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2024-03-11今日は3.11。あの東日本大震災から13年目の日。今年は元旦から能登大地震があり、多くの人が13年目の13という数字に反応していることでしょう。さらに、先週わずか68歳で旅立たれた世界的漫画家鳥山明氏や、ちびまる子ちゃんのタラコちゃんの声優の方が63歳でが亡くなられました。鳥山氏の代表作は、Dr.スランプやドラゴンボールで、奇しくも辰年の今年に逝かれたのは、ドラゴンボール=如意宝珠と呼ばれる珠の行方に意味をもたらすところ。如意宝珠は仏教での「何でも叶う玉」の意味があり
秋晴れのいい日和に・・・10月18日(水曜日)兵庫県西宮市にある真言宗御室派神呪寺(かんのうじ)『開創1192年の記念法会』のご招待を受けました突然、なぜだ!?と思いつつ・・・(笑)私が如意輪観音さまが大好き!だという気持ちが伝わったのかな!そして、・・・良かった!日程が空いてた!!!ということで、返信ハガキの出席に○をして参列させていただきましたあ、ちなみに私は真言宗でも、何宗でもなく、ただの人です!!!なのにご招待いただけて、感謝の気持ちで
公式ブログをはじめました。現在は、過去記事のアーカイブをおこなっています。(2018/10/21)兵庫県西宮市にある神呪寺(かんのうじ)へ行ってきました。甲山(かぶとやま)の麓にある真言宗のお寺です。甲山は廣田(ひろた)神社の神体山であり神山(こうのやま・かんのやま)と呼ばれていたそうですがそんな神の山にある寺ということで神の寺(かんのじ)と呼んでいたのが神呪寺(かんのうじ・感応寺)となったようです。↓つづきはこちらからお願いします。
天女のお話丹後国の風土記に曰く丹後国丹波の郡群家の西北の隅の方に比治の里ありこの里の比治山の頂に池があり其の名を真奈井と云ふ今はすでに沼となれりこの井に天女八人降りて来て水浴みき...そこに和奈佐という名の老夫婦が現われ密かに一人の天女の衣装を取り隠す天女たちは天に飛び上がってしまったが衣装を隠された天女だけ人間界にとり残され老夫婦のいうままに娘となって十年を暮らす天女は酒造りが上手く一杯飲めば万病に効く酒を造り機織りも教え家はたちまち裕福になる
先日、兵庫県西宮市の神呪寺(かんのうじ)の山門に安置されてある「増長天」と「広目天」、そして本堂横にある「撫仏」について紹介した。自宅から車で15分ほどの寺院なのだが、先日の参拝が初めてだった。平日でも参拝者が絶えないほどの寺院である。甲山の山麓にあり、通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれ、新西国三十三箇所第21番札所の他に3札所としての役割をもつ。スピリチュアル的な要素が感じられる寺院として存在感を示す。山号は「武庫山」で、本尊は如意輪観世音菩薩坐像(重要文化財/秘仏)。大阪府河内長野市
この地球はねまだたくさんの可能性を持っている星なんだよ地球はねこれから確実にニンゲンにとって住みやすい地球になっていくそれは心が安らぎひとつだった時を思い出すとき自分の宇宙すべてから恐怖と怒りが消えるときにこの星はねたくさんの愛でできていてまたあなたもたくさん愛されてたことを思い出すんだよ。子どもの声で音が聞こえる春も近づき、ぼちぼちとリトリートやツアーをしていきます。2/17甲山神呪寺リトリート参加費6000エン集合11時甲山大師(バス停)
✡✨✨【御四国】🍁【真名井御前】『甲山の神呪寺』兵庫県の南東、西宮市の北に、お椀を伏せたようなころんと丸みを帯びた美しい低山があります。『甲山』(かぶとやま)と呼ばれ地元の人たちに親しまれている山で、現在山の中腹には『甲山大師』とも言われる『真言宗』の古刹・『神呪寺』(かんのうじ)がありますが、この山は寺の創建以前から聖なる山として信仰されてきた霊山でした。現在『甲山』から南に三キロほどのところに「廣田神社」が鎮座しています。『日本書紀』に、神功皇后が『三韓征伐』からの帰
