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画像お借りいたしました邦を治める二つの道佐藤一斎一日一言邦(くに)を為(おさ)むるの道は、教養の二途(と)に出(い)でず。教(きょう)は乾道(けんどう)なり、父道(ふどう)なり。養は坤道(こんどう)なり、母道(ぼどう)なり。(言178)【訳】国家を治める道は、教と養の二つ以外にはない。教とは、天道であり、父道である。養とは、地道であり、母道である。
私が生まれた翌々年、2番目の孫にあたる私の弟が生まれた。弟は私とは違うタイプでそこそこ学業ができたためにプライドが高く、お鶴おばあちゃんはそこを気にしていたなぁ。幼い頃はひとり遊びが上手な子でした。姉弟仲は良く、今も死別ショック中の私を気にかけてくれています。こうして我が家は、曾祖父母、祖父母、両親、私と弟の8人の大家族になった。いつも笑い声のたえない、賑やかな家庭でした。靖国神社?に参拝に行った時の一枚。白いタイツ…暖かいからと母の好みでよくはかされていた苦笑私は朝、白いタイ
お鶴おばあちゃん、43歳の時、長男が結婚。私の父母の結婚です。長男である私の父は、やんちゃすぎて母であるお鶴おばあちゃんは校長室にも呼ばれて涙したこともあったそうです苦笑それでも可愛くて仕方なかった愛息子。お嫁さんになる私の母は、芸術をお仕事としていました。そんなふたりの恋愛結婚を喜び、新婚旅行から帰ってきたふたりに、「夕食準備してるから、先にふたりでお風呂入っておいでー」とあたたかく迎え、若い姑となったお鶴おばあちゃんでした。結婚式が終わって息子の着替えを手伝うお鶴おばあちゃ
亀吉おじいちゃんは高度成長期という時代背景もあり、脱サラをして会社を経営することにしました。とはいっても、親族や友人で経営する小さな会社。お鶴おばあちゃんは経理も現場仕事も手伝い、従業員の方々の食事も準備して、朝から晩までよく働いていました。そして、母としてはもちろん、嫁として本当によく舅姑さんによく仕えてくれていました。とりわけ私からあたる曾祖母の姑には、髪を結ってあげたり、晩年は一緒にお風呂に入ってあげたり、頼まれ物を買ってあげたり、とにかく真似できないほどの孝養の尽くし方でした。ま
こんばんは職場風土刷新の専門家、長谷川孝幸です親によき物を与へんと思ひてせめてすることなくば一日に二、三度笑みて向へと也日蓮大菩薩これがなかなかできないもの。親だけではなく、近しい人にほどあらためて心情を示すというのは却ってできにくいもの。でも根本的に大事なことです。やってみていますか?やってみようとしていますか?
本日6月28日、本光院で信行会を開催しましたコロナウイルスの影響で、2ヶ月ぶりの開催ですまだまだ参加者は少ないと予想しておりましたが、30名程の多くのご参加があり、正直驚いておりますソーシャルディスタンスがギリギリさて今月は『親を想う』と題し法話をさせていただきました(。-人-。)子供は親の事をいつも気にはしていませんが、親は子供のことをいつも想って下さっています子供の時から今に至るまで、私たちにして下さった
慈烏反哺からすの見方が変わりますね。読み方;じうはんぽ意味;子が親の恩に報いて孝養を尽くすこと。親孝行のたとえ。情け深いからすが幼いときの恩を忘れず、老いた親に口移しで餌えさを与える意から。「慈烏」はからすの異称。からすは、幼いとき親が口移しで餌を与えてくれた恩を忘れず、成長すると親に餌を与えてその恩を返すという。「哺」は口中の食物のこと。出典;梁武帝「孝思賦」句例;慈烏反哺の心を尽くす。
四国霊場第十八番札所・恩山寺に着きました。山号を「母養山(ぼようざん)」といいます。ここは行基菩薩によって開かれたというお寺ですが、弘法大師がここに留まっていたことがあるとの伝説があり、弘法大師のお人柄を表す逸話が残されています。行基菩薩が開いて、弘法大師が来るまでは「大日山福生院密厳寺」という名だったそうですが、ここに弘法大師が逗留していた時に、愛する息子のことが気になったのか、大師の母君の玉依御前(たまよりごぜん)が訪れた。しかし、女人禁制の山だったので入れない。そこで
