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12月29日朝、新東名駿河湾沼津サービスエリアのスマートICで降りて興国寺城へ。興国寺城は一般的にはそれほど有名じゃないかもですが、続日本100名城に選ばれた名城です。北条早雲が今川氏親から与えられた城で、早雲はここを根拠に堀越公方を襲うところから戦国時代が始まったとも言われます。2022年には鎌倉殿の13人絡みで訪れた願成就院で敗れた側の堀越公方足利茶々丸のお墓を発見した(「伊豆村の駅から北条の里へ」というブログに上げました。)件とここで繋がりました。駐車場は三ノ丸にあり、
えっ?!ちょっと待って下さい!泣いてたのね!?元康!!第6回「続・瀬名奪還作戦」にて、人質交換が完了し、川を挟んで対峙した、松平と今川の(仮設?)陣がそれぞれ退くけど、氏真の姿を対岸から見送って元康が、「退けい!」と叫んだ時、元康の右目から、一筋涙が流れたのを、私は今迄、気が付か無かったみたいです。結構観直してると思ってましたが。今迄は氏真の、瀬名や瀬名の両親に対する冷酷な仕打ちに、怒りが表情に出てると思ってたけど、もしかして怒りとは別に、氏真に対しての元康の
額田郡幸田町坂崎にある、「坂崎三城」。坂崎城、坂崎古城、坂崎陣屋の三城館が狭いエリアに密集していることから、筆者が勝手にそう呼称しているだけの坂崎三城ですが、昨日ご案内した坂崎古城に続き、本日は坂崎城のご案内です。標柱も何もない坂崎古城に対し、坂崎城には複数の標柱が立てられています。それもどういうわけか、手作り感満載の標柱が。そこらの建材の端にマジックで書いてどかどか打ち込んだようにしか見えない標柱が、城跡と伝わる神明社の境内いっぱいに立てられています。手作り感いっぱいの標柱を見ると微
こんばんは。今日は晴れていましたが、気温が低くて、ちょっと寒く感じたりしました。😵さて、前回の山中城跡からの帰り道、時間に余裕もあったので、ついでに近くにある興国寺城跡へ寄り道して来ました。🚗山中城跡から約30分くらいで到着しました。👍到着〜。北条早雲が今川氏親から与えられ、そこから北条家の歴史が始まった…とも過言ではない城跡です。😅縄張り図(パンフレットより)駐車場はすでに三の丸になっていました。🅿️三の丸から本丸を臨む。とにかく、三の丸は広過ぎるほどで、近くを通る県道22号
昨日坂崎古城に行ったあと訪れた城跡坂崎城所在地愛知県幸田町坂崎平蔵脇坂崎古城から南へ200mほどの距離に位置し現在は神明社になっていますお城というより屋敷だったと思われます徳川家康に幼いときから仕え小姓衆七人の一人天野康景の産まれた所といわれています家康の三河平定後は領国経営の奉行職甲賀忍者の統率者関東に移ってからは江戸町奉行その後も重要な役が与えられています敷地内に天野康景邸址の石碑があります境内の裏側に土塁が残っています天野康景は家康から重用さ
「猿飛佐助はなぜ家康を殺さないんだ?」悔しかった、不思議だった。「たぬきじじぃ、肥大漢、ケチ親父!」と、にくらしかった家康。が、山岡荘八氏の大作「徳川家康」を完読したころから、しだいに見方が変わった。大河ドラマ「徳川家康」(1983年)も面白かった。特に、家康を支える多くの家臣団がみなかっこよかった。来年の大河ドラマ主役は、家康。「徳川四天王、徳川十六神将、三奉行」などと称される、家康を支える家臣団の描かれ方が楽しみ。ドラマでの家臣たちの配役がすでに発表されている。酒井忠
今日はよいお天気でしたねお出かけしようと思っていましたが、10分ぐらい横になろうと思って二度寝。目が覚めたら12時半でした( ̄ー ̄)ノさてさて、10月12日に仕事がお休みでした。お休みならばやる事はただ一つ!!どこのお城に行こうかな~(*´∀`)この時の状況ですが、10月20日~23日まで次男(高2)が修学旅行へ行く予定で、出発前2週間分の健康観察をしなければいけませんでした。しかも、このご時世なので同居家族全員分です。体温はもちろん、何項目かチェック項目がありましたが、中には「
うっちーこと宇都宮芳綱ですやはりお梶の方への未練が捨て切れず、天下統一戦の報酬で1回引く分の片鱗がもらえたので、影城主の方で引いてみました果たして結果はグフッ!><よりによって白くじからも出るやつじゃん本城主の方は10枚制限になって引けなかったので、明日にでも引いてみたいと思いますブログ更新のモチベアップのためポチッとお願いします♪にほんブログ村戦国IXA(イクサ)ランキング
〖新生活応援キャンペーン実施中!〗⚫今日から3月の始まりですね♪⚫まだまだ朝晩は寒いですが3月と聞くと、いよいよ「春」っ感じを強く感じます(*^^*)今日からいよいよ当ブログも「新生活応援キャンペーン」と題した装いへと更新しましたので是非「紋次郎SHOP」へとな足を運んで見て下さい(*^^*あ、昨日の更新は仕事が忙しくて、未更新だった事を日が変わる2分前まで気付きませんでした( ̄▽ ̄;)当然自分自身も解答出来てません・・・国盗りは前日へと振り返えれるけど城めぐは飛
前回本多作左衛門重次のことを書いたのでついでに。三河(岡崎)三奉行の性格について次のような句がある。鬼の作左に仏の高力どちへんなしの天野康景本多作左衛門重次は豪胆まぁ有体に言えば怖い人。本多重次像高力与左衛門清長は寛容まぁ、優しい人ですね。天野三郎兵衛康景は慎重ま、そのどちらでもないと。この三人のうち本多作左衛門が一番好きなのだが、彼らの性格について私は暫くのあいだ誤解をしていた。天野三郎兵衛のどちへんなし…。どっちつかずと思っていたのだ。つまり、あまりいい意
凄く頷ける深い話でした。ただ、処罰するだけでなく、上に立つものが察することによって血の通った善政が出来ると言う事なのかと感じ入りましたね。ソースは、ねずさんのブログからです。http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3561.html?frm_id=v.mypage-external-service--article----3≪転載開始≫江戸時代、額面通りに処罰をするだけなら代官はいらないと考えられてきました。なぜならそれは、「どん
この日最後の城に向かいます。この時点で既に14時。冬だけに急がなければなりません。その急いだ先は、この日のテーマ『伊勢新九郎祭り』の中でも、韮山城に並ぶ重要な城です。城の名は興国寺城です。----------------------------------------現存物(移築含む)はブルー、再現物(模擬含む)はパープル、跡地(櫓跡など)はグリーンそして見所となる遺構(土塁や曲輪など)はピンクで表記します。空中写真復元整備計画
東海城巡り2日目続き午後からは伊豆箱根鉄道に乗って韮山へ。韮山駅から韮山城へ向かいますがどうも町の雰囲気が北条推しっぽくない源平推しなので何故かと思いながら歩いていくと蛭ケ小島(源頼朝配流の地)静岡県伊豆の国市土手和田平治元年(1159)の平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝が翌年伊豆の蛭ケ小島に流罪になる。以降治承4年(1180)平家打倒、源氏再興の旗揚げをするまでの20年間この地で過ごしたと言われる。源頼朝と北条政子夫婦の像現在は蛭ケ小島公園として整備されています。後北条氏関