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斉明天皇元年(655年)一月三日、皇極天皇が飛鳥板蓋宮にて再び即位されました(斉明天皇)。旧暦では昨日が1月3日でしたので、1371年前の昨日ということになります。※古来より何度も改暦がされていますので単純に旧暦にあてはめています。これは史上初の重祚ですが、重祚は後の孝謙天皇が称徳天皇として重祚された2例しかなく、両方とも女帝です。孝徳天皇が即位されたのは、乙巳の変の直後、皇極天皇が史上初の譲位をされたことによるものでした。これ以降光格天皇まで五十四例の譲位が行われています。(北朝
「大化改新」論(三―四)――「狂心の渠」と「前期難波宮」について――一、第二次防衛設備の整備構想(一)必要性唐の侵攻を予測した際、「都」のある本拠地「太宰府」を拠点に戦うことの不利を考え、その主戦場を「瀬戸内海」に引き込むこととした場合、最も重要なことは自らの拠点をそこに置いたままとすることはできない、ということである。「唐」の侵攻に対し、あたかも敗走するかのように見せて、「唐軍」の追撃を誘発させることが必要となろう。これはあたかも、朝鮮半島に
舒明天皇や孝徳天皇がそれぞれ3ヶ月近くも滞在したとされる有間温湯。天皇が長期滞在したということは、妃や皇子皇女、高官たちも一緒に来ていたのでしょうね。今回有馬温泉の事前情報で古代史関係のことはまったくわからず、現地で何か見つかればいいなぁと思っていたのですが、散策途中で天皇が滞在したとされる「杉ケ谷行宮跡」の碑を発見することができました。場所は炭酸泉源のすぐ隣、有馬温泉の中心からははずれた高台です。有馬温泉といえば炭酸せんべいが有名ですが、元々はこの炭酸泉源の炭酸水を使った作られて
昭和21年1月1日(1946年)、「年頭国運振興の詔書」(「新日本建設に関する詔書」)が発布されました。終戦の翌年のことです。終戦後の元気のない日本人を励ますため、昭和天皇が出されたものでした。現在の日本人も励まされる内容だと思いますので、毎年元旦に読みたいものだと思います。通称人間宣言とか言われていますが、いかにそれが見当違いかは、誰でもでご判断できる内容です。この勅書については、その後昭和52年の会見で昭和天皇が次のように語られています。神格とかそういうことは二の問題でした。当時はア
天皇と皇室の歴史を知ると、皇統に生まれたがために悲劇に見舞われた皇子が何人もいます。その中でも有名な皇子の一人が有間皇子です。大化の改新の後は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)の活躍が目立つ時代となっていきますが、その時代に惜しまれ語り継がれたのが孝徳天皇の皇子、有間皇子でした。孝徳天皇の宮、難波宮跡↓大阪歴史博物館から見える難波宮跡公園『すめらぎのお話・・・乙巳の変~大化の改新』歴史をきちんと学びだす中学生の時、最初の印象的な事件と言えば大化の改新のき
以前から疑問に思っていたことがあります。孝徳天皇はなぜ皇位につけたのか、ということです。孝徳天皇は皇極天皇の弟ですが、孝徳天皇の父親は茅渟王(押坂彦人皇子の子)、母は吉備姫王(桜井皇子の女)なので、皇子ではありませんし、親も皇子皇女ではありません。皇極天皇は舒明天皇の妃なので皇位に就くことは可能だと思いますが、いくら実の弟だからと言って、孝徳天皇は皇位を継承できる血筋にはないように思われます。孝徳天皇の妻をみても、あまり有力な士族の妻はいません(間人皇后は皇位についてから妃にな
2025-11-22今日はウォーキングじゃ〜ございません大阪城公園教育の塔お堀これから、移動しますん?タイガースのパレードがあったみたい知ってたら、観に行ったのになぁ〜トコトコ〜大阪商工会議所今日はこちらで講演があります内容はこちら飛鳥時代女帝が翔けた時・日本の夜明けこの講談師の方を観るのは、もう何回目かになります開始20分前で、ほぼ満席でした休憩〜今回は推古天皇皇極天皇持統天皇の3人の女帝のお話面白かったお話の1つ孝徳天皇が難波宮で天皇をしている時
