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前回の続きです。『【えみしの群像①】奥州合戦の大将「藤原国衡」の母を訪ねて三千里』そろそろ終わりにしたい~最後に、藤原国衡のことを。しっかし、つまりすぎてまとめるのが大変。気になるところだけを。。。過去にたくさん奥州藤原氏のことを書いてきま…ameblo.jp「黒」を頼りにしていた国衡の伝説を妄想。今回は、源平らしい「赤と白」。蔵王町の白崩れ以前から気になっているのが蔵王町に伝わる藤原国衡のお墓(古墳)が「白九頭龍」という名であること。「白九頭龍神社」の由縁に
そろそろ終わりにしたい~最後に、藤原国衡のことを。しっかし、つまりすぎてまとめるのが大変。気になるところだけを。。。過去にたくさん奥州藤原氏のことを書いてきました。泰衡とは異母兄弟の国衡を知ったのは、柴田町の大高山神社がある付近(金ヶ瀬)で討ち取られた事を知った時、あこや姫(山形県)の伝説がその場所にあることを思い出す。※大高山神社そして、照井高直という人も当時の奥州合戦の頃の人で、岩手県の平泉から柴田町にやってきたのか、なぜか、同じ所で亡くなった言い伝えがあるのです。
阿津賀志山の麓まで行ってみることに。飛行機雲や不思議な雲が泳いでました~。義経のところから、歩いてすぐです。5分くらいで防塁に到着。歩いてみるといろんな歴史が詰まっていました。阿津賀志防塁については、①を参照してください。『【国見町】春の訪れに阿津賀志巡礼①奥州合戦とは』春らしく行きたいのですが、ディープな歴史です。先日、ひさしぶりに国見町へいき、道の駅にも久々に寄ってみました。※道の駅国見あつかしの郷※桃のジェラート…ameblo.jp追記、再びこちらの冊
再び戻ってきました、阿津賀志探訪。また、ちょっと書きます~。今度は、バイパス(4号国道)から西側の阿津賀志山の麓へ。4号線を通ったことある方は看板を見かけたことはあると思います。この付近を散策。まず先にここに立ち寄ってみました。駐車スペースはないのですが、裏に停めて参拝。天然記念物「義経の腰掛松」江戸時代の紀行文や作品、絵図に登場する松。平安時代末、藤原秀衡をたよりに義経が金売吉次とともに平泉へ下向する際、松に腰をかけたとの伝説が由来としてあります。
阿津賀志についてこんなに書くことがあるとは、思いませんでした。笑『【国見町】春の訪れに阿津賀志巡礼①奥州合戦とは』春らしく行きたいのですが、ディープな歴史です。先日、ひさしぶりに国見町へいき、道の駅にも久々に寄ってみました。※道の駅国見あつかしの郷※桃のジェラート…ameblo.jp『【国見町】春の訪れに阿津賀志巡礼②合戦場に祀られる神々(ご先祖参り)』いつの頃か何度も通うようになった国見町。どうりで・・・と思うことあり。前回の続き『【国見町】春の訪れに阿津賀志巡礼①奥州
春らしく行きたいのですが、ディープな歴史です。先日、ひさしぶりに国見町へいき、道の駅にも久々に寄ってみました。※道の駅国見あつかしの郷※桃のジェラート夏になると桃の販売が開始。※あつがし山と桃(観光サイトより)春に桃の花が咲き始める国見盆地は素晴らしく、隣接する桑折町や伊達郡は、伊達家発祥の地でもあります。※半田山から眺める国見※桃の花と菜の花暖かくなったら「あつがし(阿津賀志)」へ探訪したいと思っていました。ここで何があったかと言えば「奥州合戦」の合
奥州合戦の歴史的遺跡!福島県国見町の戦場跡地。鎌倉軍と奥州藤原氏の壮絶な戦い。藤原氏は仏教を大事にし平和的領地形成を進めていました。そこに武士団頼朝軍が東北に進撃してきます。戦いになれていない藤原軍急いで防塁を作ますがわずか三日で勝敗が付き鎌倉時代に。後の伊達家の時代につながっていきます。国見は昔から東北をつなぐ交通の要所拠点。周りに様々な歴史的遺産もあります。廃校を利用した歴史館。県内外からの訪問者も多いとか・・・。皆さんも
また、この金ヶ瀬(かねがせ)の話。かなり前からあこや姫の伝説(山形市千歳山)を追っていた時に、金ヶ瀬にあこや姫の伝説がありました。なぜ大河原に?と思っていましたが、過去記事にいろいろ書いていたのは「新羅」に関わることでした。が、ちょっと複雑。いや、かなり。今回、また藤原国衡の言い伝えもありましたので、過去記事とあわせてまとめておきます。藤原国衡のこと藤原国衡は、藤原秀衡(奥州藤原氏3代目)の長男。藤原泰衡(四代目)とは、異母兄弟になります。(父:藤原秀衡)
