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今、カピコチャンネル2を載せようとしたら、予期せぬエラーが発生しましたと出て、出来ませんでした。北の歌姫アゲハちゃん母が小学校一年の時に終戦になりました。終戦前、奉安殿なる物があり、校門から、校長が、歩調取れー!と皆で行進を始め、奉安殿の前で、校長が恭しく扉を開け、天皇陛下の御前に奉りし・・・とか何とか言っていたそうだ。行進のやり方が悪いと、やり直しさせられたそうです。マジでやっていたんです。戦後、元奉安殿は、子供の遊び場所になったとさ。カピコチャンネルは著作権侵害で、バンされ
奉安殿とは、戦前の日本において天皇陛下と皇后陛下の御真影と教育勅語が納められてた建物で、全国の小学校に設けられていました。戦後、GHQの指令により廃止が決定し、その後文部省から全面撤去するよう指示が出されました。しかし中央からの指示はあくまでも「撤去」であるとして、移設や小学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が現在も存在しています。中には神社の御本殿などに利用されているものも多くあり、奉安殿を見かけるとじっくり眺めるようになりました。そんな奉安殿。これまで12ヶ所の奉
今月初めお雛様を見に愛川町の古民家山十邸に行った時に蔵の中も見せていただいました。母屋の横を通って広い裏庭に出ると満開の梅の花きっとかつてはここで収穫したものを干したり種分けしたりしていたのでしょうね中央にはつるべ井戸。ここは竈や囲炉裏のある台所からので入り井口のすぐそばでこの家唯一の水場です。母屋の長い裏廊下の中央には左右の雨戸を収納できる戸袋が設置されていました。面白い形の戸袋ですね。中庭に続く道の傍ら
奉安殿(ほうあんでん)とは神社のような形をした小型の建物のこと。戦時中はどの国民学校の校庭にもあって、中には正装された天皇陛下と皇后陛下のご真影(写真のこと)と教育勅語が収められていました。政府で決めたことなら、恐らく日本中の公立の国民学校の校庭にあったのではないかと思いますが、定かではありません。大きさは10畳間くらい、と記憶していましたが、念のためネットで調べたらいろいろな写真が出て来て、どれも1坪(2畳)くらいでした。子どもの目からなので大きく見えていたのですね。野方国民学校では
実久三次郎神社に寄った後、次のバスまで時間があるので、バスで来た道を戻って次の集落まで行ってみます。坂道を上った途中から実久海岸が見えて、峠から尾根上を芝集落に続く道に大島海峡展望所がありますが、寄っていると13時までバスがなく、反対の坂を下っていくと薩川集落に着きました。集落の海沿いに中学校があり、校庭の先は海岸で、バスの時刻表を見ると上りは芝方面9時45分と瀬相方面9時58分があります。まだ時間があるので集落の中を通って西家の神社に行ってみると、民家の間にある神社で、コンクリート製なの
江の島のエスカーは全部で3区ひとつ目を降りたところ辺津宮(へつのみや)と、奉安殿と、八坂神社があります。奉安殿の手前で、白い巳さまに一文字願立てしました(巳さまの裏に油性ペンで一文字記入)弁財天様にも参拝🙏力を貸してもらえるようにお願いしました。あ、弁天堂(奉安殿)も八坂神社も撮り忘れた😅エスカー2区で上に移動して、見えた景色はヨットハーバーでした⛵️中津宮(なかつみや)え?象🐘もいるまた上に移動、サムエル・コッキング苑ではチューリップが満開🌷🌷🌷かわいいですね〜
奉安殿とは、戦前の日本において天皇陛下と皇后陛下の御真影と教育勅語が納められてた建物で、全国の小学校に設けられていました。戦後、GHQの指令により廃止が決定し、その後文部省から全面撤去するよう指示が出されました。しかし中央からの指示はあくまでも「撤去」であるとして、移設や小学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が現在も存在しています。中には神社の御本殿などに利用されているものも多くあり、奉安殿を見かけるとじっくり眺めるようになりました。そんな奉安殿。これまで11ヶ所の奉