2025-11-17大阪歴史博物館の展示室に来ています前期と後期ってあるね蘇我入鹿を斬った乙巳の変の後、都を難波宮に遷したのが前期なんだろうね〜難波宮は、孝徳天皇(斉明天皇の弟、乙巳の変の時は皇極天皇←後の斉明天皇)とすると、後期は聖武天皇の時かな?とここで、プチ情報中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)の間に女子がいて、3人ともお母さんは皇極(斉明)天皇なんだよね〜この女子、間人皇女(はしひとのひめみこ)ちゃんて言うの。で、夫が孝徳天皇(お母さんの弟)なの。はぃやや
★第三十六代孝徳天皇は飛鳥時代の天皇、(大化の)改新の詔を発した天皇です。御父は敏達天皇の皇子である押坂人大兄皇子の王子茅渟王、御母は欽明天皇の第六皇子である桜井皇子の王女の吉備姫王の第一王子として誕生。同母の姉は舒明天皇の皇后で、舒明天皇崩御後即位された皇極(斉明)天皇です。御名は軽皇子(かるのみこ)。推古天皇四年(596年)生。在位孝徳天皇元年(645年)~白雉五年(654年)。皇極四年(645年)六月、大極殿にて中大兄皇子と中臣鎌子(のちの鎌足)が、蘇我入鹿を誅殺しました。翌日に
11月24日が命日・忌日の有名人・著名人654年(白雉5年10月10日)58歳崩御(暗殺?)孝徳天皇陛下第36代天皇1916年76歳没(?)ハイラム・マキシムさん発明家マキシム機関銃の発明1940年満90歳没(腎盂炎完治後の衰弱)西園寺公望さん第12・14代内閣総理大臣1963年24歳没(暗殺・銃撃)リー・ハーヴェイ・オズワルドさんジョン・F・ケネディ米大統領暗殺の実行犯とされる人物1980年満79歳没(白血病)ジョージ・ラフトさん俳優『暗黒
☆飛鳥稲淵宮殿跡大和国高市郡奈良県高市郡明日香村大字稲渕(域内に駐車可)白雉四年(653年)の第36代孝徳天皇の御世のこと。皇太子(中大兄皇子)が大和に都を遷そう(難波宮から飛鳥宮へ)と進言するも断られました。そこで皇太子は皇祖母尊(スメミオヤノミコト、=譲位後の皇極天皇)と間人皇后(ハシウドコウゴウ)を奉り、一時的に飛鳥の「飛鳥河辺行宮(あすかのかはのべのかりのみや)」に居たと紀に記載があります。平易に言うなら、天皇を置いてけぼりにして勝手に遷そうとした…ということ。皇族や役人等の
お天気もrayの足の調子もイマイチな三連休また百観音温泉かな~と思い用意してたら木曜の夜rayから意外な言葉が飛んで出た長谷寺行って大阪の両親のお墓参りに行こうかな?何故に長谷寺?と思ったけどちょうど12月には父の三回忌になるし遠いのにお墓参りに行ってくれるなんていい旦那様だな~大阪に帰るのはやっぱり車では遠い渋滞箇所が多いのが原因だけど今回も首都高や横浜辺りでの渋滞で途中御在所SAでストップとなりましたここで車中泊するのは初め
昨日のblogタイトル【私達の愛は引き裂かれた??・・w】はクサかったですかね?wwさて本題。私はNHK「歴史探偵」を毎週「ビデオ取り」してます。NHK「ブラタモリ」「知恵泉」もです。皆、歴史や地理についての番組です。年齢と共に「歴史」に興味が湧いて来てます☝️が、残念ながら「集中力欠乏」なんで毎週3本も鑑賞は全然無理です💦タイトル等からよって選別して鑑賞してます☝️で、以前の「歴史探偵」での「大化の改新」は是非鑑賞したかったのです☝️
「閑話休題」(八一)一、令和七年九月三日(水)のNHK放送歴史探偵は「大化改新」であった。冒頭、六四五年の「乙巳の変」から七〇一年の「大宝律令の制定」までを「大化改新」というとの説明があった。従来一般的には六四五年の「改新の詔」をもって「大化改新」と呼び、「乙巳の変」がそれに含まれるかどうかが主な議論の対象であったと小生は理解していた。それ故、この説明には一瞬不思議な感じを受けた。二、番組は、まず「乙巳の変」が「飛鳥宮」で起きたとし、その中心人物は「中大兄皇子」
歴史をきちんと学びだす中学生の時、最初の印象的な事件と言えば大化の改新のきっかけとなる事件で、この印象が強烈だったのは今でも覚えています。これは現在の教科書も同じでしょうか?こうした自虐史観に繋がる教え方が良くないとして、竹田恒泰氏が作られたのが国史教科書です。舒明天皇崩御の頃あたりから、日本の支配下にあった半島では大乱が起きており、後にこの大乱に日本も巻き込まれるのですが、皇極天皇即位の時期、前天皇の崩御や新天皇の即位に伴い、百済・高句麗・新羅の使者が事あるごとに何度も来日、来朝してまし
