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夏の北海道から秋の北東北を旅してきた142日間の記録ですもう1年以上も前のことになってて驚きです105/142日目(その2)大阪を出発して105日め原付を積んだ軽バンで離島を含め北海道全域を走って74日目から本州北東北に入り青森秋田ときて今は岩手を徘徊中妙見山黒石寺蘇民祭という奇祭が有名らしいですが、1000年続いた最後の祭りがこの年(2024年)の正月で終わったらしいです。本来は全裸の祭りだったよーです
盛岡を出発し、花巻を通過して・・・こんな風景を・・・眺めながら・・・この日の最初の目的地は・・・平泉~乗って来た電車を見送り・・・ホームを抜け・・・駅舎内へ・・・確かに彼らの最期の地だけど・・・私の目的は、奥州藤原氏駅そばでレンタル自転車を借りて・・・動画・・・中尊寺通りを走ります・・・リンリン・・・自転車を降り、ヒーヒータイム高館義経堂・・・実は・・・冬期休暇があって・・・お休み中でしたお休みって分かっていたけど、一応、のぼってみました・・・この日お世話にな
東北大本山中尊寺5奥州藤原氏初代の清衡公が込めた想い「中尊寺」を訪ねる中尊寺の境内には金色堂のほかにもさまざまなお堂があります。「経蔵」は国宝の中尊寺経を納めるために建立されたお堂で、平安時代の材料を使って再建されたといわれ、重要文化財に指定されています。「金色堂旧覆堂」は金色堂を風雪から護るために鎌倉幕府によって建てられました。「江戸時代になると、中尊寺は仙台藩に属していましたので、伊達家から大変庇護を受けましてたくさんのお堂が建てられました。」釈迦堂や阿弥陀堂、薬師堂など新旧の諸堂を
東北大本山中尊寺4奥州藤原氏初代の清衡公が込めた想い「中尊寺」を訪ねるまた、この中尊寺の場所は、実は東北地方でも特別な場所です。中尊寺の北側に衣川という川が流れています。衣川は安倍氏の勢力と朝廷の勢力との境だったわけです。衣川を南北に分けまして多くの命が失われていきました。人間だけでなく鳥や魚などの動物、生きとし生けるものの命が失われていきました。清衡は衣川から一歩、南に移動した、この平泉という場所にお寺を建てることによって、争っていた2つの勢力が1つに合わさって平和を築いていくために、
東北大本山中尊寺3奥州藤原氏初代の清衡公が込めた想い「中尊寺」を訪ねる岩手県の詩人・宮沢賢治は何度も中尊寺を訪れ、中尊寺に関するいくつかの詩や句を残しています。「雨ニモマケズ」には東西南北の困っている人のところに行って助けたいと書いていますが、宮沢賢治の手帳にはその詩の真の欄外に「行って」と赤い字で書いてあるそうです。観音様の親指のように「困っている人のところまで自分が歩いて行って」、その現場まで行って助けてあげたいという気持ちが込められているのではと思います。宮沢賢治は熱心な法華経の
東北大本山中尊寺2奥州藤原氏初代の清衡公が込めた想い「中尊寺」を訪ねる御本尊の両脇にある灯籠の灯火は、昭和33年(1958)に東北大本山の号をゆるされたことを記念して、伝教大師最澄様が延暦7年(788)に灯されて約1200年の間世を照らし続ける「不滅の法灯」を延暦寺から分灯させていただきました。以来、日夜油を継いでお護りしております。東日本大震災では灯籠の灯火が消えてしまったのですが、常香盤で種火を常に絶やさないように取ってあり、この種火によって不滅の法灯を護ることができました。「油
