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4月14日の出来事969年(安和2年3月25日)安和の変。源満仲の密告により源高明が皇太子・守平親王(後の円融天皇)廃立陰謀のかどで大宰権帥に左遷される。これにより藤原氏政権が確立する。1205年第4回十字軍:ハドリアノポリスの戦い。ラテン帝国軍がブルガリア帝国軍に大敗し、皇帝ボードゥアン1世が捕虜となる。1471年薔薇戦争:バーネットの戦い1603年(慶長8年3月3日)日本橋が開通。1865年リンカーン大統領暗殺事件
藤原師輔の長男、藤原伊尹は、941年(天慶四年)、18歳にして、従五位下に叙爵する。その後、藤原伊尹は、948年(天暦二年)には、従五位上、952年(天暦六年)に正五位下、955年(天暦九年)に従四位下、960年(天徳四年)に従四位上と順調に昇進する。同年、藤原伊尹の父、右大臣の藤原師輔が、急死する。父の死の際、藤原伊尹は、従四位上、弟の藤原兼通は、従四位下、藤原兼家は、正五位下に過ぎなかった。しかし、前述の通り、妹の藤原安子の産んだ、憲平親王を皇太子と定めた、村上天皇の強い意
藤原師尹は、950年(天暦四年)、兄の右大臣、藤原師輔の外孫である、憲平親王、即ち、後の冷泉天皇が、生後間もなく、立太子すると、その春宮大夫を兼ねた。また、藤原師尹は、娘の芳子を村上天皇の後宮に入内させ、958年(天徳二年)、芳子は、女御宣下を受ける。芳子は、村上天皇の皇子、昌平親王と永平親王の両皇子を産んでいる。しかし、昌平親王と永平親王は、病弱であったために、春宮にはなれなかった。その後、藤原師尹は、960年(天徳四年)、権大納言、966年(康保三年)、大納言と昇進を重ねる
安和の変は、理由は、不明であるが、左大臣の源高明が、謀反に加担していたと結論され、大宰員外権帥に左遷することが決定した。源高明は、長男の源忠賢と共に出家することで、京に留まれるように願うが、許されず、26日、邸宅を検非違使に包囲され、捕らえられ、九州へ流された。藤原氏が、結束して、源高明を失脚させたのである。密告の功績によって、源満仲と藤原善時は、各々、位を進められた。また、左大臣には、藤原師尹が、任官し、右大臣には、大納言の藤原在衡が昇任した。一方、橘繁延は、土佐国、蓮茂
★第三十六代孝徳天皇は飛鳥時代の天皇、(大化の)改新の詔を発した天皇です。御父は敏達天皇の皇子である押坂人大兄皇子の王子茅渟王、御母は欽明天皇の第六皇子である桜井皇子の王女の吉備姫王の第一王子として誕生。同母の姉は皇極(斉明)天皇です。御名は軽皇子(かるのみこ)。推古天皇四年(596年)生。在位孝徳天皇元年(645年)~白雉五年(654年)。皇極四年(645年)六月、大極殿にて中大兄皇子と中臣鎌子(のちの鎌足)が、蘇我入鹿を誅殺しました。翌日にはその父の蝦夷も自害(乙巳の変)し、翌翌日
源高明は醍醐天皇の第10皇子、母は更衣源周子(嵯峨源氏)で、「いと淫しくおはし」た(笑)藤原師輔の妻の勤子・雅子両内親王の同母弟にあたります。母の身分が低かったためか、7歳のときに源姓を与えられて臣籍に降下しました。師輔は、学問を好み有職故実にも通じたこの義弟に目をかけ、自らの三女を嫁がせます。また、師輔の娘で村上天皇の皇后安子に中宮大夫として仕えたことでその信任も得、安子が産んだ為平親王を女婿に迎えました。こうして師輔と安子の後援を得た高明は出世街道を歩み、康保3年(966年)1月に右大
アクセスありがとうございますいいね!ボタンはありませんのでご興味ない方トバシテ下さい!テーマがバラバラですみませんm。。m(2)の続きです高松神明神社はエレガントな白い鳥居が印象的な神社です明子姫のお邸・高松殿(たかまつどの)の鎮守社だった神社です<高明の娘、明子は当所に住して高松殿と称され、後に藤原道長と結婚した娘の寛子と結婚した三条天皇の皇子小一条院の御所ともなった(…)>明子姫は父方からも母方からも帝の血をひいておられダブルロイヤルな真正のお姫様幼時
アクセスありがとうございますいいね!ボタンはありませんのでご興味ない方トバシテ下さい!テーマがバラバラですみませんm。。m・・・(1)の続きです・・・安和の変で藤原に追い落とされた源高明は須磨に滞在した事もあると伝わり、有力な源氏モデルのひとりとされています源高明の母は「近江更衣」と呼ばれる女性で母が更衣という点でも光源氏と一致していますつまり源明子という姫君は父も夫(道長)も光源氏モデルに挙がるほどの男性父は光源氏の不遇の一面(帝の御子でありながら臣籍