これは、かねてから謎だな~と思っていたこと。なぜ、栃木県(当時は下野国)だったか。いろいろ妄想するんですよ。藤原秀郷が、奥州藤原氏の祖にあたる系譜だとすれば、その家臣たちが、宇都宮へきていることが自然なことなのだろうか・・・栃木県(下野国)、関東の藤原氏の本拠地でもあった。早くから朝廷についていた国。おそらく、ここからほとんどの藤原家が東北へいったと思う。樋爪氏について、記録しておきたい。岩手県紫波郡紫波町日詰字箱清水という所に「樋爪館」がありました。奥州合戦の
2月20日、JR仙石線、仙台駅から1駅の榴ヶ岡駅(つつじがおか)へ。駅のすぐそばにある小高い場所榴岡公園(つつじがおかこうえん)です。榴って通常は「ざくろ」と読み、つつじとは読まないみたいだけど。こんな公園左側が公園の中心。小高くなっています。上へ行ってみる少年たちのバスケやスケボーの練習場所がありました。木々の間を抜けて、公園の中心部へ。広々とした芝生鎌倉時代初頭の1189年、鎌倉政権と奥州藤原氏が戦った奥州合戦。源頼朝率い
岩手県遠征の最後は、義経堂です。源義経が、亡くなった場所です。芭蕉も訪れた地です。義経供養塔義経堂義経像義経堂由緒高館は北上川に面した丘陵で、判官館とも呼ばれています。現在では、その半ばを北上川に浸蝕され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました。兄・頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ち延びた源義経公は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判
ちょっと不思議な出来事がイネハポ武蔵で起こり、まったく意味不明で。何かのメッセージにしては、なんとも都市伝説のような話だった。でも、どこかで繋がっている気はする。しばらくして、「阿波忌部」が気になり過去に行って来た南相馬の「日鷲神社」のことを読みかえしてみた。でも、自分で書いておきながら、何が言いたいのかわからない。笑~改めて精査することにした。まとめてみようと調べていたら、なんと、その不思議な出来事に繋がる神社と見事にシンクロしてしまった!!これはなにかあるっ。
4月に入っていろいろ巡ったのがたまってしまい、いつ行ったのか前後してしまいますが、久しぶりに丹露盤(たんろばん)へいったこと。ところで、亀岡八幡宮と検索すると仙台が出てきます。伊達郡と入れても仙台です。朝宗さんが泣いてます・・・・いや、ごっつい。いきなりアニメ登場。伊達政宗の亀岡~しか知らないというか、政宗じゃないと、誰も関心をもたない亀岡八幡宮。まあ、源頼朝とか奥州合戦のことですから、仕方ないですが・・・(看板は駐車場にあり)久しぶりの高子探訪を。8年ぶ
『どうする家康』信長・秀吉・家康、後の天下人3人にとっての「義」とは?-JBpressJBpress戦国大名の敬称を考える、謙信の「御実城」と景勝の「御中城」はどう読むのか.実は将軍の許可が必要だった「御屋形様」、大名たちは何と呼ばれたのか.今年は6月10日から開成町あじさいまつり|足柄-タウンニュースタウンニュース開成町を代表するまつりの一つ「あじさいまつり」。36回目となる今年の開催期間が6月10日(土)から18日(日)に決定した。会場は開成町あじさいの里(金井
話が前後してしまうのですが、年末、秩父へ帰省する前に、立ち寄ったところが、深谷ねぎ、いや、深谷の重ちゃんこと、畠山重忠でした。渋沢栄一が生まれた所でもあります。まず、先に、畠山重忠のことから。秩父平家の出、人柄は穏和な人らしく、あまり悪い噂は聞かない。たしかに、重ちゃんと呼んでも、うんでもすんでもないから、優しいと思う(・・・相手にされてないだけ)ちなみに、坂東平家は強かったので西洋では「Bandu」と古い地図に記されています。畠山重忠について
