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富山で一番小さな酒蔵(吉江酒造さん)の太刀山♪昨年四月の火災から復活!是非是非飲んで頂きたいお勧めの一献です。<(__)><(__)>ラベルのフェニックスが酒蔵の気持ちの表れかと!あと山形の銘酒「十四代」も入荷いたしました。是非是非ご賞味下さいね。■□■□■□■□◇鮨難波店主難波薫939-8002富山県富山市公文名34-12◇オフィシャルHPsushi-nanba.com
<『いらすとや』より>横綱大の里は、昨年の九州場所13日目の安青錦戦において、左肘から落ちた際に左肩鎖関節(ひだりけんさかんせつ)を脱臼し、千秋楽を休場しました。左肘から落ちる大の里(令和7年九州場所13日目)翌令和8年初場所は、見るからに「危ない相撲」や「怪しい相撲」を取りながら、なんとか千秋楽まで勤めて10勝したものの、左肩に強い痛みがあること、左腕にまったく力が入っていないことは明らかでした。左肩を攻められ痛さに顔を歪める大の里(令和8年初場所8日目)翌春場所も、相手
皆様のお陰で、無事に出荷出来て良かったです火災乗り越え奮起新酒きょう出荷砺波市の酒蔵(2026年3月10日掲載)|KNBNEWSNNN去年の春に火災があった砺波市の酒蔵で、きょう今年の新酒が出荷されました。「負けてたまるか」と再起を誓い、酒造りを続ける社長の思いと、出荷に向けた支援の動きを吉田記者が取材しました。news.ntv.co.jp
だそうです!!詳細は北陸酒販さんのXhttps://twitter.com/hokurikushuhan/status/2017168439308399005復活酒太刀山新酒生酒のラベルデザインは弊社クリエイティブ事業で作成し吉江酒造へ納品します。小売価格は720ml1760円1800ml3520円(税込)です。販売店が確定しましたら公開させて頂きます♪https://t.co/fzPv2ZDJLa—北陸酒販株式会社【公式】(@hokurikushuhan)2
明治時代後期、20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎とともに「梅常陸」と呼ばれる大相撲の黄金時代を築いた19代横綱常陸山谷右衛門には、いくつかの興味深い伝説が残されています。うち5つの伝説について、その真相を考えてみました。■300kg巨石かつぎ上げ伝説『17歳で相撲界に入る前、亀戸天神の太鼓橋にあった力石(約20貫:75kg)を頭上高く持ち上げた。隣にあった力石(約40貫:150kg)も難なく肩に担ぎ、さらには大石(約58貫:218kg)も右肩に担いだ。』<wikipediaより>また、『明
富山の朝乃山の先達、横綱の太刀山。偽物の美術品を贈られたという話だが、太刀山という人は相撲界への入門を嫌がった。明治31年の徴兵検査の折に、老本彌次郎(太刀山)の体格と怪力ぶりが評判となった。梅ヶ谷、荒岩といった友綱一門の看板力士一行が北陸に巡業した際、話に聞いていた友綱が、彌次郎のもとに行司の木村庄之助を使いに出した。しかし元々相撲が嫌いで「家業を継ぐ」ということ、父も跡継ぎであると断ったが、友綱が彌次郎を連れてきたものは招待券を出すと言い、何とか親しい人間が相撲場まで連れ出した。
土佐藩出身、明治維新で活躍した板垣退助像。子どもの頃まだ残っていた百円札の肖像画の人物でもありました。髭がトレードマーク。明治維新後は自由民権運動でも活躍。明治から大正にかけて隆盛した友綱部屋の後援者として、後に横綱になる太刀山のスカウトにも尽力、好角家としても知られています。高知城にて撮影。板垣退助誕生地記念碑板垣退助(高知市ホームページより)天保8(1837)年に土佐藩士300石の家に生まれた。旧姓は乾。戊辰戦争の功績によって土佐藩の家老格に出世し、明治新政府では参議となったが、明治
