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皆様、すごくお久しぶりです。お元気にされていますか?私は、薫公会の活動をサボっていたわけではありませんが、ブログを書くのはサボってしまいました、、、、反省。さて。次の写真をご覧ください。どこの写真だと思います?衛藤公雄先生の生家があった場所の写真です!写真の右の方、少し小高くなっているあたりにお家があったそうですが、その後、土砂崩れがあったこともあり、今はこのようなOpenSpaceになっています。衛藤先生がここに住んでいらっしゃたのは5歳まで。1929年頃ま
随分時間が空いてしまいました。季節はもう春、、、皆様、花粉症お見舞い申し上げます。さて。「雪の幻想」について、後日談をいくつか書きたいと思います。「雪の幻想」と「長崎の歌は忘れじ」についての調査結果です。「歴史的な証言」もありますので最後までお付き合いくださいね。■「雪の幻想」の作曲者はだれ?「長崎の歌は忘れじ」のDVDジャケットには、早坂文雄先生が作曲および音楽を担当したと書かれており、衛藤先生のお名前は一か所も記述がありません。そこで調査してみると、以下の事実が判明しました。1.日
「雪の幻想」は一週お休み。。。というのも、先日、兄の結婚式がありましたもので(*^.^*)。披露宴で演奏してほしいという兄夫婦の依頼で、余興で箏の演奏をしてきました。曲目は「一人で奏でる春の海」。宮城道雄先生作曲の「春の海」はとても有名ですからおそらく皆様ご存知と思いますが、その曲を作曲家の高橋久美子氏が箏独奏に編曲したものが「一人で奏でる春の海」です。本来は箏と尺八の二重奏ですが箏だけで演奏できる「一人で奏でる春の海」。宮城先生の原曲に勝るとも劣らない名曲に仕上がっていて、大のお気
昨日2/2、また関東でも雪が降りました。最近は犬たちもさっさとお散歩を済ませて帰宅。♪庭駆け回り、、、とはいかないようです。先週月曜日、ある地域ケアプラザで箏の演奏をしてまいりました。教室のお弟子さんが以前勤めておられたケアプラザで、お弟子さんからの依頼でした。有名な「春の海」、そして「千鳥の曲」を選んだほか、衛藤公雄先生作品からは、「箏独奏によるさくら」と「薫る花」を演奏しました。「箏独奏によるさくら」は私の独奏、「薫る花」はお弟子さんと合せした。「さくら」はやはり日本人の心、なの
皆様、大雪お見舞い申し上げます。衛藤先生の作品に「雪の幻想」という作品がありますが、今回の大雪のイメージではないなと思いながら降り積もる雪を見ておりました。先週の記事の後に、「渡辺先生は衛藤由布子が本名ですか?」というお問合せを戴きましたので、今回はその話を書きたいと思います。以前、衛藤門下ではお免許が「初伝」「中伝」「奥伝」「皆伝」「助教師」「教師」「師範」「大師範」と進んでいくという事を書かせていただきました(コチラ参照)。当時は、この中で教師までは自分の名前でのお免許を戴き
先日お伝えしました、ケーブルテレビの番組(コチラ)をご覧くださりました皆様、どうもありがとうございます。お蔭様で体験レッスンのお申し込みも増え、嬉しい年始となっています。さて、衛藤公雄先生は生前「衛藤流は自分一代で良い」と仰っていましたことはこのブログでも以前触れました(コチラ参照)。最近私はこの言葉の奥にある先生の御覚悟を感じることが出来たような気がしておりますので、今日はその話を書きたいと思います。衛藤先生の足跡を辿るともともとは宮城道雄先生のお弟子でした。宮城先生の元でわずか14歳
あけましておめでとうございまます。去年始めたこのブログ、皆様のお蔭でもう21回目を数えます。ありがとうございます。本年も定期的に綴ってまいりますのでご愛読のほどをよろしくお願い申し上げます。お正月、鎌倉まで行って参りました。鶴岡八幡宮に初詣。帰りに鎌倉駅ホームで「鯵の押し寿司」を買いました。この押寿しは、衛藤先生との思い出の食べ物の一つです。私が高校生の頃、鎌倉教室の集まりの時に何度か衛藤先生と千葉県の津田沼(先生のご自宅)からご一緒したことがありました。当時は、弟子の中で私
姉弟子の宮川嘉有子先生から衛藤先生との思い出をご寄稿いただきました。戦前から戦中の思い出話を抜粋してご紹介いたします。当時はまだ戦局が色濃く、国と国の為に戦う人たちのことを思う衛藤先生の強いお気持ちが伝わってくる内容です。(若干、補足を書かせていただいています。)---ここから---衛藤先生は立て続けに作品を発表されました。昭和16年(1941)秋、17歳の時に日本三曲協会主催、文部省後援の第一回作曲コンクールで『箏尺八二重奏曲』(副題『祝典』)が1位入選翌年(1942)には勝利
