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邪馬台国時代に日本にいた人たちは、当時の「倭国」をどのように考えていたのでしょうか?そして、当時の中国の人々は「倭国」をどのように思い描いていたのでしょうか?邪馬台国時代に卑弥呼を共立する女王国にやってきた帯方郡使(240年の梯儁(ていしゅん)や247年の張政(ちょうせい)たち)は、帰国したのちにどのような報告をしたのでしょう。238年、公孫氏滅亡と同時に遣使朝貢してきた女王国に対して、魏が詳細な情報を欲していたことは容易に想像できます。公孫氏が健在の間、魏と倭の直接交
ひさしぶりー!ひさしぶりにおきものポーズよこからポーズ。はりいがほんをだしました。ひょうしのえはひみこさんがはつひのでをおがんでるえです。ひょうしのうらはひみこさんのうしろで3にんのみこさんがおがんでるえがのっています。ポスターもつくりました。ひかりですけました。しっぽでひみこさんのおかおがかくれちゃった。☆☆☆☆☆はりいのコーナー☆☆☆☆☆堀田はりいの新刊『卑弥呼の時代-絵画で旅する倭人伝』(右文書院)の刊行のお知らせです。コロナ禍、ブログそっちのけで、せっせ
⓪卑弥呼と邪馬台国の真実~武内宿禰と出雲の伝承から~複雑系科学と邪馬台国2ひじかたすいげつ邪馬台国の場所2「卑弥呼と邪馬台国の真実」にも書いたが、「邪馬台国の場所」と「女王国(女王のいた場所)」は同じではない。「女王国の卑弥呼」については、確定的なことを書いたが、「邪馬台国の場所」については、実は確定的なことは言えない。「三国志」の「魏志倭人の条」の記載が、方向はまだしも距離があいまいであるからである。「日本古代史を科学する」PHP新書784
⓪卑弥呼と邪馬台国の真実~武内宿禰と出雲の伝承から~複雑系科学と邪馬台国1ひじかたすいげつ邪馬台国の場所1「卑弥呼と邪馬台国の真実」にも書いたが、「邪馬台国の場所」と「女王国(女王のいた場所)」は同じではない。「女王国の卑弥呼」については、確定的なことを書いたが、「邪馬台国の場所」については、実は確定的なことは言えない。「三国志」の「魏志倭人の条」の記載が、方向はまだしも距離があいまいであるからである。「卑弥呼と邪馬台国の真実」に書いた道程は、
邪馬台国(2)政治收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、国々には市場が開かれ、「大倭」に交易を監督させていた。自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史...nyabecch.blogspot.com邪馬台国(2)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
邪馬台国(1)邪馬台国は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったと解されている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが、江戸時代に新井白石が通詞今村...nyabecch.blogspot.com邪馬台国(1)-日本史nyabecch.blog47.fc2.com
私は姫王女王国を支持する私💕コントロールされたくない‼️上から目線でパワハラで言われたくない‼️自分の思ったように行動したい🥰
さて、伊都國の次の「奴國」は「東南百里」となっています。「東南」を35度北に戻すと奴國は糸島平野中心部から東北東、距離は6~7kmということになります。現在の地図で見ると福岡市今宿あたりになりますが、当時の縄文海進を考えると高祖越えの福岡市西区吉武あたりも候補になります。博多平野を見下ろす扇状地ですから、「有二萬餘戸」の収容能力はあるでしょう。次は「東行至不彌國百里」となっています。「東」を補正すると真北、6~7km先というわけです。奴國も不彌國も伊都國から6~7kmしか離れ
「魏志倭人伝」は、帯方郡から邪馬台国までの行程記述やその他の旁国、そして女王卑弥呼を戴かない狗奴国について述べた後、習俗や産物についてかなり丁寧に書き記しています。それらについてみていきたいと思います。ただし、それらを個別具体的にみていくのではなく、その対象となった地域について考えます。「魏志倭人伝」文中では、明らかに「広義の女王国」と「狭義の女王国」の二種類が併用されています(詳細は、〈「邪馬台国」と「女王国」は同じ国?〉をご参照ください)。今回の考察ではこの用語が大事ですので、
はれたぁひさしぶりにちじょうのせかいにおりてみよう。スルスル。スピードアップちじょうがみえてきた。これはヤバイ。ヒエーにゃんこだあああああもうとまらないよ~。もうおりるしかない。うごかなけりゃだいじょうぶってママがいってたっけ。さかだちしたまま。シーン・・・いまだにげろ☆☆☆☆☆はりいのコーナー☆☆☆☆☆先日、博多駅にある丸善に立ち寄った際に、古本屋のセールの本がどっさりあって、その書名に惹かれて文学博士新妻利久著『やまと邪馬台国』(昭和42年新月社刊)
