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(要約)穴穂御子、根臣に命じる、「若日下王を我が弟大長谷王子(後の雄略天皇)の后にしたいので、ついては、若日下王の兄大日下王に若日下王を大王家に献上させよと伝へよ」大命を賜つた大日下王、「其のやうな大命もあらうかと、何処にも嫁がせず大事に家に置ひておゐた「是恐(かしこ)し、大命のままに奉進(たてまつ)らむ」御礼に押木玉糸曼(玉鬘)を大王家にと根臣に持たせ返事を託したところが、この根臣、押木玉糸曼(玉鬘)をくすね、穴穂御子に次のやうに報告した、「大日下王、大命を拒絶し、「我
新潮社ツアー歴史作家関裕二先生と行くベールに包まれた「丹波(タニハ)王国」を旅する〜ヤマト建国を陰から操った人々〜今日ご紹介する神社さん、当初ツアーの予定には入っておらず、真名井神社の参拝を終えた後に、関先生が「紹介したい神社があるから行きましょう!」とおっしゃって急遽参拝することになりました(^^)『麓ふもと神社』ご祭神大鷦鷯尊おおさざきのみこと(仁徳天皇)億計尊おけのみこと(仁賢天皇)弘計尊をけのみこと(顕宗天皇)創建年代不詳旧称三宝荒神社梺明神
10月5日、昨日の休日は奈良に天皇陵巡り。ド~ンと10か所回ってきましたまずは、第二阪奈を降りてすぐの「第20代、安康天皇陵」昔は山城だった場所と言う事ですが、拝所に行く道が判らなくて狭い道に迷い込んで困りました。そう大きく無いので徒歩で陵の周りを歩いて拝所を発見!拝所の入り口、参道が奇麗に整備されています。宮内庁の制令版安康天皇菅原伏見西陵(あんこうてんのうすがはらのふしみのにしのみささぎ)参道の松が奇麗に手入れされています。第20代天皇、安康天皇参考(在位:
★第二十代安康天皇は古代の天皇です。御父允恭天皇の第三皇子、御母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)。祖父は仁徳天皇です。御名は穴穂尊(あなほのみこ)。在位、允恭天皇(453年)から安康天皇三年(456年)。允恭天皇の皇太子である木梨軽皇子は同母妹と密通してしまいましたので、允恭天皇崩御ののち群臣は離反し穴穂尊についてしまいました。そのため穴穂尊を襲おうとしていた木梨軽皇子は自殺し、穴穂尊が即位することになりました。安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の為に、大草香皇子(
いろいろな古代史本を読んでいると、「なんとなく」決まり事みたいになっている事柄に出会うことがあります。「第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の崩御年が453年(『古事記』では454年)である」というのもその一つではないでしょうか。【允恭天皇陵(市野山古墳)】古市古墳群にある墳丘長230メートルの前方後円墳です。5世紀後半の築造と考えられています。『日本書紀』では、允恭天皇は壬子(みずのえね)の年(412年)に即位され、治世42年に年若干(そこばく)で崩御されたと記します。
おはようございます。昨日、兵庫県加東市の、木梨(こなし)神社にお参りしました。写真の中央奥に見えているのが御本殿です。普通ならお社のご紹介からするんですけど。私は文学や古代史からこのお社に興味をもったので、まず歴史の話をさせて下さい。もちろん、もうご存知の方、興味のない方は、無理して読まないで下さいね。木梨神社と聞いて、「木梨?」と思う方もいるかも。某有名タレントさんじゃないですよ(笑)木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)。第20代天皇になるはずだった皇子です。
現在私たちが目にする『日本書紀』において、編纂者による紀年延長が行われていることは明らかです。では、紀年延長はどのような方法によって行われたのでしょうか。そこで一つの仮説として浮かび上がるのが、「無事績年(むじせきねん)」が設けられていったのではないかというものです。*「無事績年」は私が『ヤマト王権のはじまり』(扶桑社新書)の中で用いた用語です。決して『日本書紀』の天皇紀は天皇の事績ばかりで埋められているわけではありませんが、研究当初から使用していた用語ですのでそのまま用いました
Name:Ankō安康天皇Father:Emperor"Ingyō允恭天皇Mother:EmpressOshisakanoŌnakatsuhime忍坂大中姫Spouse:EmpressNakashi中磯皇女Mausoleum:SugawaranoFushiminonishimisasagi(菅原伏見西陵)(Nara)皇統連綿!みんなで唄おう=祖国の命↓