私の記憶の中で、衛藤先生が三絃(三味線)を弾いておられた機会はそう多くはありません。衛藤先生というとやはり箏を弾いておられるお姿がパッと脳裏に浮かびます。衛藤先生と三絃...記憶の中で一番古いのはまだ私が衛藤先生の「孫弟子」だった頃、衛藤先生の前で古典の「八千代獅子」を箏で弾いた時です、小学生だった私は緊張しながら衛藤先生や諸先輩のおられる前で弾き始めました。すると、先生は私の演奏を止め、「僕も弾きます。三絃を持ってきてください」とニコニコしながら近くにおられる方に仰いました。「先生が
衛藤先生の思い出、、、、先生のお食事の話もしてみたいと思います。先生は「ステーキが大好き」という印象があります。「体格のしっかりとされた先生だから、きっと沢山めしあがるのだろうなぁ!」と思っていたものです。アメリカ生活が長かった先生ですから、ステーキは日常の食べ物だったのでしょう。衛藤先生が20年近く住まわれた国分寺市内のマンション一階のレストラン「トムソン」がお気に入りでよく使っておられました。そこでステーキを頼んで、器用に召し上がっていたことを思い出します。お元気のころにはお一人
ブログ更新は一週お休みして、「輝ける未来に寄せて」を弾いて、録音しました。Youtubdeで公開していますので、是非そちらをご覧ください。https://youtu.be/GTC6vNyBc10写真は、収録時の私です。この曲は少し、大人びていた若い作曲家が作った曲。その時の作曲家の心を感じ取りながら演奏しなくてはなりません。(1)前奏→ABC(2)ABC【ここまで速い】→間奏→(3)【ゆっくり】→ABC→D→後奏という構成です。曲の構成自体は未来に向いて進んでいく
衛藤公雄先生が初めて作曲された、「輝ける未来に寄せて」という曲があります。原題は「希望の光」。楽譜は出版されておりません。この曲が作曲されたのは1936年。衛藤先生が12、3歳!の頃に作られた曲です。宮城道雄先生におほめ戴いたことが嬉しくて、その時の湧き出す喜びを表した曲と言われております。この曲には、私も懐かしい思い出があります。衛藤先生に習い始めた最初の頃に、母がご挨拶がてら私のお稽古の様子を見に来たことがありました。その日は、衛藤先生の興が乗っておられ、「今日は由布子ちゃんのお母様が
芸大受験を決めてからも、芸大におられる先生の御名前も知らないまま、ひたすら衛藤先生にお稽古をつけていただき、巽先生には楽典を教わりました。受験は、実技の二次試験で不合格。楽典の試験まで到達できずでした。。。。残念。実技二次試験結果の発表当日。私は母に不合格の電話をした後、衛藤先生に電話でお伝えました。衛藤先生はしばらく黙ったまま。それから「よく連絡をしてきてくれましたね。」と穏やかな口調でそれだけおっしゃいました。その声のトーンは今でも忘れられません。他の慰めにはならない言葉を必要以
楽典の講義・勉強は、当初は津田沼にあった衛藤先生のお教室で行われました。宮川嘉有子先生とご一緒に巽真紀子先生の講義を受けました。当時芸大大学院修士課程の一年生だった巽先生は、テキストを使って楽典初心者の私に非常にわかりやすく教えてくださり、また終始和やかな雰囲気の中で「楽典って楽しいな」と知識を新たに得ることの大きな喜びを感じたことを覚えております。新しい知識を得る喜びで、巽先生の講義は私には毎回あっという間でした。とはいえ、実際はかなりの時間が過ぎていたことは申すまでもありません。衛藤先
私の芸大受験は、衛藤先生のほかにもご報告、ご相談申し上げました。衛藤先生のお姉様である大塩寿美子先生は大反対。「芸大へは箔をつけに行きたいの?」とけんもほろろでした。私は「広い世界を見てみたい」と申し上げましたが、ご理解頂けませんでした。衛藤門下の姉弟子である宮川嘉有子先生は、「由布子ちゃんが芸大に行ったら、衛藤先生がおかわいそう」とお泣きになりました。今思えば、かなりの波紋を広げた芸大受験でした。この時に間にたって色々と親身になってくださった姉弟子の宮川嘉有子先生こそ、今に至
衛藤先生と私自身の思い出話。芸大受験の頃の話を書きたいと思います。高校二年生の頃、私は大学受験の第一志望を東京芸術大学の邦楽科に決めていました。芸大で色々な音楽を学ぶことは、私の夢でもありました。小学生、中学生の頃に教わった青山先生は、私を芸大に行かせたいと仰っておられていましたし、私自身、芸大に行くつもりでした。衛藤先生は、お弟子には芸大に行かず衛藤公雄の弟子でいてほしい、というお考えであることを、私は存じ上げていました。ですが受験への熱は収まらず、お稽古のおりに自分で先生に
衛藤公雄作曲「思い出」についての第1回目(コチラ参照)で、「この曲を箏以外の楽器で弾くのも良いのではないか」と申しました。箏だからこそ表現できる音はもちろんありますが、かつてウッドベースで弾く「思い出」に衝撃を受けたことが今も私の中に残っていることから、きっと箏以外の楽器でも「思い出」の世界を表せると思ったためです。今回、ギタリストの重岡篤さん(私の箏教室のお弟子さんです!)がギターで「思い出」を弾いてくれました(このブログ用に、ショートバージョンです)。Youtubeで公開してますので
