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こちらは、2019年8月の次の連続ツイート。『太田資正と戦国武州大乱』の第一章、会長が書いた「太田資正はどこからきたのか」の原稿を読んだ時のワクワク感で連投したものです。太田氏最古の系譜史料とも言うべき太田資武状には、道灌には実子が無く、それ故甥を養子に迎えたとの記載があります。しかし、道灌に実子資康がいたのは歴史的事実。太田資武状の記載は、一体、、、この謎に真正面から向き合った会長の原稿に痺れました。(ツイート時の内容をまとめつつ、少しリライトしました)最古の
(分かりづらくまとまっていませんがUPします)(10/31加筆しました)資武は、道灌の甥で鎌倉円覚寺150世の叔悦禅師の兄が、自分の曽祖父「義芳永賢」であるとはっきりと書いていますが、実は系図資料に出てくる叔悦禅師は「道灌の弟」とするものばかりです。それか叔悦禅師そのものを載せていないかです。資武は「義芳永賢」「叔悦禅師」の父母の名を聞いていたけど覚えていない(覚分明ニ無御座候事)と書いています。ここで「太田潮田系図」を見てみましょう。ここでも「叔悦禅師」は道
あまりにも長いために、リブログではなくコピーして引用させていただきます。「「義芳永賢」の実名を「資忠」としているのは、資忠が道灌の生前に臼井城攻めで討死していることが『太田道灌状』に見えるため、明らかな誤伝である。」と「はみ唐」さんが書いてくださっています。そうです。太田家記に載っているこの系図での「義方永賢」は、誰が読んでもそうとわかるくらいにおかしいのです。もともとは太田家記とは別な資料だとされていますが、譜代大名太田家の系図として採用された「源姓太田氏系図」です。なのに、
でも、資武が曽祖父の実名と受領名を書いたかもしれない書状は残っていないし、残っている資武状4通の内実に3通に「義方永賢(栄賢)」と曽祖父のことを書いているのに、実名受領名がないということは「本当に知らなかった」という可能性も高いのです。資武が知らないということは、父太田資正も実名受領名を知らなかったということです。知っていたとしたら、何としてでも資武に伝えたでしょうし、自分に直接関係のない「上田の旗」の言い伝えまで覚えている資武は、何としても覚えたでしょう。そんな中やはり
けれども、「太田資武」の残した太田資武状には太田義方永賢の実名も受領名も記されてはいません。では資武は自分の曽祖父の実名も受領名も知らなかったのでしょうか。そんなはずないでしょう。戦国大名と国衆12「岩付太田氏」に収録されている前島康彦氏の「太田安房守資武状について」には実は現存する4通の資武状の他に備中守資宗にあてて送った書状が「このほかにも数通乃至それ以上もあった」ということが指摘されています。それは「太田家譜略説」の中に現存する資武状にはない情報が「太田安
(初回投稿3/2701:38:09)伊東潤著「黎明に起つ」「ちなみに道灌の死後、太田家は二つの系統に分かれていた。道灌を殺されたことで、扇谷上杉家から離反した嫡男資康の太田家と、道灌の死によって太田家の名跡を継いだ永厳の太田家の二系統である。宗家は後者となり、後に前者は江戸太田家、後者は岩付太田家となっていく。」黎明に起つ(講談社文庫)864円Amazon「太田永厳」=「太田永賢(資家)」説とは、けっして独りよがりな感想ではなかったのです。よかったです。
(初回投稿3/212:19:34)このとき、原市沼川に白鳥が来たのでした。愚かでしかない私ですが、この時本当に白鳥が来たことを、忘れることはないでしょう。◇◇◇◇◇◇◇太田道灌の子孫は、「岩付太田家」と、「江戸太田家」に分かれたとされてきました。しかし、今現在、「太田道灌」の真の後継は、このどちらでもない第三の家系である「太田永厳」であるとされているようです。「太田永厳」という人物は、書j状を残しており「実在する人物」です。◇「
なかなか本筋に戻れなくてすみません。英勝院に対する家康からの愛。もちろん疑いはしません。けれども、それでも英勝院もまたたくさんいる「側室」の一人でしかなく、家康は英勝院を「正室」にしてはくれませんでした。家康が最も信頼していたのは「阿茶」だったという説もあります。この「阿茶」が「養母」として育ててきたのが「秀忠」です。側室と側室、家康を取り合いケンカになってもおかしくありません。でも争いはありませんでした。一つ屋根の下、英勝院はうまく先輩の「阿茶」をたててきた
