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※2024年1月6日訪問※奥州探題【畠山氏墓所】を参拝させて頂きます✨正面が、初代高国から12代義継までを祀る畠山氏累代の墓碑非常に立派な墓碑で【奥州探題畠山家墓】と刻まれてます初代高国から12代義継までの歴代当主の名前が刻まれています✨こちらには、二本松氏を名乗った13代以降の名前が刻まれていました✨墓碑についての碑文も有りますね墓碑の両脇には、12代義継と共に『粟ノ巣の変』で散った二本松家の家臣達の墓石が整然と並んでおり、今でも畠山氏の側で主君を支えているようにも見えました✨
※2024年1月6日訪問※称念寺さんの本道西側に有る【畠山公墓所】へと向かいます✨【畠山公墓所参道】と彫られた石碑が建てられていますね✨石畳に沿って坂道を登って行きます🚶坂道を登りきった平場には【奥州探題畠山家墓所】の案内板が建てられていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼奥州探題畠山家墓所南北朝の頃、(1340)北朝方より奥州探題として入国した畠山高国公を初代城主とする畠山家は、その後11代義継公が伊達政宗と戦い討ち死に、翌年落城するまで約240年続きました。義継
※2024年1月6日訪問※福島県二本松市本町の【二松山称念寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1185年(文治元年)、尊道によって開山された。当初は法相宗の寺院であったが、後に時宗に転宗している。1586年(天正14年)の二本松城落城の際に、陸奥国信夫郡大森(現・福島市大森)に避難したが、江戸時代初期に二本松藩藩主丹羽光重の城下町整備の際に現在地に移転した。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲陸奥国・二松山称念寺(二本松市)畠山氏墓所▲①に続く
※2024年1月6日訪問※新城舘跡から搦手門跡を経由して本丸へと登って行きます途中に見えてくる巨大な石碑は【奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑当記念碑は、昭和28年(1953)に施工された本丸入り口左側石垣修復を記念して、畠山氏末裔である二本松氏により、昭和30年に入り口左側に建立されました。平成7年(1995)本丸石垣修築復元工事の完成に伴い、当所に移設しました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲天正1
お花を買ってお墓のあるお寺へ。4年ぶりに来た今回も人っ子一人いないwそしてこの4年の間に誰もお墓参りしてないようで(コロナのせいもあるのかな?)ウチのお墓が草に覆われていた全部刈るのは大変そうなのでお墓の周りだけ草むしりをしてお花と線香をお供え。このお墓には私が子供の頃に亡くなった父方の祖父(享年85才)と数年前に亡くなった伯父(享年79才)、私は会ったことがない祖母(享年55才)、父が生まれる前に亡くなった兄(享年4才)、あとは父もよく分からないと言う親族(?)多数。
これまで、Vol.1~4までシリーズとして展開してきた「異名缶バッジ」に、新たに“Vol.5”が登場します(*´∀`)ノ前回のVol.4から約1年の時を経ての最新作となります。ラインナップは…第一義雑賀衆赤母衣衆関東管領神君奥州探題の6種類。至高の異名「神君」や、合戦の記憶が新しい「第一義」、現在開催中の地域限定城めぐりで登場した「奥州探題」など、魅力ある異名が缶バッジとなって勢揃いしました。今回も、これまで同様トレーディング仕様となっているので、どの異名が出
奥州探題第11代の大崎義直のお墓が宮城県加美郡加美町宮崎の孫沢館からちょっと西に向かったこんもりとした林の中にあります。大崎氏の最後はいろいろと戦やもめ事などがあったせいでしょうか?当主のお墓等も不明な部分が多いようです。大崎義隆のお墓が古川?岩出山?あると言われていますが・・・・・一部の資料によると宮崎は大崎氏の避暑地でなかったかともいわれていますが、加美と大崎氏は深い関係があるような気がします。なおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の【奥州探題大崎義直のお墓加美町宮崎】