さて、我々罪人は地獄の一丁目、閻魔大王のまします城の前に送致されて来ました。この城は七層の大城で、周りは鋼鉄の高い塀で囲まれています。その鋼鉄の門が開き、中へ入れられると、いきなり閻魔大王の前に引き出され裁きが始まります。まずは壇茶幢(だんだどう)という書記官が、我々罪人の生前の行いを記録した鉄の札を大王に渡します。(同人頭の壇茶幢)我々罪人を見た閻魔大王の激怒ぶりは『猛悪忿怒の相』というありさまです。大王は『受け難き爪の上の土ほどの貴重な人身を受け、仏法流布の日本に生ま
慈烏反哺読み方;じうはんぽ意味;子が親の恩に報いて孝養を尽くすこと。親孝行のたとえ。情け深いからすが幼いときの恩を忘れず、老いた親に口移しで餌を与える意から。「慈烏」はからすの異称。からすは、幼いとき親が口移しで餌を与えてくれた恩を忘れず、成長すると親に餌を与えてその恩を返すという。「哺」は口中の食物のこと。出典;梁武帝「孝思賦」句例;慈烏反哺の心を尽くす
す「天、何ゆえに我が身を生み出し我れをして果たして何用に供せしむ」と佐藤一斎は述べています。私達は自らは選ぶことのできない宿命の中で生かされています。その宿命を受け入れ、どんな苦難にも立ち向かう姿勢こそが天をも動かし自らの宿命に打ち勝つことができる。そして、生きていることは拝むことであり今日も活かされて生きている。当たり前のことですが生きることが活かされていること。日々に、感謝せずに拝めない人に真の幸福など訪れる訳がないのです。「おかげさまで…」と言う言葉も然り。自分には見えない神仏や先祖
論語全章を読む(33)為政第二23.子游、孝を問う。敬って養う子游(しゆう)、孝を問う。子曰わく、今の孝は是れ能く養うを謂う。犬馬に至るまで皆能く養うあり。敬せずんば何を以って別(わか)たんや。為政第二仮名論語14頁5行目です。伊與田先生の解釈です。子游が孝について尋ねた。先師が答えられた。「今では、親に衣食の不自由をさせないのを孝行というが、犬や馬に至るまで皆よく養っているではないか。敬わなければ、何によって犬や馬と区別しようか」*子游姓は言、名は偃(
【吾輩の墓地である。墓石はまだ無い。笑】4年半前に福山に戻り骨を埋めると、墓地を買った。夏純は母親が歩き辛そうといつも手を繋いで歩いてくれる。感謝。親父の7回忌。兄貴が全部やってくれた。弟の私はこういった事が見事に出来ない(笑)孝養という説法を聴いた。1・衣食を施す。2・意(志)を施す。3・功徳(善行)を施す。7年経っても、目の前にいなくなっても行う事が大切なこと。【お墓にお供えをし、手を合わせ、善き誓いを伝え、報告する】私が週一回している事を渡部住職に言語化して頂きま
ララちゃんが、しまなみ海道の生口島にある耕三寺を訪れ、そこからのレポートをしてくれました。耕三寺は、初代住職・耕三寺耕三が母親の菩提寺として、昭和11年より30年余りをかけて建立した浄土真宗本願寺派の寺院です。境内には桜や蓮、つつじなどの花が咲き、極彩色の堂塔と相俟って、見る人を楽しませてくれるところです。では、ララちゃん、レポートをお願いします。次もお願いします。次は、西の日光といわれる所以の孝養門ですか。日光陽明門の彫刻も素晴らしいですが、この孝養門の彫刻も素晴らし
『風樹の歎(たん)』子供が親に孝行したいと思った時、既に親は無くなっていて、孝養を尽くす事が出来ないと言う歎き。『風樹』は風に揺れ動く樹木の意から転じて、亡き親を思う心の例え。類語;親孝のしたい時分に親はなし石に布団は着せられずfeelingsorryafterit'stoolate(後悔しても遅い)今夜の食事は、キノコ&サ
岡山県津山市の陰陽師道広紀博です!本日、庚申の祓を取り行いました!庚申の祓は、通常、庚申の日に行う祈りです!庚申の神とは、外来の神々から、人びとを守る祈りです!父母に孝養を尽くし、日常生活を安寧に導く祈りです!岡山県津山市の陰陽師がお祈りしました!道広水由羽の画像です!道広琳の画像です!
