ブログ記事57件
古事記の暗号DVD全15巻ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→古事記の暗号DVD全15巻【竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)】は22,200円引き。プレゼントDVD「神になった人々」もついています。ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)
古事記の暗号DVD全15巻ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→【再販】古事記の暗号DVD全15巻【竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)】は22,200円引き。プレゼントDVD「神になった人々」もついています。ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→【再販】竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)
★第二十代安康天皇は古代の天皇です。御父允恭天皇の第三皇子、御母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)。祖父は仁徳天皇です。御名は穴穂尊(あなほのみこ)。在位、允恭天皇四十二年(453年)から安康天皇三年(456年)。允恭天皇の皇太子である木梨軽皇子は同母妹と密通してしまいましたので、允恭天皇崩御ののち群臣は離反し穴穂尊についてしまいました。そのため穴穂尊を襲おうとしていた木梨軽皇子は自殺し、穴穂尊が即位することになりました。安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の為に、大草
2019/01/05配信<第20代安康天皇>穴穂尊[あなほのみこと]宋書・倭王興眉輪王(目弱王)に殺害される(眉輪王の乱)(大臣)葛城円邸に逃亡ー死(大連)物部大前(大連)大伴室屋
今回は先々に起こる大事件の伏線部分です。いろいろな名前が出てきますが、気にせず読んでください。大勢に影響はありませんので(笑)4-1穴穂が大王位について二月ほどたった時のことである。素行の悪い弟、稚武を落ち着かせるべく正式な妻を娶らせようとした穴穂大王は、大鷦鷯(おおさざき)大王(仁徳天皇)の御子、大草香(おおくさか)王にその妹、幡梭女王(はたびのひめみこ)を妃として差し出す意思があるかを問うべく、根使主(ねのおみ)を使者として遣わした。王族とは言え、殆ど忘れられた存在
重要※動画内のタイトル訂正(誤)安徳天皇→安康天皇(正)古事記の暗号DVD全15巻ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→【再販】古事記の暗号DVD全15巻【竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)】は22,200円引き。プレゼントDVD「神になった人々」もついています。ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→【再販】竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)
新大王の押磐に対する信頼は大きかったようです。蟻は娘婿、押磐の大王即位に期待すると同時に、飯豊を大王の妃にと考え始めていました。3-4新たに大王となった穴穂の母は、忍坂大中媛(おしさかのおおなかひめ)という王族であり、葛城の一族とは無縁だ。一族にとって、これまで築き上げてきた大王家との外戚関係が途絶えた今、蟻には何としてでも次の大王は血縁者から、という強い思いがあった。そして円大臣が言ったように、新大王は表立っては言わないものの、だれよりも従弟にあたる飯豊の父、押磐を信
軽大郎女の励ましも空しく、軽王はあっけなく白旗を挙げてしまいます。そしていよいよ、穴穂王が大王位に。しかし、在位期間は短く、後年、何と史上初の暗殺された大王(天皇)として歴史上に名を残すことになります。そして飯豊の父、押磐にも大王位のチャンスが・・・。ちなみに今のところ、5世紀中頃(紀元450年頃)のお話です。3-4「忍海の屈強な鏃が敵の甲冑をたやすく貫き、瞬く間に軽王の兵を殲滅させました。今こそご出陣を」円大臣の要請を受け、穴穂王は初めて甲冑を身に着け、きらびやかな