✡✨✨【御四国】🍁【真名井御前】『融通観音大祭』『日本三大如意輪』のひとつとして知られる『神呪寺』の秘仏本尊『如意輪観音坐像』は毎年5月18日のみの御開帳です。『淳和天皇勅願所』淳和天皇!!。。。『地蔵堂』『延命地蔵菩薩』いろいろある!!。。『子育地蔵尊』『高雄地蔵大菩薩』『本堂』『淳和天皇聖跡』『お賽銭箱』です。。💰日本三体重要文化財秘佛如意輪融通観世音菩薩【御真言】「おんあらたんのうまにばざらたらく」如意輪融通観世音菩薩
✡✨✨【御四国】🍁【真名井御前】『淳和天皇』(じゅんなてんのう、786年〈延暦5年〉-840年6月11日〈承和7年5月8日〉)は、日本の第53代天皇(在位:823年5月29日〈弘仁14年4月16日〉-833年3月22日〈天長10年2月28日〉)。【諱】は大伴(おおとも)。『西院帝』ともいう。『大伴』。。。https://ssecret.ameba.jp/1994199820022006/amemberentry-12409997006.html?frm=amemb
神呪寺(かんのうじ)は西宮市の甲山の中腹の位置にある。天長七年(830年)に弘法大師が開祖・如意尼の姿を写して如意輪観音像を桜の木に刻まれたとされている。この如意輪観音を御本尊とし、天長八年(831年)10月18日に、弘法大師を導師に迎えて、本堂が落慶した。淳和天皇の妃・真井御前は、当地で三年間の修行を経て、弘法大師より剃髪を受け、如意尼という僧名を授かった。そして数年後、当地に淳和天皇が行幸され、如意尼と相見えられたと伝えられている。鎌倉時代初期に源頼朝により再興されたが、その後、戦国時代
六甲比命神社の参拝を終えて、そのまま六甲の稜線を辿って、甲山の神呪寺へ。こちらも大好きな場所です途中の景色。雲が綺麗でした。甲山の山容を見ると、なぜかすごく心が揺れます。この下の門は現在改修中でした。空海さまと如意尼さまにお祈りこちらでもゆっくり和ませてもらってたら、長谷川章子さんの光旅ご一行と遭遇して、ちょっと得した気分皆さんキラキラ度半端ないな〜って思いながら見ておりました。
西宮巡拝記①~序~はこちら西宮巡拝記②~西宮神社~はこちら西宮巡拝記③~廣田神社~はこちら【甲山大師神呪寺(かんのうじ)】兵庫県西宮市甲山町阪神電車西宮駅北口より阪神バス鷲林寺循環線乗車、甲山大師前停甲山西暦190年頃、神功皇后が平和を祈願し金の兜を埋めたと伝えられ、また、山の形が兜に似ているところから、この名がつけられたと言われています。高さは海抜309m。その中腹にある神呪寺は、海抜約200mに位置します。神呪寺天長8年(831年)10月18
ウエサク満月を挟んだ5月の18、19日は、自分にとってとても大切な二日間となりました。まず、5月18日は、年に一度だけ神呪寺の如意輪観音様がご開帳になる日ということで、早起きして仕事前にお参りしてきました✨✨6時前に出て、めちゃ順調に進んで7時過ぎには到着。この甲山の山影はいつ見ても心がトキメキます。土曜日という事もあってか、早朝からかなりの賑わい‼️外から軽くお参りして、御朱印をいただいてから、昇殿してゆっくりと参拝。空海
昨日、如意尼と紫雲篋について書きましたが、“空海と真井御前(如意尼)に就いて”の中で宮司海部光彦氏も如意尼がお持ちであった紫雲篋について書いておられます。さて真井御前は、昔一の篋を秘蔵していたと云う。曽って天長元年(八二四)、天下が大旱の時、弘法大師は守敏僧都と法力を競う事となったが、その時大師はこの篋を真井御前から与えられ、是に依って秘法を修し、広く天下に雨を降らしたと伝えられる。さてその篋には當然秘密の珠が入っていた事であろう。果たしてその珠とは何であろうか、佛教の如意宝珠なら