アクセスありがとうございますいいね!ボタンはありませんのでご興味ない方トバシテ下さい!テーマがバラバラですみませんm。。m宣孝のキンキラスタイルでの金峯山参詣(御嶽詣)出発シーンとか映らないかな?無いだろなぁと思ってたのですが、まさかまさかキンキラ宣孝様を拝見できるとはこのドラマほんとに楽しい枕草子に書かれた宣孝の御嶽詣については『紫式部と百人一首⑩の1清少納言(定子サロン女房)』アクセスありがとうございます今回は紫式部関連でいいね!ボタン無いですご興味ない方トバシテ
兼家が道長の左大臣家の婿入りを認めてほしいという。源雅信にせまる。娘の倫子も道長を慕っていて、父の雅信に泣きながらお願いする。庚寅待の夜にまひろへ道長から恋文が届く。まひろはいつもの廃邸に走る。まひろは、道長以外の夫は考えられないと思いながら走っていた。しかし道長からは、倫子との縁談が決まったと告げられる。でも道長の本意ではない。まひろに「妾でもいいからといってくれ。」と願っていた。しかしまひろは、仲のいい倫子が妻になるということでショックだったのだろうか?そのへんは
『光る君へ』の第1回から登場し、兼家の謀略を実施した道兼の毒で体を壊して退位することになった第64代円融天皇について『大鏡全現代語訳(講談社学術文庫)』で見ていきたいと思います。「安和の変」が鍵となる源高明の娘の明子の兼家らへの思い(NHK大河ドラマ『光る君へ』で円融天皇(C)NHK)”安和の変”『大鏡全現代語訳(講談社学術文庫)』ではどのように記録されているのでしょうか、それを見ていきたいと思います。円融天皇は、村上天皇の第五皇子の守平親王で、母は先代の冷泉
皆さま、こんにちは昨夜はよく眠れましたか?今日から新たな一週間が始まりますねそして早くも月末で、もうすぐ4月を迎え、春の訪れを感じる今日この頃ですが、まだまだ朝は寒さを感じますねいつ頃から春らしい暖かさを感じられるようになるのかな?毎年、お花見も『まだ寒いね』と言いながらしているような気がするので、まだまだ寒さは続くのかな?••••ではでは今日もそれぞれの一日が始まりますが、皆さまにとって笑顔あふれる優しい素敵な一日となりますように🥰•••••cut•••••・969年(安
昨夜は、まひろこと紫式部と藤原道長の美しいラブシーンに感動しました。NHKさんもやるね!吉高さんが美人なので、美しく撮れたのかしら?柄本さんも、ボーっとしている所が魅力ですが、中々素敵な俳優さんで、道長役は合っていますね。道長は、道長の日記、御堂関白記を見ると字は下手ですが、誠実な人柄が分かります。969年に起きた、安和の変では、藤原氏が左大臣、源高明を流罪にして酷い目に合わせた事、なんと、寧子の「蜻蛉日記」にも克明にその残酷さが書かれていますが、後年、道長は、源高明を助け、流罪から京都
969年に起きた安和の変も酷いです。藤原氏が源高明に謀反の罪をなすりつけ、左大臣高明を左遷してしまいました。藤原氏の他者排斥事件でした。高明は、光源氏のモデルとなった美形の人でした。さて、寛和の変が、986年に起こります。藤原兼家は、孫の一条天皇を即位させたくてたまらず、息子道兼に命令して、当時の花山天皇を無理矢理、出家させました。道兼は、自分も出家すると花山天皇を騙しました。花山天皇は、愛する妻、忯子(よしこ)を亡くしたばかりで落ち込んでいました。出家に同意してしまいました。天皇を
「光る君へ」も回を重ねるとともに登場人物が増えて来た。第3回では藤原道長の生涯のパートナーとなる源倫子が登場。番組の中で彼女は「ともこ」と呼ばれていた。へぇ~、”ともこ”なんだ。ふぅ〜ん。あの紫式部や清少納言でさえ本名が伝わっていなかったという話は今さら言うこともないが、この時代、名前が残っている女性の方が希少なのだ。・身分の高い女性(内親王とか)・天皇の后妃になった女性・従二位などに加階された女官・貴族の日記などに偶然記録された女
大河ドラマ『光る君へ』第1回「約束の月」を見ていた時。思わず「ふふっ」となってしまったシーンがいくつも散りばめられていて楽しかったのですが、ワタクシ的その中の1つとして「散楽一座の公演」シーンがありました。2024年大河ドラマ『光る君へ』公式サイト「第1回相関図」より→★散楽一座の公演は前もって告知されていて、三郎(幼少期の道長)はそれを楽しみにしていました。やがてその時刻が近づき、三郎が見に行くと、4人の演者が派手なチャンバラを始めます。「コウメイよ、これでトドメ
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、安和の変の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は3月27日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。
