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小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com↑松野連姫氏系図を載せました。古代史を研究するための資料、「日本人の系譜」を作っている事をお伝えしていますが、その中に盛り込むべき太伯系の系図を調べています。取り敢えず、『諸系譜第2巻』に載る「松野連姫氏」の系図を作りました。初めて見る人もいると思うので少し紹介す
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com今回は古代史の超有名人、「素盞鳴尊」について言及してみたいと思います。このオジサン、まだまだ完全に分かっている訳ではありませんが、分かれば分かるほど凄い人だったんだろうなぁ~と思うようになりました。どうしてかと言えば、普通に知られているイメージと違い過ぎるからです。なの
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com大ヶ島の分析が終わったので、今度は詳しく検証してみようと思います。まずこれまでの情報から、忌部氏が松江忌部→大ヶ島忌部→→備前伊部(いんべ)→阿波忌部となったと推測されていますが、松江忌部にはどのように伝わっているのか気になる所です。少し調べたところ、全く詳細は伝わ
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.comさてさて、大ヶ島の調査の続きです。(岡山市東区と瀬戸内市)次に行ったのが「豊原南島神社」です、停める所が無くて、古い参道に架けてあった石橋の上に停めて行きました。(軽四でギリギリの幅です。)ここも古い事が右側だけ縦岩が残っている事でかろうじて分かりました。神社です。
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com↑「古代の大ヶ島」として下の画像を貼っています。前回は失礼しました(笑)、しかし混乱した様子を伝えるのも生きた歴史研究の姿を見せているので、有用ではないかと考えそのまま公開します。(笑)前回の紹介時に「太伯」の地には私の中で、「複合的に古代の情報が残されている」と
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com↑「古代の大ヶ島」を追加しました。相生の龍王山を断念した足で岡山県岡山市東区にある「太伯」へと足を伸ばします、この地は中国の呉の国を興した「太伯」の末裔が開いた地という触れ込みだったので行ってみようと思っていました、ここでは重要な気づきが多く、皆さんにも参考になるのではないかと
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com少し前に木花咲耶姫神社と福南山の登山についてご紹介しましたが、今回は同じ地名の「福江(意味:福の港)」という地にある「岩長比咩神社」に行って来ました。近くには「さいのかみ」という祠も残り、古代の重要地である雰囲気はありましたが、全くの想定外で、ここまで古いとは思いませんでした。
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.com↑龍王の情報も載せています。前に私は「大山(だいせん)」に注目している事をお伝えしました、理由は出雲に近く、霊峰と呼ばれる大山(だいせん)の名前をつけたのが龍王でなければ誰なのか?とても重要な意味があると考えていたからです。太伯(呉の始祖)の子孫が日本に渡来しているとい
みなさまの想念良きものへ変えていただきたい明日は我が身常々申すことよきにはからいこの世を全うすること世知辛い世の中ますます偽証が暴かれてゆきます心と共に目を向けて下さい心の目で見るのです真実に目覚めてゆきますどうあれあなた次第ですが目を背けたくなる事もおありでしょうそれでも受け止めるのです蓋をしないことです明日は我が身常々に思うこと真(しん)に向き合うということ逃げないどれほどの苦しみを持ってしてもしんに目覚める逃げることなく精一杯生き輝かせよ遠い