⑥古代で実年代がはっきり分かるのは、百済の武寧王の崩御年です。次の3資料です。(1)武寧王墓誌銘・・・・寧東大将軍百済「斯麻王」、年62歳にして癸卯年(523年)5月丙戌朔7日壬辰崩ず。(2)三国史記・百済本紀・・・・武寧23年癸卯(523年)夏五月、王薨ず、諡(贈り名)を武寧という。(3)日本書記・・・・継体17年癸卯(523年)夏五月、百済の王武寧薨ず。ちなみに、日本書記では、武寧王は筑紫の各羅嶋で生まれたので、「嶋王」というとあります。墓誌銘以外にシマ王とあるのは、
⑤(このブログの内容は、S.T.先生が開かれている古代史の教室で教わったものです。)前回と前々回の記事を合わせると、【古事記より】継体天皇崩御・・・・丁未年(西暦527年)允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)この間454年~527年=足掛け74年・・・・(C)【日本書紀】にある治世年数を繋ぐと次のようになります。()内は、允恭崩御年をスタートの1年として繋いだ年数允恭崩御(1)安康3(2~4カウント年)→(越年称元法)雄略23(4~26)清寧5(26~30
④次に古事記によれば雄略天皇崩御・・・・己巳年(西暦489年)允恭天皇崩御・・・・甲午年(西暦454年)この間454年~489年=足掛け36年・・・(B)ところが、前回(2022/08/08記事)の雄略~継体の中で、脱落していた仁賢天皇の治世11年が、今回の允恭雄略の中に含まれているとすれば、足かけ36年でなく、36-(11-1(崩御年と次代即位年を重複して数える当年称元法のため重複分1年を減じ、10年として計算))=26年。つまり、允恭崩御~雄略崩御は足掛け26年です。雄略
古事記の暗号DVD全15巻好評発売中(税込・送料込・国内のみ)ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→古事記の暗号DVD全15巻【竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)】は22,200円引き。ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)
昨日は「目黒学園カルチャースクール」の日✨関裕二先生の講座を受講してまいりました♬『時代を切り開いた飛鳥の三女帝の謎』第一回〜推古天皇〜三つの王家についてなぜ女王が求められたのか女帝で終わる歴史書の不思議安康天皇の悲劇のお話推古天皇の出自についてなどなど♪個人的には、即位していた可能性のある女系天皇のお話にキョウミシンシンでした♀飛鳥ミステリーステキ💖講座の内容の一部を関先生の講座の資料より、ちょこっとだけご紹介いたします。「安康天皇の悲劇」第二十代安康天皇は允恭天
少し前、古事記【下つ巻・雄略天皇段】を拝読していました。結局、その段だけに、留まらなかった(泣)允恭天皇、安康天皇の段...等にも広がり読まされ?読み?ました...このテーマを上手くまとめると次のナムジに移れる様ですね...(イソイソ)・・・。その允恭天皇の段で、近親●●(同母同父)をし伊予の湯(現・道後温泉)へ流された軽太子に対して、軽太郎女が宛てた唄---君之行気長久成奴山多豆乃迎乎将レ往待尓者不レ待君がゆき日長くなり
※動画内のタイトル訂正(誤)安徳天皇→安康天皇(正)古事記の暗号DVD全15巻好評発売中(税込・送料込・国内のみ)ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→古事記の暗号DVD全15巻【竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)】は22,200円引き。ご購入は宇宙歴史自然研究機構<UCNO>→竹内睦泰コンプリートセット(DVD全64巻)
2022.5.26のブログを一部改訂しました。前回のブログ(2022.5.24若日下部の命の、雄略天皇へのキモチ⑪)で触れた、軽太子と安康天皇の近親●●の話でも分かる様に読み手を混乱させる意図が見えますね...ハッキリ言って、矛盾している。允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰尊)...盟神探湯を執行...つまり、(謎の男)武内宿禰?!「大中津比売の命」以外にも妻がいたのでしょうね...だって、当時は...・同父同母→×・同父異母→○という規
前回のブログ(2022.5.24若日下部の命の、雄略天皇へのキモチ⑪)で木梨の軽の太子(允恭天皇崩御後の次の皇位継承者)と安康天皇の近親●●について、触れました。古事記に記載されている箇所を御衣黄なりに、まとめます。詳細が気になる方は古事記で確認してください!新潮社・古事記(P227〜P234)参照---木梨の軽の太子は、允恭天皇崩御後の次の皇位継承者に決まっていた。しかし、中々、即位されなかった...安康天皇との権力闘争があったのでしょうか..
