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先週末、東京国立博物館=トーハクで久々にジェンナー像を見てきました。いつも入り口を入ってチラ見するものの、素通り。夥しい数の来場者がいるにもかかわらず、ほとんど気づかず通り過ぎるのがこの像ではないでしょうか?もう心は展示室に向いて、速足で一直線にそちらを目指しているに違いなく。あるいはたまたま気づいても一瞥だけして通り過ぎるのが常。余りに気の毒なので、久々に接近してみました。そもそもこの場所になぜこれ?というのが長年の疑問。トーハクにどっぷりゆかりのある人の像ならあ
好きを仕事にしましょうってビジネス系の発信によくあります。ドキッとしませんか?はて、私はいまの仕事が好きなんだろうか?好きなものでなければ仕事にしちゃいけないのか?ふと疑問がよぎったりよぎらなかったりどっちやねん好きってどんなものかわからないって人も少なからずいると思うから、好きを仕事には案外ハードル高いよね。でも、たとえいまそれが仕事に結びついてなくとも好きをずーーっと持ち続けてるひとはきっと人生が豊
■二十四節気大暑二十四節気とは一年を二十四等分し、その分割した日に季節を表す名称を付したもの。夏は、熱(ねつ)の季節。大暑(たいしょ)は七月二十三日頃暦便覧には、「暑気いたりつまりたるゆえんなればなり」とあります。暑さが最も厳しくなる季節です。雲の峰が高々とそびえ、夏の到来を強く感じます。小暑の終わりから大暑にかけての土用の丑の日には、暑い時期を乗り切る栄養をつけ夏バテを防止するために鰻を食べる習慣があります。この習慣の由来は、ある鰻屋が、夏に売れないうなぎをなんとか売ろう
今日は大晦日。四方赤良こと、太田南畝の狂歌を思いだす。もののふも臆病風や立ちぬらん大つごもりの掛取りの声掛とは、いわゆるツケのことで、現代でも、貸借対照表、つまりバランスシートに売掛金、買掛金の項目がある。買掛金とは将来の支払日を決めて何かを買うことであり、要するに負債を意味し、立場をかえて、掛で何かを売った方にとっては、それは売掛金となり、資産となる。江戸時代、《江戸っ子は宵越しの銭は使わぬ》などといい、その日稼いだ金は当日に
先日のブログで、「わけあって浅草神社に行った」、、、と書きました。浅草寺と隣接している神社ですが、浅草寺が有名すぎてスルーされることが多いかと思います。けれどいたるところに様々な碑があり、さらにカラフルな壁面など見所満載。今回1回では網羅しきれないほどネタにあふれています。。。とはいえ今回私のお目当てはいたって地味なものでした。それがこれ↓江戸時代の戯作者・山東京伝の机塚です。今、滝沢馬琴の生涯を追った日経新聞夕刊の小説「秘密の花壇」(朝井まかて氏作)
感情を問われている問題では、核となる感情とその理由を考える、という事を意識してもらい、古文は現代語訳を通して助動詞の意味の役割を知ってもらいました。HW授業の予復習
新宿中央公園内にある熊野神社をお詣りします。午後五時を過ぎているので、公園側からの門は閉ざされています。但し、十二社通りに面した西側からはアクセス可能です。この絵面だけで、新宿にあることが分かりますね。中野長者で知られる、鈴木九郎によって創建されたと伝わる熊野神社。女性のイラストが蔓延る中、渋い写真で手水の作法を紹介しています。静かな憤りが伝わってくる貼紙。日本人は神社でそんなことはしないと信じたい。公園側の門が閉ざされていた理由は、こ
過去に行って良かったと思う旅行先は?▼本日限定!ブログスタンプやっぱり北海道でっかいどー!でござんすな。✈️が苦手なもんで、33時間もかけて日本沿海フェリーでの船旅⛴️...あなたもスタンプをGETしよう🏊プールもあるし、こりゃ快適な旅になるかと思いきや、この年まさかの冷夏くそっ寒くて甲板に出られず、やっとの思いで見た金華山沖の漁船、見た次の瞬間、マストだけしか見えねえの😱そう大シケ😰😩😭それでも苫小牧港に着いた時からは帰るまで晴れつづきで楽しかった思い出。積丹で泳げたし、函館競馬場に