私は、真井御前、如意尼が好きで、如意尼と空海の御関係に憧れているので、如意尼についてブログで紹介してきました。浦島子と神女のお話といえば、玉匣ですが、如意尼も御篋をお持ちであった事を思い出しました。そしてその御篋がなんと“紫雲篋”実は、「浦島子伝」(古事談)に時に神女を慕ひ、彼の与ふる所の玉匣を開くに紫雲匣より出で、起ち上りて、西を指して飛び去り了りぬと云々とあります。昨日紹介した「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」に宮司海部光彦氏の“空海と真井御前(如意尼)に就い
実家は真言宗のお寺に代々お世話になっていて、父方の祖母が信仰心の厚い人だったのもあり、私は小さい頃から「空海(以下、お大師さんと書きます)は特別な人なんだろうな。すごい人なんだろうな」となんとなく思っていました。かといって、私自身が熱心に信仰してきたかというとそうでもなかったのですが、なのに大学生の頃に「私も室戸岬に行って修行しなければ」となぜか強く思ったり、その後も折に触れて「お遍路に行きたい」と思ったり、「高野山は今の私のままではまだ行けないな」などと思ったり、そういう意味でとても特別
1/20(日)のこと。前日に大阪の太融寺で引いたおみくじのことが後を引いて気分がどよ〜んとしていたので、「鐘をついてこよう!」と、西宮の神呪寺へ。雨はなんとか上がっていたが、雲が一面にかかっている。神呪寺は、831年、弘法大師を導師に迎えて本堂が落慶。その同じ日に、淳和天皇の妃の眞井御前が大師より剃髪を受け、如意尼という僧名を授かる。弘法大師が、如意尼の姿を写して彫った如意輪観音坐像がご本尊であるが、秘仏の為、拝観できるのは5月18日の融通観音大祭のみ。(のはず)以前見たとき、頬杖を
昨日に引き続き如意尼について書きたいと思います。元亨釈書によると如意尼は弁財天のお告げによると官女二人を連れ、南宮神祠、広田神祠を詣でられたとのことです。また、如意尼は一つの篋を秘蔵しておられ、浦島子が、その篋は紫雲篋と言う。と言われたとのことです。何故、如意尼は篋を秘蔵しておられたのか又、何故浦島子がその篋を御存じだったのか私は、以前姫神との契と題したブログに浦島子が市杵島姫命から篋を授かった由緒、伝承を紹介しました。浦島子が如意尼の篋を御存じだったとい
私は、度々申し上げている通り、小椋一葉さんを尊敬しています。小椋さんの「箸墓の歌」を今読み直していますが、小椋さんは、この本の中で清龍権現、如意輪観音を豊受姫大神のことと解しておられます。小椋さんは御著書「空海はどこから来たのか」の中でも如意輪観音を豊受姫大神のことと解しておられます。また天女は豊受姫大神の代名詞とも書いておられます。梅原猛さんが御著書「京都発見」の中で、空海上人の恋人とまで書いておられる如意尼。空海上人は如意尼の姿を如意輪観音として刻まれたとの
今日は急に思い立って東寺さんにお参り。先週18日に神呪寺で如意尼さんにお会いしてきましたので、空海様にもご挨拶しておこうと思って。たまたま今日は21日のご縁日で、「こうぼさん」こと弘法市が出る日でありまして、境内もう人でいっぱい😄。こうぼさん、子供の頃はよく来てたけど、数年ぶりになるかな。東寺さんは現在本堂である御影堂が大規模な改修中でして、空海さまの尊像は大日堂に移されております。大日堂通常は秘仏なのですが、21日は終日開扉されているはず。丁度着いた
今日は、厳島大明神と平清盛について書く予定でした。今、梅原猛氏の京都発見を読んでいるのですが、その中に聖徳太子と六角堂という項があり、その中に六角堂は聖徳太子のお造りになった寺である。聖徳太子は少年だった頃、淡路の海に遊びに行った。その時、海の向こうから一つの箱が流れて来た。これを取って開いてみると黄金の一寸八分の如意輪観音の像が出てきた。それで彼はその仏を持仏として祀り、その身から離さなかった。とありました。如意輪観音は弁財天、市杵島姫命と御同神