ずっと前から気になっていたお寺に、やっと行けました。7月だったと思いますが、地元の歴史研究の方からこちらの本をすすめられました。『関場鏡・足立風土聞老誌』村田町資料館にあるよ、と教えてくれて、あつがし合戦の話が書かれているらしい。とても興味がある「藤原国衡」買ってみることにしました。ですが、中身は漢字のみ・・・古い漢文とかではないので、なんとか読めそう。この本を読んだ日の晩、とっても不思議な霊夢をみてしまいました。けっこう、リアルな物語。こんな風に
※2022年8月31日訪問※最後に【内土塁】を見てみましょう阿津賀志山防塁の最も内側部分、最高所という事で、結構な高さのある土塁です国道4号を挟んだ反対側は防塁の残存状態はあまり良くないようですね内土塁まで登って来ましたが、少し開けた平場のようになっていますね写真では分かりにくいかもしれませんが、内土塁から下を見渡すと、堀の凹み部分と、土塁の高まりの地形が続いていることがわかりますね✨内土塁から南側を見た構図ですまっすぐに延びる道路は国道4号🚙ただし、奥州合戦の際には、まだ奥州街
※2022年8月31日訪問※続いて防塁跡の【中土塁】と【内堀跡】を見て行きます溝のように凹んでいる部分が【内堀跡】ですそして、こんもりとした部分が【中土塁】です低くはなってしまっていますが、土塁の高低差をはっきりと体感出来ますそして、内堀の中に入って見ましたこちらもかなり浅くなってしまっていますが、土塁との高低差がおわかり頂けるかと思います私が訪れた際は、しっかりと草刈りがされており、土塁や堀の跡の地形がとてもわかりやすくなっていて、とても見学しやすい状態でした国の史跡という事も
※2022年8月31日訪問※案内板の裏手に平がる巨大な土手のような部分が防塁の跡です案内板の絵図によると、防塁の一番外側の部分には【外土塁】、そしてその内側に【外堀】【中土塁】【内堀】【内土塁】が築かれていましたまずは【外土塁】と【外堀】を見て行きます外土塁は高さが低くなり、外堀は完全に埋められてしまっています低くなってはいますが、かろうじて外土塁部分の高低差を見る事が出来ました▲陸奥国・阿津賀志山防塁跡(国道4号北側地区)中土塁・内堀跡/国指定史跡▲に続く
※2022年8月31日訪問※では早速【阿津賀志山防塁跡】を訪れてみたいと思います奥州合戦の際、鎌倉幕府軍の進攻を食い止める為、奥州軍はこの阿津賀志山(厚樫山)の中腹から南東部の阿武隈川までの約3,2kmに渡って防塁を築いたとされていますその長い長い防塁跡の中で、今回は『国道4号北側地区』に残る防塁跡を見て行きます福島県国見町内の国道4号を福島から宮城方面に走っていると、道路沿いに【国指定史跡阿津賀志山防塁文治5年奥州合戦古戦場跡】と書かれた巨大な看板が見えてきます✨看板の向こう
※2022年8月31日訪問※▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼防塁は、東北本線・東北新幹線・国道4号・東北自動車道などに分断され、さらに耕作や用水路などによって地形が相当に改変されてはいるものの、水田畦畔・畑地・果樹園などに断続的に土塁状の地形の高まりや段差を残し、特に大木戸地区と大枝地区では二重の堀跡と三重の土塁がはっきりとわかる遺構が現存している。1971年(昭和46年)、東北自動車道建設にともなう事前の発掘調査が福島県教育委員会によって行われた。自動車道建設予定地の範囲を調査
※2022年8月31日訪問※福島県国見町の【阿津賀志山防塁跡(国道4号北側地区)】を訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼阿津賀志山防塁は、福島県伊達郡国見町にある平安時代末期の防塁跡である。二重の堀と三重の土塁で形成されていることから「阿津賀志山二重堀」ともいわれる。1189年(文治5年)の阿津賀志山の戦いの主戦場であり、国の史跡に指定されている。この防塁は、宮城県との県境に接し、福島盆地の北端に位置する標高289メートルの阿津賀志山(現・厚樫山)の南麓から、約4キロメー
いやはや...前回は神回ゆえ、初めて☆☆☆☆☆を付けさせて頂きましたが...今回は、どんなもんだろう(笑)...。期待しつつ視聴。正直...一気にトーンダウンです...。何て言うか...ガッキーのフェードアウトと、願成就院が取り上げられた事以外は...ほんと、どうでも良い回だったかな...。まあ、色々言いたい事はあるので...ゆっくり振り返ってみる事にしましょう...。とりあえずは、今回完全スルーに等しい扱いとなった【奥州藤原氏滅亡】の顛末について...。