ファーマータナカの今日の狂歌。「世の中は色と酒とが敵(かたき)なりどふぞ敵にめぐりあいたい」共感、ちょっと大人しく自粛してると、俗人の血が騒ぐ。天明期、酒徒としても名高き粋人太田蜀山人有り、雅号を南畝(なんぽ)と云う。南畝は又、四方赤良という狂名も使った。江戸の狂歌流行の基礎を作ったこの文人は、昔歴史や古典で習ったのだろうが、その時は何か変な奴がいるとただ名前を覚えた位で、まさか将来師と仰ぐ存在になるとは、夢にも思わなかった。晩年登城の途中で転倒し、それが元で死去したと
塾生、保護者の皆さんこんにちは。おだやかに晴れています。いい陽気で「週末はどこに行こう?」と考えてしまいますね。犬を連れて公園に散歩ぐらいはいいですよね。一昨日の夕刊。太田南畝(蜀山人)が花見の様子を書いた「花見の日記」について桜の種類の多さに驚いたという記事。※田中優子「江戸から見ると」毎日新聞・彼岸桜・一重の山桜・糸桜・白樺桜・白桜・赤い一重桜・見合桜・秋色桜・江戸桜・八重の桜
大江戸線牛込柳町駅を出るとすぐに瑞光寺さん、経王寺さんがあります~そこから少しぷらぷら歩くと路地に入り分かりにくいですが、浄栄寺にたどり着きます♥️過去参拝酒井抱一巡り~抱一さんの過去帳が残る寺院です雨華庵を継いだ酒井鶯蒲さんが浄栄寺八世壽徴さんの二男でした浄栄寺山号…覺雲山寺号…浄栄寺宗派…浄土真宗浄栄寺所蔵の文化財尺八「放下着」一式ならびに普化尺八伝授関連資料(新宿区指定有形民俗文化財)浄栄寺の梵鐘(新宿区登録有形文化財)浄栄寺(じょうえいじ)の山門「甘露門」↓↓↓↓
万世橋から、旧中山道をお茶の水に向かって歩いています。外堀通りとの交差点付近です。レトロな中央線の高架橋も、近い将来リニューアルされてしまうかもしれないですね。そのきっかけが、地震による崩落とならないことを祈ります。お茶の水へ向かって続く淡路坂の途中に、岩崎彌之助邸跡の碑があります。岩崎彌之助は、三菱の創業者である岩崎弥太郎の弟で、二代目の総帥です。彌之助は後藤象二郎の娘と家庭を持ち、4人の子供達は、この地から東京師範学校(現東京医科歯科大学キャンパス)へ通いました。
東京都板橋区南常盤台ときわ台天祖神社参拝の後に奉祝書き置きのみの御大典御朱印と直書き御朱印を頂きました。(書き置きのみ)奉祝御大典御朱印↓直書き御朱印には太田南畝さん↓茅(チガヤ)↓こしひかり↓由緒書きの折り鶴お心遣いありがとうございました(^^)『感謝』
東京都豊島区池袋本町池袋氷川神社で参拝の後に御朱印を頂いてきました。↓いつまでかは解りませんが、奉祝天皇陛下御即位の御朱印です(直書き)その後に東京都板橋区南常盤台ときわ台天祖神社で参拝の後に御朱印を頂いてきました。↓直書き御朱印(太田南畝さん)↓(書き置きのみ)奉祝御大典御朱印今日は近場の神社2社の神社御朱印巡りでしたが、池袋氷川神社も、ときわ台天祖神社も優しいお心遣いをして頂きとても温かい気持ちになる事が出来ました。気持ちが良い参拝が出来た事に感謝です。人
●鬼子母神(きしもじん/きしぼじん)(※画像はwikipediaから)密教に於ける天部の一神で、仏教を護る夜叉の一尊。インドでは「ハーリティー」と呼び、その音から「訶梨帝や訶里底(かりてい)」、「呵利陀(かりだ)」と書かれるため、「訶梨帝母(かりていも)」とも称される。また、ハーリティーは誘惑や敗北、緑、緑青などを意味し、訶里底は悪女を意味する言葉でもあるから、「青色鬼」、「鬼子母」、「大薬叉女」などと意訳された。密教では吉祥天の母とされる。『一切説根本有部毘奈耶
現在の老舗お蕎麦屋さん(写真:江戸蕎麦手打處あさだ)江戸時代後期の文人・蜀山人(しょくさんじん、太田南畝)の随筆集『一話一言』に『五歩に一楼(ろう)、十歩に一閣(かく)、みな飲食の店ならずといふこと無し』(意味:江戸の町を五歩行けば小さな道が一軒、十歩行けば店が一軒あって、これが全て飲食店だ)というものがあります。江戸時代後期の江戸の町に飲食店が多かったのは確かなようです。江戸の飲食店は蜀山人(しょくさんじん、太田南畝)が『五歩に一楼(ろう)』(数メートルに一飲食店の意)と