105.戦争関連の石造物(忠魂碑等を除く)・五井龍善院の「戦災地蔵尊」(1958年建碑)1945年5月8日、米軍機の機銃掃射で4人死亡(岩野見の2人、岩崎の1人、島野の1人)。この日は主に蘇我の工場地帯が狙われ、その帰り際に浜野の本行寺が空襲で焼けおちている。市内では五井以外でも国民学校の児童が狙われ、養老小学校川在分校で3人が、市西小学校で下校塔中の生徒が一人、P51の機銃掃射によって死亡している。また市原以南でも列車や船などが銃撃を受け、犠牲者が多数出ている。・五井大宮神
(令和5年12月10日参詣)この日から青春18きっぷが使えます。そこでその第一弾として、空知寺社巡りプチトリップを計画しました。まず富良野から根室本線に乗って芦別に向かいます。そして蘆別神社を参拝しました。蘆別神社を参拝するのは一昨年の5月以来となります。今回のコースに蘆別神社を入れた大きな理由は、こちらの境内には奉安殿があるということです。前回に参拝した際は、社務所の奥にあるため気づきませんでした。今回はあらかじめ情報を入手していましたので、蘆別神社の拝殿と境内社の稲荷
12月10日から冬の18きっぷ旅を開始しようと急いでプランを検討しています。そんないくつかのプランの中から、今回はさほど遠くないけどいろいろバラエティに富んだプランに決めようと思っています。どんなプランかというと、神社ありお寺あり奉安殿あり、御朱印あり御首題あり美味しいランチあり、といった内容です。列車の時間と訪問先までの時間、滞在時間などを入れてプランが完成しました。と、思ったら……。コースを決めてから時間を入れていくと、途中の駅で列車の発車時刻に5分遅れてしまうというプラン
応援よろしくお願いいたします。お問い合わせ(平日08:00~17:00)大起証券㈱Tel:06-6300-5757(代表)谷本憲彦商品アナリスト・東京商品取引所認定(貴金属、石油、ゴム、農産物、オプション)、証券一種外務員新嘗祭宮中祭祀のひとつ。大祭。また、祝祭日の一つ。新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である。毎年11月23日に宮中三殿の近くにある神嘉殿に
朱の鳥居から石段を上り約3~5分。田寸津比賣命たぎつひめのみことをお祀りしています。高低差のある江の島(神域内)では、一番下に位置していることから『下之宮(しものみや)』とも呼ばれ、神社でのご祈祷は主にこちらでご奉仕されます。拝殿前の巾着の形をした珍しい賽銭箱は、相模彫りと言われる独特の彫り物で、地元の商店によって奉納されたものです。茅の輪辺津宮田寸津比賣命たぎつひめのみことをお祀りしています。土御門天皇建永元年(1206年)、時の将軍・源實朝みなもとのさ
(『人間革命』第9巻より編集)42〈実証〉3彼は、最後に壇上から呼びかけた。「日蓮正宗は、ほとんど滅びかけていた。地方の寺院は、どこへ行っても破れ畳であり、総本山は農地改革によって、今までの年一千俵の小作米が入ってこなくなり、まさに窮乏の極にあったのであります。学会もまた、同じでありました。私は、その罪は戸田にありと感じ、まず、日蓮正宗を興隆しなければならないと努めてまいりました」ここで戸田が、「その罪は戸田にあ
奉安殿に行くと、無表情な『妙音弁財天さま』がいらした。とてもユニークな性格と見受けられる。正面に立つと、そのまま顔だけグーっと前に出し子供同士がにらめっこをする形になった。「書くことは生きることだ。これからは時々来なさい。」真言を唱えて、社務所で祈禱を申し込んだ。家にいる家人に興奮して電話すると「そらちゃん落ち着いて、ゆっくりお話しておいでよ。」自分が思っているよりも取り乱していた事を家人との会話で理解した。祈禱は私だけだった。少し緊張している