百舌鳥古墳群の大仙陵古墳を第16代天皇の仁徳天皇陵と比定したのに続いて、ニサンザイ古墳を第17代履中天皇陵、田出井山古墳を第18代反正天皇陵と比定しました。次に、第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の御陵についてみていきたいと思います。改めて古墳の築造年代と歴代天皇の崩御年を掲載します(図表1)。■図表1古墳築造年と歴代天皇の崩御年(筆者の見解による)允恭天皇は私が倭の五王の「興」だと考える天皇です。履中天皇(りちゅうてんのう)・反正天皇(はんぜいてんのう)の同母弟と
穴穂神社(石上穴穂宮)大和国山邊郡奈良県天理市田町568(南側が厳島神社の参道兼田町児童公園となっており、十分に駐車可)■祭神高龗神第20代安康天皇の石上穴穂宮があったところに鎮座する神社。隣の民家の庭かという程度のこぢんまりとした社、往古は広大な社域を有していたようです。◎安康天皇(穴穂皇子)は眉輪王(まよわおう)により暗殺されるという、皇室史上類例をみない天皇。そもそも皇位継承筆頭であった同母兄の木梨軽皇子を殺して即位。木梨軽皇子は同母妹(穴穂皇子とも同母)の衣通姫と通じ左遷
☆菅原伏見西陵(安康天皇陵)大和国添下郡奈良市宝来4-29(P無し、西50mほどのところに路駐しました)第20代安康天皇の治定陵墓。安康天皇と言えば…なんと言っても「殺害された天皇」。正史において「殺害された天皇」は安康天皇と崇峻天皇の二帝のみ。自害した、配流先で亡くなった天皇もいますがそちらは除いて。殺害は義理の息子(眉輪王)によって。「眉輪王の変」と呼ばれています。安康天皇の皇后は中磯皇女(ナカシノヒメミコ)。(別名、中蔕姫命や長田大娘皇女など)元々は大草香皇子の
<第20代安康天皇>穴穂尊[あなほのみこと]宋書・倭王興。眉輪王(目弱王)に殺害される(眉輪王の乱)。(大臣)葛城円邸に逃亡ー死。(大連)物部大前。(大連)大伴室屋。
<第19代允恭天皇>雄朝津間稚子宿禰尊[おあつまのわくこのすくねのみこと]倭王済(武内宿禰・子・盟神探湯執行)。(皇子)木梨軽皇子[きなしかるみのみこ]皇太子=世子(世子興)。(皇子)穴穂尊[あなほのみこと](のちの第20代安康天皇)倭王興。(皇子)大泊瀬幼武尊[おおはつせわかたけのみこと](のちの第21代雄略天皇)倭王武。五王→七王(竹内説)禰(武内)ー旨(応神)ー讃(仁徳)ー珍(反正)ー済(允恭)ー興(安康)ー武(雄略)。
わーっっっ!書くのもはばかれるような残忍な出来事です。「早く起きて行きましょう」と言った事の何がいけなかったのでしょうね。ブルブル…土と同じ高さに埋めたと書いてあります。要するに墳墓も作って差し上げなかったという事ですね。いま一度…何がいけなかったの???一族消されてしまいそうなくらいの危機感があったのでしょう。息子達は逃げ延びて牛飼いや馬飼を生業とした様子です。神戸牛とか但馬牛の牧畜農家さんは忍歯王の子孫なのかしら!?
こんなに小さな子供が父の仇を打ち事の次第を把握して命を断つように言うなんてにわかに信じられませんがいずれにしても子供の命を落とす事ほど胸が痛むことはありません。ひとつの嘘が恐ろしい事態を招くという事ですね。根の臣め〜!!!
安康天皇の命は成人した時どころか幼い目弱王の手で奪われてしまいました。かけがえのない父上、母上を奪われてしまったのですから大きくなった時に恨みを晴らすと心に誓うことはあると思いますがまさかこんなに小さなときに!!本当に出来たのか信じ難い。こんな悲惨な事件が起きてしまったのはそもそも根の臣の嘘から。とにかく「裏切り」は許し難い行為です。合わせて「復讐」がこれだけの大きなエネルギーを産むことの恐ろしさも感じます。皆さま悔しいことがあってもその
いや〜なんとお気の毒な大日下王。もともとこのようなお話がくることを念頭に妹を大事に育てていたとのこと。返事だけでは無礼になるとおもい結納を持たせたのが運の尽き。こんなに心配りする人を悪者に仕立てるなんて。なんでこんな嘘つきを差し向けてしまったんだ。それにしても安康天皇はどうも血の気が多いみたいですね。ちゃあんと裏取りしてほしかったわ。
★第二十代安康天皇は古代の天皇です。御父允恭天皇の第三皇子、御母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)。祖父は仁徳天皇です。御名は穴穂尊(あなほのみこ)。在位、四五三年から四五六年。允恭天皇の皇太子である木梨軽皇子は同母妹と密通してしまいましたので、允恭天皇崩御ののち群臣は離反し穴穂尊についてしまいました。そのため穴穂尊を襲おうとしていた木梨軽皇子は自殺し、穴穂尊が即位することになりました。安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の為に、大草香皇子(おおくさかのみこ)の妹と一緒
