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中学の数学で、ゼロやマイナスの世界が登場しますが、ゼロの考え方にハッとしました。ゼロ(空)の中にプラスもマイナスも(陰陽)すべてがある。ゼロはすべてですべてはゼロ。中1数学、恐るべし。私の中1時代には「マイナスとマイナスはプラスになる」と暗号のようなルールを覚え、意味など考えずにひたすらルールに沿って計算問題をこなした記憶があります。「マイナスを引く」概念に、こんな風に出会いたかったな!今出会ったから万事OKだけど!!埋め
私たちは、気づいたときは「今ここ」ということを本当は知っています、、それが、いつどこであろうと、目の前が雨の日だろうと、晴れであろうと、曇りであろうと、、映っているのが、真夜中でも朝でも夕方でも、そこが自宅でも、職場でも、海外でも、なんとかの聖地でも、、泣いていても、笑っていても、怒っているときでも、、私たちがふと気づいてみると、、そこはいつどんなときでも、「今ここ」以外であったことは一度としてないのです、、もちろん、こうも言えます、、気づいてい
というわけで、久々に聞いたLovesosweetとは、とある替え歌マスターの手により、「今」sosweetにすり替わってしまった件、、( ̄ー ̄)ノ今ここ、ずっとずっと、忘れない空、、( ̄O ̄)ノというわけで、時期36です、さりげなくカウントダウンを刻みます、、笑がしかし、、35であるらしい今の時分と、36になってから感じるであろう存在の感覚というものに、、果たして一体全体、、何か「変わる」ということがあるのでしょうか、、
さて、悟り系のメッセージでは、耳にたこができるほどに、、笑今ここ、今ここ、今ここ、、と繰り返されます、、あまりに良く耳にするものだからと、私たちの中には、あまりその言葉の「方角」を改めて見ようとしないということももしかしたら在るのかもしれません、、というわけで、基本に立ち返って、、今日は今ここを感じてみましょう、、さて、今の今、たった今、あなたはどこに居ますか、、「今ここに居ます」では、これからその場を立って、、例えば、階段へと向かい
晴れの日今ここ、雪の日今ここ、、休日今ここ、平日今ここ、、春でも今ここ、真冬も今ここ、、運転中今ここ、瞑想中今ここ、、インドも今ここ、自宅も今ここ、、旅先今ここ、職場も今ここ、、良い気分今ここ、悪い気分今ここ、、というわけで、私たちは、、相対的には、違って見える「見かけの世界」の中で、、全くもって、同じ世界に生きています、、それが、今ここという疑いようのないリアリティです、、
二元的な、一般的な感覚では、、私たちは、「誰か」であり、社会的に何らかの役割を担った、「何者」かであるという認識は当然ながら誰しもあるでしょう、、IAM名前IAM性別IAM職業IAM性格IAMIN都道府県IAMIN職場IAMIN自宅こうした、「誰か」や「何か」や「特定のどこか」といった様々な「区切り」で、私という存在を限定的にとらえ、そうして固定化された「モノ
毎日のふとした時、、気づいてみると、、決まってそこは、今ここであるということ、、運転中、ふと気づいてみると、、そこは今ここ、、職場に着いて、またふと気づいてみると、やはりそこも今ここ、、合間合間にふと気づく、、結局そこでもいつも今ここがあるだけ、、仕事を終えて帰路に着く、、我が家に戻るとやはり気づく、、また今ここだ、、おそらく、これが途切れることはこの先もずっとないだろうと察しが着く、、というよりもはや、、
私たちは、どこに居ても何をしていても、「今」から離れることはできません、、思考がはるか遠くの過去や未来、「今ここ」にはない記憶や理想などで意識がまやかされているときであっても、、私たちが、「今」以外に存在するということはどうしたってできないのです、、なぜなら、存在(の真理)そのものが「今」であり、私たちの正体が究極的には「今」だからです、、ですから、「今を生きる」というのは、取り組まなければならない指示というよりは、、
猛烈な暑さに解け(溶けww)去りながら、麦わらのハリーは休日を利用して夏野菜をモリモリ栽培中です、、いろいろな野菜を栽培する中で、、ほんと私たちそのものとも言える野菜さんたちの姿にホホー!と感嘆する時分もあったりします、、例えとして、きゅうりやナスやピーマンやスイカなどは、、当然ながら、「一つの根っこ」を源泉として様々に枝分かれをして、見かけの上での「個」としての形を成しているわけで、、またその形も、凹凸や大きさ、色合いなど、様