日本の歴史(Historyofjapan)ほんとうの・この国のかたち世界は「縄文」を知ってしまった。その2ひじかたすいげつ「縄文」は世界遺産に。神武天皇の母は海神族。縄文人とも中国夏王朝の王「禹」の末裔ともいわれる。「禹」はよく日本の川にもある「大禹漠」にも見える「蛇身」であり水神の「龍」でもある「三皇五帝」の一人である。殷周革命に出てくる「女媧」も「蛇身」や「龍身」で描かれることが多い。出雲は象神と龍神を祀る。出雲はクナトノカミとサイノカ
『王會圖』右から百済、新羅、倭の國使清代の模写『諸番職貢圖巻』(2011年発見)によって、『梁職貢圖』倭國使題記の剥落部分が復元されたことを、本連載の第155回で書きました。それともう1つ、新羅についても新しい発見があったことを、韓国の聯合ニュースが報じています。それは2011年8月11日付の「韓国古代史研究の第一級資料の中の一つと見なされる梁職貢図から永遠に消えたと見なされた新羅と高句麗に対する簡略な説明の題記が最近発見された」という記事です。明らかに
馬祖天后(TAIPEInavi)確認のために書いておくと、「太伯の後」とは華夏周王統・姫氏の子孫のことです。周王朝の初代武王(姫発、伝説上の在位期間は紀元前1046~前1043年)の3代前(曾祖父)を古公亶父(ここうたんぽ)といい、その長男が太伯とされています。余談ながら古公亶父は「太公」とも呼ばれ、釣りをしていた呂尚を腹心の軍師に望んだことから、釣師を「太公望」と呼ぶようになりました。また「太公」は華夏では曽祖父のことだそうですから、「太伯」は大伯父(祖父の兄弟)の一般的な呼
バジャウ族(BUSINESSINSIDER)『梁書』諸夷伝東夷条倭は、前述したように「倭者自云太伯之後」(倭は自ら太伯の後と云う)で始まります。つまり条建て(章・節の主題)は「倭」ということになります。文中に「倭人」の文言はなく、段落を変えて「倭國」が1回だけ出てきます。「倭國」は条建てにはなっていません。そこから華夏の古文献をさかのぼると、梁の前代の斉王朝を描いた『南斉書』、前々代の宋王朝の『宋書』はともに「倭國」です。『晉書』東夷伝の条建ては「倭人」、帝紀では「倭」「倭人」
『晋書東夷伝』に見る我が国AD265~AD420年代の倭国編纂者は房玄齢(ボウ・ゲンレイ=578~648年。唐の貞観時代の政治家)晋の時代、泰始元年(265年)から、宋が建国する420年までの記。●倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。土地は山林が多く、良田はない。海産物を食べている。昔は百余の小国がたがいに接していた。魏の時(220~265年)に至って、三十の国があり、(魏と)親しく交流した。考察倭国は山島故、山林に覆われているだろう。従って良田はない。
皆様ご無沙汰しておりました。1年以上まともな記事を書いていなかったんですねまた少しずつですが書いていきますので宜しくです。まずはこちらの続きから・・・・復讐の瞬間(とき)1―――伍子胥1―――楚(そ)の平王(へいおう)と佞臣である費無極(ひむきょく)により父兄を殺された伍子胥は復讐のため楚を出奔します。出奔経路は諸説あるのですが、たぶん先に亡命をした太子健(たいしけん)の後を追い、宋(そう)から鄭(てい)と渡り歩いたというのが妥当なのではないかと思われます。太子健も父親である平王に
〈梁書東夷伝〉梁書東夷伝は、主に我が国(倭)の西暦502~557年頃を記す。著者は陳の姚察、その息子の姚思廉により629年に成立。【倭は、自ら太伯の後裔だという。その風俗では皆、体に入れ墨する。帯方郡を去ること万二千余里、おおよそ会稽郡の東に在るが、とてつもなく遠く離れている】晋書・梁書の東夷伝は、それぞれ西暦600年前半に編纂されているが、それまでの史書には「倭は、自ら太伯の後裔という」という表記はない。これをどう見るかは重要だ。私の素直な感想は、4世紀直前までは”倭が太伯の後
一昨日は古代史日和勉強会でした講師は邪馬台国の会の理事、末永先生テーマは『朝鮮半島の前方後円墳について』中国や朝鮮の古代史情勢は非常に苦手なのですが、久しぶりの末永先生のご講義はとても分かりやすく、百済や新羅・高句麗などの関係性も頭に入りやすかったです!そして前方後円墳が朝鮮半島にもあったとは驚きでした。日本と密接な関わりがあったことが伺えます。これを記事にしますと、またまた非常にマニアックになってしまいますので、これとは別に資料の中で気になったことをご紹介いたします。〜呉の太伯は倭の