天台宗東北大本山中尊寺1126年4月18日(大治元年3月24日)藤原清衡が中尊寺の金堂・三重塔の落慶法会を斎行。奥州藤原氏初代の清衡公が込めた想い「中尊寺」を訪ねる中尊寺本堂明治42年(1909)の建築。平成25年(2013)、新本尊の丈六釈迦如来坐像の開眼法要が行われた。阿弥陀如来像(御本尊)平成25年(2013)に造立。岩手県平泉にある天台宗の東北大本山中尊寺。嘉祥3年(850)に慈覚大師円仁が開山し、12世紀はじめ、奥州藤原氏初代の清衡公が前九年・後三年の合戦で亡
夏の北海道から秋の北東北を旅してきた142日間の記録ですもう1年以上も前のことになってて驚きです104/142日目(その5)大阪を出発して104日め原付を積んだ軽バンで離島を含め北海道全域を走って74日目から本州北東北に入り青森秋田ときて今は岩手を徘徊中🚙えさし藤原の郷奥州藤原氏にスポットを当てたテーマパークです。さきほどのみちのく民族村は、移築とかで本物でしたが、こちらは観光色が強いです。入場料1000
女警官は不機嫌そうに髪を掻き上げ直して、ふう、と息を吐き、一呼吸置いて語り始めた。「私は、義経様の影武者として育つ弟を支えようと、姉ではなく、双子か、兄と弟になろうと、剣術に明け暮れた。あの襲撃された夜、藤原泰衡様の、一族を守らねばならないお気持ちも痛いほどわかっていた。身代わりになって自害したのは、私の弟、杉目行信だった。私は必死にお願いして、新田高平様の男の従者として扮装して、弟の首を持ち腰越に参ったのよ」女警官が、涙を見せまいと気高く空を見上げて、声を震わせ
通話ボタンに触れた瞬間、耳に届いたのは――声ではなかった。“音”だった。いや、音とも言い難い。遠い昔、祈りと呪詛が混ざり合ったような、重く湿った響き。「……来るな」かすれた声が、遅れて言葉の形を取る。私は思わず息を呑んだ。この声は、生きている者のものではない。「金色堂へ来てはならぬ……封は……まだ、保たれている……」ブツリ、と通話が切れる。同時に、周囲の空気が一段と冷えた。義経が静かに問う。「何を聞いた」私はゆっくりと顔を上げた。「止められました。……“来るな
園長通信~こころ~№419前沢牛2026.3.272月の3連休のときだった
(秋田・青森2026_①から続く)『【秋田・青森2026】①_窮屈過ぎる旅立ち』【2026年3月13日】午後11時の埼玉・大宮駅付近。今回は、こちらから夜行バスに乗り、秋田県まで遠征です。180センチ台の身長、3ケタの体重、そして…ameblo.jp【2026年3月14日】夜行バスに乗って訪れた、13年ぶりの秋田県。朝の6:30ごろに秋田駅に到着して、一休みする暇もなく、6:43分発のJR奥羽本線に乗車して、この日最初の目的地へと向かいました。私ともう一人し
平泉('05.3.12)中尊寺から毛越寺(もうつうじ)へ向かう。国道4号を南下したが、途中「毛越寺近道」と大書された分かれ道があったのでそちらへ。車の少ないのどかな道。歩道も広くて、歩きやすい。平泉郷土館や、平泉温泉の前を通る。※ここに書いた「国道4号」は、現在の岩手県道300号。基衡の妻が建てた観自在王院跡は現在、公園になっている。※私が訪れた日の10日前、2005年3月2日に、国の名勝に指定されました。源義経終焉の地か?北行伝説始まりの地か?(平泉)奥州
平泉('05.3.12)ついに、金色堂の覆堂(おおいどう)の前までやってきた。覆堂は1965年(昭和40年)に建てられた、コンクリート製の入れ物なのだが、杉林と調和した、良い姿をしている。(※覆堂完成時、金色堂は解体修理されており、覆堂に収められたのは1968年(昭和43年))金色堂と、宝物館「讃衡蔵」(さんこうぞう)の拝観券を買う(\800)。まず讃衡蔵へ。2000年(平成12年)の建物で、新しくて広くて、展示物が見やすい。※現在の拝観料は¥1,000です。中