こんにちは。木曜日担当の小田島です。昨日5月16日に坂西さんが書いた当ブログの記事によると、昨日5月16日は松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に旅立ったことから「旅の日」だったのだそうです。旅に病んで夢は枯野をかけ廻る芭蕉・・・。旅に病んで夢は枯野をかけ廻り猫はこたつで丸くなる小田島コーチ旅に病んで夢は枯野をかけ廻るそれにつけても金の欲しさよ小田島コーチ余談ですが、どんな俳句につなげても下の句として成立してしまうというこの「それにつけても金の欲しさよ」、実
2018正月新年おめでとうございます。…書初めや無謀に始めてもう三年…何事も長続きしない小生にとって書初めと言うべき新年詠み歌を、3年以上続けられたことは本当に驚きです。無謀に始めた詠み歌に輪をかけて、新たに俳句を取り入れた文中3句・小タイトル風も題材に若干手詰り感があり、今までならこんな理由でとっくに止めているのですが、ことこれに関しては何故か辛抱強いんです。…年新続けるだけの取柄かな…そんなわけでもありませんが、例え年1回のブログ投稿になっても、文中3句&詠み歌は
中山道(岐阜県道65号線)を東へと突き進んで行くとちょっと神秘的な場所へと着きました。弁財天の池という所です。池の中に小さな島と祠がありました。自由に祠まで入って行けるので行ってみました。案内板がありました。説明文:『歴史の道』中山道弁財天の池(べんざいてんのいけ)享和二年(1802)に太田南畝(蜀山人しょくざんじん)が著した「壬戌紀行じんじゅうきこう」に左の方に小さき池あり。杜若生(かきつばた)ひしげり。池の中に弁財天の宮あり。」との記述があります。常に水をたたえカキツバタやシ
半べえ庭園江戸時代の初めは市中に食べ物屋はなかったが、1657年・明暦の大火(振袖火事)後、浅草で奈良茶飯が出たのが初めで寛文年代(1661年~1673年)慳貪そばや慳貪うどんの店が流行<慳貪(けんどん)1杯ずつ盛り切りにして売ったそばやうどん>1700年代終わりごろには、すし屋、仕出し料理屋が至る所にできた京都、大阪も同様にかなりの速さで発展して行く1700年代終わりごろは江戸の双璧と呼ばれた料理
小さい頃から良く親、幼稚園の散歩で連れられて遊んだ百花園。江戸時代に開かれた百花園、四季折々の花が楽しめます。そして御朱印と言えば、お寺さん、神社さんだけど、そうです‼︎百花園には、隅田川七福神の福禄寿さんがいるんです‼︎╰(*´︶`*)╯♡でもって、当時園主佐原鞠塢の為に江戸時代の狂歌師、蜀山人太田南畝が、福禄寿の三文字を一つにア-トスティックにまとめた文字書いて送ったのがこの文字です。百花園の御朱印は、元旦から7日の1週間、七福神御開帳期間に限り揮毫されないんです。貴重です。
今日の東京は、晴れのち曇り東京2日目ですが、この家のある場所がとても都合がいいのですのどが渇けば観てるテレビのコマーシャルの間に飲み物を買ってこれる外に冷蔵庫があるみたいです、お金の事、気にしなければ・・・笑昔、父が江戸時代の鋳物師は教養があった、と言う話をしてくれましたあるエピソードなんですが詳しい話は忘れてしまったし、今の父はそんな話を説明出来るような状態じゃないものでうろ覚えの話を自分なりに謡いの一節かと調べてみたりしましたが解らないままもうこの話は永久に藪の中だと思ってい
晴寒暖計82度【=摂氏27.8度】この日、・午前、書斎にあった太田南畝【蜀山人】の狂歌集を一読。【ここでは狂歌省略】・渋沢栄一翁著述「青淵百話」を購入。・午後、岡山高蔭来宅、習字。藤岡【作太郎】文学博士の著書についてきいてみると、「異本山家集」という著述もあり、普通の山家集よりも歌が300首多く、またその西行論も非常におもしろいので一読すべきとのこと。・岡山から、乃木大将の大行天皇【注・崩御した天皇の呼び方】奉悼の歌をきく。率直でいかにも大将の歌らしいと思う。