「天、何ゆえに我が身を生み出し、我れをして果たして何用に供せしむ」と言う教えが言志録にあります。私達は自らは選ぶことのできない宿命の中で生かされています。その宿命を受け入れどんな苦難にも立ち向かう姿勢こそが天をも動かし自らの宿命に打ち勝つことができるのです。そして、生きていることは拝むことであり、今日も生かされて生きている。当たり前のことですが生きることが生かされていることなのです。日々に、感謝せずに拝めない人に真の幸福など訪れる訳がないのです。おかげさまで…と言う言葉も然り、自分に
今日は、お盆が近いこともあり、親鸞聖人の教えられた、心の葬式について、聴聞してきました。「親鸞閉眼せば、賀茂河に入れて魚に与うべし」と常におっしゃっていた、と伝えられています。「私が死ねば、川に捨てて、魚に食べさせてくれよ」と、なぜ言われたのか。言い換えれば、私が死んだら墓も葬式も不要だ、ということになります。遺体や遺骨を大事にし、とむらうのが、肉体の葬式よりも、もっと大事な心の葬式を急ぎなさい、という親鸞聖人の御心なのです。歎異抄5章で、「親鸞は父母の孝養のためとて、念仏一辺にても申した
漢詩花「風樹の嘆(ふうじゅのたん)」とは、故事成語の一つで、「親に孝養をつくそうと思うときにはすでに親が死んでしまっていて、子供の思いをつくすことができない」という嘆きを表わしており、「風樹の悲しみ」「風木の嘆」「風木の悲しみ」ともいわれています。「風樹」と「親孝行」との関連性が分かりにくいため、現在、日本では殆ど使われず、「親孝行したいときには親はなし」という諺に取って変わられています。今回は、この「風樹の嘆」の語源とその用例とをご説明します。「風樹の嘆」は
著者・岡元錬城[日蓮のことば365日]より引用【六月九日】「夫(そ)れ、教主釈尊をば大覚世尊と号したてまつる。世尊と申す尊の一字を高(こう)と申す。高と申す一字は又孝と訓(くん)ずるなり。一切の孝養の人の中に第一の孝養の人なれば世尊とは号し奉る。」[法蓮鈔]943「教主釈尊を大覚世尊と申しあげる。大いなる覚(さと)りを得られて世の人々を覚りに導く尊者である。仏の呼称『世尊』、その尊の一字は『たか』と訓ずるから尊は高、高はまた孝。尊・高・孝、とも
FBのお友達より引用(身延山久遠寺)何時もブログをお読み頂き有り難う御座います。🙇日蓮聖人様の御遺文[回向功徳鈔]最終遍です。お彼岸又はお盆の時だけがご先祖様を想い偲ばせて頂く日ではなく[先祖の血集めて生まれけり]と申されます如く、毎日がどなたかのご先祖様の御命日にあたります。日々「今日命日逮夜に相値う諸精靈」に御回向・御供養を奉らせて頂く事が私達子孫の大事な行いであり役目です。髪の毛一本・指一本全てにおいて、どなたかのご先祖様の血肉を頂いてこの世に生まれ遇わせて頂きました私達一人一
何時もブログをお読み頂き有り難う御座います。🙏今日はお彼岸の中日です。「夫れ彼岸とは春秋の時正の七日、信男信女あって、若し彼の衆善を修して小行を務むれば、生死の此の岸より、苦海の蒼波を凌ぎ、菩提の彼岸に至る時節なり故に此の七日を彼岸と呉す。」と有ります。彼岸と云うのは、血肉を戴いた御父母、又は縁ある人を回向供養して生きている人間が法にそって善根を積ませて戴く日です。「ここに知りんぬ善悪決定の時節なり、二季・時正・此の時に、小善は又大善となるなり」とあります。故にこの彼岸に法華経を持って
FBのお友達より引用〔著者・岡元錬城〕[日蓮のことば365日]より引用させて頂きました。【三月二十一日】譬(たと)えば、若き夫婦等が夫は女(つま)を愛し、女(つま)は夫をいとおしむ程に、父母のゆくへを知らず。父母は衣薄けれども我は閨(ねや)熱し。父母は食せざれども我は腹に飽きぬ。」〔一谷(いちのさわ)入道御書〕(993)「親子の問題、老夫婦と若夫婦の関係をまことに痛烈に批判し、なまなましく論じている。放縦・気ままは古今にわたって変わらぬものか。暖衣飽食の若者たちは親の存在を
FBのお友達より引用〔著者・岡元錬城〕[日蓮のことば365日]より引用させて頂きました。【三月十九日】「一切は(おや)親に随(したが)うべきにてこそ候へども、仏になる道は随わぬが孝養の本(もと)にて候か。」〔兄弟鈔〕(928)「親に孝。世間の常道でありいわゆる常識をこえた大本である、というのが一般見解。にもかかわらず日蓮はその常識を否定した。世俗通途(つうず)の道徳的観念を拒否した。その否定や拒否は常識の破壊ではもとよりない。『佛になる道』・成仏の大道を歩むためにはとの大前提
何時もブログをお読み頂き有り難う御座います。🙇私事ですが今年一月末に母が亡くなりました。先日四十九日の法事を無事務めさせて頂きました。世間では三月(みつき)に跨(また)がるからと言って三十五日で切り上げられたり、葬儀の日に早や初七日の法事を済まされるお姿が多く見受けられます。しかし亡くなられた方にとりましては、仏説に基づいた七日七日の法事はどれ程大事であるかを日蓮聖人様は『回向功徳鈔』の御遺文に此の様にお説き頂いております。【回向功徳鈔】『涅槃経に云く
FBのお友達より引用〔著者・岡元錬城〕【日蓮のことば365日】より引用させて頂きました。【三月十八日】「皆人(みなひと)の思いて候は、父には子従い、臣(しん)は君(きみ)に叶い、弟子は師に違(い)すべからずと云云(うんぬん)。賢き人もいやしき者もしれる事なり。しかれども、主に敵し親をかろしめ師をあなづる、常に見えて候。」〔兵衛志(ひょうえさかん)殿御返事〕(1402)「常識なるものがある。常識が常識たりえずに非常識の非難・顰蹙(ひんしゅく)をかう。それが憫笑(びんしょう)におわ