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日本では3月になると全国各地で卒業式が行われています。今でこそ、その学校での学業を修めて証で執り行っています。一部の人たちには、次の学校げ上がるために行う式典と捉えられているみたいですが(;^ω^)そもそも卒業式とはどんな式典なのか?日本の卒業式の起源は、明治5年(1872年)に制定された学制にあります。学制では、各等級(学年)ごとに試験修了者に対して卒業証書を授与することが定められました。これが現在の卒業式の原型となったと考えられています。その後、明治10年代(1870年代半ばから1
1月15日(月)の誕生日の花は、セントウソウです。花言葉は「繊細な美しさ」です。1873学制に基づいた日本で最初の小学校。現在の筑波大附属小学校設立1926京都学連事件で治安維持法が初適応1936中日ドラゴンズの前身名古屋軍が誕生193969連勝中の双葉山が安芸ノ海に敗れる1951この年から2000年までこの日がお年玉付き年賀ハガキの抽選日1991ナイル川上流にアスワン・ハイ・ダムが完成1992国連などがクロアチアとスロバニアのユーゴスラビアからの独立を承認1
【食育クイズ:Vol.1522】「京都府」の「最初の小学校」おさらいクイズ!全国に先駆けて京都で64校開講した「◯◯小学校」とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞たねすはら無添加味噌500gAmazon(アマゾン)コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大
1888年(明治21年)のこの日、文部省(現:文部科学省)がすべての学校に毎年4月に生徒の「活力検査」(身体検査)を実施するよう訓令した。日本では、1871年(明治4年)に文部省を創設。翌1872年(明治5年)、全国に日本最初の近代的学校制度を定めた教育基本法令の「学制」が公布された。フランスの学校制度にならい、全国を学区に分けて学校設立を計画。公布に際し、「被仰出書」(おおせいだされしょ)を出して、「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と述べて、その理念を示し
リタイアして小さな島に住み、多忙なビジネスパーソンや学生などと接する機会がなくなったため、「師走感」を感じることが以前よりも難しくなりました。でもこの感覚、「師走感の希薄化」は、おそらくボクだけではなく、コロナがもたらした生活環境と生活スタイルの変化、季節感の喪失などの諸要因により、多くの方々にも共通していると思います。これは良いことだとボクは思います。年末に向けてやり残したことをバタバタと慌てて消費したり片付けるよりも、1年間を計画的にゆっくりと生活した方がよほど善い。だって
そこまでして、大学へ行く必要が在りますかネトレーナーは理数系バカなので私立文系・590校のお話し。590大学のうち、90%が偏差値60未満。Boderfree大学は、80校に迫る数。こんな事に嵌ってたりで勉学とは、無縁の学生たち。Tobeornottobeってトレーナーの走り書きに『飛べ、飛べって何』ってQ反目を『はんめ』って読むこれ、今時の中学生未満って思ってます。恐るべきは隣国。進学率95%の入試開始時間に遅れる子へ、👇ここ迄するって
母校の熊小学校が、150周年を迎える。しかし、過疎化で人口が減った今、卒業生でそのことを知る人達はわずかである。「せめて、150年記念の祝い気分を何か少しでも味わいたい」と思いませんか?。それならば、150年前の1873年という時代を振り返りましょう。ーーーーーー歴史を調べると、以下の事がわかりました。昭和になって撮影された、熊の尋常小学校の写真は、、ーーーーーーーところで、150年前の1873年はどんな時代?。全ては、「富国強兵」に基づくらしい。また、この年に、岩倉具視等が
こんばんは、おぎのあずさ(荻野梓)です。-[お知らせ]-パブリックコメント(意見募集)中!12月5日〆切川口市感染症予防計画(案)---今日は、川口市立元郷小学校開校150周年記念式典および祝賀会に参加しました。式典第一部は、校長先生、実行委員長、川口市長、川口市議会議長、川口市教育委員会教育長のご挨拶・ご祝辞。記念品としてメタルモトちゃんが贈呈されました。(多分メタル)式典第二部は、子ども達による演奏や発表。金管クラブの演奏もとても良かった
今日は、息子と娘の通う小学校が150周年を迎えるということで、その保護者向けの参観イベントに行ってきました。(150周年かぁ…他にどのくらいあるのかな?)そう思って調べたら、かなりの数の小学校が150周年を迎えるということを知りました。明治5年に、全国規模の最初の近代教育法令となる「学制」が公布され、次々と小学校を含め学校が設立されたとの話でした。その結果、創立150周年を迎える学校が多数存在するそうです。子供たちの発表もさることながら、今は当たり前の小学校が当たり前になかった時期がある
