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おまわりさんに助けられたことある?随分前にここで書きましたが、あります。小学生の頃、近所の公園でケガをした時にお世話になりました。で、これだけだと寂しいので、いつものように雑談へと進みます。我が日本国の近代警察制度の創設者は「川路利良(かわじとしよし)」という人物で、彼は歴史小説家司馬遼太郎氏の代表作の「坂の上の雲」に多く登場し、「飛ぶが如く」にも大久保利通とたもとを分かって下野してからの西郷隆盛と対立する立場(政府側官僚)で登場します。川路利良は日本国における近代警
海音寺潮五郎は、鹿児島県伊佐市(旧・大口市)生まれの薩摩人だ。氏は、故郷の英雄・西郷隆盛を惚れ抜いていた。私が西郷の伝記を書こうと思い立ったのは、私が西郷が好きだからです。理由を言い立てればいくらもありますが、詮ずるところは、好きだからというに尽きます。好きで好きでたまらないから、その好きであるところを、世間の人々に知ってもらいたいと思い立ったという次第です。と言って、大長編史伝『西郷隆盛』を書いた。どうしても西郷伝を書かなければならない。私が書いておかなければ、西郷はこの妄説の中
東京都品川区、大森貝塚遺跡庭園から北側300m程の所、品川区立品川歴史館。↑↑↑大正初期の、品川の海での海苔の養殖分布。↓↓↓こちらは、昭和16年〜令和5年までの東京湾埋め立ての変遷。↓↓↓埋め立て地で発掘された昭和の頃のビン&アルマイト缶。↓↓↓ここからは、日本初の鉄道&品川停車場。↓↓↓品川停車場(後の、品川駅)のジオラマ模型。↓↓↓レール!↓↓↓右が時刻表&運賃表。中央が、太政官第九十二号達(たっし)。(仮開業達)。↓↓↓こちらは、一等〜三等切符。
いま持ってる一番お気に入りの服は?衣替えをして、お気に入りといえばベージュのニットのコートまではいかないけど上着かな?もう少し寒くなったら出番ですね。スカートたちも、ワンピースもおきにいり。今日のお出かけは、お気に入りの一つである茶色のワンピースを着ていこう(*´艸`)日中は暖かくなるみたいだから薄手のカーディガンか、ストールで迷うなぁ…洋服記念日1872年(明治5年)旧暦11月12日に「礼服には洋服を採用する」という内容の太政官布告が公布されました。これを記念し
明治殺人法廷[芦辺拓]楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}明治が20年になっても政情が落ち着いていたわけではない。そんな時期のお話です。明治維新と新政府樹立。その後も新政府打倒、第二維新を目指そうとする動きがあり、名を捨てて生きることを余儀なくされた人々がいた。不穏分子を一掃するために、官憲が行ったマッチポンプ。物語ですが、最近の冤罪、再審請求を見ると、恣意的な捜査は昔から行われていたのかも。法廷で繰り広げられる弁護と亡くなった人の事情。
久しぶりの土日休みは、録画して溜まっていた大河ドラマ「光る君へ」⑱話から昨日放映の㉕話まで一気見😊。為時越前国司時代の話は知らないので割愛するとして、道長が関白を固辞していたシーン。内覧で公卿筆頭の右大臣道長が関白に昇ると、内大臣であった伊周が右大臣になり、太政官を掌握されるおそれがあったからと思います。藤原実頼のように「名ばかりの関白」になるのを避けたのでしょう😊。大河ドラマの感想で、紫式部が晩婚だったことから結婚適齢期を逃していたと書かれているのを拝見しますが、たしかに貴族同士の政略結
「この紋所が目に入いらぬか?」「へぇ、入りまへ〜〜ん!」家紋と云えば見せるだけで誰もがひれ伏す「水戸黄門」の「三つ葉葵」が有名だよな皇室の家紋の正式名称は「十六八重表菊(じゅうろくやえおもてぎく)」って言うだよな。古くからこの家紋が使われているのかと思ったら明治6年(1873年)の太政官布告により決められたものだったんだ。元々、皇室は「桐竹紋(とうきりもん)」・・・俗に云う五三の桐だったんだ。今でも500円硬貨の裏面にはこの紋が使われているけどね。桐は想像上の聖獣である「鳳凰」が
『世に棲む日々』ー司馬遼太郎●あとがきー⑤✪松陰のもっとも忠実な弟子と自任していた人物は、前原一誠しかいなかった。前原は松下村塾の出身者群が枢要の席についている明治の太政官政府はきわめて松陰思想的でないと思い、いわゆる萩の乱を起こして失敗し、松陰に親炙(しんしゃ)した木戸孝允らによって形殺された。松陰に愛された品川弥二郎も、太政官の内務大書記官であった。品川は前原と仲がよく、その獄舎をたずねた。『西南記伝』の記者は、その状況をよく取材していたものと思える。前原と同士で、同じく松陰の弟子の奥
私の世代の「西郷隆盛」といえば、『翔ぶが如く』である。中学生のころ朝刊をめくると、その連載があったのを覚えている。手にして読んだのは文庫になってからだった。『翔ぶが如く』は司馬遼太郎が書いた長編歴史小説で、主人公は西郷隆盛大久保利通の2人。それまで読んだ『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』、『国盗り物語』とは勝手の違う、読み進むのに時間のかかる、どちらかというと『坂の上の雲』への移行形のような小説だった。そして、司馬氏特有の〝余談文学〟のにおいがプンプンしていた。小説『翔ぶが如く』