平泉('05.3.12)さて、いよいよ中尊寺の参道まで来たわけだが、まずは駐車場の脇にある「夢館(ゆめやかた)」に行ってみた。奥州藤原氏の歴史を、107体のロウ人形で表現した施設だ。(入館料\1,050)源義経終焉の地か?北行伝説始まりの地か?(平泉)奥州藤原氏の歴史を蝋人形でわかりやすく解説(平泉)中尊寺金色堂のきらびやかさに感動(平泉)こちらも世界遺産、毛越寺の庭園へ(平泉)一関市でゲーセンを巡る(平泉→一ノ関)入館料がちょっと高いかな、とも思ったが、実
あれってそれって誰だったっけ〜奥州藤原氏3代と毛利3兄弟+2026年ミラノ・コルティナ冬季五輪13日目ー※歴史人物内容含み表題の件、いつものように調べたものがありますのでここに置かせていただきます。--親子三代、3代(世代)の家族ครอบครัว3รุ่น/クロープクルア・サーム・ルン※ครอบครัว/クロープクルア家族+สาม/サーム3+รุ่น/ルン世代、代※AI先
平泉仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群標高98.6mの円錐形の山で、奥州藤原氏3代秀衡が平泉鎮護のために、北上川まで人夫を並べ一晩で築かせたと伝わる人工の山です。黄金伝説にちなみ、金運アップや商売繁盛のパワーがあると言われます。また、平泉の安寧を守ってきた場所であることから、災いから守ってくれる霊山としても崇められています。山に金鉱を埋めたという伝承や、山を守るために雌雄の黄金の鶏を埋めたという伝説が伝わり、これが山名の由来ともなっています。歴代の藤原氏が山頂に経塚(経
「仙台地名考露無(つゆなし)の里と小萩伝説」仙台市青葉区に「小松島」という地区があります。「小松島」は、昭和40年代の住居表示整備事業により、いくつかの地域が統合されて生まれた地名です。統合前の古い地域の一つに、「露無(つゆなし)」という地名がありました。例えば、小松島二丁目の小松島小学校の以前の住所は、原町小田原字露無でした。昭和四七年の住居表示変更により、「原町小田原字露無」は、「東照宮一丁目、小松島二丁目・三丁目」になり、地名としての「露無」は無くなりました。この「露無」という名前
北上('05.3.12)2005年3月12日。昨日と同じ7時半に起床。雲ひとつない快晴。ただし昨日より寒い。今日も北上駅のホームで、ED75の通過を見送る。8時55分発の一ノ関行きに乗って、いざ出発。昨日と同じ所を通るが、今日はよく晴れているので、雪をかぶった山々がよく見える。水沢駅から先、ややしばらく市街地が続いた後、田園地帯に。雪がとけて、土が顔を出している田んぼもいくつか見られる。陸中折居駅を出て左側、田畑の向こうに大きな山が目立つ。右側は森の下に住
今年は「午年」。岩手には、馬に関する地名がたくさんあります。𓃗🐴一関市千厩町(せんまやちょう)は、平安時代の武将・源義家が千頭の軍馬を繋いだ、あるいは奥州藤原氏が千棟の厩(うまや)を建てたという伝説が由来。まさに゛馬の聖地゛のような地です。他にも⋯・盛岡市馬場町(ばばちょう)・遠野市附馬牛町(つきもうしちょう)・県境にそびえる栗駒山(くりこまやま)・県北を流れる馬淵川(まぶちがわ)地名を辿るだけで、古来から馬がどれほど県民にとって身近で大切な家族のような存在だったかが伝わって
上杉謙信、平将門、白洲次郎、中村天風、南方熊楠、今は、アインシュタイン、奥州藤原氏、源頼朝、、
奥州藤原氏サイドから、見れば、源頼朝は、源氏の御曹司で、盤石で、武士の棟梁だが、源頼朝サイドから見れば、源頼朝も、静岡の伊豆で、人質生活の小さな、仲間から、の、スタートだった!!!