この日は、買ってあった太刀山を飲むよ『がんばって!太刀山』この日も近くまで来たので、駅前ビルCiC内の『ととやま』へいつものように、地酒売場をチェック〜と思ったら…四月に、富山県砺波市の吉江酒造さんが火災で瓶詰め作業…ameblo.jp富山県砺波市の吉江酒造の太刀山色味はけっこう濃いめの黄色おつまみはサンマ!今年のサンマは大きくて美味しいね焼き鳥は、先日食べておいしかった『炭火焼鳥・惣菜翔和』で買ってきた『とやま駅ナカ酒BAR2025年9月』この日は、恒例の地酒試飲イベント
古雑誌より。明治45年の時事評論。この雑誌は政治、事件、外交といった内外の諸問題に鋭く、時には激辛な筆致で切り込む。相撲も例外ではない。「太刀山のごときに横綱の質格あるか」と表題からして過激。質格は資格の誤謬か。質実剛健な性格や態度、物事に対する真面目で実直な姿勢という怪しい意味も出るが…質と格という意味合い?まず書き出しが太刀山は昨年の場所に「大強力」と云うので、日の下開山横綱と出世せられた。併し、太刀山のごとき相撲に横綱の資格あるかは、彼が横綱になった時から好角家間
常陸山・梅ヶ谷や太刀山の時代、大相撲の本場所には、仕切りの制限時間がなく、仕切り線もありませんでした。また、土俵の内径は今より狭い十三尺(約3.9㍍)でした。※昭和3年(1928年)1月から大相撲のラジオ中継が始まったことに伴い仕切りに制限時間が定められ、同時に仕切り線が設けられた。また、昭和6年(1931年)5月場所から土俵の内径が十五尺(約4.5㍍)になった(二重土俵の内側の土俵を撤廃)。大正10年5月場所の仕切り風景<日本相撲協会webサイトより>当時は仕切り線がないので、
「古今相撲評話」の記事より、22代横綱太刀山峰右衛門と彼のライバル大関駒ヶ嶽国力との本場所全取組二十一番を紹介します。太刀山は駒ヶ嶽の3歳年上で、十両での初顔合わせ時は太刀山満24歳、駒ヶ嶽21歳。通算成績は太刀山の10勝3敗6分2預でした。大関時代の太刀山と駒ケ嶽■太刀山の十両~平幕時代は5勝1分1預と圧倒幕下付出太刀山と三段目筆頭駒ヶ嶽の突っ張り合い(右が太刀山:明治33年5月場所頃)<『大相撲の活動写真』より>1.明治35年1月場所四日目
「古今相撲評話」の記事より、22代横綱太刀山峰右衛門と19代横綱常陸山谷右衛門の本場所全取組十番を紹介します。太刀山は常陸山の3歳年下(二代目梅ヶ谷の1歳年上)で初顔合わせ時は満25歳。通算成績は太刀山の3勝4敗3分(引分を除けば4連敗のあと3連勝)でした太刀山と常陸山の取組とされる写真(撮影時期不明)1.明治36年1月場所初日●東前頭9太刀山対西大関常陸山○太刀山に常陸山は剛勇無双の名力士に新進の強力士、化粧立ち数回にて立ち上がるや太刀より激しく突きかけしも、常陸
その2になります。お付き合い頂き、有難う御座います☆5月に閉店してしまった、ちゃんこの名店!★ちゃんこ巴潟★へ行ってきました。名物のちゃんこ鍋を頂くところから、お話を再開致します。スープが煮立ったら、店員さんが具を入れてくれて…更に、煮立てます。完成〜。巴潟ちゃんこ〜♪20年来のこだわり秘伝味噌ちゃんこです。京都の赤味噌・仙台の赤味噌・北海道の赤味噌・信州の甘口白味噌のブレンド、利尻昆布で出汁をとった、寄せ鍋風ちゃんこ。ここで、お肉を追加。まだ鶏肉は入れません。お
店頭販売もされるそうです!お力添えをいただいている皆様には本当に本当に、感謝しかありません!!北日本新聞にも掲載されました。ご支援いただけると幸いです!!よろしくお願い致します。
お話が、着々と進んでいるようです。砺波の小さな酒蔵のために、こんなにも支えてくださる方々がいるなんて…本当に有り難い事です。周囲の皆様のお力添えには、本当に本当に感謝しかありません。
気づけば1ヶ月ブログ書いてませんでした。1ヶ月ほぼお籠もりの土日、GWでしたので。🌸が散り、チューリップが散り、水仙が散り、ハナミズキが散り、庭は雑草が生い茂り、今はこんな子らがおっかあを楽しませてくれています。今週末も除草で終わりそうです。そろそろ「奈良を注入」しにお出掛けしたいと思います。何にもない、平日の奈良に行きたいです。こいつのおかげで、週末の関西のホテルの宿泊はお高いので困惑してます。あ、GWに唯一出掛けたところがありました。神社はやっぱりいい、ココロが洗わ