10月17日(火曜日)の発言で、10月19日(木曜日)にニュースになりました。これです。「滋賀県東近江市の小椋正清市長がフリースクールについて「国家の根幹を崩す」、「不登校の大半の責任が親にある」などと発言したことを受け、県内でフリースクールを運営する団体などからは批判の声が広がっている。19日には市長宛ての抗議文が出されたほか、発言の撤回などを求める署名活動も始まった。」さて、南風は一応科学者なので、科学的に考える習慣があります。科学とは、「個別の専門分野を研究する学問」ですからね。
明治の元勲たちが当初に謳っていた教育の理念が極めて真っ当なことが良くわかります。結局は、この理念が失われていき、カチカチのエリート主義に陥って、先の大戦後にGHQから押し付けられたパヨク政策でより、日本の教育が悪くなったのです。この精神に立ち返って日教組教育とそれ以前からある硬直した所を良くして欲しいですね。
食後に富士山かぐや姫ミュージアムへ散歩に行くと、学制施行から150年の節目に合わせて「あの頃の学校」のいうテーマで、かつて小学校内で使われていた懐かしさを感じさせる教材や道具を紹介する企画展「学びの窓150年」が開催されていました。ランドセルや教科書、OHP、給食のメニューや、科目別の教材が並んでいました。
§6.市原市の郷土史69.家に不学の人なからしめん・小学校の設置永井家所蔵品より~必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん~「学事奨励に関する被仰出書」より明治5年(1872)に学制が導入され、寺子屋にかわって全国に小学校が設置されるようになった(計画では5万4000近くを予定。しかし明治8年段階で約2万4500校。なお現在は約2万校)。市原では明治6年に総社、分目、宮原、深城、廿五里(東泉寺を校舎)、五所、飯沼(龍昌寺を校舎)、島野(三光院
こんにちは愛知県名古屋市の若者向け就労移行支援事業所「NotoカレッジキャリアセンターNEXT」です。お待たせいたしましたついに、Notoカフェ始動いたします!10月のNotoカフェはボードゲームです。ボードゲームを通して、コミュニケーションを図ることをねらいとしています。また、ゲームをNotoで開催することで、将来就労移行を考えている方や就労移行に関心のある方へNotoカレッジを知っていただきたく存じます。就活サポート説明会や無料就職相談会もございますが、より気軽に参加で
『今じゃありえない!!100年前のビックリ教科書~明治・大正・昭和の授業風景~』(じっぴコンパクト新書、福田智弘著)を読了しました。明治となり、日本に学制が定められて教育というものが体系化されることになりました。青少年に対して教育を施すことになるわけですが、そこでどうしても欠かせないのが“教科書”です。本書は、そんな教科書について明治初期から昭和戦前までの約70年間、小学校や中学校で使用された教科書の内容について特に目を引く面白いトピックを中心に紹介されています。こ
明治5年(1872)、近代的学校制度を定めた学制が生まれ、松江では翌年の4月20日に初めて小学校が開校しました。それから150年、松江の小学校に残る様々な資料や写真展が歴史館で開催されています。私は市内で初めて開校された小学校の出身でもあるので、余計に感慨深いものでした。当時は、学校といってもお寺で開かれ、「読み書き」中心の授業であったようです。義務教育制度ではないので、授業料もいりますし、教科書も西洋の本の翻訳ものが使われたり、みんなが手探
朝ドラ「らんまん」に出てきた武家の学問所。武士が特権階級として大威張りした時代です。が、明治維新による社会の変革が行われ、失業する人もたくさんいました。特にそれまで保護されてきた人々は職業転換が余儀なくされました。武士の学問所だけでなく、民衆の私塾も様変わりです。明治5年「学制」の発布により、全国で公立小学校が順次開校されます。急激な制度発足で、学校とはいっても、お寺の講堂を間借りすることもありました。武家の学問所がそのまま小学校になりることもありましたが、それまでの私塾と並行し
歴史のある小学校広島市立荒神町小学校に大きな横断幕が掲げられていた。創立150年と書いてあります。計算してみると明治6年(1873年)の創立です。明治5年に学制が発布されて明治6年の1月から小学校の設置が始まりました。同年に広島市では12校が設置されている。市内の幟町小学校が1月7日の設立で(未確認ながら)最も早いようです。荒神町小学校は1月25日の設立ですから負けず劣らず早い。日本は教育熱心だった小学校の設置は急速に進み2年後の明治8年には全国で2万4千校となってい
『2年生存率0%を生き抜いて』28歳で腎臓の希少がんに罹患。22年前の発病当時、一番の希望は生の体験談でした発病からの生還記録を綴りました。今は現在の活動です。生還記録/最初はこちら杉浦貴之『【28歳で希少がん】がん発覚~入院生活①』オフィシャルブログとなったことを機に、改めて発病からの生還記録を綴ってみたいと思います。『2年生存率0%を生き抜いて』28歳で希少がんに罹患。22年前の発病…ameblo.jp命のバトン26日は犬山北小
こんばんは。そういえば、2022年は1872年に学制が公布されてから150年を迎えます。そのため、当時創立された各地の学校で記念式典が行われています。加古川市にある神野小学校もそのひとつで、明日記念式典が行われる予定です。あるある兵庫五国兵庫県公式ふるさとあるあるマンガ/もぐら/兵庫県【3000円以上送料無料】楽天市場1,078円上記のポスターをご覧いただけるとお分かりいただけるのですが、記念式典では講演や獅子舞演舞が予定されています。こういうものが