大須浜の人々の間に受け継がれている口伝によると、奥州藤原氏が滅亡した文治五年(1189年)に、平泉を追われた落人が大須浜に辿り着き、「切り開きの五軒」と呼ばれる旧家によって集落が開かれたとされています。大須浜の開拓者として伝えられる藤原俵部は、奥州藤原系統に連なる人物、あるいはその家系の祖格と考えられる。延文五年(1360)の墓石に藤原俵部の名が刻まれていることから、南北朝期にはすでに当地において藤原系武士層が在地化していたことがうかがえます。その後、子孫は在地社会に適応する過程で佐藤姓を名
もう1枚、ブルーレイがあって、中国の海賊版のブルーレイ、鎌倉殿の13人だ、多面的に、奥州藤原氏を見られる!!海賊版と言っても、出演者の、不祥事で、NHK版がなかったので。。。。
毛越寺平安期の浄土庭園が広がっている。(202510.22)毛越寺(もうつうじ)芭蕉が1689年高館を訪れ詠んだ↓「夏草や兵どもが夢の跡」と刻まれている。芭蕉の真筆と言われている。出島石組と池中立石南大門跡築山開山堂開山堂の横に白い小さな可憐な花が咲いていた。『センブリ』という花のようだ。嘉祥寺跡講堂跡金堂円隆寺跡常行堂地蔵菩薩州浜高館義
泉秀樹の歴史を歩く江ノ電沿線歴史探訪逃げてきた源義経は、奥州藤原氏の当主秀衡(ひでひら)に衣川の高館に入れられて厚遇された。だが…秀衡か病没すると、嫡子の泰衡(やすひら)は掌を返し、義経邸があった、衣川を急襲。これが源義経の自刃の地岩手県平泉町の高館義経堂自刃した義経の首は酒が入った黒漆塗りの櫃に入れられて再び腰越の浜辺まで運ばれた。首は近くの浜で投げ捨てられた。伝説では、捨てられた義経の首を金色の亀が甲羅に乗せて、境川の上流に向かうのを村人が見つけ、拾い
令和7年6月半ば、鎌倉歴史文化交流での特別展、「平泉から鎌倉へ〜兵どもが夢の先〜」へ。(※『兵』と書いて『つわもの』と読む。)館内では、“撮影禁止マーク”の無い物ならば撮影OK!ここからは、奥州平泉をモデルにした、鎌倉について。↓↓↓既に現存していないが、鎌倉の永福寺や勝長寿院は、平泉の中尊寺や無量光院をモデルにしてたとか。こちらは、永福寺正面の山の上に埋納された経筒の“蓋(ふた)”として使われていた、渥美片口鉢(あつみかたくちばち)。↓↓↓こちらは、埋納経筒の外側
令和7年6月半ば、鎌倉歴史文化交流での特別展、「平泉から鎌倉へ〜兵どもが夢の先〜」へ。(※『兵』と書いて『つわもの』と読む。)館内では、“撮影禁止マーク”の無い物ならば撮影OK!ここからは、中尊寺の北方4km程の所、白鳥館遺跡について。↓↓↓白鳥館遺跡は、流通・生産の拠点だったらしい。一番上の物は、製鉄炉の壁面の鉄。その下、右は、提子(ひさげ)金具。↓↓↓提子(ひさげ)とは、急須の様な形の道具。水晶の数珠玉。↓↓↓数珠玉の中でも、中の糸通し穴がT字形になっているの
令和7年6月半ば、鎌倉歴史文化交流での特別展、「平泉から鎌倉へ〜兵どもが夢の先〜」へ。(※『兵』と書いて『つわもの』と読む。)館内では、“撮影禁止マーク”の無い物ならば撮影OK!柳之御所遺跡からの出土品について。↓↓↓藤原秀衡の時代の物が多く出土しているという。左上は、火起こしの道具。その下は、小刀の鞘(さや)。右上は漆塗りに使われたヘラ?↓↓↓↑↑↑左中央は、羽子板。左下は、杓子(しゃくし)?右下は、セットで糸巻き。↓↓↓漆器。↓↓↓左は、外側に漆が付着
令和7年6月半ば、鎌倉歴史文化交流での特別展、「平泉から鎌倉へ〜兵どもが夢の先〜」へ。(※『兵』と書いて『つわもの』と読む。)館内では、“撮影禁止マーク”の無い物ならば撮影OK!ここからは、奥州藤原氏3代目・藤原秀衡について。↓↓↓藤原秀衡の時代の、かわらけ(土器)。中央の黒い物は、漆器。↓↓↓藤原秀衡が京の宇治平等院鳳凰堂をモデルにして建立したという、無量光院について。↓↓↓無量光院跡から出土した装飾品。↓↓↓奥州藤原氏滅亡について。↓↓↓1189年、藤原泰