※2020年7月5日訪問※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城の北側に位置し、現在は浄泉院が建っている。東西110~138m、南北70~90mの不整方形の平場である。東や西、北側斜面には幅7~14mの大規模な堀跡や高さ2~3mの土塁跡か明瞭に認められる。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
※2020年7月5日訪問※名生城跡の案内板から北側にへ向かいます右手の林が大館の西側部分で、案内板の縄張り図によると、土塁が残されているとの事振り返って撮影してみましたが、何となく土塁のような物が見えますねご近所のワンちゃんに吠えられながら、道路を北に進んで行くと、右手に視界が開け平場が見えてきますこちらも大館跡の一部のようです道路を進んで行くと、道路の真ん中に鉄塔が建っていますが、この鉄塔の右側の林部分が【内館】の跡だと思われます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼名生北
※2020年7月5日訪問※軍議評定所丸の土塁のすぐ側には、空き地のようなスペースが設けられており、この場所には名生城跡の【案内板】が建てられています案内板には、名生城の縄張図が描かれており、名生城散策の際にはこの絵図を参考にされると便利かもしれません▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城跡の範囲の中央よりやや北東側、陸羽東線に面した地区が城の中心と考えられる。推定される規模は東西約150m・南北約200mであり、西側の想定される曲輪跡(ニノ構か)とは堀跡によって区画されると考えられ
※2020年7月5日訪問※名生城跡の中心部には、現在集落となっていて、数件のお宅が建ち並んでいますそんな、集落の真ん中に巨大な土の塊を発見案内板の絵図から推測するに、こちらは【軍議評定所丸の土塁】と推測されます城跡のほとんどが田畑に変貌した名生城では、はっきりと確認出来る遺構として、とても貴重な物ですね◆陸奥国・名生城大館跡/大崎市指定史跡◆に続く
※2020年7月5日訪問※JR陸羽東線の無人駅《東大崎駅》で下車踏切を渡って駅から北東に歩いて行きます一面の田んぼが広がっており、《米どころ大崎》を実感することが出来ます田んぼの中の畦道を進んで行きますこの辺りが名生城の【小舘】と呼ばれる曲輪の跡だと思われます下の写真は土塁と空堀の跡のようにも見えますが、詳細ははっきりせず集落が見えて来ましたが、この集落に向かう道路部分は、かつての【堀跡】だと推測されます◆陸奥国・名生城軍議評定所丸跡土塁/大崎市指定史跡◆に続く
※2020年7月5日訪問※宮城県大崎市の【名生城跡】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼宮城県大崎市(旧古川市)にあった南北朝時代から戦国時代の城。江合川西岸の段丘の上に築かれていた。大崎5郡を領地とした、戦国大名大崎氏の城で、南北朝時代の1351年(観応2/正平6)に、大崎家兼が築城したともいわれるが、はっきりしたことはわからない。1590年(天正18)、豊臣秀吉による奥州仕置で、秀吉家臣の木村吉清の属城となり、翌年の葛西大崎一揆で一揆側に奪われたが、蒲生氏郷によっ
場所は大崎市古川師山です。案内に寄りますと大崎氏の家臣渋谷弥三郎の居住と言われています。奥州管領斯波家兼が一時的に居住と言われています。斯波氏が古川を本拠地にしたのは2,3代目あたりと言われています。現在はちょっと高くなった広い平地になっています。大崎氏、奥州探題が語られるときは師山城の話しがよく出てきます。事実か伝説かよく分からない場合があります。また奥州街道前の奥大道と言われた街道沿いに近く大崎地方の入り口のため近郊は大いに賑わっていたと思われます。一度は見ておきたいところです。大崎バッ