9月4日は「学制発布」の日。1872年(明治5年)のことです。ここまで4つの[問題]を考えて,日本の学校制度,教育制度の変遷をみてきました。そこで,終わるつもりだったのですが,やっぱり,現在(いま)と未来の学校や教育について考えてみたくなりました。しかたがありません。「社会科のセンセイ」ですから戦前の教育制度は「個人主義」から「忠君愛国」「家族主義」へと大きく変質していきました。しかし,就学率は一貫して向上していきます。1872年学制発布の年,満6歳以上の学齢の子どもたちの就
9月4日は「学制発布」の日。1872年(明治5年)のことです。昨日は,2つの[問題]を考えました。分かったことは(1)学制の基本的ねらいが「,自分たち自身のためのものであるとして,各自の生きていく能力を身につけることを心掛けさせた,個人主義に根差していたこと」(2)「自然科学系の授業時数が,現在の小学校学習指導要領が定める1.5倍もあったこと」――この2つです。紙風船syakainokobeyaさんのブログです。最近の記事は「「学制発布150周年」~~今年は周年ラッシュイヤ
9月4日は「学制発布」の日。1872年(明治5年)のことです。皆さんも「学制発布」には何となく聞き覚えがあるでしょう。「あぁ日本の子どもが小学校に通うようになったアレね」「義務教育の始まりでしょう」ー-その通りです。内容は広いのですが,一番有名なのは,全国の満6歳以上の男女を小学校に通わせる「義務教育」をはじめたことでしょう。現在も続く学校制度,義務教育制度の根幹が築かれた年です。今回は「学制発布」と明治初めの教育について前編と後編に分けて,それぞれ2つずつ[問題]を紹介し
上杉謙信と「謙信公祭」〜上杉謙信の唐沢山城救援事件〜(オマツリジャパン)-gooニュースgooニュース上杉謙信と「謙信公祭」〜上杉謙信の唐沢山城救援事件〜.(オマツリジャパン).新潟県にゆかりのある戦国武将・上杉謙信。今年、2022年は上越市にて3年ぶり...見どころの石垣、誰が改修?街道を取り込んだ富山の森寺城-Yahoo!ニュースYahoo!ニュース-Yahoo!JAPAN越中三大山城(守山城・松倉城・増山城)を凌駕(りょうが)すると言っても過言ではな
“宇宙(そら)”の和音♪通信/8月2日☆今日は何の日?【学制発布記念日】1872(明治5)年のこの日、学制の趣旨を明記した太政官布告とともに学制(明治5年8月2日太政官第214号)が公布され、日本の近代学校制度が成立しました。このときの教育制度は、下等小学4年、上等小学4年の「4・4制」でした。全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指しました。学制は教育令(明治12年太政官布告第40号)の公布により、1879(明治1
大田市の「石見銀山資料館」がリニューアルオープン-NHK.JPNHK.JP大田市大森町にある「石見銀山資料館」は明治時代の木造の建物を改修して昭和51年に開館しましたが、近くにある観光施設、「石見銀山世界遺産センター」と...近代化で終焉を迎えた「逝きし世」異国の人の目で発見される日本がある-神戸新聞NEXT神戸新聞NEXT歴史家・評論家の渡辺京二氏の著書「逝きし世の面影」(平凡社)をご存知だろうか。徳川後期から明治にかけて日本を訪れた多くの異邦人が日本に.川筋
明治印判「学校」の図小皿明治になって、日本も本格的に教育行政の確立に乗りだしました。明治4年「文部省設置」明治5年「学制」明治12年「教育令」明治13年「改正教育令」明治18年「初代文部大臣」に森有礼就任明治時代の教育行政のトピックスを並べてみるとこの小皿は明治時代初期に作られたものでしょう。学校の先生は「指示棒」を持っています。つい最近まで使っていましたね。今では教室の中も、パソコンやタブレットの登場で「指示棒」を使う機会も減りましたが。机には、「石板」に字を書い
大正十一年当時枢密院顧問官であった九鬼隆一が、学制頒布の頃を書いている。題目は「海外留学生の引上げ」である。これが実に面白い。最初に出てくるのは各藩が送った海外留学生のことではなく、明治になって日本にきた外国人のこと。当時、医学教育を中心としていた東校にきたドイツ人の医師について、その給料を減じたという話である。彼はその時東校の「副長心得」だった。年は22,3歳だったいう。そのくだりを以下に引用しておく(新字体に修正)。「ことにドイツの教員達の我儘は言語道断で、無断欠勤、
先週(8月30日「教育爆発は再来するか」)に続き、日本の教育の歴史について振り返ってみたい。今週は、江戸時代にどういう教育が行われていたのか、現代の教育にどういう示唆があるのか、という点について考えてみよう。江戸時代、幕府の昌平坂学問所や各藩の藩校が武士の教育を、手習塾(寺小屋)や私塾が庶民の教育を担っていた。そして、1872(明治5)年の学制の発布で近代的な学校教育が始まった。江戸時代の教育と学制以降の近代教育には、どういう違いがあるのか。一般には、江戸時代は儒学が中心で観念的だったの対し