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★第五七代陽成(ようぜい)天皇は平安時代の藤原氏の摂関政治初期の頃の天皇です。御父は清和天皇、御母は藤原高子。御名は貞明。貞観十年(867年)。在位、貞観十八年(876年)から元慶八年(884年)。百人一首の十三番歌は陽成院御製です。貞明親王が即位したのは九歳の時(満年齢7歳)。幼い年齢のため母の兄、藤原基経が摂政となりました。基経は、元慶四年(880年)には、関白になり、その翌月には太政大臣になっています。「神皇正統記」によれば、陽成天皇は性格が荒々しく帝王の器にふさわしくな
さてさて……………【醍醐寺】を出発した我々が次に到着したのは…………【醍醐天皇後山科陵】京都府京都市伏見区醍醐古道町宮内庁上の形式は円丘。『京都地下鉄・嵐電1dayチケット⑧〜随心院其の一〜』さてさて…………【神泉苑】を出発し、地下鉄東西線「二条城前駅」から乗車し、ココロが下車したのは「小野駅」だ目的地を確認するそして、徒歩10分弱で到着したのは……ameblo.jp昨年、【随心院】に参詣した折には、近くにあることを知りながら時間の都合で断念した経緯がある【醍醐天皇(だいごて
おはようございます。ご訪問いただきましてありがとうございます😊✨ベランダで育てています。1番元気に育っています【クロード・モネ】です。【予約】【お届けは2024年1月から】バラ苗デルバールクロードモネ大苗7号鉢ピンク系POT薔薇苗ばら苗バラ苗鉢植え【送料無料北海道沖縄発送不可】【18日は市場の日!!】【期日指定不可】楽天市場5,500円予約苗バラ苗クロードモネ国産大苗裸苗四季咲き大輪複色系フレンチローズ(デルバール)【12月上旬順次配送】
2019/02/13配信<第59代宇多天皇>源定省(側近)蔵人頭・菅原道真〔天神様〕894年遣唐使・中止892年「類聚国史」200巻890年四方拝
★第五十八代光孝(こうこう)天皇は平安時代の天皇です。御父仁明天皇の第三皇子、御母は藤原澤子(たくし)。先帝陽成天皇の祖父文徳天皇の弟。天長七年(830年)生。御名は時康。在位、元慶八年(884年)~仁和三年(887年)。第五十七代陽成天皇は乱行・奇行があり群臣を悩ましたため、何度も退位を迫られ、手続き的には十七歳で譲位の形をとって退位させられたといいます。そしてこの時、譲位されたのが時康親王でした(光孝天皇)。次の天皇を決めるため太政大臣であった藤原基経が何人もの親王を訪ねるとど
駐車場からだとフラットに数100メートル。阪急の駅からだとキロになるかな。緩く登り。両側仲見世でいっぱいです。左、荒神社。右、伽藍です。もとはずっと山奥に、広大に建っていた。三度目。こんなに、土曜日に空いてるのは珍しい。酷暑のせいです。平安時代から他の諸堂が焼かれようとも、すべてをかいくぐったお社。その霊験、ご利益はかなりのものです。これです。振り返り撮り近い奥宮みたくここには、行者さん(役行者)いらっしゃる。荒神信仰の成立に絡まれたかな。
本日は、奇しくも法皇、天皇でさえも世の無常を感じずにはいられなかったことが特にわかりやすい天皇の祭日が重なった日です。昔も今も、世の無常は変わりませんが、現在の私達と同じ感情を共有していたであろうことを実感しやすい天皇であるといえるかと思います。★第五十九代宇多(うだ)天皇は平安時代の天皇、菅原道真を引き立てたことでも有名な天皇です。御父光孝(こうこう)天皇の第七王、御母は桓武天皇の孫の班子(はんし)女王。御名は定省(さだみ)。貞観九年(867年)生。在位、仁和三年(887年)
《新古今和歌集・巻第六・冬歌》578題知らず清原元輔冬を浅みまだき時雨(しぐれ)と思ひしをたへざりけりな老(お)いの涙も☆☆☆☆☆【新編日本古典文学全集「新古今和歌集」☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆(訳者・峯村文人・小学館)の訳】☆☆☆☆☆☆☆☆題知らず清原元輔冬が浅いので、降るには早い時雨だと思っていたのに、待ちきれなかったのだなあ。もう、時雨が降りはじめ、老境の私の涙も、また、もろく落ち始めたことだ。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
…【88】真言宗御室派の総本山。第59代宇多天皇が先帝・光孝天皇の遺志を継いで仁和4年に創建した。応仁2年、応仁の乱で「仁和寺」一山の伽藍大半を兵火で焼失したが、第21世・覚深(カクジン)法親王が、仁和寺再興を願い、紫宸殿(金堂)・清涼殿(御影堂)などを御所より下賜され、正保3年に伽藍の再建が叶った。
…【81】宇多天皇が、仁和4年に落成。以来、皇族が入寺する門跡寺院として格式を保った。宇多天皇墓所は、右京・鳴滝「大内山・陵」にある。
【食育クイズ:Vol.1354】「京都府」の「東山、世界遺産」おさらいクイズ!「仁和寺」、「龍安寺」、「金閣寺」の世界遺産3つを辿る道の名は?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100g×2袋)Amazon(アマゾン)国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サ
