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京都へ先日、久しぶりに京都を訪れました。目的は仙洞御所と桂離宮の見学です。仙洞御所は京都御所の東南に隣接する、上皇のお住まいです。建物の多くは嘉永7年(1854)の火災で焼失したままで再建されていませんが、美しい庭園は必見の価値があります。桂離宮は教科書でもおなじみの日本を代表する名建築で、庭園の美しさでも有名です。いずれも事前に宮内庁に申し込んでおき、当日は職員の方のガイドで園内を参観します(所要時間は各1時間)。暑さと体力を考え、午前11時から京都御苑内
名古屋のシンゾウですテキストや過去問題を読み上げてくれるソフトがあれば便利だと思いませんか。Excelにも読み上げ機能があるのですが、どうしてもIME辞書との連携が出来ず、正確な読み上げを期待するのは難しいようです。さらに、その読み上げを音声ファイル(例えばmp3ファイル)に記録することが出来ません。結果、めんどうなので使わない方が良いでしょう。では、どうすれば良いのでしょうか。勿論、高価なソフトは対象外です。私は「かんたんAitalk3」を使っていますが、京都特有の漢字は、殆どが
名古屋のシンゾウです年金収入しか無い私も、県(市)民税の申告に行かなければなりません。控除額が収入額を上回っていますので、県(市)民税は最低額なのです。しかし、国民保険の年間支払い額を決めるためにも必要な申告なのです。それでも老人には、この申請作業は結構なプレッシャーになります。パソコンで該当金額を入金し、プリントアウトして、関係書類をチェックして終わりです。2時間ぐらいの作業になります。(毎年、入力方法を忘れていますので、大変な作業になります。情けない!!)少し、緊張気味に税務署の担当
烏丸通の最北に面した乾御門は、幕末の頃には現在よりも東に入った京都御所西大通の辻の位置にあった。門を入るとすぐに御所の北西角の築地塀が見え、その北外壁を東に進むと朔平門と鬼門の猿ヶ辻がある。上の写真は乾御門からの目線で、御所北西角と北の築地塀が東へ延びる。左側に近衞邸、右手前(南西)が一条邸の築地塀があった。左が御所、右の森に一条邸があり、乾御門はこの右端辺りにあった乾御門・御
名古屋のシンゾウです祗園祭の山鉾巡行が中止になるそうです。現状ではとても実施は無理でしょう。となると、「五山の送り火」、「時代祭」等々.......全滅ですね。一体どうなるんでしょうか。全く予想がつきません。最初は、コロナを軽く考えていた私でしたが、最近では日増しに迫ってくる恐怖から逃れられません。―――――――――――――本日の問題(69)本日の問題です。()内はヒントですが、必要最小限に留め、難易度を高めています。どうですか?問題数が増えて、過去分と重複する場合がありま
久しぶりに温泉いきましたー!バレンタイン関係ないけどー(笑)打合せもいろいろあってちょこっと買い物もしてアイスクリームも食べました!いえーい注文していた本も届いたのでゴキゲンですさて本日は「現代日本の礎をつくった偉人たち」の動画から姉小路公知あねこうじきんとも1839-1863をイメージして「変」を揮毫した動画をごらんください三条実美と並ぶ尊攘急進派として幕府への攘夷督促孝明天皇の加茂社行幸などを推進朝廷内に
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。この数回、文久三年(1863年)春から夏にかけての勝の行動とこの年に起きる様々な動きについてお伝えしています。この時期は勝の周辺で多くの事件が起き、それに伴う目まぐるしい動きがあります。そのため毎回何をどのように掬い上げ、どう整理し、どんな記述の仕方をすればわかりやすく伝わるのか、頭を悩ませ続けています。今回も悪戦苦闘の投
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。いつもお読みいただきありがとうございます。【離京できない将軍と後見職】前回に続き、文久三年(1863年)の動きのお話です。勝が龍馬と共に帰阪した頃、将軍家茂と慶喜はまだ京から離れられずにいました。江戸に戻るにも朝廷の許可を下りないと動けない日々が続いていました。慶喜と在京の幕府幹部は将軍を一日も早く江戸に帰らせようと躍起になっていました。石清水八幡宮で
こんにちは、皆さん。勝海舟の生涯から自分軸を持ち他人に影響されない生き方の大切さをお伝えする歴史大好き社労士の山路貞善です。毎日ホントに暑いですね。連日の猛暑で体調を崩されていないでしょうか。どうか体調にはくれぐれもお氣をつけください。さて昨年1月から始めた当ブログも今回で第100話を迎えることになりました。色々な読み方があると思いますが、まずはお読みくださっている皆様に心から感謝いたします。果たして読んでくれる方がいるだろうか。そんな不安から最初の投稿を発信する時にはマウスをつ
文久三年五月二十日夜、田中新兵衛ら三人の刺客は御所朔平門外猿ヶ辻に尊攘派公卿姉小路公知を襲撃しました。姉小路卿の従者金輪勇は太刀を持ったまま逃走し、姉小路卿を守るのは若干十九歳の吉村右京ただ一人となってしまいました。また金輪勇に太刀を持ち去られてしまった姉小路卿は、やむなく手に持っていた扇子で応戦せざるを得ませんでした。新兵衛は姉小路卿に激しく斬りつけましたが、武術の心得のあった卿は、ひるまずに新兵衛の刀を素手で掴み、奪い取ろうとしたといいます。そうして揉み合っている間に、吉村
くろだにさんからの浄土宗つながりで、京都御苑に隣接する清浄華院に来ました。清浄華院は「しょうじょうけいん」と読みます。この寺院ですが、他の寺院のように●●山▲▲寺という言い方をしません。というのも、法然上人が後白河天皇、後鳥羽天皇、高倉天皇の三天皇に授戒した功績により下賜された寺院であり、皇室の帰依が厚かったことから、「山号・寺号」がない珍しいお寺なのです。浄土宗七大本山の一つでもあります。この清浄華院には、タイトルにも書きましたように象が宿泊しました。享保14年(1729年)4月の
文久3年(1863)5月20日、姉小路公知が、京都御所の猿ヶ辻で暗殺されました。享年26歳。当時の朝廷は、開国を進める幕府に寄った開国派と、長州藩に寄った攘夷派の公家が争っていた時期でしたが、公知は攘夷派の急先鋒とも目されていた人物でした。この頃の京都では、安政の大獄に関与した人物や、幕府に近い人物を中心に暗殺される天誅事件があちらこちらで起こっていましたが、その被害者のほとんどは洛中といえども人目につきにくい場所や、被害者の屋敷などだったのですが、姉小路公知は右近衛少将で国事参政という身分