西暦645年にあった出来事は?・・・学校の社会科や歴史のテストにこんな問題が出題された記憶、皆さんにもあるでしょう。そう、正解は『大化の改新』。実はこの年、もう一つ画期的な事があったのです。それは、日本で初めて大化という〝元号〟が制定されたということ。それ以前にはなかったんですって。😲ヘェ~日本書紀には「天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年とす」と記され、今から1380年前の今日・皇極天皇4(西暦645)年6月19日の孝徳天皇即位の時から
笑顔創造って、エーちゃうん!のエーちゃんです。大阪城の近くに行ったら大阪に古都があったこと初めて知りました。難波宮跡難波宮跡·大阪市,大阪府Googleマップで地図を検索。乗換案内、路線図、ドライブルート、ストリートビューも。見やすい地図でお店やサービス、地域の情報を検索できます。世界地図も日本語で、旅のプランにも便利。maps.app.goo.glほんまかいなぁ。都までつくっちゃった?滋賀県にも幻の都ありましたけど紫香楽は遺跡が見つかり幻の都ではなくなりました。
「3歴代ノ天皇(その36)」今日は、足利基氏みなさん、おはようございますオールドメディアを見ていると今日からGWゴールデンウイークが始まるようだ政治家の多くは外遊するらしいこんな国家で良いのだろうかもうだまされません日本の暦に沿って国家のために生きましょうウキウキ卯月四月!先人の智慧こそ大切にしたいものです笑顔で楽しく國史を学び家族の教育力向上ご自身の向上にお役に立てれば幸いですコメントお待ちしています!4月26日は鎌倉公方
難波宮♪↑戦後教育の僕らの世代は小中学校で飛鳥時代→奈良時代→平安時代で都は平城京→平安京としか教科書には書かれていなかったので…難波宮なんてモノは日本書紀に書かれている妄想か空想みたいな取り扱いでした(怒)↑試験には絶対出なかった(笑)↑本日の画像は難波宮跡地に難波宮跡公園としてこの春オープンした『なのにわ』♪ホテル1棟と13の飲食店ブースが新しく開業しました…飛鳥時代♪↑この奈良時代の前…飛鳥時代としては
「大化改新」論(一)一,「改新の詔」及びその前後の「詔」(一)大化元年八月五日,東国の国司等に対し「詔」を発している。翌二年正月に「改新の詔」が発せられた。同年三月二日には再び東国の国司等に対し「詔」が発せられ,同月十九日に東国の朝集使等に対し「詔」が発せられている。二,「詔」が原詔のままかを疑問視する見解『この「日本書紀」所載の詔がはたして当時のものそのままであるかどうかには疑わしいところがある。なぜなら,詔の四項目をよくみてみると,はじめに
*皇統断絶後の儒教摂取*母親非皇族の古代天皇の仏教・記紀依存*天智系の世界観1~3*天武系の世界観*皇統分裂2~後南朝~・~・~歴代天皇131人中(126代+北朝5代)、天皇経験者からの男系の血筋は、5世孫が継体天皇(26代)の1人のみ、玄孫(やしゃご)がおらず、ヒ孫が皇極=斉明(35・37代)・孝徳(36代)・後花園(102代)・光格(119代)の5天皇4人で、他の全員が、子か孫の皇位継承です。私は以前、継体以降の6~8世紀は、天皇の父と母の両方の血統が、皇族かどうか、意
中学生むけ歴史参考書「大化の改新」の項に、こうあります。「645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)、中臣鎌足らが、蘇我氏をたおし、大化の改新と呼ばれる政治改革を進める」中学生向けの、まとめ要約ですから、ざっくりしすぎてるのは、仕方ないんですけど。蘇我氏をたおし、というけど、蘇我一族が全滅したわけではありませんし、そもそも蘇我氏は氏族として団結して戦ったわけでもありません。このとき権力を握っていたのは、蘇我蝦夷・入鹿の親子です(蘇我本宗家、と呼ばれます)。そこで、この二人を