古田武彦氏は、この難題を検証し解き明かされたのだ。これより氏の検証の具体的な解説に入るのだが、「魏志倭人伝」全文読み下し文のHPが、インターネット上にいくつかアップされているので、ぜひご参照願いたい。〇「地名比定を先とせず、まず倭人伝の行路記事を『三国志』全体の表記法を正確に守りつつ読み進むこと、これだけがわたしたちの堅持しなければならぬ方法論である」氏は検証に臨む際の心構えとして、こう述べられている。〇倭人伝行路記事は、「郡より倭に至るには」で始まる。郡とは、
280年代に陳寿が『三国志』「魏志倭人伝」を完成させた後の経緯を考えます。(2)空白の4世紀に突入する「魏志倭人伝」完成間もなく、時代は4世紀に入っていきますが、中国の文献から日本は姿を消してしまいます。「空白の4世紀」「謎の4世紀」などと呼ばれています。中国では華北が五胡十六国時代(304年〜439年)に突入し、多様な民族・国家が乱立しました。それが、華南で長く続いた東晋(317年〜420年)の記録にも日本のことが記されなかった原因かもしれません。具体的には、266年に邪馬
私が提唱する「魏志倭人伝」後世改ざん説は、下記の赤字にした日数の部分に、陳寿(ちんじゅ)の原本では具体的な里数が記されていたと考えるものです。南至投馬国水行二十日「(不彌国から)南へ、水行20日で投馬国へ至る」南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月「(投馬国から)南へ、水行10日、陸行一月で女王の都する邪馬台国へ至る」『邪馬台国は熊本にあった!』の中で、改ざんされた理由については詳細に考察したつもりです。日数部分に記されていたと思われる具体的な里数についても算出
邪馬台国論争において昔から争われている論点として、「会稽東治(かいけいとうち)」と「会稽東冶(かいけいとうや)」のどちらが正しいかということがあります。これは、中国から見て邪馬台国がどのあたりにあると考えられていたかということに関連しています。それが、『三国志』(「魏志倭人伝」)と『後漢書』で異なっているのです。『三国志』計其道里當在会稽東治之東(女王国〈邪馬台国〉までの)道里を計ると、まさに会稽東治の東にある。『後漢書』其地大較在会稽東冶之東その地(邪馬台国)はだいた
今回はこんな例文からはじめます。東京から東北地方の青森まで行った人の報告書が次のようなものだったとしたらどうでしょう。まず、東京から福島までは北へ250キロメートルです。福島には200万人が住んでいます。次に北東へ70キロメートル行くと宮城に着きます。宮城には230万人います。さらに北へ160キロメートル行くと岩手に着きます。岩手には120万人います。そして岩手から北へ10日行くと目的地の青森に到着します。青森には130万人が暮らしています。このように、青森から南の県については人口と距離
本ブログ開始以来、「狗奴国熊本説から邪馬台国熊本説へ!」をはじめとする記事で、邪馬台国熊本説の妥当性を訴えてきました。しかし、残念ながら狗奴国(くなこく)熊本説の壁は厚く、邪馬台国熊本説の認知度はまだ低いので、繰り返しアピールしていくしかないと思っています。今回もそのテーマで書いていきます。きっかけは、歴博(国立歴史民俗博物館)へ「世界の王墓、日本の古墳」という講演を聴きに行ったことです。歴博といえば、纏向遺跡(まきむくいせき)の年代比定の根拠となっているC14年代法の測定を行った機関で
過去300年にわたって、邪馬台国がどこにあったのかといういわゆる「邪馬台国論争」が繰り広げられてきました。しかし、「魏志倭人伝」の記述中に「邪馬台国」という国名が登場するのは、以下のただ1回のみです。南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(投馬国から)南へ、10日間水行し、1か月間陸行すると、女王の都がある邪馬台国に至る。一方、「女王国」という国名は5回にわたって使用されています。この「女王国」と「邪馬台国」はどのような関係で用いられているのか?イコールなのか、そうでない
邪馬台国論争の最大の原因として、投馬国(とうまこく)から邪馬台国への行程記述が「水行(すいこう)十日陸行(りっこう)一月」と日数表記となっていることがあげられます。また、そのひとつ前の不彌国(ふみこく)から投馬国への記述も同様に「水行二十日」と日数表記になっています。この日数で表された「水行十日陸行一月」「水行二十日」をどのようにみればよいのでしょうか。今回はそれについて考えたいと思います。*本ブログは9月16日に行われた全国邪馬台国連絡協議会主催「討論型研究発表会」での発表論旨をまと
「魏志倭人伝」の行程記述において、魏の帯方郡(たいほうぐん:中心は現在のソウル市付近にあったとされる)を出発した郡使一行が、七千余里の道程を経てたどり着くのが狗邪韓国(くやかんこく)とされています。従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里(帯方郡から倭へ行くには、まず海岸にそって水行して、韓国を経て、南へ、あるいは東へと行くと、七千余里でその〈倭の〉北岸である狗邪韓国に到着する。)この狗邪韓国については、「本当に朝鮮半島南部にあったのか?」とか「本当に