藤原泰衡は奥州藤原氏の第四代の当主。藤原秀衡の次男。次男ですが嫡男として育てられたようです。☆☆☆☆☆1187年(文治3年)10月29日、父の秀衡が亡くなります。秀衡は、平泉に逃れていた源義経を主君として、源頼朝の攻撃に供えるように言い残したのだと伝えられていますが・・・泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込みます。泰衡は、義経の首を頼朝に差し出せば、頼朝との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・高館義経
土日は連休でした土曜日に出掛ける予定が1日延期して昨日ちょっとだけドライブ途中休憩した道の駅で見つけた自販機こういうイラストを見るだけでテンション入り口にはこちら奥州合戦で源頼朝~って、目的地に近づいてるそしていよいよ目的地へあの阿津賀志山へ小狐丸が三条のみんなが戦った阿津賀志山へ此処で此処の地で戦ったんだね帰りの時間があるので、残り惜しいけどまた移動綺麗に曼珠沙華が咲いていましたまた時間があったら行ってみたいなもちろん夜は⚔️ではまた🐺
選択した宮城県白石市に向かうルートは、一旦福島県へと入りました。地図上に『伊達市』の文字が見え、そう言えば伊達氏が長井氏の居城だった米沢城を侵略する前は、この辺りを本貫地にしていた…と書かれていた事を思い出しました。伊達政宗公には、私の父方の御先祖様が家臣として仕えていた時代がありますので、他の武将達とは少し違う親近感の様な感覚があるのです。今まさに私は、そうした思いのある政宗公の生誕の地・米沢城から伊達氏の祖先の地へと向かって走っているのか…と思うと感慨深いものがありました。時代を超え
■「伊達家/血筋」諸説あるが、伊達家の祖先は、藤原山陰(ふじわらのやまかげ)と、されています。■「藤原山陰」平安時代前期の公卿(くぎょう/太政官、最高幹部/現在の法務大臣)父は、越前守(現在/福井県越前市)国守、藤原高房(平安時代初期の貴族)■「平安時代~鎌倉時代/伊達家」藤原家が統治していた常陸国伊佐郡(現在/茨城県石岡市、土浦市、つくば市の一部、かすみがうら市等)下野国中村荘(現在/栃木県真岡市)において、伊佐や中村と名乗る。■「初代当主/伊達朝宗(
※2019年5月19日訪問※仙台市内を流れる清流・広瀬川その広瀬川にかかる《宮沢橋》は太白区根岸と若林区河原町をつなぐ橋として、多くの市民に親しまれていますそんな、宮沢橋のたもと、川沿いの遊歩道の辺りに古戦場が有る事を知っている方は意外と少ないのではないでしょうか??その名も【鎧淵古戦場】という古戦場です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼鎌倉時代の文治五年(一一八九)七月、源頼朝は鎌倉から大軍を率いて「奥の大道」を北進している。平泉の藤原泰衡を攻め滅ぼすためであった。泰衡軍
幕末の英雄たちとキリスト教穂森幸一(123)クリスチャントゥデイ西郷隆盛が留守を預かる間に取り組んだ偉業の一つがキリシタン禁制の撤廃だといわれます。キリシタン禁制はどうしても撤廃しないといけないが、どうしたらいい...共立女子山本聡美教授に聞く2030年予測:芸術と技術が「人間の心を歌わせる」ビジネス+IT院政」とは、退位した天皇である上皇が、現天皇の父や祖父という立場から政治を行う政治形態です。院政は、前時代の摂関政治(幼い天皇をその外祖父である...松本零士さんと
前回まではこちら⬇️目次諸行無常の世の中…我は北条泰時(ほうじょうやすとき)が妹、竹子(たけこ)です。1189年6月に亡くなった源義経(みなもとのよしつね)の首が奥州平泉から鎌倉に届きました。義経さんの首はお酒に浸されて送られてきたんだよ。平泉の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)はこれで源頼朝(みなもとのよりとも)様に恭順の意を示していたのです。しかし…頼朝様は鎌倉にいる御家人たちを集め、頼朝「今まで謀反人、義経を匿ったことは大罪である…奥州藤原氏を攻める!全国の武士らに馳せ参じよと