既にご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、4月25日、吉江酒造の一部が火災に遭いました。風の強い日だったのにも関わらず、近隣の住宅に燃え広がらなかった事、父も兄も誰もケガ1つ無かった事だけが不幸中の幸いです。うちの蔵はザックリと、事務所、醸造所、お酒を商品化する所、とコの字型に配置してるのですが、今回燃えたのはお酒を商品化する作業場。お酒を瓶詰めしたり、ラベル貼ったりする所です。商品化に関連する諸々のモノが保管されてる場所でもあります。赤丸の箇所が焼失しました。兄から現場の画像いた
巴潟を最初に食したのはWindows95が世に出回ったころだったろうか。30年前。塩ちゃんこ、雑炊が絶品だった。その後、ビックサイト見学後の新人を連れて行ってよくしていただき、やみつきになった。中学の25周年の同窓会では賜杯で日本酒を回し飲みした、、、転職して勤務地が変わったあとも会社の人を大勢連れて行った。さて何百人連れて行ったか。元の店長にはお世話になった。しかし、女将が戻り、店長が辞め、店の雰囲気が変わり、足が遠のいた。食べログで調べたら最後に来たのが2020年。5年前。今
関脇玉椿憲太郎■生い立ちから幕下時代まで明治大正の両時代にかけて、20代横綱二代目梅ヶ谷藤太郎、22代横綱太刀山峰右衛門、小結緑島友之助とともに越中出身四大力士の一角を占めた関脇玉椿憲太郎(たまつばきけんたろう)は、明治16年(1883年)11月10日、富山県の旧中新川郡水橋町上砂子坂(現在の富山市水橋上砂子坂:生誕時は富山県上新川郡下条郷上砂子坂村)で農業森野豊次郎の二男として生まれた。本名は森野健次郎(もりのけんじろう)。父と兄が土地相撲の強者だったことから、
以下、二代目梅ヶ谷に関する私(のぼこ)の愚考です。1.梅ヶ谷の評価について二代目梅ヶ谷藤太郎は、梅ノ谷音松として満19歳で入幕して間もない頃から、4歳年上の常陸山と激闘・名勝負を重ね、当時の最年少記録(満25歳)で常陸山とともに横綱に昇進してからも優秀な成績と功績を残し、後世、立派な「名横綱」(A級横綱)として評価されています。しかし、いまひとつ評価が足りていないようにも感じます。おそらくその要因は、①身近にいた大横綱たちと比較されること②横綱時代後半は大砲以上の「分
昭和60年発行「梅ヶ谷伝」(堀田次修著)より一部加除■梅ヶ谷と故郷水橋故郷への凱旋<■越中横綱伝より>・梅ヶ谷が郷里へ錦を飾る意味合いもあって東京から水橋へ直行の巡業がやって来たことがある。力士ののぼり旗が数十本立ち盛大だった。東京から直行の地方巡業は稀なことだった。実父喜平、継母さと子ほか押田家の人々と<梅ヶ谷伝より>・水橋中町の日枝神社に「敬神」と書いた梅ヶ谷の額がある。それには本人の字で「十九世(横綱)梅ヶ谷」とある。梅ヶ谷は20代横綱だが
2023年9月に本場所を見に行ったときには、ちゃんこ巴潟で昼食をとりました。両国国技館近くにはちゃんこ料理屋がたくさんあります。その中でよく利用するのが、ちゃんこ巴潟。昭和10年代に活躍した高島部屋の小結巴潟の家族が、年寄定年後に始めた店です。引退後、一時、高島部屋を継ぎこの場所に相撲部屋をつくりました。先代から引き継いだ弟子から横綱吉葉山、大関三根山、関脇輝昇の高島三羽烏を育てました。その後、友綱に名称を変更。魁皇の師匠にあたる魁輝などを育て定年を迎えました。ちゃんこの名前には友綱部屋由来
以下、太刀山に関する私(のぼこ)の愚考です。1.太刀山の評価について(太刀山は)協会を離れたことで歴史的評価の面では少なからず損をしており・・・<wikipediaより>伝説の「四十五日」や「仏壇返し」などから剛腕・剛健なイメージの強い太刀山ですが、実は長らく胃腸と脚気(神経痛)の持病に苦しんでいました。身長は六尺二寸=188cmあったものの関脇になっても体重は90kgしかなく細身の身体でした(関脇太刀山が3歳年上の横綱常陸山に初めて勝った時の体重は二十四貫=90kg)。関