【平成30年4月4日(水)】反正天皇丹比柴籬宮の次は本来、允恭天皇遠飛鳥宮なのですが、現在まで宮址の特定または伝承地も判らないままなのです。(近いうちの発見を期待しています。)なので次の宮、安康天皇石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)へ【石上穴穂宮】(允恭天皇42年~)所在地:奈良県天理市田町568穴穂神社第20代安康天皇在位:允恭天皇42年(AD454)~安康天皇3年(AD456)天理駅から南に1.3kmにある穴穂神社が石上穴穂宮址と云われています。とう
先月のエラと戦国時代前世のリトリーバルや、日常的な用事(主に息子の学校関連のお付き合い)にバタバタ追われているうちに、すっかり忘れていたことなのですが。ちょうど一年前に判明した、衣通姫こと軽大娘皇女の前世の謎が判明しました∑(゚Д゚)教えてくれたのは、例によってオッパイ巫女なんですが。木梨軽皇子との密通が発覚したのは、妊娠したからだそうですΣ(=°ω°=;ノ)ノまあ、古代のことですし、高貴な身分の皇女なわけですから(天皇の皇女な上に実母が皇后(+_+))、望まぬ妊娠であったとしても、堕胎
大和西大寺駅からレンタサイクルを利用し、伝垂仁天皇陵に来ています(^^♪前方部に沿った参道です(^_-)垂仁天皇菅原伏見東陵という表記です(^_^)v参道を進んでいきます(^_^)/参道の途中からの前方部の姿です(^O^)拝所からの姿です(#^.^#)拝所の横の方は土手という感じで、歩いて回れません(+_+)整備された道路を北上します(=^・^=)後円部の辺りです(=^・^=)垂仁天皇といいま
本日、11/28(火)PM10:10~10:58KamakuraFM(FM82.8)『HARTBEATSあーる』内の3番目のコーナー“KickMizukoshi歴史の雑談”ONAIR!(10分間)※日本書紀~安康天皇暗殺後のお話を!★3番目のコーナーなので、実際はPM10:20頃~でしょう。◆スマホで聴く場合は、TuneInRadioアプリ(無料)をダウンロードしてから、↓地域別↓アジア↓日本↓神奈川県
本日、11/21(火)PM10:10~10:58KamakuraFM(FM82.8)『HARTBEATSあーる』内の3番目のコーナー“KickMizukoshi歴史の雑談”ONAIR!(10分間)※日本書紀~安康天皇“殺害”後のお話を!★3番目のコーナーなので、実際はPM10:20頃~でしょう。◆スマホで聴く場合は、TuneInRadioアプリ(無料)をダウンロードしてから、↓地域別↓アジア↓日本↓神奈川県
本日、11/14(火)PM10:10~10:58KamakuraFM(FM82.8)『HARTBEATSあーる』内の3番目のコーナー“KickMizukoshi歴史の雑談”ONAIR!(10分間)※日本書紀~20代・安康天皇のお話を!★3番目のコーナーなので、実際はPM10:20頃~でしょう。◆スマホで聴く場合は、TuneInRadioアプリ(無料)をダウンロードしてから、↓地域別↓アジア↓日本↓神奈川県
立冬の本日、11/7(火)PM10:10~10:58KamakuraFM(FM82.8)『HARTBEATSあーる』内の3番目のコーナー“KickMizukoshi歴史の雑談”ONAIR!(10分間)※日本書紀~20代・安康天皇のお話を!★3番目のコーナーなので、実際はPM10:20頃~でしょう。◆スマホで聴く場合は、TuneInRadioアプリ(無料)をダウンロードしてから、↓地域別↓アジア↓日本↓神奈川県
山上墓地公園の中の古墳-安満宮山古墳の口コミトリップアドバイザー山上墓地公園の中の古墳-安満宮山古墳(大阪府)に行くならトリップアドバイザーで口コミを事前にチェック!旅行者からの口コミ(5件)、写真(3枚)と大阪府のお...団原古墳・下黒田遺跡全国遺跡報告総覧-奈良文化財研究所書名,団原古墳・下黒田遺跡.書名かな,だんばらこふん・しもくろだいせき.副書名.巻次.シリーズ名,風土記の丘地内遺跡発掘調査報告.シリーズ番号,6.古墳がありましたフォ
【闇思想諸々】★卑弥呼から大化の改新時代の侵略?No.65允恭天皇の第二子、安康天皇はさらに酷い悪王だったようだ。『日本書記』の編集者が、仁徳天皇以後の天皇たちを大悪天皇として悪く印象づけようと、『悪王列伝』をわざわざ編集していた。雄略天皇=金波鎮漢紀=武=烏桓後継者・柔然の部族王『吐賀真』=大長谷若健→允恭天皇・・・盟神探湯(熱湯の壺に手を突っ込ませる拷問)を実行したようだ。允恭の允は殷人、恭は匈奴を表している。【黄金主義】―安東恭助どうもこのあたりの
奈良県高市郡高取町GOOBA墓陵は高取町にあるとされていましたが、2000年に入って明日香村で発見された牽牛子塚古墳が天皇陵の特徴を色濃く出しており、その副葬品からも牽牛子塚..袋井市・大門大塚古墳まるじゃがの山辺日記-はまぞう袋井市の大門(だいもん)大塚古墳を訪れました。この古墳は直径25メートル、高さ4.5メートルを測る袋井市内では最大級の円墳で、古墳時代後期(550年頃)に造...上福田岩屋古墳の石室に入ります・石室は貝を含んだ砂岩で出来ています・1200~13