前のブログでは、公式様文書(律令の規則にのっとった文書様式)の符・移・解について説明し、①太政官が神祇官宛に符を出していた。②神祇官は太政官に解を出していた。ついでに、③神祇官は民部省に移を出していた。と説明しました。実際に古文書を見てみましょう。こちらは佐藤進一先生の『新版古文書学入門』に掲載してある図版からです。上部が少し切れていますが、読むのには支障なさそうです。内容は、ぶっちゃけ関係ないので省略してもいいのですが、ざっくりいうと、太政官が神祇官に対して、奈良の広瀬
奈良時代の律令制におけるツートップの役所です。二官八省って言いますが、その「二官」です。この二つの官庁はどちらが上位だったのか、という話です。一応、どちらも「◯◯官」なので同ランクではあるんですよ。しかし、神祇官の方が上位だと思っている人もいます。なぜ神祇官の方が上位だと思うのかというと、おそらく、『律令』の本文には、太政官より先に神祇官についての規定が記載してあるから、だと思います。最初に説明している方が上位だと思いますよね。確かに、そういうこと日本史ではよくあります。人
目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む大久保利通(1830年-1878年)大久保利通(おおくぼとしみち、1830年9月26日(文政13年8月10日)-1878年(明治11年)5月14日)は、幕末から明治前期にかけての日本の政治家[1]、武士。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、利通、雅号は甲東。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「
(^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆...9月23日(金)#大安(己卯)秋分の日旧暦8/28秋分・秋の彼岸月齢26.8月齢16.1年始から266日目(閏年では267日目)にあたり、年末まであと99日です。..朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない朝はありませんし、朝が来ない夜はない💦睡眠は明日を迎える為の☀️未来へのスタートです🏃♂💦でお馴染みのRascalでございます😅..39/53週目のラスト
『海軍の友人、陸軍の友人へ』-司馬遼太郎●英雄的自己肥大✪明治・大正までの海軍士官の家庭は、子弟に諸藩士の家庭ではなく(諸藩士の家庭は、徒士以下はぞんざいなものだったようです)旗本のそれを、無意識にシツケとして伝承させようとつとめたのでありましょう。両親に対しては、サンでなくサマをつかわせ、かならず敬語を用いさせるというのは、諸藩の徒士級(太政官の大官の出身家庭)のそれでなかったと思います。旗本の家は、いずれこの子が殿中で御役につくということで、そのときにハジをかかぬよう、じつにやかましく
曇り空の日曜日。どんより。三連休最後の日なのに、残念。雨が降る時間が早まって、午後には雨になるらしい。困る。寒い寒いと身体を動かさないと、さらに寒くて縮こまってしまうわけで、寒くても身体を動かさないとダメですね。昨日は予報通りに午後には陽射しが出てきたので、少しだけZ650に乗りました。とても面白い。でもとても寒い。エンジンが暖まって本調子になるのに1時間くらいかかる。その頃には身体が冷えていたりします。:-<この季節は6速でクルージングしていると身体もエンジンもオー
心身リラックスできる時間を取り、明日のために備えましょう。人の名前を間違えて呼んだことある?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう1874年(明治7年)12月13日に、「双生児、三つ子出産の場合は、前産を兄姉と定む」という太政官布告が出されたことにちなんだ記念日。
天武朝に仕え、太政官兼刑部大卿を務めた小野毛人[おののえみし]。崇道神社背後、西明寺山上にある小野毛人墓です。■石碑「太政官兼刑部大卿小野毛人朝臣之墓」■崇道神社一ノ鳥居■崇道神社三ノ鳥居ここを右へと進みます。■道標小野毛人朝臣之墓←山上一四〇メートル左手眼下には崇道神社の社殿が鳥観図のように見渡せます。何やら見えてきます・・・・・■墓碑1613年(慶長18年)崇道神社裏山の石室から墓誌(位牌)が発見されま
2021年12月6日。浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊前回は『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940)の「伊州藩届書」から、津藩(伊州藩)藤堂家家中の戊辰戦争浪江の戦いの様相を検討してみました(344頁)。もともとの出典は『太政官日誌』なので、そちらを確認したいなーって思って、昨日から国立国会図書館のデジタルコレクションを見ていたところ、『太政官日誌』第六十六に該当記事を発見(請求番号CZ-2-01a)!!!😆太政官日誌.慶応4年第13−14巻-国立国会図書
▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようはんこの日由来判章(ハンコ)の重要性をPRするために山梨県甲府市にある印判総合商社のモテギ(株)が制定した。日付けは『ハン(⑧)コ(⑤)』の語呂合わせに由来する。日本のはんこが伝わってきたことを示す歴史的な記録がないために、定かではないのですが、印鑑が日本の歴史上最初に登場してのが、有名な金印でもある『漢委奴国王』と刻ませた印鑑です。実際に日本で使われ始めたのは⑦⓪①年奈良時代の律令制が出来たことからだと言われて
明治5年(1872年)のこの日に、太政官無号達「司法職務定制」が布告され、司法書士の前身である代書人の制度が定められたことに由来する。日本司法書士会連合会が2010年に制定。【会社設立Twitter】【会社設立Facebook】【会社設立YouTube♪】
2021年6月20日日曜日朝は長袖を羽織らないと寒い。朝食をすませ、ゆっくり。寒いんで午前中は、CDでも聴きましょ。バーンスタインのマーラーです。昨日組んだAltec412cです。クラッシックも良いです。テレフンケンのホーンツィーターです。弦がいい感じに鳴ります。マーラーを聴きながら、ほかのスピーカーのエンクロージャーを設計です。お昼をすませ、ちょっと昼寝する。天候不順で体調もしゃんとしません。暑くなってきたんで、午後は庭で苔の手入れです。夏の三種の神器です。スキンガード
2月13日は苗字制定記念日です。江戸時代、貴族と武士のみが苗字を使っていました。しかし、1870年9月19日、平民が苗字を名乗ることを許可する「平民苗字許可令」という太政官布告が出されました。当時の識字率の低さや国民が明治新政府を信用していなかったことから、苗字をつけることで税金を課せられるのではないかと警戒してあまり広まりませんでした。そのため、1875年2月13日、「平民も必ず姓を称し、不詳のものは新たにつけるように」と苗字を名乗ることを義務づける「平民苗字必称義
建国記念日の意味、知ってる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしようおめでとうございます。1889年2月11日に大日本帝国憲法が公布された日ですね。大日本帝国憲法-Wikipediaja.wikipedia.orgそれまでは太政官制というのがこの国にはあり、それが現在の憲法の代わりをしていました。
落ち込むこともありますが、あえて笑顔を作るようにすると前向きな気持ちになれる。大地真央⁂1874年(明治7年)12月13日に、「双生児、三つ子出産の場合は、前産を兄姉と定む」という太政官布告が出されたことにちなんだ記念日。【Amazon.co.jp限定】罪の声豪華版(L版ブロマイドセット付)[Blu-ray]Amazon(アマゾン)7,700円【Amazon.co.jp限定
今の人がよくいう事であるが、学問をすれば心は歪み、多くは頭がおかしくなると。今も昔も学問を志す者で、頭がおかしい人は稀で、だいたいは無知で言っていることだ。学問をしない者の方がおかしい人が多い。これからの人はよく考えておくように。左大史[1]で吉柯朝臣の八代目、大外記[2]であった良業(よしなり)の息子である。従四位下の大外記長門権守であった。文永元年[3]七月十一日六十九歳で亡くなった。[1]下級の弁官[2]太政官の一つ。[3]西暦1264年この一族は儒学者の家系の
今日は何の日:8月15日Nippon.com明治政府が太政官制採用.1869年(旧暦:明治2年7月8日)明治維新政府が官制改革を実施し、民部以下の六...東北にいざなう文化財の宿「阿専」(秋田・羽後)山あいに明治の豪邸河北新報明治中期に建てられた古民家を改装し、農家民宿として2018年4月に開業した。5人までの1日1組限定で一棟貸し切りで利用できる。夕食は.消えゆく洲本の戦争遺構あすで終戦から75年/兵庫県Yahoo!ニュース明治時代に陸軍が敵艦を迎え撃
寛和2年(986年)6/24、源頼光が仕える藤原兼家は、既に右大臣(太政官の第二位)の地位に在ったが、即位したばかりの一条天皇の“摂政”兼任となる。そして同年7/20、右大臣を辞して摂政専任となる。永延2年(988年)、そんな藤原兼家の邸宅・二条京極殿の新築祝いとして、頼光は馬を30頭贈ったという。永延3年(989年)12/20、摂政・藤原兼家は、太政大臣兼任となり、翌年、正暦元年(990年)5/5、一条天皇元服時の加冠役となり、直後、摂政(兼太政大臣)が不要となり、兼
寛和2年(986年)6/22の夜、花山天皇が出家し、一条天皇が即位する。花山天皇の出家は、藤原兼家が自身の娘・詮子と円融天皇との間に生まれた子・懐仁親王(一条天皇)を即位させたいが為に画策したとも言われている。(※この陰謀については、当時の太政官中務省陰陽寮の天文博士・安倍晴明が式神を放って察知していたとも言われている。)この時、出家しようと元慶寺(がんけいじ)に向かう花山天皇を警護していたのが、源頼光の父・満仲の一党で、その中に頼光も居たとか。結果、一条天皇が即位し、居貞親王