奉安殿とは、戦前の日本において天皇陛下と皇后陛下の御真影と教育勅語が納められてた建物で、全国の小学校に設けられていました。戦後、GHQの指令により廃止が決定し、その後文部省から全面撤去するよう指示が出されました。しかし中央からの指示はあくまでも「撤去」であるとして、移設や小学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が現在も存在しています。中には神社の御本殿などに利用されているものも多くあり、奉安殿を見かけるとじっくり眺めるようになりました。そんな奉安殿。これまで寺社を中心に
(令和5年10月1日参詣)この日は道の駅巡りの運転手を務めた私ですが、1か所だけ私の希望で行こうと思っていた目的地があります。それが東風連神社です。奉安殿好きの私。東風連神社の御本殿が奉安殿であるという情報を聞きつけ、8月にお参りしようと思いました。しかし東風連神社は3か所あり、私が向かった東風連神社には奉安殿がありませんでした。その後情報を集めて、こちらの東風連神社にあると知り、この日向かうことにしたのです。風連の道の駅から東風連神社に向かいます。途中から名寄に向かう道道に入り
(令和5年9月26日参詣)これまで琴似神社には雪のある時期しか参詣していませんでした。そのため境内社もお参りできなかったり、境内にあるという屯田兵屋も見ることができませんでした。琴似神社を隅から隅まで堪能しようと思い、この時期の参拝となりました。西区役所の向かいにあり、喧騒とした市街地にある琴似神社ですが、やはり境内に足を踏み入れると空気が変わります。神門をくぐるとさらに別世界となります。冬場は落雪の恐れがあるということで参拝をできなかった境内社もありますが、今回
北海道の旅~...名所旧跡巡りの76ヶ所目は士別市の「士別公会堂・屯田兵屋・奉安殿」です。「士別公会堂」以下、案内板より...士別公会堂は大正4年(1915年)に建設され、議場、集会場、公民館等に使用され、市文化財に指定された士別市民のシンボル的な建造物でしたが、昭和59年(1984年)、老朽化により解体されました。この建物は、平成元年(1989年)に士別市開基90周年を記念して復元されたものです。
この記事は前に一度リブログしたことがあるのですが、前回「奉安殿・奉安庫」のことについて書いたので、その関連でもう一度取り上げます。5年前に大和路を歩いた時、奉安殿の跡を探した話です。このハイキングは教員組合退職者会の催しで、10キロぐらいも歩いたあと最後に「奉安殿探し」をして歩き回っているのですが、今同じことをする元気は多分ないだろうと思います。私自身は老いが進んだという話になりますが、この時元気に皆を案内してくれたTさんが、この三年後の2021年8月に、同じ退職者会ハイキングの下見にドン
「奉安庫・奉安殿」といっても、それがどういうものか分かっている人は、戦前に教育を受けたかなりの高齢者か、それ以外は歴史に詳しい人に限られるのではないでしょうか。しかし、1945年8月15日の敗戦まで、それは日本の学校には必ずあった施設であり、しかも学校では最も重要かつ神聖な場所とされていました。この施設には決まった仕様はなく、各学校が独自に設置していましたが、「防火・耐震」性というのが重要なので、独立建物の場合は土蔵造りや鉄筋コンクリート製のものが多かったのです。中には何が入っていたかとい
(令和5年8月12日参詣)注連山宝珠寺から再び遠軽方面を目指して進むと間もなく中湧別神社の鳥居が右手に見えてきます。こちらに立ち寄り参詣しました。鳥居から拝殿までまっすぐに参道が延びています。そこを進むと拝殿の手前に一組の狛犬がありました。昭和46年に建立されたものでした。拝殿に進み参拝をした後、境内の左手を目指しました。そちらには旧中湧別小学校奉置所がありました。いわゆる奉安殿です。こちらを眺めてから、中湧別神社を後にしました。中湧別神社【所在地】〒099
[陸軍第7通信連隊]奉安殿壕(防空壕)三重県明和町斎宮字北野昭和17年4月、陸軍は第5航空教育隊(太刀洗)で「第7航空通信連隊」を編成、同年10月15日に当地に移駐する。第2航空教育団司令部隷下への再編成を経て、昭和20年4月に航空総軍隷下の第7通信連隊となるが、同年4月15日、一旦解隊してしまう。月日不明だが第7航空通信連隊は復帰したようだが、資料が殆ど無く詳細不明。陸軍第7通信連隊の任務は、航空通信将兵を養成する教育部隊だった。第7通信連隊の航空通信基地は昭和12年に着工
