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日本中世史の大家、黒田基樹先生による『戦国武将・伊勢宗瑞』。素浪人から下剋上を果たしたとされてきた「北条早雲」の実像を、最新研究を総合して描き出した名著です。現時点で、伊勢宗瑞についてこれに勝る本は無いと思われます。私にとって愛読書です。(刊行直後に買いましたよ!)戦国大名・伊勢宗瑞(角川選書)Amazon(アマゾン)1,300〜5,360円しかし、太田氏に関して調べものする立場から読むと、あれ?という記載も。具体的には、63頁の「江戸時代の系図史料などでは、美濃守資家と伝え
(分かりづらくまとまっていませんがUPします)(10/31加筆しました)資武は、道灌の甥で鎌倉円覚寺150世の叔悦禅師の兄が、自分の曽祖父「義芳永賢」であるとはっきりと書いていますが、実は系図資料に出てくる叔悦禅師は「道灌の弟」とするものばかりです。それか叔悦禅師そのものを載せていないかです。資武は「義芳永賢」「叔悦禅師」の父母の名を聞いていたけど覚えていない(覚分明ニ無御座候事)と書いています。ここで「太田潮田系図」を見てみましょう。ここでも「叔悦禅師」は道
あまりにも長いために、リブログではなくコピーして引用させていただきます。「「義芳永賢」の実名を「資忠」としているのは、資忠が道灌の生前に臼井城攻めで討死していることが『太田道灌状』に見えるため、明らかな誤伝である。」と「はみ唐」さんが書いてくださっています。そうです。太田家記に載っているこの系図での「義方永賢」は、誰が読んでもそうとわかるくらいにおかしいのです。もともとは太田家記とは別な資料だとされていますが、譜代大名太田家の系図として採用された「源姓太田氏系図」です。なのに、
でも、資武が曽祖父の実名と受領名を書いたかもしれない書状は残っていないし、残っている資武状4通の内実に3通に「義方永賢(栄賢)」と曽祖父のことを書いているのに、実名受領名がないということは「本当に知らなかった」という可能性も高いのです。資武が知らないということは、父太田資正も実名受領名を知らなかったということです。知っていたとしたら、何としてでも資武に伝えたでしょうし、自分に直接関係のない「上田の旗」の言い伝えまで覚えている資武は、何としても覚えたでしょう。そんな中やはり
けれども、「太田資武」の残した太田資武状には太田義方永賢の実名も受領名も記されてはいません。では資武は自分の曽祖父の実名も受領名も知らなかったのでしょうか。そんなはずないでしょう。戦国大名と国衆12「岩付太田氏」に収録されている前島康彦氏の「太田安房守資武状について」には実は現存する4通の資武状の他に備中守資宗にあてて送った書状が「このほかにも数通乃至それ以上もあった」ということが指摘されています。それは「太田家譜略説」の中に現存する資武状にはない情報が「太田安
(初回投稿2/2713:12:14)(振り返りを続けることをお許しください)いろいろあっても、岩付太田家は越前福井で続いていきました。「資武状」で太田資武は自らの祖を「義芳栄賢庵主」あるいは「義芳永賢」「養竹院殿義芳賢公」としか書いていません。(「梅花無尽蔵」等で道灌公を「灌公」と記している個所がありますので「賢公」は永賢を指すと思われます)太田資武の祖先(そして太田資正の祖父)は法名「永賢」(えいけん)という人物なのです。◇その「太田永賢」は、「発見」
(初回投稿2/2612:06:15)太田道灌の後継者。それは、「江戸太田家」と「岩付太田家」とされました。なぜ2つの家系があるのでしょう。なぜそんなことになったのでしょう。それは、徳川家康夫人英勝院の祖先を江戸城に関係のある「太田道灌」としたからなのです。それはちょうど徳川家がその祖先を源氏の新田氏としたということと同じです。クリスペプラーに明智光秀の遺伝子があったというのですから、英勝院が「太田道灌」の子孫でないなどとは言えません。しかし、出自にあいまいさのある英勝院の祖
(元の記事はこちらです)太田資康は「太田道灌の嫡子」とされていますが、嫡子がいるのなら、なぜ道灌は甥を養子にしたのでしょう。一説によると「太田図書助資忠」が道灌初めての養子にされた後に、実子である資康が生まれたとされていますが、もし嫡子が生まれる可能性があるなら、早い段階で甥を養子にする必要はないのではないでしょうか。(そして「図書助」が下総臼井で戦死したあとも、「資家」が養子とされているのはなぜなのでしょうか。)様々な記録で「図書助」とされる人物が早い段階で道灌の「
伊東潤氏はその著「黎明に起つ」で、「ちなみに道灌の死後、太田家は二つの系統に分かれていた。道灌を殺されたことで、扇谷上杉家から離反した嫡男資康の太田家と、道灌の死によって太田家の名跡を継いだ永厳の太田家の二系統である。宗家は後者となり、後に前者は江戸太田家、後者は岩付太田家となっていく。」と書いており、「江戸太田でも岩付太田でもない第3の家系である太田永厳」とは違う見方です。ほっと一安心。そして、「城をひとつ」でも「使者は太田惣領家の当主・永厳である。同じ扇谷