先日のブログ(2022.5.11・雄略天皇の妻への歌)で「雄略天皇が、その場で、若日下部の命と交合するには至らなかった...」と記載しました。上手く、若日下部の命がはぐらかしたのですよね...・・・。その理由が...安康天皇・允恭天皇の段を読むことで何となく視えてきたので私なりに、まとめます。*詳細が気になる方は古事記で確認してください。*新潮社・古事記P225〜P234参照---安康天皇は弟(大長谷(泊瀬)王(後の雄略天皇))のお嫁さ
前回の続き(古事記と近江のササキの山の君⑨)です。御衣黄なりに近江の沙沙貴の山の君が祖【韓帒】について記載されている、古事記の箇所をまとめてみます。詳細が気になる方は古事記で確認してください!新潮社・古事記(P232〜P239、P258〜P260)参照---大長谷(泊瀬)王(後の雄略天皇)は安康天皇が殺されたのにもかかわらず、いい加減で、テキトーな態度をしている黒日子王と白日子王が許せなかった。そして、二人を死に至らしめる。その後、大長谷(
2019/01/05に公開<第20代安康天皇>穴穂尊[あなほのみこと]宋書・倭王興眉輪王(目弱王)に殺害される(眉輪王の乱)(大臣)葛城円邸に逃亡ー死(大連)物部大前(大連)大伴室屋
奈良市の阪奈道路の南側、宝来。前の狭い道、暗峠の表示がありました。第20代安康天皇菅原伏見西陵。綺麗に整備されてます。🙏退散します。雄朝津間稚子宿禰天皇(允恭天皇)の第二皇子。母は稚渟毛二派皇子の女・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子の同母弟で大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の同母兄。父帝が崩御すると群臣の支持を失っていた太子の兄に替わって即位。石上穴穂宮に都を遷す。即位元年、根使主の讒言を信じておじ(
戦国武将ファンの方は多くて、超有名どころで言うと織田信長などは好きな人が多いと聞きます。上司にしたいかと聞いたら、「それはキツイ・・・」と答える人は多そうですけどwじゃ、何にだったらなって欲しいんでしょうか。父親でしょうか←絶対嫌だ首相でしょうか←場合によるわたし個人で言うと、歴史的な英雄でいてくれればいいと思う。今の英雄になり得るか?というと微妙だと思うなぁ。時代により、民は強引で力のあるリーダーの登場を欲するものですが、それも勝手なもんです。信長的には正義をもって進めている
★第二十代安康天皇は古代の天皇です。御父允恭天皇の第三皇子、御母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)。祖父は仁徳天皇です。御名は穴穂尊(あなほのみこ)。在位、允恭天皇(453年)から安康天皇三年(456年)。允恭天皇の皇太子である木梨軽皇子は同母妹と密通してしまいましたので、允恭天皇崩御ののち群臣は離反し穴穂尊についてしまいました。そのため穴穂尊を襲おうとしていた木梨軽皇子は自殺し、穴穂尊が即位することになりました。安康天皇は、弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の為に、大草香皇子(
一関八坂神社参道右側にある境内社明神社(御祭神:罔象女神)社記によると安康天皇の御代(453~456年)に杵築大社(現:出雲大社)を勧請したともあり、また里の伝えでは宣化天皇の御代(536~539年)須佐之男命が北山の地に顕現され、須佐之男命・櫛名田比賣命の二柱を勧請して「北山神社」と称していたそうですが、朱鳥2年(687年)の大洪水で流され、その後現在地に遷座したといいます。その後、天
今回は奈良県葛城/御所地域。奈良盆地の南西の端。葛城山、金剛山の麓、古墳時代、葛城氏が拠点をおいた地域。旧南葛城郡と呼ぶほうがなんかしっくりくる。地図だと奈良盆地を中心にみてしまうので南西の端のような気がしてしまうが、本当は、奈良県は南に大きな山々を抱えるので全体からみると中部。むしろ南北の北と言ってもいいくらい。葛城氏は4世紀から5世紀にかけて力をもっていた有力豪族。天皇家とも婚姻関係を結び16代仁徳から24代仁賢までの外戚となっている。この時代の王権状況を考えれば「大王と葛城氏の両
☆掖上鑵子塚古墳(わきがみかんすづかこふん)大和国葛上郡奈良県御所市柏原(P無し)■形状前方後円墳(周濠有り)■全長149m■築造時期(不明)※5世紀後半頃ではないかとされる■埋葬施設(不明)※長持型石棺か■出土品円筒埴輪、形象埴輪(水鳥型、冠帽型、冑型、大刀型、靭型等)金銅透彫帯金具、木製品、琴柱型石製品■周辺の状況神武天皇が国見をしたという「国見山」と、孝安天皇陵が築かれた「玉手丘」との間の谷地に築かれた古墳。■被葬者葛城円、眉輪王説有り周濠跡
御存知のやうに、日本書紀、古事記は、恐らく時の権力者乃至大王の何かしらの意図に基づひて多くの資料から選録編纂されたそして、史實は一部又は全部捏造された記事も在るかもしれない何者か(恐らくは時の権力者乃至大王乃至天皇家)に不都合な史實は歴史の闇に葬り去らうとしたと思はれる古事記を読むでゐると非常にいきいきとした創作劇を観てゐるやうな場面が幾つも登場する其処には恐らく不都合な事實を隠蔽する為に創作されたお話かなと思はせる記事もある欠した時間を編纂チイムは何かの資料を利用