前回ご紹介した衛藤先生の録音は、衛藤先生がまだアメリカに居たころの録音です。当時のジャケットをInternet上で見つけました。1959年、KotoMusicというアルバムです。私が教えてい頂いたのは、その30年以上後の話。色々な違いがあります。私の演奏した「思い出」を参考音源としてYoutubeに上げましたので、是非お聴きください。https://youtu.be/IW7kyMXpdPM参考音源は、公刊譜に従って演奏しています。衛藤先生に教えていただいた「変更部分」は、
この週末、私の録音などでお世話になっている方の結婚式に参加しました。結婚式は、人生の大きな記念日。お二人にとって、良い「思い出」になることをお祈りしています。披露宴の入場では、私の演奏「一人で奏でる春の海(https://www.youtube.com/watch?v=oiTlpGZMQng)」を使ってくれて、、、私としても良い「思い出」になりました。写真は、待ち時間に夫が撮ってくれた写真\\(^.^)//さて、衛藤先生の「思い出」、その二回目です。この曲は衛藤先生によりますと「昭
衛藤先生の代表曲に「思い出」があります。先日、インターネットで衛藤先生に関して見ておりましたところ、衛藤先生作曲「思い出」、というタイトルのブログ記事がありました。http://hamatidori.cocolog-nifty.com/namihei/2017/07/post-07b3.html弟子として非常に嬉しいです。1944年に作曲されたこの曲は、記事にも書かれていますが、原題は「思い出の歌声」でした。そして、私も歌詞は存じ上げません。この曲は実際箏だけではなく、ウッドベース(コント
今回は、箏尺八二重奏曲の曲紹介です。松下春山先生と私の演奏、Youtubeにアップしましたので、聴きながらお読みください(^.^)。(Youtubeはコチラ)。箏尺八二重奏曲は1941年に開催された「三曲新作発表会」というコンクールで1位となり、文部大臣賞を受賞した曲です。この「三曲新作発表会」は皇紀2600年の祝典催事のひとつとして行われたもので、箏尺八二重奏曲の原題は「祝典」と付けられています。衛藤先生の作品としては2作目で、17歳の時の作品。17歳って、今なら高校二年生です。
先週に続いて、2x年前の練習の思い出を少々。当時は東京の高円寺にもお教室がありまして、私は学校の帰りに高円寺まで参りました。衛藤先生初め諸先輩方が、松下先生をお迎えしておさらい会の曲のお稽古日として集まっておられました。学校が終わったらすぐ来るように、と言われておりましたが昼食もまだでお腹が空いて、、、結局途中で腹ごしらえ。お教室では私の到着を今か今かと待っておられました。到着後皆様にご挨拶をすると、松下先生が「お昼は食べていないのでは?」とお優しいお言葉をくださいました。お待た
先日の記事で、高校二年生の頃に衛藤公雄先生から「箏尺八二重奏曲」を最初の練習曲としていただいたお話をしました。この曲は先日の薫公会で私がトリで演奏した曲です。手元にある楽譜には、先生に教わった指示がいろいろと書きこまれています。この「箏尺八二重奏曲」。高校二年生の終わりに東邦生命ホールで行われた衛藤公雄門下生おさらい会で演奏いたしました。おさらい会の半年前の8月、私は衛藤先生より師範のお許しをいただきましたので、そのおさらい会で私は師範披露としてこの曲を演奏したのです。「師範」とは入門後お
私が衛藤公雄先生に初めて会ったのは、小学生の低学年のころです(この日の事は、「奇蹟の爪音(小学館)」に少し紹介されています)。当時は衛藤先生の孫弟子(弟子の弟子)だったのですが当時の先生であった青山先生に連れられて、衛藤社中の集まりに行った時が最初です。衛藤先生から、「何か弾いてください。」と言われて、「春の姿」を弾きました。緊張して、喉がカラカラだったことを今でも覚えています。お聴きになってから衛藤先生が青山先生をお呼びになり、「どのように練習しているのですか?」とお聞きになったそうで
7月30日、鎌倉のきらら鎌倉にて薫公会演奏会を開催いたしました。ご来場賜りました皆様、お力添え賜りました皆様に篤く御礼申し上げます。私の師、衛藤公雄の作品を中心に合計20曲のプログラムとなりました今回の演奏会は、衛藤作品を通してより多くの方に「衛藤公雄の薫り」をお伝えしたいと思い、企画いたしました。このブログで、衛藤先生の魅力を更にお伝えしていきます。さて。私は小学一年生で衛藤先生の許に入門、16歳の夏に直門(直弟子)を許されて今日に至ります。このブログは、私から見た箏曲家であり家元、そし