「百人一首」の30番・33番・37番・38番には菅原道真の逝去が詠まれています。和歌のなかで「花が散る」と謳われているときはたいてい、「誰かの命が散った(亡くなった)」ことを言うための比喩です。👇菅原道真の略歴は…👇菅原道真:845年6月25日〜903年2月25日(享年59)。道真は宇多天皇に重用され、寛平の治を支えたひとりです。醍醐天皇のとき、右大臣となりますが、謀反を計画したとして(昌泰の変)、
みなさま、おはようございます~~~西暦2023年7月15日(土)、早朝からのブログアップです今日は、声優役者としてのご紹介です新ニッポンヒストリー第91話『もしも、藤原基経が現代人だったら』が解禁となりました(本日7月15日)。私は、芸名;倉田彰彦で、橘広相(たちばなのひろみ)役で登場してます今回のストーリーは、平安時代887年頃のお話し、阿衡事件(あこうじけん)です。※阿衡事件(あこうじけん)は、平安時代前期に藤原基経と宇
本日は旧暦5月26日ですが、貞観十一年(869年)五月二十六日は貞観地震が起きた日です。※単純に旧暦にあてはめています。東日本大震災が起きた時に、千年に一度の地震と言われたのは1154年前に起きた貞観地震があったからです。しかも陸奥国での発生です。陸奥とは「みちのおく」から転じた言葉で、ほぼ現在の東北地方に相当する地域の古名です。この時の天皇は清和天皇で、陸奥国と常陸国の国境が最大の被災地であるとの詔を発しましたが、その詔について2017年に発売された正論SP2に書かれています
本日は旧暦の端午の節句ですが、貞観九年(867年)五月五日は光孝天皇の第七皇子定省(さだみ)王が誕生された日です。*単純に旧暦に当てはめています。『明日は旧暦端午の節句・・・菖蒲湯と菖蒲枕と三日月』本日は旧暦の五月四日なので、明日は旧暦での端午の節句の日となります。古来、宮中では端午の節句の前日に菖蒲(あやめ)と蓬(よもぎ)が献上されました。菖蒲や蓬は、…ameblo.jp光孝天皇は、第五十四代仁明天皇の第三皇子の時康親王で、兄である第一皇子の道康親王が天皇になられていました(文徳
【食育クイズ:Vol.1317】「京都府」の「嵐山、嵯峨野路」おさらいクイズ!「嵯峨野路」の「大覚寺」にある「観月の夕べ」で有名な池の名とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,016円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,1
【食育クイズ:Vol.1315】「京都府」の「嵐山と祭り」おさらいクイズ!「嵯峨、車折神社」の「大堰川」でおこなわれる祭名とは?です。↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)2,014円Eco&Art太陽パネルの元で育った大豆のコーヒー(浅煎り,100
おはようございます、おもちもちもちです。3月の話ですが、夫とおみくじ人形集めで京都に行ってきました。まずは仁和寺へ。(お花見もしてきました↓)『京都仁和寺へお花見に行ってきました』おはようございます、おもちもちもちです。先週末はあいにくの雨でしたが、夫とふたりで、雨の切れ間にお花見に行ってきました。普段季節感なく過ごしているので、毎年1…ameblo.jp仁和寺は真言宗御室派の総本山で、888年に宇多天皇によって創建されました。皇族が代々住職を勤めた、日本初の門跡寺院だそうです。
昨日の日曜日は「NHK文化センター青山教室」の日✨関裕二先生の講座を受講いたしました♪『第2回源氏と平家』〜なぜ平氏と源氏が関東に着任しただけで荒くれどもが黙ったのか〜上毛野氏と下毛野氏琵琶湖を制する者は?蝦夷征討の本質がわかる戦い律令税制の破綻と神仏習合多度大神の託宣桓武平氏の誕生Germanytooなどなど♪租庸調から神仏習合までのややこしい流れを、関先生がとても簡潔にご説明くださって、理解が深まった気がしました。また源氏・平氏と貴族との浮き沈みの激しいこの時代
38忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな右近【出典】『拾遺集』巻十四・恋四・870「題しらず」【参考】『大和物語』の84段に、「同じ女、男の忘れじとよろづのことをかけて誓ひけれど、忘れにける後に言ひ遣りける」とある。この恋の相手は藤原敦忠とされる。++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++あなたに忘れられた我が身をつらいとは思いません。それよりも私との愛を誓ったあなたの命が神罰のために失われるのではないかと思うと
す本日も妄想にお付き合いください。真雅さん「ちょとずつ温うなってきたな。」聖宝さん「春ですな。修行に行きましょか?」真雅さん「すぐ修行修行て、、、山はまだ寒いじゃろが。」聖宝さん「こにぐらいの寒さがええ修行になんじょんで。」真雅さん「その勢いで宇多法皇を吉野に誘たやろ。」聖宝さん「法皇の金峯山登拝。ありがたい話ですがな。」真雅さん「なんでも程があるけんな。吉野の桜でも見ながらの修行程度ならまだしも、、」聖宝さん「わしは峰中修行で『恵印法流』
36夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ清原深養父【出典】『古今和歌集』巻三・夏・166「月のおもしろかりける夜暁方によめる・ふかやぶ」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++短い夏の夜は、まだ宵のうちだと思っている間に明けてしまったが、これでは西の空に沈む暇もあるまい、いったい月は雲のどのあたりに宿っているのであろうか。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和
35人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしの香ににほひける紀貫之【出典】『古今和歌集』巻一・春上・42初瀬にまうづるごとに、宿りける人の家にひさしく宿らで、程へてのちにいたれりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになむやどりはある」と、言ひだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++あなたが心変わりしてしまったかどうか、さあ分かりません。しかし、昔なじみの場所では、梅の花は昔そ
夜中には強い雨になっていたが、目が覚めたころにはその雨も何とか降り止んでいた。その後は徐々に天候が回復に向かい、昼食の後は外出しようという気になるほどだった。ただ、そんなに遠くまで行くのも気が進まなかったので、〝市バスの旅〟のような感じで、一度行ってみたいと思っていた神社を訪れてみた。京都の市街地で言えば、北西の端っこと言える場所に「福王子」という交差点がある。東へ行けば御室仁和寺、西へ行けば広沢池から嵯峨野、北へ行けば高雄神護寺から京北方面。その交差点に面して建ってい
33久方(ひさかた)の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ紀友則【出典】『古今和歌集』巻ニ・春下・84「さくらの花のちるをよめり・きのとものり」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++日の光がのどかな春の日に、どうして落ち着いた心もなく、花は散るのであろうか。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□(※『和歌暗号(わかコード)』とは
32山川(やまがは)に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉(もみぢ)なりけり春道列樹(はるみちのつらき)【出典】『古今和歌集』巻五・秋下・303「志賀の山越にてよめる」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++山あいの谷川に風がかけたしがらみは、流れることができずにとどまっているもみじの落葉だったよ。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新訳】□□□□□□□
31朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪坂上是則(さかのうえのこれのり)【出典】『古今和歌集』巻六・冬の歌・332「やまとのくににまかれりける時に雪のふりけるをみてよめる」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++夜が明け始めたころ、有明の月が照っているのかと見間違えるほどに、白々と明るく吉野の里に降り積もっている白雪だよ。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コード
30有明のつれなく見えし別れより暁(あかつき)ばかり憂きものはなし壬生忠岑【出典】『古今和歌集』巻十三・恋三・625「題しらず・みぶのたゞみね」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++夜も明けて帰らねばならない時となってしまって、有明の月が無情に見えた、あの別れの時以来、暁ほど私にとってつらく悲しく思われるものはない。++++++++++++++++++++++++++++□□□□□□□【和歌コードで読み解いた新
29心あてに折らばや折らむ初霜(はつしも)の置きまどはせる白菊の花凡河内躬恒【出典】『古今和歌集』巻五・秋下・277「しらぎくの花をよめる」++【口語訳】(『最新全訳古語辞典』・東京書籍より)++もし折るのなら、あて推量に折ってみようか。初霜が真っ白に置いて、いかにもまぎらわしくしている白菊の花を。++++++++++++++++++++++++++++【参考】正岡子規は、『歌よみに与ふる書』のなかで「初霜が置いた位で白菊が見えなくなる
26小倉山(をぐらやま)峰(みね)のもみぢ葉(ば)心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ貞信公(ていしんこう)【出典】『拾遺集』巻十七・雑秋の歌・1128・藤原忠平「亭子院、大井河に御幸ありて行幸もありぬべき所也とおほせたまふにことのよしそうせんと申て」小一条太政大臣【参考】通説では907年9月10日・11日の大井川御行のこととされるが、926年10月10日・19日とする説もある。宇多上皇が大井川に御行した際に、小倉山の紅葉の美しさに感嘆し、子の醍醐天皇にも