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳■太刀山の生活ぶり太刀山の横綱免許状太刀山の性質は温厚篤実(おんこうとくじつ)で、親に孝行な事は言うまでもなく、友誼(ゆうぎ:友情)もまた頗(すこぶ)る厚く、門弟に対してはこれを我が子のように慈しみ、多くの力士の通用性(つうゆうせい:同類のものに共通して備わっている性質)とも言うべき豪放粗大(ごうほうそだい:大胆で細かいことにこだわらない性質が過剰であるさま)の風もなく、渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳■家族と家庭太刀山の妻子(右端が妻とら子、左端は次女峰子)太刀山は明治37年2月8日、愛知県人で元代議士となった事のある今は故人の大導忠七氏の媒酌により、同県海東郡蟹江町佐藤嘉蔵の長女とら子と結婚した。渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)は28歳で幕内筆頭にあった時、とら子は明治13年7月10日の生まれで25歳の時である。爾来(じらい:以来)琴瑟(きんしつ:夫婦が仲よく睦まじいこと)相和(あいわ)し家庭は極
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳10(終).引退の真相(「渠と鉄砲の因縁」を改題)横綱土俵入り(太刀持ち黒瀬川、露払い敷嶋)太刀山と鉄砲とはいかなる因縁があったか、渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)が生まれたのは恰(あたか)も西南戦争の砲撃轟轟(ごうごう)たる時で、徴兵検査には砲兵に合格したが抽選で免れ、また西郷候、板垣伯は国防方針に関して議一致し軍備拡張地租増徴を断行して、軍備の充実を謀り、これがため日露戦役に於て我が国は世界無比の大勝を
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳9.無敵の力量太刀山得意の鉄砲にて敵を撃退する構え太刀山が入幕後関脇に昇進した前後は、往々立合いの拙(つたな)いところがあった。また相手の計略に乗せられて不覚の敗けを取ったこともあった。渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)の角力は敵に敗けるのではなく、自分が無理をして自分の手と自分の力とで負けることが多かった。ところが板垣伯は角力四十八手の使い分けに精通し、また立合いの呼吸を熟知せられておったので、伯は太刀
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳8.常勝将軍第9回優勝額肖像(大正5年5月場所:横綱)・栃木山に負けた場所(左手指を怪我している)太刀山は23歳の中年を以て斯界(しかい:この社会:角界)に入りながらも、古今稀なる偉大の力士となって、国技館上9枚の優勝額を掲げらるるに至ったのは、真に驚嘆に値する。余は渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)が額面のなお一二回多く掲げらるべき機会のあったのに拘わらず、余りに太刀山の額面のみ多きを嫉(ねた)んでの所為
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳7.土俵上の成績常陸山引退相撲の土俵入りで太刀持ちを務める(大正3年)以下に渠(きょ:三人称の代名詞:本書では太刀山を指す)の土俵上における成績を年代的に表示しよう。(1)明治32年2月、年齢23歳にして力士となり、同年5月、翌33年1月の二場所は負傷と病気のため休場し、33年5月、24歳にして幕下に付出され同場所に全勝してレコードを破る。幕下付出(明治33年5月)の頃(2)34年1月、初めて番付に入り、十枚目下幕下
大正6年発行「太刀山」(龍野周一郎著)より一部現代語訳6.常陸山との顔合わせ常陸山の対抗勢力たる越中出身四大力士<越中横綱伝より>かくて太刀山が三役に入って以来、正横綱常陸山とはじめて顔の合ったのは明治38年の5月場所で、太刀山は関脇であった。両者の勝負は引き分けに終わったが、翌39年1月場所においては、太刀山が敗けを取った。しかしその場所において太刀山はわずかに駒ヶ嶽、常陸山に敗れたのみで、他は皆勝ち星を占め、常陸山は9日間全勝を制した。同年5月場所は