そんなにも徳川家康に愛されていたお梶「英勝院」さま。家康最後の子「市姫」を授かります。しかしなぜか、その同じ年に家康次男、結城秀康が亡くなるとその子「松平忠昌」の養母となるのです。秀康嫡男「忠直」の弟君です。それから松平忠昌は、越前福井を離れ江戸で二代将軍秀忠、そして英勝院のもとで育つことになります…。これはなぜだったのでしょうか。もしかすると、大きくなったら「市姫と縁組させよう」とか思っていたのでしょうか?いや、Wikipediaによるとですが、市姫は1月に生まれて
(初回投稿2/2612:06:15)太田道灌の後継者。それは、「江戸太田家」と「岩付太田家」とされました。なぜ2つの家系があるのでしょう。なぜそんなことになったのでしょう。それは、徳川家康夫人英勝院の祖先を江戸城に関係のある「太田道灌」としたからなのです。それはちょうど徳川家がその祖先を源氏の新田氏としたということと同じです。クリスペプラーに明智光秀の遺伝子があったというのですから、英勝院が「太田道灌」の子孫でないなどとは言えません。しかし、出自にあいまいさのある英勝院の祖
(コピーで投稿すると、せっかくいただいた「コメント」を参照してもらえないことに気づきました。それももったいなさすぎるので)※※※(初回投稿2/2512:17:16)太田資武状では「道灌の実子これ無く」と、「実子などいなかった」ことが書かれています。資武は「自分の家系を飾ろう」と、江戸太田家に「岩付太田家」が道灌直系であると「ねつ造」して書き送ったのでしょうか。何のために。◇そんなことをして、資武に何の得があるというのでしょう。◇むしろ、「道灌直系じゃ
2018-03-2701:38:09伊東潤著「黎明に起つ」「ちなみに道灌の死後、太田家は二つの系統に分かれていた。道灌を殺されたことで、扇谷上杉家から離反した嫡男資康の太田家と、道灌の死によって太田家の名跡を継いだ永厳の太田家の二系統である。宗家は後者となり、後に前者は江戸太田家、後者は岩付太田家となっていく。」黎明に起つ(講談社文庫)864円Amazon「太田永厳」=「太田永賢(資家)」説とは、けっして独りよがりな感想ではなかったのです。よかったです。
(東日本大震災から7年、遭難された方々のご冥福と被災地の復興をお祈りします)でもまだ続くよ、「太田永厳」。今回はちょっと厳しいことも書かせていただきます。「永厳」ですし…。堂々の前回、第5回はこちら↓「年代記配合抄」で太田道灌の後継をした記録されている太田六郎右衛門。そして、その跡を継いだとされる「備中守」。黒田基樹氏は「備中守」とは「太田永厳」であるとしています。しかし、それが太田資武の言う自らの祖先「太田永賢(=資家)」であっても不思議ではないとここでは考えてきました。
岩付太田の祖「太田永賢」こそが、太田家家督相続者「太田永厳」ではないか(なんかややこしい)と考える、堂々の第5回です!第4回はこちら↓太田資家=太田永賢=太田永厳説を言うのに最大の難間は「石川忠総留書」にある大永四(1524)年正月十日の記録です。ここには「為代官太田備中入道永厳出仕」とあります。しかし養竹院に残る「資家」の位牌によると資家は大永二(1522)年の正月十六日が命日とされているのです。「資家」が大永二(1522)年に亡くなっているのなら、大永四(1524)年
戦国ラストサムライ、太田資武は自らの祖先を「太田永賢」であるとしか書き残していません。(しつこい)「太田永厳」とは資武の言う「太田永賢」なのではないか?と考える4回目です。3回目はこちら↓「年代記配合抄」には、太田道灌が暗殺される文明18年の記録の前前年に「道可生、父ハ太田美濃守」となっています。この記述から「資頼(道可)」の父とされる「資家(永賢)」は、美濃守だから道灌後継の「備中守」ではないと考えられているようです。しかし、よく考えてみれば、この「備中守」が黒田基樹氏
(また太田永厳)戦国ラストサムライ、太田資武は自らの祖先を「太田永賢」であるとしか書き残していません。だったら、発見されたという「太田永厳」という人物は、その「太田永賢」だと考えるのが自然ではないか?と考える3回目です。「太田入道永厳」という人物の書状が発見された時、◇本当は、岩付太田の祖「太田永賢」が太田道灌と同じ「備中守」を名乗っていたとされるべきだったのではないでしょうか◇「太田潮田系図」では、「資家」の子が「備中守」を名乗っていることが書かれています。そうだとすれば
(2021/3./3に書き直しました)「はみ唐さん」は、「受領名が明らかでない『太田資武状』の「永賢」は、道灌の養子として家督を継ぎ「河越西門之屋敷」に入ったとされます。「河越西門之屋敷」に入ったとなれば、扇谷上杉当主の近くで仕えた家宰であった可能性も出てきます。」と指摘をされています。この「養子として家督を継ぎ「河越西門之屋敷」に入った」(「家督ヲ被致与奪、河越西門之屋敷へ被相移」)という資武状の文章は、黒田基樹氏の「江戸太田氏と岩付太田氏」の中で「証拠」として引用もされ