■「伊達稙宗/奥州羽州支配」13代高宗は、奥州探題を担い、羽州探題の最上家も配下。将軍/足利植義への一文字拝領が認められ、名を高宗から、植宗へ。最上家と再び対立するが、これをも再び配下におさめる。1522年、室町幕府では前例のない陸奥守護補任。1523年京都石清水八幡宮造営の奉加(ほうが/神仏に金品を寄進)を命じられる。1532年居城を梁川城(福島県伊達市)から西山城(福島県桑折町)へ。大崎家の内乱鎮圧により、奥州羽州(東北全て)を事実上、伊達家の統治化に置く。
■「13代伊達高宗」伊達高宗は、1514年羽州探題(現在/山形、秋田)を担う最上義定を長谷堂城(現在/山形市)にて破り、妹を最上義定の正室とし、事実上最上家を配下にする。■「奥州探題」それまでは、大崎氏が務めたが、力を失い、1514年第14代伊達高宗が奥州探題(たんだい)を担う。奥州探題→陸奥国(現在の青森、岩手、宮城、福島)の総括(羽州→秋田、山形)■「高宗から稙宗へ」1517年、高宗は、10代将軍/足利植義の上洛祝賀の為、多額の進物を送る。そこで、一文字
天文10年、伊達家と隣接する田村家より使者が来た。「これより田村家は、伊達家臣と同様に伊達家より要請がありましたら必ず軍を派遣いたします。」と伊達家の傘下に入ることを誓ったのである。稙宗が目指した“伊達版”奥州探題の支配地域は、外縁部にあたる最上家、岩城家、葛西家、そして大崎家が伊達家の武力に屈する形で組み込まれた。それに対し支配地域の内側、つまり伊達領に近接する家々には、稙宗は武力を使わず、自分の娘を嫁入りさせることで伊達家一門への取り込みを図っていった。
(またも、更新が滞りました。。。)安達太良山の峰々を望む二本松城の裏手は、この様な山間地。のどかというか、自然がいっぱいでっす。小鳥のさえずりを聞きながら、搦手門より再び城内へ。門自体は簡素なものだったようですが、復元された門脇の石垣は見てのとおりの威容。萌えますな!城内は相変わらず整備が行き届いていて、史跡の解説板などもバッチリ^^本丸下の南壁面は、蒲生氏統治時代の石垣が残ります。あの穴太衆による穴太積み!本丸跡には誇らしげに奥州探題・畠山(二本松)氏居城と
稙宗の祖父・成宗(しげむね)が伊達家当主だった頃、大崎家では跡目をめぐって内乱が生じた。成宗の正室は大崎家の出である。そこで、伊達家はこの正室と同腹の弟である大崎義兼(よしかね)を援助し、彼を大崎家の当主につかせることに成功したのである。そして稙宗が居城を西山城に移した天文元年(1532)、大崎家当主は義兼の子・義直(よしなお)になっていた。かつては奥州探題だった大崎家も勢威は衰え、今では家臣の統率もままならない状態であった。大崎家臣の中には義兼の代より伊達
宮城県東北部には、胆沢(いさわ)、江刺、磐井、気仙、牡鹿(おしか)、本吉(もとよし)、そして桃生(ものう)の7郡をを有する葛西家がある。尚宗が伊達家当主だった頃、葛西家の当主・尚信が亡くなった。尚信には伊達家から養子に入った宗清(むねきよ)がいたが、彼が葛西家の跡を継ぐことを快く思わない一派がいた。それが尚信の叔父である葛西政信(まさのぶ)であった。葛西家当主の座を巡り、宗清派と政信派が争った。決着はすぐにはつかず、宗清は寺池城、政信が日和山(ひよりやま)城を拠点として、
新将軍に足利義晴が就任すると、坂東屋富松は伊達稙宗の元に赴き、幕府への祝賀礼を催促した。さらに坂東屋富松は稙宗に対し、将軍が代替わりしたこの機会を利用して更なる官途推挙を申し出ることを勧めたのである。葛西家が自分と同じ“左京大夫”の官位を得たという情報が耳に入っていた稙宗は、更なる上の官位を望んでいた。また最上家の度重なる叛乱は、伊達家の家格が低いことにも原因があると考えられた。そこで奥州探題・大崎家の分家である最上家を心服させるには、同格以上の官位が必要であると
大永元年(1521)、将軍・足利義稙が淡路へ出奔した。事の起こりは2年前に起きた細川家の内紛であった。その年、義稙が将軍に返り咲いてより10年もの間、彼の側近くに仕えてきた周防守護・大内義興(よしおき)が帰国した。幕府としては大内軍が在京してくれることを望んだが、もっか中国地方で勢力拡大をしている尼子(あまご)経久(つねひさ)に危機感を覚えた大内義興は、帰国を決断したのであった。大内軍のない京を守るのは、管領・細川高国だけとなった。これを好機と捉えたのが、阿波の細川澄元(
