戦国大名・里見家第6代目当主。★生涯、相模国・後北条家との戦いに明け暮れる。【戦国IXA紹介文】里見家の最大版図を築いた第6代当主だワン!上杉謙信と協力して北条家を苦しめたけど、「房相一和」政策により北条早雲の頃より続