2018-03-0212:19:34「そうだ、そうだ」と言うかのような、白鳥さんの応援も得て、さらに進んでいきましょう。太田道灌の子孫は、「岩付太田家」と、「江戸太田家」に分かれたとされてきました。しかし、今現在、「太田道灌」の真の後継は、このどちらでもない第三の家系である「太田永厳」であるとされています。(黒田基樹氏説)「太田永厳」は、書j状を残しており「実在する人物」です。私もまた、道灌後継は「岩付太田」でも「江戸太田」でもないと思っています。◇「岩付太田家
昨日の話の続きです。太田資正は、息子資武にどんな話を伝えていたのでしょう。この「太田永厳」は黒田基樹氏が博士課程在学中に書いた「江戸太田氏と岩付太田氏」という論文で初めて登場します。ここでの、「江戸太田氏の祖である資康が道灌後継であることは明白である」という見解から「太田永厳」論は出発しているのです。そういう立場から見れば「太田資武が自らの祖先を太田道灌であるとねつ造している」と思うしかありません。ですから道灌後継者の「太田永厳」の資料が出てきても、資武の言う「太田永賢
2018-02-2612:06:15太田道灌の後継者。それは、「江戸太田家」と「岩付太田家」とされました。なぜ2つの家系があるのでしょう。なぜそんなことになったのでしょう。それは、徳川家康夫人英勝院の祖先を江戸城に関係のある「太田道灌」としたからなのです。それはちょうど徳川家がその祖先を源氏の新田氏としたということと同じです。クリスペプラーに明智光秀の遺伝子があったというのですから、英勝院が「太田道灌」の子孫でないなどとは言えません。しかし、出自にあいまいさのある英勝院の祖先
太田資武状では「道灌の実子これ無く」と、「実子などいなかった」ことが書かれています。資武は「自分の家系を飾ろう」と、江戸太田家に「岩付太田家」が道灌直系であると「ねつ造」して書き送ったのでしょうか。何のために。◇そんなことをして、資武に何の得があるというのでしょう。◇むしろ、「道灌直系じゃないです」と江戸幕府要人で徳川家康夫人の甥に書いて送った方が得だったのではありませんか?江戸時代、出世のために「家系」を売ることは少なくなかったのです。「江戸太田が本家で自分た
非業の死を遂げた太田道灌。その家督継承はスムーズだったのでしょうか。実子(庶子?)、養子それぞれに、「自分こそ後継者」という強い思いがあったのではないでしょうか。道灌の後継を「太田資家」とみる、この「太田資武状」はもとはといえば「江戸太田氏」側からの依頼で提出したものです。しかし、本当なら「江戸太田」には、「資武」以上の「口伝」が無ければおかしいのです。◇なぜ「太田資武」から話を聞く必要があったのでしょう。◇「江戸太田」の記録はこの資武の証言を基にして作成されているの
Yahoo!ニュースでこんなものがありました。⬇️https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170519-00010002-fukui-l18武将の骨壺発見ですね。へぇ〜、太田資武さんって小田原北条氏と戦ったんだね。骨壺があったってことは亡くなった後、火葬されたってことですね。この時代は土葬かなって思ってました。小田原北条氏は滅んだけど資武は江戸時代まで生きた武将。う〜ん、生きなきゃ…ねにほんブログ村宜しければバナーをクリックしてね。
さいたま市岩槻の戦国武将・太田資正が、小田原北条氏との間で繰り広げた武州松山城を巡る攻防戦は、戦国関東の合戦譚の華。江戸時代の軍記物でも繰り返し描かれてきました。しかし、この松山城合戦は、何度も繰り返された戦いだったため、江戸期の軍記物においても、年号や順番に混乱や狂いが散見されます。軍記物ではありませんが、太田資正の三男・太田資武が書き残した『太田資武状』も同様です。本稿では、『太田資武状』における松山城合戦の記述を辿りながら、戦後の一次史料研究によって明らかにされた同合戦の経緯と対応させ
太田資正の三男・太田資武が、父の所業を書き残した書状『太田資武状』。江戸時代初期に書かれたこの書状には、武州岩付城(岩槻城)を巡って、北条氏康と太田資正の間に攻防戦があったことが記されています。「岩付之城属氏康手ニ候儀は、兄ニ候源五郎、親を楯出申後之儀ニ御座候、三楽岩付ニ在之内も、氏康以猛勢被攻候得共、城堅固ニ持、寄手幾許被討及難儀申ニ付而、従氏康、大道寺駿河と申人、未若輩之砌、城中へ被投籠懇望之間、不及是非、取懸候人数為挙申由候、此段之事多儀ニ候条、筆紙ニ者不被申上候事」大意は、・岩付