永正11年(1514)、伊達稙宗は最上家を攻め、これを討ち破った。最上義定(よしさだ)は稙宗の妹を嫁に迎えることを条件に伊達家に降伏したのであった。その6年後、最上義定が亡くなったのである。これを機に稙宗は最上家の直接統治に乗り出した。妹の輿入れに付き従った伊達家臣を使い、最上家の実権を握ろうとしたのである。だが、伊達家による最上家乗っ取りは、最上一族を始めとする最上・村山郡の国人衆の反発を招いた。最上城の北に位置する天童城城主・天童頼長は、反伊達を旗印に掲げた軍事
伊達稙宗が偏諱(へんき)の依頼と官途推挙を幕府に願い出た際、その間を取り持った人物がいる。それが坂東屋(ばんどうや)富松(とみまつ)という商人である。正式の名前は坂東屋富松四郎左衛門尉氏久という。この板東屋富松は奥州諸将を相手に熊野詣(もうで)を案内できる権利(先達(せんだつ)職)を保持していた。これは熊野までの各関所の通行手形の発行手続きや当地の宿泊施設手配などをすることで礼金を受け取れる職である。当時は“座”によって営利活動が取り仕切られており、坂東屋富松も“座”から
永正10年(1513)、古河公方足利高基(たかもと)の出陣要請に応じ伊達家は関東へ稙宗(たねむね)を大将とする軍を派遣した。その帰国後、稙宗は正式に伊達家当主となったのである。父・尚宗(ひさむね)が病床の身であったこともあり、稙宗は以前より伊達家当主としての権限を少しずつ委譲されていた。そして今回の出陣の大将という武家棟梁としての務めも無事に果せたことで、稙宗は跡目を譲られたのであった。新しい当主となった稙宗は、自身の力を内外に認めさせるべく他国の侵攻を決意するのであった
小野小町の墓を後にしてそのまま東に進んで行き数分歩くと47号線に出る道路と直交したところを右折して近くの新豊寺に向かっていきます。ちょっと道路が入り組んでいますがちょっと奥まったところに新豊寺がありその近くの民家に前に新井田城跡の標識が立っています。この城は奥州探題などがよく通ったところとして知られています。特に大崎氏最後の当主大崎義隆は繁く通ったとか?義隆のかわいがっていた小姓がいたとか?そんなことで東大崎の名生城からこの新井田城までが大崎探題道と言われるゆえんとか大崎バックグランドなおア
越後で長尾為景(ためかげ)と関東管領・上杉顕定(あきさだ)が争っている頃、伊達稙宗(たねむね)は20歳になっていた。この当時、全国的な出来事としては、西国の大名・大内義興(よしおき)が足利義尹(よしただ)を奉じて上洛している。余談ではありますが、’97のNHK大河ドラマ『毛利元就』の序盤にて、元就の兄・興元(おきもと)が大国・大内氏に従い京へ出陣するも戦途中で無断帰国してしまう話があります。その後、敗色濃厚だった大内軍が退勢を挽回し、京を奪回したために命令違反をした
大崎市の合併名の元となったのは室町時代奥州探題の大崎氏の本拠地が古川と中新田近郊にあったからと言われています。その大崎氏の最後の当主15代大崎義隆のはかといいつたえられていつのがありますがはたして??大崎義隆氏は没落後会津の蒲生氏の元にいたとか?よくわからないようです。大崎バックグランドなおアルバムや映像等は「大崎バックグランド」内の[大崎義隆の墓?古川長岡?それとも岩出山?]を参照願います。
尚宗(ひさむね)が伊達家当主になって5年が経った明応3年(1494)、突如として尚宗は出奔してしまう。尚宗に不満を抱く家臣団が尚宗の庶弟を担ぎ出す事件が発生した。この擁立運動は周到に準備されており、尚宗が気づいた時には、周りに味方がいなかった。彼はやむなく、蘆名(あしな)家を頼って会津へ落ち延びた。尚宗の要請を受けた蘆名当主・盛高(もりたか)は兵3千騎を引きつれ、まずは伊達領・長井に出陣し尚宗を復帰させた。さらに蘆名盛高は、伊達家本拠・簗川(やながわ)城を奪回すべく
奥州探題・大崎家の新当主・義兼(よしかね)に対し、家臣の中には不満を抱く者は少なからずいた。長享2年(1488)1月、その一人である佐沼城主が蜂起すると、大崎領内各地で叛乱が続発したのである。その叛乱を怖れた大崎義兼は出奔してしまった。彼は同腹の姉が伊達家当主・成宗(しげむね)に嫁いだ縁を頼って伊達家の居城・簗川(やながわ)城に逃げ込んだのであった。奥州探題は奥州の武家を束ねる役職である。大崎義兼の助力要請は、伊達氏にとっては命令に等しい。そこで伊達成宗は、宿老である金