平家物語に続いて、平安時代が舞台の小説を選んでみた。浄瑠璃や謡曲で謳われる大江山の「酒呑童子」の物語である。安倍晴明、源高明、源満仲と四天王、坂田金時など、気になる人物も登場する。官軍に平定されてしまった化外の民(差別民)の抵抗、その物語の根っこが乙巳の変にまでさかのぼるという説も面白い。ぶっ飛び過ぎかもしれないが、私は剣奴スパルタクスの反乱や、ローマに征服されたシチリアにおける奴隷の反乱、一向一揆、石山本願寺戦争、島原の乱などを思い浮かべた。以下、ネタバレ。序章:いきなり日蝕の
名古屋のシンゾウです「いつも迷ってしまう!!」...何故でしょうか。私なんか中途半端に沢山のことを覚えようとしていますので、当たり前といえば当たり前なのですが、混乱の原因がハッキリする場合もあります。PC上に誤ったデータが登録されていることです。例えば、養蚕神社or蚕養神社、名月管弦祭or名月管絃祭等々です。公式テキストの誤りヵ所が正しく直してありませんでした。勿論、誤入力も沢山あります。自分で自分の首を絞めている感じです。「いつも迷ってしまう!!」と思ったら、データをもう一度確かめた
私の人間関係に関する悩みの根源が両親との関係にある、ということは、20代の頃からわかっていたのですが、心理学を学んでも一向に問題解決には結びつかず、スピリチュアルの世界に足を踏み入れてやっと、先祖のカルマから由来するものだということがわかりました。去年、真照さんに相談に乗っていただきまして、先祖のカルマというのが源氏と平氏の抗争によるものだということがわかって先祖供養したのですが。先日、先祖供養の過程ではわからなかった先祖のカルマの一つに気がつきました。というのは、去年の秋ぐらいからずっと
今回の京都旅のメインは、歴彩館と今日ご紹介する神社の調査。宮司様からお話を聞いたり、資料をいただいたり、とても有意義な訪問となり、心より感謝しております。高松神明神社高松神明神社中京区釜座通御池下ル津軽町にある神社。祭神は天照大神・天児屋根命・誉田別命。高松明神社とも称す。この地にはかつて醍醐天皇の皇子左大臣源高明の高松殿があり、当社はその鎮守社であった。久寿二年(1155)後白河天皇の里内裏となった高松殿は、保元の乱(1156)の折に一時天皇方の本拠ともなったが、
はい。こんにちは。この前の他氏排斥事件のパート2を始めます。では行きましょう。宇多天皇は寛平の治で、天皇親政に反対する人から身を守る為に滝口の武者(武士)を設置しました。うだたきぐちしりとりです。さらに藤原氏の人間ではない菅原道真を登用しました。藤原氏の人間にとっては道真は邪魔者です。そこで藤原氏の人間は、道真を遣唐使の一員にして政界から追い出そうとしたのです。しかし道真は、唐は安史の乱などが起きた影響で衰退しているから遣唐使は不要として廃止してしまったのです(894
⬇よろしかったらこちらをクリックしてねにほんブログ村オランダ家で買ってきたお菓子だよ。(▼千葉ミルフィーユ(上)と落花生ダックワーズ(下))ベルが早く帰って来たので、夕方、桜通りまで花見に行って来たよ。中野の方はもう咲いてたっていうけど、新柏はまだ5分咲き。「オランダ家」でおやつを買って帰って来たよ。(▼中野通り)(▼オランダ家の前にて)(▼桜通りは5分咲きだね)(▼ケロ吉とパンどらの小倉あんと抹茶あん)(▼パンどらの断面)※
次男と駅前の散歩源満仲像なるものを見つける、、、はて?誰だっけ?長男の漫画日本の歴史で調べるとイメージ悪っ(^_^;)
第六十四代円融(えんゆう)天皇は、平安時代の藤原摂関政治期全盛期の頃の天皇です。九五九年生。御名は守平(もりひら)、覚如、金剛法。御父は村上天皇、御母は藤原安子(あんし/やすこ)。在位九六九年から九八四年。村上天皇の第五皇子として誕生しましたが、同母の兄の為平親王を飛び越えて9歳で立太子されやはり同母兄である冷泉天皇の皇太弟となられました。これは醍醐天皇の皇子である源高明の娘を為平親王が妃にしておられたため、為平親王が即位されると外祖父が源高明が外祖父となるということを藤原氏は絶対に避
日本史の基本確認テスト4(平安時代前期~中期)(リンクは解答の語句を記した記事、ハッシュタグは解答の語句を示す)➊最澄が比叡山に開いた、天台宗の総本山を何というか。→日本史の基本46(10-1・2弘仁・貞観文化唐風・密教)➋サンスクリットのmandalaの音訳で、密教の悟りの境地を特異な構図で説明した図像を何というか。→日本史の基本47(10-3・4弘仁・貞観文化神仏習合・美術)➌唐風書道の名手をいう三筆の一人で、承和の変により流罪とされた貴族はだれか