(2021/3./3に書き直しました)「はみ唐さん」は、「受領名が明らかでない『太田資武状』の「永賢」は、道灌の養子として家督を継ぎ「河越西門之屋敷」に入ったとされます。「河越西門之屋敷」に入ったとなれば、扇谷上杉当主の近くで仕えた家宰であった可能性も出てきます。」と指摘をされています。この「養子として家督を継ぎ「河越西門之屋敷」に入った」(「家督ヲ被致与奪、河越西門之屋敷へ被相移」)という資武状の文章は、黒田基樹氏の「江戸太田氏と岩付太田氏」の中で「証拠」として引用もされ
2018-03-0212:19:34「そうだ、そうだ」と言うかのような、白鳥さんの応援も得て、さらに進んでいきましょう。太田道灌の子孫は、「岩付太田家」と、「江戸太田家」に分かれたとされてきました。しかし、今現在、「太田道灌」の真の後継は、このどちらでもない第三の家系である「太田永厳」であるとされています。(黒田基樹氏説)「太田永厳」は、書j状を残しており「実在する人物」です。私もまた、道灌後継は「岩付太田」でも「江戸太田」でもないと思っています。◇「岩付太田家
昨日の話の続きです。太田資正は、息子資武にどんな話を伝えていたのでしょう。この「太田永厳」は黒田基樹氏が博士課程在学中に書いた「江戸太田氏と岩付太田氏」という論文で初めて登場します。ここでの、「江戸太田氏の祖である資康が道灌後継であることは明白である」という見解から「太田永厳」論は出発しているのです。そういう立場から見れば「太田資武が自らの祖先を太田道灌であるとねつ造している」と思うしかありません。ですから道灌後継者の「太田永厳」の資料が出てきても、資武の言う「太田永賢
2018-02-2713:12:14「資武状」で太田資武は自らの祖を「義芳栄賢庵主」あるいは「義芳永賢」「養竹院殿義芳賢公」としか書いていません。(「梅花無尽蔵」等で道灌公を「灌公」と記している個所がありますので「賢公」は永賢を指すと思われます)太田資武の祖先(そして太田資正の祖父)は法名「永賢」(えいけん)という人物なのです。◇「太田永賢」は、「発見」されたという「太田永厳」とは違う人なのでしょうか。◇「太田家記」には興味深い記述があります。道
2018-02-2612:06:15太田道灌の後継者。それは、「江戸太田家」と「岩付太田家」とされました。なぜ2つの家系があるのでしょう。なぜそんなことになったのでしょう。それは、徳川家康夫人英勝院の祖先を江戸城に関係のある「太田道灌」としたからなのです。それはちょうど徳川家がその祖先を源氏の新田氏としたということと同じです。クリスペプラーに明智光秀の遺伝子があったというのですから、英勝院が「太田道灌」の子孫でないなどとは言えません。しかし、出自にあいまいさのある英勝院の祖先
こんなに有名な伝説的武将、太田道灌さま。今日はその奥様について考えてみましょうか。前にも書きましたが、太田道灌にもし嫡子が生まれる可能性があるなら、早い段階で甥を養子にする必要はないのです。しかし、様々な記録で「太田図書助」とされる人物が早い段階で道灌の「養嗣子」とされていることが明らかになっています。そこには何か事情があったと思いますが、「嫡子が生まれないであろう」という判断は道灌の「正室」の問題があったのでは?と推察できます。後継ぎを生むことができない
非業の死を遂げた太田道灌。その家督継承はスムーズだったのでしょうか。実子(庶子?)、養子それぞれに、「自分こそ後継者」という強い思いがあったのではないでしょうか。道灌の後継を「太田資家」とみる、この「太田資武状」はもとはといえば「江戸太田氏」側からの依頼で提出したものです。しかし、本当なら「江戸太田」には、「資武」以上の「口伝」が無ければおかしいのです。◇なぜ「太田資武」から話を聞く必要があったのでしょう。◇「江戸太田」の記録はこの資武の証言を基にして作成されているの
漢文として有名な「出仕の表」も、「臣亮言」と始まっています。しかし、これは、臣下である諸葛孔明が帝の劉禅に上奏したものなのですから、自分のことをへりくだって「亮」としてもいいのだと思います。けれども、この「梅花無尽蔵」は太田資康が書いたわけではありません。太田道灌に招かれ、江戸城に滞在していたという、作者万里集九にとって「資康」はどのように見えていたのでしょう。失礼ながら、「資康」は、道灌公の生前にきちんと嫡男として認められていたのでしょうか。疑問を持ちます。だってね、
(2/7追記しました)すっかり、横道にそれてしまいましたが、岩槻城築城について、もうちょっと考えてみましょう。カギを握っているのは「自耕斎詩軸并序」の中にある「岩付左衛門丞顕泰」(いわつきさえもんのじょうあきやす)と、そのお父さん「金吾法諱正等」(きんごほういしょうとう)です。それまで岩槻城は「太田道真」(おおたどうしん)・「太田道灌」(おおたどうかん)が江戸城、河越城とともに築城したとされてきました。ところが、今、この「岩付左衛門丞顕泰」の父「金吾法諱正
(11/1少し書きかえました)そして今、私の胸をつかんで離さないのが「太田尹資」の人生です。太田道灌の甥で養子、そして一周回って「太田永厳」ではないかと言われている(笑)太田永賢こと太田資家が開基した養竹院に、太田尹資はやってきます。彼は、「自分こそ太田道灌嫡流7代目である」と主張します。当然彼の主張は自分の祖先「太田道永資家こそ道灌公の養嗣子である」とするものでした。しかし、当時は江戸時代です。家康夫人お梶の縁者でもある康資系の隆盛は紛れもないもので、太田康資が「嫡流