(令和5年7月23日参詣)この日はほろしん温泉ほたる館で日帰り入浴をすることを目的に、道道旭川多度志線を旭川から沼田に向かって走っていきました。途中、湯内の集落が近づくと、左手に神社が見えてきます。昨年の夏にも一度立ち寄っている湯内神社(大熊神社)です。昨年も書きましたが、GoogleMapにもこのようにカッコ書きで2つの名前が併記されている神社です。鳥居の前に車を停めて、今年も参拝をしました。草刈り直後のようで、大変参拝しやすかったです。昭和4年に建立された狛犬は、凛々しい
今日は麻郷(おごう)護国神社の奉安殿を見に行きます。麻郷護国神社は、明治維新以来、国家のために殉難された地区戦没者245柱の神霊を奉斎しています。慶応2年(1866)、惣田山招魂社として創建されました。昭和15年(1940)に麻郷護国神社と改称されましたが、敗戦により護国の文字が使用できなくなり麻郷神社と再び改称を余儀なくされ、昭和26年(1951)には麻郷小学校に置かれていた奉安殿をこの地に移築しました。詳しくは説明書きにて。では参道を進んで行きます。惣田山招魂場
10年前、父が87歳で亡くなる前に回想録を出版する為、実家に帰って父と話した録音を聞き返してみました。その中で、父の時代は学校に行くと門の所にみな奉安殿というものがあり頭を下げて学校に入ったそうです。戦後の学校教育を受けた私達は、知らない方が多いのでしょうか?私もその時、初めて聞いたことです。奉安殿とは、明治以降、学校に下賜された天皇、皇后の御真影(写真)や教育勅語謄本を納めていた建物のこと、戦後はほとんど残されていないそうです。旧制中学5年間を過ごした父は、学校
こんばんは!江ノ島の続きです。サムエル・コッキング苑イギリスの貿易商サムエル・コッキング氏が1862年から造成した和洋折衷の庭園です。温室遺構明治20年頃に作られた温室跡です。大正12年の関東大震災で全ての上屋が倒壊し、煉瓦部分のみが残されています。地下道ボイラー室と温室を接続していました。サムエル・コッキングは、アイルランド生まれの貿易商で、1868年に横浜に来日、その後横浜の外国人居留地にコッキング商会を開設しました。商売で財を成し、江ノ島の景観と植物を愛したコッキングは
(令和5年5月27日参詣)東川神社に参詣した後、忠別ダム方向に向かい金毘羅神社に参詣しました。3年前の12月以来の参詣となります。東川神社の境内社として金比羅神社もありますが、どうやら東川町は香川県の開拓従事者が多いため、故郷のこんぴらさんがお祀りされているということで多くなっているようです。前回の参詣の際はすでに積雪もあったため拝殿前までしか行けませんでしたが、今回は拝殿の裏に回り込むこともできました。すると本殿としてかつての奉安殿が利用されていました。また境内
奉安殿とは、戦前の日本において天皇陛下と皇后陛下の御真影と教育勅語が納められてた建物で、全国の小学校に設けられていました。戦後、GHQの指令により廃止が決定し、その後文部省から全面撤去するよう指示が出されました。しかし中央からの指示はあくまでも「撤去」であるとして、移設や小学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が現在も存在しています。中には神社の御本殿などに利用されているものも多くあり、奉安殿を見かけるとじっくり眺めるようになりました。そんな奉安殿。先日も東川町の金毘羅
久々の靖國参拝。拝殿周囲の小径を行く。こちらは、『憲兵の碑』。↓第二次大戦末期、東京への空襲により、靖國神社拝殿&本殿が焼失しそうになった時、憲兵隊が消火活動に当たり、ここを護った…という話。そのまま進み、本殿の真後ろの白い建物が木々の間に見えて来る。↓こちらは、霊璽奉安殿。靖國神社の御祭神、国の為に戦い散華した“246万余柱の英霊”の名簿が納められているという。奉安殿の側面屋根(奥の大屋根)。↓その向かい側の参拝者臨時駐車場の奥に、何やら鳥居が。↓かつて、明治