昨日の空海上人の御命日までは空海上人に関する本を読んで過ごそうと思っていましたが、今日梅原猛さんの空海の思想を読み終えました。梅原さんは御著書京都発見の中で、はっきりと如意尼の事を空海の恋人と書いておられました。私は、空海上人と如意尼の御関係に惹かれて色々と本を読んできましたが、小椋一葉さんの空海はどこから来たのか以上に詳しく書いてある本とは出会いませんでした。天満宮様の御帰幽日になぜが空海上人の本を注文し、水位先生の御帰日に本が到着しました。所功さんの本で空海上人の夢告
如意尼と空海上人の御関係に憧れ如意尼について書きてきました。この如意尼にお仕えした女官のことが宮地厳夫先生の「本朝神仙記傳」に武庫山女仙として掲載されていますので、今日はそのお話をご紹介します。小野民部少輔という方がある春うららかな日差しに誘われて武庫山に至り、見渡せばすみの江遠しむこ山の浦づたいして出る舟人と詠じて、谷を渡り茂みの中に入ります。すると廿歳あまりの身に木の葉を纏ったどことなく品のある女性と出会います。民部はあやしんで「貴女はどうしてこ
今日は、如意尼にお仕えした官女のお話をしようと思っていたのですが、梅原猛氏「京都発見四」を読んでいると、浦島太郎は冠島の弁財天信仰と結びつき弁財天と夫婦という縁起もあるという。と書かれていました。べ、弁財天様とふ、夫婦私は市杵島姫大神に帰依しています。一目姫大神の御姿を拝したい。市杵島姫大神から最も愛された男と言われたい。そう思って日々神拝を重ねている私としては、この事を書かずにはおれません。私は何故か丹後国風土記の天の椅立、浦島子、奈具社が好きです。確
如意尼と空海上人の御関係に憧れ、梅原猛氏の「京都発見四」を読んでいます。「元亨釈書」に如意尼は沐浴せざれども體垢なく、天香自然にして薫染を用いずとあるそうです。また「丹後旧事記」にむかし京師の沙門倉橋川の邊を徘徊せるに川水ゑならず匂ひければ怪しみ流を傳ひ一村に至るに香気ますます盛んなれば里民に問さとの者の曰く此村の貧家に子なきものあり天に祈りて一人の女子を得る此子生まれ落ちると此邊薫し渡事三里四方なり誠に類なき美小子兒なりとあるそうです。どれだけ奇麗なお姫様だったの
小椋一葉さんが「空海はどこから来たのか」の中で、「元亨釋書」の如意尼の伝承を記しておられます。如意尼は淳和帝の次妃。丹州余佐郷の人。十歳のとき、都に入り、常に如意輪観音霊場に詣でていた。弘仁13年帝が霊夢を得て頂法寺へ使者を派遣して彼女を見出し、第四妃として迎えた。沐浴せざるとも自然の香がただよっていたという。妃は帝の寵愛を一身に集めたが、天長5年2月侍女2人を連れて宮中を出奔、西宮の如意輪摩尼峰を目指し摂州に赴く。舟で摂州南浜に着くと南宮に着くと南宮神
・・・弁才天を探して番外編如意尼淳和天皇の妃であった真名井御前は出家して空海さんから如意尼という法名をいただいた甲山(六甲山)に摩尼山・神呪寺を開基したと伝えられている生まれたときから霊的能力が高かったと思われます・・・<丹後に伝わる民話から>
弁才天さんを探して10京都府与謝郡伊根町に浦嶋神社があります由緒「かつては宇良神社(うらのかむやしろ)祭神は浦島子(浦島太郎)創記は淳和天皇の天長二年(825年)浦島子を筒川大明神として祀った浦島子は日下部首等の祖先に当たる日下部氏は「新撰姓氏録」によると「日下部宿
弁才天さんをさがして94月27日の「六甲姫神社」の記事からずいぶん間が開いてしまいました三峯神社に行って(三峯神社の記事も書き終えていないし・・・)その後も修行の旅に行きました六甲姫神社からの続きを綴っていきます六甲山の摩尼山・神呪寺(かんのうじ)兵庫
神呪寺に行ったら、やはり鷲林寺は外せないのでは…と思い車を走らせました。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~鷲林寺は、淳和天皇の勅願にて空海さまにより開創されたお寺です。観音霊場を開こうと、空海さまはその地を求め旅をしていました。廣田神社に宿泊していた時、夢に仙人が現れてこの地を示されます。それに従い入山したところ、この地を支配する『ソランジン』というものが大鷲に姿を変え、激しく火炎を吹き、空海さまの邪魔をしました。空海さまは木の枝を切り、涌き出る清水に浸し、