「乙巳の変」論考(四)一,蘇我倉山田石川麻呂の右大臣登用孝徳大化四年夏四月条に「古き冠を罷む。左右大臣,猶古き冠を著る。」との記述がある。余り論じられることのない記事であるが,これについて吉村武彦氏が,次のような見解を述べている。『六四八(大化四年)四月,古冠(推古朝の冠位十二階制)をやめ,前年に決められた七色十三階の冠制を施行した。しかし,(右大臣蘇我倉山田)石川麻呂は左大臣阿倍内麻呂(倉梯麻呂)とともに,古い冠を着けた。左右大臣は,新たな孝徳朝の冠位制の秩
斉明天皇元年(655年)一月三日、皇極天皇が飛鳥板蓋宮にて再び即位されました(斉明天皇)。旧暦では本日は1月3日ですので1370年前の本日ということになります。※古来より何度も改暦がされていますので単純に旧暦にあてはめています。これは史上初の重祚ですが、重祚は後の孝謙天皇が称徳天皇として重祚された2例しかなく、両方とも女帝です。孝徳天皇が即位されたのは、乙巳の変の直後、皇極天皇が史上初の譲位をされたことによるものでした。これ以降光格天皇まで五十四例の譲位が行われています。(北朝は除
豊崎神社からは久し振りにバスに乗って梅田まで出ようかなこの辺りも少しづつ変わってきてますねJR西日本高速バスの営業所があった場所が発掘調査中でした伝承では孝徳天皇の都として難波長柄豊崎宮がこの地にあり遷都後永く荒れた状態であったのを後の一条天皇が嘆き豊崎神社を創建させたとのこと一条天皇は大河ドラマ『光る君へ』での登場人物ですねでも難波宮はもっと南の大阪城の近くにあったとされてますそれでも長柄、豊崎と地名もあり何かしら縁があり遺構も残ってるのかもせれませんねそんなことを思いなが
2025年(乙巳)、当ブログの最初の古代史の記事のタイトルは、乙巳の変→大化改新乙巳の変と大化改新が最近の教科書ではどう記されているか、を確認しすることから始めようと思う。【大化改新の教科書の記述】(山川出版社、『日本史B書きこみ教科書詳説日本史改訂版』、2009年第1版第5刷から)大化改新「7世紀半ばに唐が高句麗に侵攻を始めると、緊張のなかで周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。倭では蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄皇子を滅ぼして権
【2025年の干支は「乙巳」】乙巳と言えばすぐに思い起こされるのは「乙巳の変」。2025年は645年乙巳の1380年後に当たる。中学・高校時代の社会科の授業では「大化改新」と習った。【「乙巳の変」と「大化改新」】現在の教科書では「乙巳の変」と「大化改新」は分けて記されているという。中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を成敗したのが「大化改新」であるとずっと思っていたが、事件そのものは「乙巳の変」と呼ばれるようになった。日本書紀には皇極四年六月十二日条に記されている。十三日条には
天皇と皇室の歴史を知ると、皇統に生まれたがために悲劇に見舞われた皇子が何人もいます。その中でも有名な皇子の一人が有間皇子です。大化の改新の後は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)の活躍が目立つ時代となっていきますが、その時代に惜しまれ語り継がれたのが孝徳天皇の皇子、有間皇子でした。孝徳天皇の宮、難波宮跡↓大阪歴史博物館から見える難波宮跡公園『すめらぎのお話・・・乙巳の変』歴史をきちんと学びだす中学生の時、最初の印象的な事件と言えば大化の改新のきっかけとな
★第三十六代孝徳天皇は飛鳥時代の天皇、(大化の)改新の詔を発した天皇です。御父は敏達天皇の皇子である押坂人大兄皇子の王子茅渟王、御母は欽明天皇の第六皇子である桜井皇子の王女の吉備姫王の第一王子として誕生。同母の姉は皇極(斉明)天皇です。御名は軽皇子(かるのみこ)。推古天皇四年(596年)生。在位孝徳天皇元年(645年)~白雉五年(654年)。皇極四年(645年)六月、大極殿にて中大兄皇子と中臣鎌子(のちの鎌足)が、蘇我入鹿を誅殺しました。翌日にはその父の蝦夷も自害(乙巳の変)し、翌翌日